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最終更新日:2006年3月26日

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●鎌倉・小動崎を歩く 2003年7月26日 V01L01
  今週から「太宰治を巡って」の追加・改版を行います。青森時代から三鷹時代までを追加し、三鷹以降を一部追加と大幅な改版を行います。「太宰治を巡って」を掲載してからかなり時間が経っており、不十分な所も多いためです。今回は初回として太宰治が心中事件を起こした鎌倉・小動崎を歩いてみます。

<小動崎(こゆるぎがさき)>
 太宰治が鎌倉郡腰越町小動崎で田辺あつみ(本名:田部シメ子)と心中未遂(田部シメ子は死亡)をおこしたのは 昭和5年11月28日夜半のことでした。“帝大生と女給情死を図る”青森県北郡金木町素封家同郡県会議員津島文治氏弟東京市外戸塚町二五〇常盤館止宿帝大生修治(二二)及び銀座十字屋楽器店裏ハリウッド・バー内田邉あつみ(一九)の両名は二十八日朝家出同日午後五時頃相州腰越小動神社裏海岸でカルモチンをのみ情死を計り二十九日朝八時頃苦悩中を付近の漁師が発見女は間もなく絶命男は腰越恵風園に収容したが一命は取止めるらしい』、と昭和5年11月30日(日)の東京朝日新聞朝刊に報道されています。

左上の写真が現在の小動崎です。左端に微かに見えているのが江ノ島です。写真の岬の真ん中辺りに小動神社があり、太宰が心中した所は、この岬の左突端の所だとおもいます。私も手前側から岬の先まで歩いていこうとしたのですが、不可能でした。当時はどうだったのでしょうか!

  太宰治の鎌倉年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

太宰治の鎌倉を歩く

昭和5年
1930
世界恐慌始まる
22
3月 弘前高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学
6月 兄圭治死去
9月 初代、東京に出奔
11月 ホリウットで田辺あつみと親しくなる
11月28日 夜半、鎌倉郡腰越町小動崎にて心中
12月 上旬、起訴猶予となる

<バー・ホリウッド跡>
 永井荷風によると「銀座のカフェーの全盛は、昭和六、七年頃」だったそうです。銀座で有名なカフェーはライオン、タイガー、黒猫、サロン春等だったようでホリウッドはあまり名前がでてきません。この年の4月太宰は、はれて東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学し、高田馬場駅前の戸塚に下宿していました。また太宰は青森の小山初代を東京に出奔させたりしていました。「十一月十九日、金木町大字金木字朝日山四百十四番地に分家届出、除籍された。十一月二十四日、豊田太左衛門を名代として、小山家と結納を交した。同月下旬、広島出身の銀座のバア・ホリウッドの女給田辺あつみ(または田部シメ子、田辺純子、十九歳)と放つた。田辺あつみは、岡山の在所から上京してきた無名で病身の画家を内縁の夫にもつ、美貌の人妻であつた。理知的で健康そうで、応答の妙が鮮やかな、明るい気質の女性であつたという。」、と太宰治研究では書かれています。

左の写真の「銀座ハゲ天」の先の左のビルの所に「バー・ホリウッド」がありました(銀座3丁目4番地付近)。大倉別館の手前のビルの所になります。本によってホリウッド、又はハリウッドと書かれており、場所を捜すのに苦労しました。銀座としか書かれていなかったため、昭和6年4月発行の大日本職業別明細図京橋区の中から探しだしました。

<江ノ電鎌倉駅>
 太宰が心中を計ったのは昭和5年11月ですから、江ノ島電鉄は鎌倉−江ノ島−藤沢間が既に全通していました。戦前の江ノ島電鉄鎌倉駅はJR鎌倉駅の東側、二の鳥居の前にありました。現在はJR横須賀線の手前を左にカーブして鎌倉駅西口に向かいますが、当時はそのまま若宮王路に入り、横須賀線を立体交差で潜って二の鳥居前まで運行していた様です。電車も一両で、都電と同じスタイルで運行していました(現在の様なプラットホームは無かった)。

右の写真は、江ノ島電鉄、鎌倉駅です。現在の駅はJR横須賀線鎌倉駅の西口に有ります。

<小動神社>
 太宰と田辺あつみは27日、帝国ホテルで一泊した後、横須賀線で鎌倉に向かいそのまま江ノ島電鉄で腰越駅まできたようです。「十一月二十五日、小館保等友人とホリウッドで痛飲、帰途田辺あつみも交えてタクシーに乗り、本所で田辺あつみと二人下車した。二十六日、本所から浅草に行つて見物し、二十七日、田辺あつみを伴って、中村貞次郎と逢った。その夜、帝国ホテルに泊り、二十八日午後、ホテルを出て、鎌倉に向い、同日夜半、神奈川県鎌倉郡腰越町小動崎の海岸(一説に「東側突端の畳岩の上」)で、カルモチンを臙下した。」、とあります。二人は腰越駅で江ノ島電鉄を下車して、この小動神社の前を通って心中した海岸まで歩いていったようです。この近くに地図がありましたので掲載しておきます。

左上の写真が小動神社です。この参道を登っていくと神社の有る小動崎の突端にでますが、その先は絶壁で降りる事は出来ません。ですから、この小動神社の前を右から左方向に歩いていき、この小動崎を左端から右へ回ったものとおもわれます。右側から見た小動崎の写真も掲載しておきます。


<恵風園療養所>
 翌日二人の心中が発見されると大騒ぎになります。事件としては、「翌二十九日午前八時頃、苦悶中を発見されたが、女は絶命。一人七里が浜恵風園療養所に収容され、所長中村善雄の手当を受けた。」、とあります。また、津島家の番頭、中畑慶吉氏によると、『昭和五年の十一月でしたか、私は文治さんに呼ばれました。「修治の奴が、鎌倉で情死事件を起こした。中畑君、すまんがすぐに行って、君の好きなように処理をつけちゃくれないか」私は文治さんから三千円を預かると夜行に飛び乗り、鎌倉に急ぎました。……鎌倉に着いてからすぐに、私はシメ子の内縁の夫田部某に会いました。……この人と鎌倉警察の人と私と三人で、仮埋葬してあったシメ子の死体を確認いたしました。警察では最初、田部某が本当にシメ子の身内かどうか疑いをもっておったようですが、死体が鼻血を出したので、はじめて信用したようです。昔から??変死体は近親者と会うと鼻血を流す?≠ニいいますから。それはおびただしい量の血でした。大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思い蓋した。……次の日の朝でしたか、私は警察署の宿直室で、偶然にも金木生れの刑事さんに立会人になってもらい、田部君に「今後は一切、無関係」という意味のことがらを認めた念書を入れてもらいました。その代償として、預ってきた金から百円をやりました。その日は、恵風園病院に入院している太宰を見舞いに行きましたが、自殺封助の罪に問われている男にしては明るい彼を見てびっくりしたことを憶えています。…私が太宰の後始末をつけるため、東京へ向う車中にあったとき、この北さんから電報がきました。当時共産党の活動を太宰がやっていて、その秘密書類が下宿 − 戸塚の常盤館だったと思います!に置いてあって、見つかるとまずいから処分してきてくれ、というのです。私は上野から円タクを飛ばして下宿へ立ち寄り、小さな柳行李一杯くらいあった書類を焼いてくれるように女中頭さんにチップを渡して頼んでから鎌倉に向ったのです。太宰の年譜のはとんど全部が、私自身で秘密書類を焼き捨てたという記述をしているそうですがそれは誤りです。次の日、太宰の部屋に思想犯刑事が踏み込んだそうです。』、と言われており周りは大変だったようです。

左上の写真が旧恵風園診療所です。現在は恵風園胃腸病院となっています。建物も建て直されていますが目の前が七里ヶ浜で、江ノ島電鉄も昔と変わらず走っており昔の面影はあるようです。江ノ島電鉄では鎌倉高校前で降りると近いです。


太宰 小動崎地図
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【参考文献】
・斜陽日記:太田静子、石狩書房
・斜陽日記:太田静子、小学館文庫
・あわれわが歌:太田静子、ジープ社
・手記:太田治子、新潮社
・母の万年筆:太田治子、朝日新聞社
・回想 太宰治:野原一夫、新潮社
・雄山荘物語:林和代、東京新聞出版局
・回想の太宰治:津島美知子、人文書院
・斜陽:太宰治、新潮社
・太宰治辞典:学燈社、東郷克美
・ピカレスク:猪瀬直樹、小学館
・太宰治展:三鷹市教育委員会
・人間失格他:文春文庫
・太宰治と愛と死のノート:山崎富栄
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・太宰治 七里ヶ浜心中:長篠康一郎、広論社
・太宰治に出会った日:山内祥史、ゆまに書房
・若き日の太宰治:相馬正一、津軽書房
・太宰治研究?K:桂英澄、筑摩書房
・太宰治と私:石上玄一郎、集英社
・太宰治の思い出:大高勝次郎、たいまつ社
・太宰治と青森のまち:北の会、北の街社
 
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