●堀辰雄の東京を歩く V  【カフェー・料理屋編】
    初版2010年7月31日 
    二版2010年8月13日  <V01L02> 「金田」を追加、地図を修正

 「堀辰雄の東京を歩く」を引き続いて掲載しています。今回は「カフェー編」です。堀辰雄の遊びに関しては、自らが書いた「不器用な天使」や「顔」ぐらいしか無く、又、実名で書かれていないためよく分かりませんでした。堀辰雄の死後、友人達が”追悼号”等で少しづつ書いているのをつなぎ合わせて、推測してみました。




「水族館跡」
水族館二階の「カジノ・フォリイ」>
 まず最初は伊藤整の「堀辰雄の思い出」からです。文芸の「第10巻8号 特集堀辰雄追悼号」、昭和28年8月発行に掲載されたものです。その後、堀辰雄全集にも掲載されていますので、比較的簡単に入手することが出来ます。この堀辰雄の追悼号で、伊藤整がかなり詳細に書いているのにびっくりしました。本人は、書き出しに”私は堀辰雄とあまり交際がなかった。”とも書いていますが、よく知っています。 
「…堀君は『聖家族』を書いた時喀血したという噂で、しばらく静養していた。それが昭和五年である。思い出したが、その前年、昭和四年、川端さんが『浅草紅団』を朝日に書いた頃、私は商大の学生で、上京して二年目であったが、阪本越郎君か誰かと、よく浅草へ遊びに行った。行く先はたいてい水族館のカジノ・フォリイであった。一階に名ばかりの水族館があって、壁になった水槽に何種輝かの魚が泳いでいる。そとはヒッソリとして客はほとんど入らず、二階が満員で、ワーッと沸いているような、小さな劇場で、当時の代表的レビュー小屋であった。梅園龍子が小柄で、キチッと固い表情をした、少女の踊り子で人気があり、榎本健二二村定一などがコミックの主俳優で、身体全体で表現するようなエノケンが注目されて来た時である。
 そのレビュー小屋は、川端康成と『浅草紅団』と共に思い出される場所だが、そこに、堀辰雄と武田麟太郎がよく来ていて、多分そこで、「詩と詩論」に書いているというようなことで、私は阪本君などと堀君とアイサツぐらいしたように思う。その頃すでに、堀君は「文芸春秋」に『不器用な天使』という小説を書いていて、代表的なエスプリ・ヌーヴォーの小説家と私たちに見られていた。…」。

 本人の死後暫くすると、”彼と赤線に行った”とか”誰と付き合っていた”とか、書かれるのですが、堀辰雄の清潔さが表に出ているせいか、殆ど書かれていませんでした。伊藤整の文章は衝撃的です。
 カジノ・フォーリーは昭和4年(1929)7月10日、桜井源一郎が経営する東京・浅草の浅草水族館2階「余興場」を本拠地として創立され、昭和4年(1929)10月26日、第2次カジノ・フォーリーが榎本健一を代表に、間野玉三郎、中村是好、堀井英一の4人で発足しています。その後、梅園龍子、のちに榎本の妻となる花島希世子、吉住芳子、山原邦子、山路照子、三條綾子、望月美恵子(望月優子)らが出演しています。川端康成、武田麟太郎が常連客でした。川端はこのころの経験をもとに書いた小説『浅草紅団』を東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載し、一躍有名になります(ウイキペディア参照)。
 小川和佑は「評伝 堀辰雄」のなかで、カジノ・フォーリーの”梅園龍子と堀辰雄との関係”を追求しています。一読を勧めます。
 丸山薫の「忘れがたい風姿」からです。
「…彼がまだいくらか元気な頃だったと思う。暑い夏の午前、浅草の仲見世を歩いていて、浴衣の裾前を手でめくり上げて、スネをむき出しにしてぶらり然とやってくる彼に出合った。私に連れもあって二、三語を交わしただけで別れたが、意外に伝法な彼の姿はひどく私を驚かした。…」
 堀辰雄が浅草を徘徊していたことがよく分かります。

写真の左側は木馬館で、その先に水族館がありました。白い建物のところが水族館跡です。カジノ・フォーリーはこの二階にありました。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「上野の三橋亭跡」
上野の「三橋亭」>
 時期的には少し戻って昭和元年(大正15年)から2年頃になります。田端で「驢馬」を創刊していた頃です。堀辰雄の「不器用な天使」からです。
「 カフエ・シヤノアルは客で一ぱいだ。硝子戸を押して中へ入つても僕は友人たちをすぐ見つけることが出來ない。僕はすこし立止つてゐる。ジヤズが僕の感覺の上に生まの肉を投げつける。その時、僕の眼に笑つてゐる女の顏がうつる。僕はそれを見にくさうに見つめる。するとその女は白い手をあげる。その手の下に、僕はやつと僕の友人たちを發見する。僕はその方に近よつて行く。そしてその女とすれちがふ時、彼女と僕の二つの視線はぶつかり合はずに交錯する。…
…僕はヴエランダに逃れ出る。そこの薄くらがりは僕の狂熱した眼を冷やす。そして僕は誰からも見られずに、向うの方に煽風機に吹かれてゐる娘をぢつと見てゐることが出來る。風のために顏をしかめてゐるのが彼女に思ひがけない神々しさを與へてゐる。ふと、彼女の顏の線が動搖する。彼女がこちらを向いて笑ひだす。一瞬間、僕はヴエランダから彼女をぢつと見てゐる僕を認めて彼女が笑つたのだと信じる。が、僕はすぐ自分の過失に氣づく。うす暗いヴエランダに立つてゐる僕の姿は彼女の方からは見える訣がない。彼女は誰かに來いと合圖をされたのだらうか。僕はそれが槇ではないかと疑ふ。彼女は思ひ切つたやうにこちらを向いて歩き出す。…」

 ”シヤノアル(シャア・ノアル)”は訳すと黒猫です。「不器用な天使」が堀辰雄の私小説なら、この黒猫に勤める”彼女”は堀辰雄の恋人ですね。この辺りのことを佐多稲子が後に「堀辰雄との縁」で書いています。
「…初期の作品の「不器用な天使」は、堀自身が「私小説のようなもの」と書いているとのことで、カフェ・シャア・ノアルは当時実際にあった銀座のカフェ黒猫とも読まれているらしいが、本当は上野の三橋亭であろうとおもう。作品の上でも公園などが近くにあってそれと読める。またここで書かれているような、槇という人物の恋のいきさつは「驢馬(ろば)」同人に実際あって、私なども当時その話の推移をそばで知っていた。が作中の僕とシャア・ノアルの彼女との間に何かあったというのは全く知らない。…」
 銀座の「黒猫」は二丁目の銀座通り東側にあったカフェーで有名です。しかし「カフエ・シヤノアル」と書かれているカフェーは時期的に見ても「パイプの会」等が開かれていた上野広小路(下谷広小路)の「三橋亭」と推測できます。ただ、伊藤整は上野広小路の「黒猫」と書いています。
「…『不器用な天使』の初めに描かれている「シャ・ノアル」(黒猫)という喫茶店は、上野広小路の、それに似た店、多
分「黒猫」という店だったと思う。私はこの作品の内容は忘れたが、この作品中に登場する女性を後に知った。それは昭
和八九年頃だから、堀君を本所へ訪ねた頃のこととなる。…」

 もう一人、田端時代に堀辰雄と一緒に「驢馬」を創っていた窪川鶴次郎が「「驢馬」時代の堀とのこと」で少し書いています。
「…その頃三橋亭に僕たちがブリユー・バードと呼んでいた、せいのすらりとした、いわゆる美しい顔ではないがそう呼ば
れるような清潔な娘々した女の子がいた。…
…ずっと後になって堀辰雄がブリユー・バードとドライヴなどしているということを聞いた。誰も彼女とのことを堀にたしかめたものはないが、『不器用な天使』を読むと、その主人公の「娘」といい当時のことをまざまざと想像させるものがある。…」

 三橋亭の頃は昭和3年頃までですから、この彼女とはかなり長く続いていたのではないでしょうか。因みに、上野広小路付近に「黒猫」というカフェーは見つけることができませんでした。

写真は現在の上野広小路、東側です。写真正面の白い大きなビルは永藤ビルで、戦前から永藤パンで有名です。このビルの右側に「三橋亭」がありまじた。戦後も三橋亭は営業されていたようなのですが、気がついたらお店が無くなっていました。現在はカラオケビルになっています。当時の上野広小路の写真を掲載しておきます。この付近のお話は、佐多稲子の「私の東京地図」で別途掲載したいとおもいます。

「多賀羅亭跡」
宝亭>
 黒猫には、続きのお話がありました。伊藤整の「堀辰雄の思い出」からです。
「 …『不器用な天使』の初めに描かれている「シャ・ノアル」(黒猫)という喫茶店は、上野広小路の、それに似た店、多分「黒猫」という店だったと思う。私はこの作品の内容は忘れたが、この作品中に登場する女性を後に知った。それは昭和八九年頃だから、堀君を本所へ訪ねた頃のこととなる。神田小川町の角に近い辺に宝亭という支那、西洋料理店があった。大きな古い店で、夏目漱石がよく行った店で、トチメンボーを食わせろ、という『猫』の中の場面もここだったかも知れない。
 その店へ、私はよく行った。昭和八九年頃、私は金星堂という出版社(昔新感覚派の「文芸時代」を出した店)にいて、そこの主人の福岡益雄さんが行きつけの店だったので、私が色々な場合について行ったのである。rそこに、名は忘れた、痩せた背の高い、目の細い、美人とは言えないが静かな表情の女が勤めていて、行く度に福岡さんが、「堀君に逢いますか」などと、少しからかうように言った。その人が上野の「黒猫」にいたのだと、福岡さんから聞いた。感じのいい人で、堀君が親しみを覚えそうな人だと思った。衷情が弱く、病気か不幸かを連想させる所があった。二十二三位に見えた。この人と堀君との間には、世間的に考えられることは、何もなかったと思う。しかし、その頃堀君は著名であり、その料理店の少女は淋しそうだった。……」

 いつ誰が見ているか分かりませんね。どこかで知られてしまいます。上記に書かれている”上野の「黒猫」”とは、上野広小路の「三橋亭」の事となります。又、上記に書かれている小川町の「宝亭」の付近で、堀辰雄は目撃されています。杉浦明平の「堀辰雄」からです。
「…いつ頃であったか、わたしが立原といっしょに神保町へ出かけた。二人ともどうしてかかなりうらぶれた心をもって駿河台の坂を下ってゆくと、明治大学のコソクリートの垣のそばで、立原がつと立止った。引廻しを着てへしゃげた帽子をかぶったあまり人相のよくない男と一言二言口をきいたのち、きまりわるそうな笑を浮べて、先に待ってるわたしに追いついてきた。「だれだい、あれは」「堀辰雄先生じゃないか」わたしはその前に一度やはり立原といっしょに堀さんに会ったことがある。そのときの印象は、オカッパにべレをかぶっていたらしく、わたしは堀さんを改造社版『不器用な天使』の口絵写真そのままのダソディだと思っていたのである。ところがその日は顎に不精ヒゲまで伸ばしていた。わたしの顔におどろきをみとめたらしく立原は説明してくれた。
「今日の堀さんは鋭い目をしていた。あのひとの目はいつもやさしいんだが、時々こわくて体じゅうを刺しとおすような鋭さにかわる。今日はこわい方の日だったから、人相がかわってしまったんだ」…」

 杉浦明平と立原道造は一高、東京帝大の付き合いですから、昭和6年以降のことになります(立原道造が堀辰雄に初めてあったのは昭和7年)。昭和元年の頃から矢野綾子と知り合う頃までの期間だとおもいますまで彼女との付き合った期間は長そうです。あくまで推測ですが、上記に書かれている堀辰雄の”鋭い目”は彼女との関係が発端ではないかとおもいます。

写真の正面、左側のビルのところに「宝亭」がありました。左側のビルは現在も「宝ビル」の名称なので、何方か親族の方が経営されているのだとおもいます。「宝亭」は当時は多賀羅亭(タカラ亭)と呼ばれていました。

「金田跡」
<浅草「金田」>  2010年8月13日 追加
 カフェーではないのですが、堀辰雄が彼女と一緒だった浅草の料理屋(鳥鍋屋)を紹介します。深田久弥の「思い出の一時期」、からです。
「…その頃堀君は改造に『聖家族』を書いた。私は編集者で請求役だった。この小説が堀君の文壇へのデビユとなったと見なしていいだろう。その原稿料を貰って、彼は浅草の金田とかいう鳥屋で私に御馳走してくれた。同席に宗瑛さんがいた。宗瑛さんはその頃の堀君の恋人であった。気の利いた短篇小説を幾つか書いたこの女流作家を、今は誰も覚えていないかもしれぬ。…」
 深田久弥の「思い出の一時期」は昭和28年8月発行の「文藝 堀辰雄追悼号」に掲載されています。”宗瑛さん”とは片山広子の娘、総子のことです。軽井沢以外で二人が合っているとはおもいもしませんでした。永井龍男が「折り折りのひと」の中で堀辰雄と総子の関係について少し書いています。
「…S令嬢との交情がどの程度めものであったか私はつまびらかにしないが、三十代に入ったばかの堀の心に相当深い傷跡を残したことは確かであろう。…」
 この時は片山親子が生存されており、詳細には書けなかったのだとおもいます。この文から察すると、二人はそれなりの関係があったとおもうのが適当とおもいます。総子の母である片山広子により、二人の関係は打ち切られるわけです。

写真の左側にある駐車場のところに「金田」がありました。現在の住所で台東区浅草1-36-9です。この「金田」については小島政二カが「下谷生まれ」の中で書いています。
「…何といっても忘れられないのは、仲店の東側、角に万屋という天麩羅蕎麦のうまい家があった、そこを曲った右側に、金田という鶏鍋屋があった、あすこの小奇麗な雰囲気だろう。
 同じ場所に、今でも繁昌しているが、金田は金田でも、代が変っている。
 もとの金田は、本金田と称して、観音さまの裏、象潟一丁目に店を持っている。噂では、戦争中空襲で焼かれると見越して仲店を人に譲ってどこかへ疎開した結果だという話だ。…
…三田の連中大勢と筑波山へ登った帰りに、二十人近くで本金田へ寄ったことも忘れ難い。
 その時、外の座敷の女の人から水上瀧太郎に差入れ物があって大騒ぎをしたことを覚えている。久保田万太郎が大酔して、座敷の真中に大きなお腹を出して寝込んでしまった姿も目に残っている。
 そういう人達も、あら方──いや、みんな死んでしまった。…」

 相当うまい店だったようです。戦前の「金田」について詳細に書かれていますので、一読されることを推奨します。この「金田」の戦後については池波正太郎が「散歩のとき何か食べたくなって」の中で、「金田」の戦前から戦後の経緯について書いていますので参照してください。
「…仲見世のすぐ裏の〔金田〕は、戦前の経営者がやっている店ではない。むかしの〔金田〕は同じ浅草の旧千束町の方へ移って〔本金田〕と名乗り、ここも繁昌しているけれど、私はやはり、むかしの場所の〔金田〕へ足が向いてしまう。
 むかしの、奥庭に面した、しゃれた小間がならぶ雰囲気が、まだ残されているし、戦前の〔本金田〕の料理人が此処へ残ったので、鳥の切り方にも、盛りつけにも、むかしを偲ばせるものが感じられるからだろう。
 子供の私が、鳥の臓物がこんなにうまいものかと知ったのは、この〔金田〕においてだった。…」

 戦後も元の場所の「金田」と、象潟の「本金田」は営業されていたようですが、現在は両店とも廃業されているようです。象潟の「本金田」(現在は浅草三丁目)は、建物は残っていましたが他の店になっていました。

「きゅうぺる跡」
<銀座「きゅうぺる」>
 堀辰雄のアルバムには必ず銀座金春通りの「きゅうぺる」の前での写真が掲載されています。その上で、堀辰雄関連の書籍の中には必ず「きゅうぺる」の単語が書かれている本があるとおもって探したのですが、見つけることが出来ませんでした。そこで、永井荷風に登場して貰いました。永井荷風の「断腸亭日乗」、昭和8年1月31日からです。
「正月卅一日。晴れて曖なり。夜オリンピク店頭にて神代氏に逢ひ旧金春通の喫茶店キユベルに憩ふ。
此辺もとは妓家のみにて他の商売をなすものは湯屋車屋位なりしが、今はカツフヱーおでん屋喫茶店の如きもの多く、妓家は却て稀になりぬ。」

 銀座金春通りの「きゅうぺる」の前での写真には24〜5歳と書かれていましたので、昭和3年〜4年頃とおもわれます。断腸亭日常に最初に登場するのが上記の昭和8年1月31日になります。断腸亭日常には合計7回登場します。一番最後は昭和24年11月5日です。戦後も同じ場所で営業されていたようです。

写真の左側から二軒目のビルが”きゅうべるビル”となります。ビルの名前が”きゅうべる”なので間違いないとおもいます。金春通り、銀座八丁目旧千疋屋の裏手になります。ビルは戦後建てられたままのようで、だいぶくたびれていました。

「カフェー紅緑跡」
<カフェー紅緑>
 最後は佐多稲子に再び登場して貰います。堀辰雄達が「驢馬」を創刊していた頃の田端です。佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「…カフェー紅緑もそんな店であった。路地をへだてて隣りは松竹神明館、町いっぱいに陽の輝き出す朝のうち、映画館はまだ表戸が閉まっていて、看板のスチールもまだガラス窓の中に生彩がない。電車はよそゆきの忙しさで、町はまだ見捨てられている。…」
 これだけではもの足りませんので、佐多稲子の「年譜の行間」にも登場して貰いました。
「…こんなふうにして始まったカフェ紅緑へ、『驢馬』の人たちがくるようになったんです。
 以前からきていたようには聞きませんでしたから、たまたま両方が同じ時期に紅緑へということだったのでしょう。あたしは三月から働き始め、じきに『駿馬』の創刊号が出来たといって見せられたんですから。ちょうど『驢馬』の創刊のために、みんなが寄り合うようになっていて、そして紅線へコーヒー飲みにくるようになった。
 この出会いは、もちろん偶然ですが、あたしはとても運命的な感じがします。
 中野重治、窪川鶴次郎、堀辰雄、西沢隆二(ぬやま ひろし)、宮木喜久雄。みんな若かったなあ。どんな印象だった、どんな風だったって、ちょっと口で言えないけど、一人一人、みんな、そのときの姿は鮮やかに目に浮かぶ。
 自分と同年配の若い人がきて、気が楽なお客で。それは気が楽なだけでコーヒー一杯で帰っていくお客さんですから、店にとってはちっともいいお客じゃないのよね。…」

 佐多稲子の「私の東京地図」には実名が余り登場していません。気を遣ったのだとおもいますが、「年譜の行間」になると、実名がどんどん登場してきます。

写真正面のマンションのところに「カフェー紅緑」がありました。右手は現在勤労福祉会館(本駒込図書館)、当時は都電の神明町車庫でした。マンションの左側は道を隔てて松竹神明館、現在はマンションになっています。その当時の佐多稲子の住まいは、上記の写真を撮影している場所付近となります。


堀辰雄の上野広小路地図


堀辰雄の神田地区地図


堀辰雄の田端・道坂地図


堀辰雄の銀座地図(谷崎潤一郎地図を参照)


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 義務教育6年制 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 5月 田端523番地の室生犀星を訪ねる
8月 室生犀星に連れられて初めて軽井沢に滞在
9月 関東大震災、母が水死(50歳)
南葛飾本田村大字四ツ木278上條方に父と仮寓
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢の「つるや」に宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
21 3月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
22 4月 『驢馬』を創刊
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
24 1月 肋膜炎に罹り4月まで休学
昭和4年 1929 世界大恐慌 25 2月 「不器用な天使」を「文芸春秋」に掲載
3月 東京帝国大学卒業。卒論は「芥川龍之介論」
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 26 11月 「聖家族」を「改造」に発表
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
9月 立原道造に初めて合う
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
29 6月 軽井沢で矢野綾子と知り合う
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在