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最終更新日:2006年3月26日

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●東京帝国大学時代を歩く(上) 初版2003年8月16日 V01L02
  今週は「太宰治を巡って」の追加・改版の2週目です。太宰は昭和5年4月弘前高等学校から東京帝国大学仏蘭西文科に入学し、左翼活動、心中,結婚等で世の中を騒がせます。この東京帝国大学時代を何回かに分けて歩いてみたいとおもいます。

<斜陽> 太宰治の東京帝国大学時代とは直接関係ないのですが、昭和23年7月10日発行の「斜陽」を手に入れました。太宰が玉川上水で山崎富江と入水自殺したのは昭和23年6月13日の夜でしたが、この本は翌月発行されています。詳細は調べてみないと分からないのですが、多分事前に決まっていたのだとおもいます。ですから、太宰の死後、最初に発行されたのがこの「斜陽」ではなかったのではないかとおもっています。

左の写真が昭和23年7月10日発行の「斜陽」です。発行所は新潮社で定価120円でした。帯には「美と戀(愛)のために滅びゆく四人の運命の物語。全編にみなぎる詩情とニュアンスは太宰最高傑作の名に價(値)するのであらう。又中期の名偏「女の決闘」、初期の傑作「晩年」を、作者の全貌をうかがい知る三部の代表作として、旬日のうちに同装幀で刊行する御期待ありたい。」、と書かれています。

  太宰治の東京年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

太宰治の東京を歩く

昭和5年
1930
世界恐慌始まる
22
3月 弘前高等学校を卒業
4月 本郷区台町1番地小山とめ方に宿泊、
4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学、戸塚諏訪町250番地の常盤館に下宿
6月 兄圭治死去
9月 初代、東京に出奔
11月 本所柳島の大工の棟梁の家の二階に転居
11月 ホリウットで田辺あつみと親しくなる
11月28日 夜半、鎌倉郡腰越町小動崎にて心中
12月 荏原郡大崎町下大崎の北芳四郎方に滞在
12月 上旬、起訴猶予となる


太宰 東京全体地図



本郷区台町1番地小山とめ方>
 昭和5年3月、太宰治(この頃は津島修治)は弘前高等学校から東京帝国大学に入学するため上京してきます。その当時の事を大高勝次郎が「太宰治の思い出」で書いています。「昭和五年三月、私たちは東京帝大受験のため上京した。津島は本郷区森川町の下宿屋に宿を取ったが、わざわざ生家から、夜具類を送らせるという入念さであつた。」、本当に”お坊っちゃま”だったようです。又、「太宰治に出会った日」では、「フランス語を全然知らない太宰が、仏文科を志望するのははじめから無茶であった。私が太宰に、どうして仏文科などへ入るのかときいたときの彼の答は、東大仏文科という肩書が、今のことばで言えば、ひじょうに、かっこいいという単純なものであった。たとえ中退しても仏文科の方が、谷崎潤一郎の国文科中退よりもイキだというのである。それともう一つ大きな動機は、そのころ東大文学部の英文科や国文科などには入学試験があったが、仏文科は、志望者が定員不足で無試験であった。そういうことで弘前高校からは太宰のはかにもうひとり、あまり勉強家とはいえないスポーツマンが仏文科をねらった。ただどういう風のふきまわしか、昭和五年というその年には仏文科でもフランス語の試験があった。目算がはずれた太宰らふたりは試験場で手を挙げて、正直に試験官に事情をはなした。その試験官は仏文科の主任教授故辰野隆博士であった。この一風変ったイキな教授は、苦笑したものの、格別の配慮で、ふたりの入学を認めてくれたのである。」、昔は何もせずに大学に入学出来た様です。うらやましい限りですね!!

左の写真が太宰が東京帝国大学に入学したときに宿泊していた本郷区台町一番地(現在の文京区本郷5丁目30番地付近)の小山とめ方です。東大正門前の白十字横町を入った先の左側にありました。現在は立体駐車場になっています。

常盤館>
 太宰は直ぐに下宿を変わります。「学期が始まると、津島は戸塚町の常盤館という下宿屋に移った。それはまだ新しい大きな建物で下宿賃も高いだろうと思われた。津島の部屋は一番奥まった、離れのような広い部屋であった。金木や青森や弘前以来の友だちが時には十人以上も集まって騒いでいた。津島はその中で若い公子のように振舞っていた。……そのときの話で、圭治氏は生家から毎月二百円、浮島自身は百円貰つているということであつた。当時東大生のーカ月の学費は大体四、五十円が標準で、百円も貰っているのは数えるほどしかなかったから、津島はやはり、大地主の子なのであつた。もっとも、慶応あたりの大ブルジョアの子弟などが、一月千円も使っていたのに比べると、浮島の学費は寧ろ寂しいぐらいであるが、それでもかなりの贅沢は出来たのであった。」、すごいですね、やっぱり大地主の息子は違います。当時の200円は今の100万円以上ですかね。

右の写真の少し先の左側辺りが戸塚町の常盤館が建っていた場所です(現在の新宿区高田馬場1丁目26番地付近)。左に曲がると高田馬場駅前です。右側は現在の戸塚第二小学校です。

この後の11月、太宰は本所柳島の大工の棟梁の家の二階 (現在の墨田区東駒形)を借りています。この下宿は青森の初代と一緒に住むための下宿でした。この頃のことを太宰治の「東京八景」では、「その年の秋に、女が田舎からやつて来た。私が呼んだのである。Hである。私が高等学校へはいつたとしの初秋に知り合つて、それから三年間遊んだ。無心の芸妓である。私はこの女の為に本所区駒形に一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係はそのときまで一度も無かつた。故郷から、長兄がその女のことでやって来た。七年前に父を喪った兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い室で相会うた。兄は急激に変化している弟の兇悪な態度に接して涙を流した。必らず夫婦にして戴く条件で私は兄に女を引渡した、……手渡すその前夜、私ははじめて女を抱いた。兄は女を連れて、ひとまず、田舎へ帰った。女は始終ぼんやりしていた。ただいま無事につきました、という事務的な堅い口調の手紙が一本来たきりで、その後は女から何の便りも無かつた。女はひどく安心してしまつているらしかった。私にはそれが不平であった。」、と書いています。このことが後の鎌倉での心中事件に繋がっていきます。初代との結婚については別途特集したいとおもいます。

この”本所柳島の大工の棟梁の家”については大まかな場所しか分からず、詳細は不明のままです。


<心中事件(詳細は「鎌倉・小動崎を歩く」を参照)>
 太宰治が鎌倉郡腰越町小動崎で田辺あつみ(本名:田部シメ子)と心中未遂(田部シメ子は死亡)をおこしたのは 昭和5年11月28日夜半で、東京に出てきてから僅か8ヶ月目の事でした。詳細は「鎌倉・小動崎を歩く」を参照してください。


北芳四郎方>
 太宰治は心中事件後、津島家の東京の番頭である荏原郡大崎町下大崎の北芳四郎方に滞在します。太宰は上京後左翼活動にのめり込んでいます。「…翌年の春東大に入学する弘高生を、いかに多数組織するかが、中心の課題となった。同時に、私は別に、上京してくる弘高生のなかに、党支持者を作ることが、任務として田中から指示されてあった。昭和五年春には、東大入学者と、不合格で予備校へいく、弘高生二十余名が上京して来たので、その一人一人に連絡をつけていった。五月の初め頃、戸塚の常盤館をたずね、津島修治(太宰治)と会ったのは、私に与えられた任務を進めることが、究極の目的であった。……そして、私のすすめたことは、○学内の組織に入りマルクス・レーニン主義を学習すること。○青森県の進歩的学生の組織(日曜会といった) に入り指導していくこと。○党のために極秘に資金その他の援助をしていくこと。であった。常盤館時代に、何回位修治をたずねたか、……修治の心中事件を聞いた。二人して「馬鹿な奴」といった。党の再建は再び順調に進み、私は定期的に松村と連絡して「赤旗」の原稿を受取り、次々と印刷し、発送の手配もした。又、家屋資金局は渡辺惣助を責任者に、宮石三郎と三人で構成、私は本郷神田方面を担当して、主に学生の組織から定期的に資金を集めたり、会合のための場所を設定していった。修治の所へは、心中事件で警察沙汰を起こしたあと、しばらく敬遠していたが。…」、すこし当時の状況が分かります。この後、太宰はしばしば住居を変えていきます。

左の写真右側が荏原郡大崎町下大崎(現在の品川区上大崎1丁目13番地付近)の北芳四郎宅跡です。


太宰 東京地図 -1-


●東京帝国大学時代を歩く(中) 2003年8月23日 V01L02
  今週は「太宰治を巡って」の追加・改版の3週目です。太宰は左翼活動支援の中で、昭和6年以降住居を点々と変えます。今週は太宰が荻窪に転居するまでの所在をできる限り詳細に追いかけてみます。

<旧島津公爵邸(現 清泉女子大学本館)>
 太宰治は昭和6年、大崎五反田一丁目の島津家分譲地に転居します。大崎五反田の旧島津公爵邸は現在は清泉女子大学本館になっています。この経緯は、昭和初期に金融恐慌のあおりで島津家の財政は甚大な打撃を受け、昭和4年(1929年)には、約3万坪あった敷地は中央部の8千余坪を残し、箱根土地に売却されました(この売却された土地が分譲地になった)。さらに昭和19年(1944年)には、太平洋戦争の苛烈化に伴い、財政面、使用人難等により、大邸宅の維持が困難となり、島津公爵邸は日本銀行に売却されています。戦争中邸宅の周辺は空襲による被害で大半が焼失しましたが、写真の西洋館は奇蹟的に焼失を免れることができました。戦後は昭和21年(1946年)1月から、GHQの管理下に入り、昭和29年(1954年)5月に接収が解除されるまで、駐留米軍の将校宿舎として使用されています。 一方清泉女子大学は、昭和25年(1950年)4月横須賀で開学しています。東京進出は昭和37年(1962年)4月です。

左の写真は大崎五反田一丁目(現 品川区東五反田3丁目16番地、清泉女子大学本館)の旧島津公爵邸です。島津家分譲地はこの西洋館の周りに建てられています(周りといっても相当離れていますが)。

  太宰治の東京年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

太宰治の東京を歩く

昭和6年 1931 満州事変 23 2月 小山初代と結婚、神田岩本町から、大崎町五反田一丁目の島津家分譲地に転居
6月 神田区同朋町12番地に転居
神田区和泉町に転居
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
24 3月 淀橋町柏木に転居
6月上旬 中野町小滝48番地に転居
6月下旬 京橋区八丁堀に転居(木材屋の二階)
7月 青森警察署から出頭命令
8月 初代と静岡県静浦村志下298番地の坂部啓次郎宅に滞在
9月 芝区白金三光町276番地の大島圭介旧宅に転居

大崎町五反田一丁目の島津家分譲地>
 太宰は心中後、大崎町下大崎の北芳四郎方に滞在していましたが、昭和6年に入ると初代を伴って神田岩本町に移り、その後再び大崎に戻っています。工藤永蔵の「太宰治の思い出、共産党との関連において」では、「間もなく、修治たちは狭いアパートから五反田の島津家分譲地に新築されたばかりの借家に移った。三月の十日頃、私は 「赤旗」 の三・一五記念特別号の原稿を受けとり、三・一五カンパに間に合うよう印刷することを命ぜられた。けれども、印刷所では、普通号の印刷で手一杯であり全く困却した。兎に角、渡辺惣助に相談し、時期に間に合わせる至上命令を全うするため、彼にガリ版の製版を頼んだ。渡辺は自分の下宿でその仕事をしているうちに、危険な事態が起こり、謄写版を抱えて私の所へ逃げて来た。そこで止むなく、私は渡辺を五反田の修治宅に伴い、修治に頼んで二階の一室をその仕事に使わしてもらい、徹夜で仕上げて間に合せることが出来た。…四月に入って松村から「重要な人間を一人預って貰えないか」 と依頼された時、事情を話して、この家の二階に住まわせることにして貰ったが、多分一ケ月位滞在したことと思う。その期間には、私は遠慮して余り訪問しなかったが、一度行った時その人に会った。色白の若い男であった。「どんな人かね」 と修治に聞くと 「凡帳面でおとなしい人で風呂が好きだ」 といったので、さては労働者出身かなと思った。後年、党の全国大会に出席した時、その人は紺野与次郎であることを知った。藤野敬止が、修治の二階に下宿するようになったのは、このあとであったと思うが、藤野は新人会弘高班の一員であり、又、日曜会のメンバーでもあったので、修治とも親しく交っていた間柄であった。」、活発に支援活動をしていた様です。

左の写真付近が大崎町五反田一丁目(現在の品川区東五反田1丁目、3丁目付近)の島津家分譲地です。山頂の島津家を取り囲むように分譲地があったものとおもわれます。写真では右側に清泉女子大学があり、その中に旧島津公爵邸があります。

神田同朋町十二番地>
 太宰は左翼活動にたいする官憲の追求から逃れるために下宿を次々変えていきます。「間もなく、安全を保つため転居をすすめていたが、神田同朋町へ新居を構えた。神田明神の石崖の下の小粋な格子戸の家であった。同朋町へ来てからは、私が街頭連絡に使った場所が近くにあった関係もあって、頻繁に立ち寄るようになった。渡辺とも一緒によく訪ねた。郷里のこと、文学のことなど雑談に花を咲かせ、初代さんの手料理で津軽の味をなつかしみ、家庭的な空気に浸ることが出来たので、私達には砂漠の中のオアシスのようなものであった。」、新婚で、一番楽しい頃ではなかったかなとおもいます。この後和泉町に転居しますが、番地が不明で詳細の場所は残念ながら分かりませんでした。

右の写真の階段を上ると神田明神です。神田同朋町12番地は階段下の丁度右側になります。現在の住所では千代田区外神田2丁目11番地付近です。

中野町小滝48番地>
 太宰治自身が「東京八景」で、転居のことを書いています。「そのとしの夏に移転した。神田・同朋町。さらに晩秋には、神田・和泉町。その翌年の早春に、淀橋・柏木。なんの語るべき事も無い。朱麟堂と号して俳句に凝ったりしていた。老人である。例の仕事の手助けの為に、二度も留置場に入れられた。留置場から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の嫌悪も無かった。それが皆の為に善いならば、子うしましょう、という無気力きわまる態度であった。」、二度留置場に入れられていますが、一度目は神田同朋町にいたころで、西神田署に呼び出されています。

左上の写真の左側が中野町小滝48番地付近(現在の中野区東中野4−26付近)です。淀橋町柏木に転居した後、八丁堀に移る前、約半月位滞在していた様です。淀橋区柏木は番地が不明で、詳細はわかりません。

京橋区八丁堀三丁目の材木屋の二階>
 この頃太宰治は”北海道生まれの落合一雄”と偽名を使い警察の追求を逃れています。「私が、初代の叔父として、始めて太宰と会ったのが其家である。昭和六年、私が二十六歳、新富町の相馬アパート時代であった。……太宰は世を忍び、一時、夫婦で私のところに同居した。持ち込んだ世帯道具が屋上の洗濯場を塞ぎ、管理人から渋い顔をされて八丁堀へ引越した。…私は夜おそく巡査に「おいこらツ」と呼び止められると「何だッ」と鸚鵡返しに返事をし、「どツちへ行く」「あツちへ行く」「あツちじゃ判らん」「それじゃ何処へ行くと聞けツ」と何かに反感をもっていた頃だが、太宰から謄写版別の??完全なる結婚〃を預ったことがある。これは左翼運動の資金調達のため秘密に出版されたもので、間もなくどこかへ消えた。同じアパートに丹羽文雄氏が居て、三吉橋の辺や、縫紋のある羽織を着て暖簾をくぐる後姿を、銭湯の入口でよく見掛けた。……永井荷風の『墨東綺譚』が朝日の夕刊に連載され始め、私は毎日それを切り抜いて置き、太宰と一緒に愛読した。??八丁堀の材木屋?≠ヘアパートから電車で二停留場位、溜池のフロリダと双壁をなした国華ダンスホールのあった盛り場を少し離れて淋しい川岸の通りにあり、私達が飲み屋の往き返りに目星をつけた、かなり広い部屋であった。階下は全部材木置場、その間を通って薄暗い階段を上り、も一つだけの隣室は空いて居て人目を忍ぶには恰好の棲み家であった。間もなく引越して来た独り者の住人の、いつもひっそりとした気配や目付までがあやしく思われ、警察の廻し者ではないかと本気でうす気味悪い思いをしたが、あとで、高島屋の万引監視員であることが判って大笑いした。…」、偽名まで使って左翼活動をしているわりには結構楽しく遊んでいます。又、国華ダンスホールのビルの所は、昔は「中島屋」という呉服店で当時の三越と方を並べていた大店だったようで、その後四階建てのビルとなり、そのビルの最上階に国華ダンスホールがあり、現在は東京建物八重洲ビルとなっています。

八丁堀の下宿については不明な事がおおいのですが、「太宰治研究」では右上の写真左側の”神谷材木店の二階”ではないかと書かれています。現住所では八丁堀4−11付近です。

上記に書かれている新富町の相馬アパートは当時は結構有名なアパートだったようで、旧新富座近くの現在の新富町2丁目8、13番地付近です。左の写真の左側手前のビルが、旧松竹本社(昭和初期です)で、現在は菊正宗酒造のビルになっています。その左隣のビルの先の所が相馬アパート跡なのですが、現在は駐車場になっていました。写真の左手右側は、新富座跡で,現在は税務署になっています。


<警察署から出頭命令>
 太宰治は青森の組合活動の件で西神田署に呼びだされ、続けて青森警察署からも出頭命令がでます。当時の事を、弘高、東大同期の大高勝次郎は、「工藤は昭和六年九月に検挙され、十一月に中野の豊多摩刑務所に入れられ、三年ほど服役したが、その間、太宰は工藤の頼みに応じて凡帳面に毎月五円の送金を一年あまり続けたし、慰問の便りも出した。……さてこの同朋町の太宰の住居は、青森の組合関係との連絡場所に使ったことから足がついて、太宰は取調べのため一晩西神田署に留置され、その後ちょいちょい刑事が来るようになった。それで間もなく神田和泉町に移り、翌昭和七年早春に淀橋柏木、晩春に日本橋八丁堀と変った。その頃は太宰も北海道生まれの落合一雄と偽名を用いたりしていたが、私も次第に身辺が危くなって来たので、太宰からは遠ざかるようにした。昭和七年七月、太宰は同朋町のアジトの件で青森警察署に呼ばれ、さらにその調書が廻ったのか、十二月には検事局にも出頭を命ぜられたという。私はその十二月一日朝、京橋で逮捕され、やがて豊多摩刑務所に送られることになるのだが、先きに工藤を失い、いままた私と連絡を絶たれた太宰は、このあたりから左翼運動を離れて行ったようだ。……そしてあの厳しい情勢の中で、精一杯党活動者のために尽してくれた太宰には、工藤も私も心から感謝するものである。」、と書かれています。頑張っていましたね。


<静岡県静浦村志下298番地の坂部啓次郎宅に滞在>
 「三島・三津浜を巡る」を参照して下さい。順次掲載していきますので御期待ください。


芝区白金三光町276番地の大島圭介旧宅>
 太宰は、青森警察署からの出頭命令後、左翼活動から身を引きます。上記にも書かれていますが、弘高時代からの友人が逮捕され、身近にいなくなった事が一番おおきいのだとおもいます。「芝の旧大鳥邸を見に出かけたのは、七月末のそんな時分であった。太宰と私は目黒駅から盛夏の電車通りを歩いて行った。……芝のあの辺は、戦後出かけてみたこともないが、戦災に焼けてしまったろうか。屋敷の前後や両隣りの様子は忘れてしまったが、赤さびた門の鉄飾越しに、庭の植込と斜め奥に古風な白い洋館が見えていた。左手の通用門を入るとすぐの内玄関は、管理人の住んでいる一棟になって、奥の建物とは廊下で続いていた。留守番の人は、すぐ私たちを母屋へ通して 「ゆっくりごらん下さい」 と言って引込んでしまった。外廻りの白ペンキほ剥げ落ち、白い円柱の並んだ露台があったりして、いかにも古めかしい建物であった。丈の高い両開きの扉のついた玄関の広間と二つの洋室のほかは、五つ六つの日本間であった。太宰の住んだ離れは次の間付の八畳で、濡れ縁の前の小さな池は大小の庭石や植込に囲まれ、濡れ縁の左手にほ石の手打水鉢が置いてあった。引越して間もない頃、誰かが亀の子を一匹買ってきて、その池に放した。」。東京日日新聞、現在の毎日新聞の記者で、太宰の兄の圭治さん(昭和五年に死去)と親友であった飛島定城と一緒に住みはじめます。

左の写真は目黒通りの白金台交差点です。写真左方向の東大医科研究所附属病院の手前辺りが当時の白金三光町276番地大島圭介旧宅があった所です。現在は分割されて住宅地になってしまっており、当時の面影は全くありませんでした。現在の品川区白金台4−10〜17番地全体が”大島圭介旧宅”でした。



太宰 東京地図 -2-


●東京帝国大学時代を歩く(下) 2003年8月30日 V01L01
  今週は「太宰治を巡って」の追加・改版の4週目です。東京帝国大学時代の最終回となるため、未掲載の荻窪と詳細な地図を掲載します。荻窪の住人といえば井伏鱒二であり、太宰治の遺書の最後に「みんないやしい欲張りばかり、井伏さんは悪人です」と書かれた井伏鱒二の「荻窪風土記」を中心に太宰を追ってみたいと思います。ふむ〜難しいなぁ。

井伏鱒二宅>
 井伏鱒二は太宰治に初めて会った時の事を「荻窪風土記」に書いています。「太宰治は大学に入りたてのころ私のところに手紙をよこし、・・・会ってくれなければ死んでやると言って来た。……当時、太宰は津島修治と言っていた学生で、太宰治と改名したのは大学二年か三年のころであった。作品社は万世橋前の万惣という大きな果物屋の筋向うに出来た新しいビルの三階で、応接間は階下にあった。・・・私は太宰に出す返事に、ビルの場所を知らせるため万惣の位置と広瀬中佐の銅像の位置を描いたのを覚えている。・・・太宰は赤っぽい更紗の下着に久留米の対の蚊餅を着て、紬の袴をはいていた。……。私はこの初対面のときのことを、後になって随筆で二度も書いたので、割合にこまごましたことまで覚えている。」これは、昭和5年(1930)、太宰治22歳の時のことです。”赤っぽい更紗の下着”など一見洒落た文学青年に見えそうですが、当時の流行からしても酷いもので、今で言えば”田舎から出てきて原宿で派手な着物を買って着ていた”という雰囲気です。むむむ〜酷い!!

左上の写真は荻窪の井伏鱒二宅です。亡くなられた後もご自宅はそのままで、表札も昔のままに架かっていて、なんとなく雰囲気があります。太宰治は荻窪時代はここに入り浸り、最後は二回目の結婚式まであげます。

  太宰治の東京年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

太宰治の東京を歩く

昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
25 2月 飛島定城家と共に、杉並区天沼三丁目741番地に転居
5月 杉並区天沼一丁目136番地に移転

杉並区天沼三丁目741番地(天沼稲荷神社隣)>
 太宰治が初めて荻窪に転居したのは、左翼非合法活動から転向した後(小林多喜二が2月に築地警察署で死亡した)の昭和8年2月です。飛島定城と住んでいた白金三光町の借家を家主の都合で引っ越さなくてはならなくなり、荻窪駅から少し歩いた天沼三丁目741番地(現在の本天沼)に飛島定城が母屋に、離れに太宰と初代が住む事になります。「…翌昭和八年の二月太宰さんと一緒に、今度は杉並区天沼三丁目のお稲荷さんのすぐ隣にある大きな家をみつけて、そこに住みました。そこでもおどちゃんは離れに、私達は母屋に住みました。この家も庭が広く、草花等を植えて楽しく暮しました。…」、と飛島定城の奥様の飛島多摩さんが書いています。

左の写真は荻窪に初めて引っ越した天沼三丁目付近です。丁度、天沼稲荷神社の隣で、現在の住所では本天沼3丁目15番地です。写真では左が天沼稲荷神社で、正面右側の民家が15番地です。今は全く面影はありません。

杉並区天沼一丁目136番地>
 太宰は天沼神社が荻窪駅からあまりにも遠い為(20分掛かる)天沼一丁目136番地に再度引っ越します。そのころの事を井伏鱒二は「・・・私は四面道のところで太宰に左様ならをして来たが、太宰は別れ際に短篇の試作原稿を私に手渡して行った。「ナターリアさんとむがしこ」という題で、私が作品社の応接間で太宰に話した亡命ロシア人の女の子の挿話と、津軽の昔噺であった。・・・私は次に太宰が来たとき黙ってその原稿を返し、それと引替に太宰が別の試作原稿を置いて行った。(もうその頃、太宰は荻窪の天沼に越して来ていた)次に来たときその原稿を返すと、引替にまた別の原稿を置いて行った。私は読むだけで批評などしなかったが、厭きもせず次から次によく書いて来た。」と書いています。飛島定城の奥様の飛島多摩さんのほうは、「…ここは国電・荻窪の駅から遠く、今でいえば事件記者だった主人の通勤に不便でしたので、荻窪駅に近い天沼一丁目「日の丸市場」 の裏に家を見つけて引越しました。この家は二階家でした。一階に私達が住み、二階は太宰さんに住んでもらいました。??おどちゃん?≠フ好物は、なんといっても一番はお酒です。次はバナナ、また納豆も大好きでした。おどちゃんと私達は朝ご飯をよく一緒に食べました。朝起きの苦手なおどちゃんには「けさは納豆だよー」 と呼びますと、割合早く起き来てたようです。この納豆は、納豆に筋子を入れた津軽特有の味のするものですが、これは主人も好物で、私の家では今でも時々これをつくって食べます。この 「筋子納豆」をみますと、おどちやんの人なつっこい笑顔を思い出します。…」、と書いています。おどちゃんとは”太宰”のことですね。筋子納豆は食べられますかね、私はちょっと苦手です。

右の写真のまるや質店の先の小道を超えた先の左側2軒目付近が杉並区天沼一丁目136番地です。現在の住所で杉並区天沼三丁目3番地です。

この後は、太宰の船橋と病院時代を掲載します。


<太宰 東京地図 -3->


【参考文献】
・斜陽日記:太田静子、石狩書房
・斜陽日記:太田静子、小学館文庫
・あわれわが歌:太田静子、ジープ社
・手記:太田治子、新潮社
・母の万年筆:太田治子、朝日新聞社
・回想 太宰治:野原一夫、新潮社
・雄山荘物語:林和代、東京新聞出版局
・回想の太宰治:津島美知子、人文書院
・斜陽:太宰治、新潮社
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美
・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館
・太宰治展:三鷹市教育委員会
・人間失格他:文春文庫
・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・太宰治 七里ヶ浜心中:長篠康一郎、広論社
・太宰治に出会った日:山内祥史、ゆまに書房
・若き日の太宰治:相馬正一、津軽書房
・太宰治研究?U:桂英澄、筑摩書房
・太宰治と私:石上玄一郎、集英社
・太宰治の思い出:大高勝次郎、たいまつ社
・太宰治と青森のまち:北の会、北の街社
 
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