
まず最初は伊藤整の「堀辰雄の思い出」からです。文芸の「第10巻8号 特集堀辰雄追悼号」、昭和28年8月発行に掲載されたものです。その後、堀辰雄全集にも掲載されていますので、比較的簡単に入手することが出来ます。この堀辰雄の追悼号で、伊藤整がかなり詳細に書いているのにびっくりしました。本人は、書き出しに”私は堀辰雄とあまり交際がなかった。”とも書いていますが、よく知っています。
「…堀君は『聖家族』を書いた時喀血したという噂で、しばらく静養していた。それが昭和五年である。思い出したが、その前年、昭和四年、川端さんが『浅草紅団』を朝日に書いた頃、私は商大の学生で、上京して二年目であったが、阪本越郎君か誰かと、よく浅草へ遊びに行った。行く先はたいてい水族館のカジノ・フォリイであった。一階に名ばかりの水族館があって、壁になった水槽に何種輝かの魚が泳いでいる。そとはヒッソリとして客はほとんど入らず、二階が満員で、ワーッと沸いているような、小さな劇場で、当時の代表的レビュー小屋であった。梅園龍子が小柄で、キチッと固い表情をした、少女の踊り子で人気があり、榎本健二二村定一などがコミックの主俳優で、身体全体で表現するようなエノケンが注目されて来た時である。
そのレビュー小屋は、川端康成と『浅草紅団』と共に思い出される場所だが、そこに、堀辰雄と武田麟太郎がよく来ていて、多分そこで、「詩と詩論」に書いているというようなことで、私は阪本君などと堀君とアイサツぐらいしたように思う。その頃すでに、堀君は「文芸春秋」に『不器用な天使』という小説を書いていて、代表的なエスプリ・ヌーヴォーの小説家と私たちに見られていた。…」。
本人の死後暫くすると、”彼と赤線に行った”とか”誰と付き合っていた”とか、書かれるのですが、堀辰雄の清潔さが表に出ているせいか、殆ど書かれていませんでした。伊藤整の文章は衝撃的です。
カジノ・フォーリーは昭和4年(1929)7月10日、桜井源一郎が経営する東京・浅草の浅草水族館2階「余興場」を本拠地として創立され、昭和4年(1929)10月26日、第2次カジノ・フォーリーが榎本健一を代表に、間野玉三郎、中村是好、堀井英一の4人で発足しています。その後、梅園龍子、のちに榎本の妻となる花島希世子、吉住芳子、山原邦子、山路照子、三條綾子、望月美恵子(望月優子)らが出演しています。川端康成、武田麟太郎が常連客でした。川端はこのころの経験をもとに書いた小説『浅草紅団』を東京朝日新聞夕刊に昭和4年12月12日から昭和5年2月26日まで連載し、一躍有名になります(ウイキペディア参照)。
小川和佑は「評伝 堀辰雄」のなかで、カジノ・フォーリーの”梅園龍子と堀辰雄との関係”を追求しています。一読を勧めます。
丸山薫の「忘れがたい風姿」からです。
「…彼がまだいくらか元気な頃だったと思う。暑い夏の午前、浅草の仲見世を歩いていて、浴衣の裾前を手でめくり上げて、スネをむき出しにしてぶらり然とやってくる彼に出合った。私に連れもあって二、三語を交わしただけで別れたが、意外に伝法な彼の姿はひどく私を驚かした。…」
堀辰雄が浅草を徘徊していたことがよく分かります。
★写真の左側は


【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)