●三島・三津浜を歩く (改版)
    初版2002年9月28日
    二版2003年10月13日
    三版2008年10月18日  <V01L02> 宮内医院を追加し全面改版

 「太宰治の三島・三津浜を歩く」を全面改版しました。今回は静岡新聞社の「三島文学散歩」、「続・三島文学散歩」を参考にしながら歩いてみました。「今井産婦人科病院」、太宰が通った飲み屋の「江戸一」も掲載しています。


「開業当時の三島駅」
三島駅>
 東海道線三島駅は昭和9年12月の丹那トンネル開通により御殿場線の下土狩駅(当時は三島駅)から現在の地に新らしく三島駅が開設されます。
「…八年まえの事でありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過したことがあります。五十円を故郷の姉から、これが最後だと言って、やっと送って戴き、私は学生鞄に着更の浴衣やらシャツやらを詰め込み、…自信あり気に友人達を汽車に乗せたものの、さてこんなに大勢で佐吉さんの小さい酒店に御厄介になっていいものかどうか、汽車の進むにつれて私の不安は増大し、そのうちに日も暮れて、三島駅近くなる頃には、あまりの心細さに全身こまかにふるえ始め、幾度となく涙ぐみました。…三島駅に降りて改札口を出ると、構内はがらんとして誰も居りませぬ。ああ、やはり駄目だ。私は泣きべそかきました。駅は田畑の真中に在って、三島の町の灯さえ見えず、どちらを見廻しても真暗闇、稲田を撫でる風の音がさやさや聞え、蛙の声も胸にしみて、私は全く途方にくれました。…やがてバスは駅前の広場に止り、ぞろぞろ人が降りて、と見ると佐吉さんが白浴衣着てすまして降りました。私は、唸るほどほっとしました。…」
 は太宰の「老ハイデルベルヒ」(アルトハイデルベルヒ)の書き出しです。この小説の主人公は太宰治本人で、”三島の酒屋の息子の佐吉さん”とは、友人の坂部武郎のようで、三島を題材にしています。書かれたのは昭和16年に清水に滞在したときです。

「現在の三島駅」
左上の写真は開業当時の三島駅です。左の写真が現在のJR三島駅南口です。三島駅はJRの新幹線、東海道線と伊豆箱根鉄道の三本の鉄道が乗り入れています。東海道線が新橋から静岡まで開通したのが明治22年です。当時の東海道線は国府津駅から御殿場経由の沼津駅、静岡駅の路線でした。三島駅も御殿場線の下土狩駅が当時の三島駅でした。昭和9年(1934)12月1日、丹那トンネルが開通し熱海駅〜沼津駅間が電化複線で開業します。国府津─御殿場─沼津間は御殿場線として分離しています。この小説が昭和7年の頃の三島駅をえがいたとすると、現在の三島駅ではなくて、下土狩駅(丹那トンネル開通前の三島駅)だとおもわれます。



太宰治の静岡年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
24 8月 初代と静岡県静浦村の坂部啓次郎方に滞在
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 26 8月 静岡県三島市の坂部武郎方に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 33 2月 清水市の三保の松原に滞在
昭和22年 1947 中華人民共和国成立 39 2月 田中英光の疎開宅前の安田屋に滞在



「坂部啓次郎方」
坂部啓次郎方>
 昭和7年7月、太宰は青森警察署に出頭します。その後釈放され、8月に初代と一緒に静岡県静浦村の坂部啓次郎方に滞在します。坂部啓次郎宅は金木の実家の番頭北芳四郎の妻の実家だったようです。「続 三島文学散歩」では、
「…太宰の郵便物の発信地が「静岡県沼津市外静浦村志下二百九十八番地 坂部啓次郎方」となっているので、太宰治の仮寓先は坂部酒造店と従来は思われていたが、実際は隣家の田中房二宅であったことが、武郎さん・愛子さん兄妹の証言によって初めてわかった。…」
 この弟の武郎は後に三島で酒屋をはじめます。太宰はここで「思い出」を書きます。

左上の写真が坂部啓次郎方です。現在も坂部酒店のままで、建物も当時のままだとおもわれます。「英勲」という日本酒をつくられているようです。隣の田中邸は分かりませんでした。場所的には三島というよりは沼津から伊豆長岡方面に向かって国道414号を5Km程のところで御用邸のちかくです。

「坂部武郎酒店跡」
坂部武郎酒店跡>
 昭和9年8月、太宰は執筆のため、再び三島を訪れます。今回は一人で泉町の坂部武郎酒店に居候します。坂部武郎酒店のことを「老ハイデルベルヒ」では、
「…佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の寝る部屋があるかい。」 佐吉さんは何も言わず、私の背中をどんと叩きました。そのまま一夏を、私は三島の佐吉さんの家で暮しました。
……私が二階で小説を書いて居ると、下のお店で朝からみんながわあわあ騒いでいて、佐吉さんは一際高い声で、「なにせ、二階の客人はすごいのだ。東京の銀座を歩いたって、あれ位の男っぶりは、まず無いね。喧嘩もやけに強くて、牢に入ったこともあるんだよ。唐手を知って居るんだ。見ろ、この柱を。へこんで居るずら。これは、二階の客人がちょいとぶん殴って見せた跡だよ。」と、とんでも無い嘘を言って居ます。…」

太宰はこれを自分で書いているのですから、自信のほどもすごいですね。

右の写真の左側数軒が坂部武郎酒店跡です。かなり大きな酒屋さんだったようで現在は複数の家に分割されているようです。

「松根印刷所」
松根印刷所>
 太宰は一人で泉町の坂部武郎酒店に居候しますが、友人の坂部武郎には妹がいたため、気兼ねして、夜は近くの松根印刷所の二階に泊まるようにしていたようです。坂部武郎の妹さんについては。
「…窓に侍りかかり、庭を見下せば、無花果の樹蔭で、何事も無さそうに妹さんが佐吉さんのズボンやら、私のシャツやらを洗濯して居ました。「さいちゃん。お祭を見に行ったらいい。」と私が大声で話しかけると、さいちゃんは振り向いて笑い、「私は男はきらいじゃ。」とやはり大声で答えて、それから、またじゃぶじゃぶ洗濯をつづけ、「酒好きの人は、酒屋の前を通ると、ぞっとするほど、いやな気がするもんでしょう? あれと同じじゃ。」と普通の声で言って、笑って居るらしく、少しいかっている肩がひくひく動いて居ました。妹さんは、たった二十歳でも、二十二歳の佐吉さんより、また二十四歳の私よりも大人びて、いつも、態度が清潔にはきはきして、まるで私達の監督者のようでありました…」
 と書いています。この小説に出てくる佐吉さんの妹の”さいちゃん”は、坂部武郎の妹の”愛子さん”のことで、実在しています。

左上の写真は現在も残っている松根印刷所です。武部武郎酒店から100m位の近さで、この印刷所裏の二階で太宰は寝ていたようです。

「ララ洋菓子店」
ララ洋菓子店>
 「ララ洋菓子店」は太宰治の小説に直接登場する訳ではありませんが、このお店のママがお好みだったようです。
「…その太宰治がレコードとコーヒーを楽しみにかよったという、広小路町の「ララ洋菓子店」に寄ってみる。この三島の洋菓子の老舗は、昭和七年の開店で、店の東側が洋菓子の陳列、右側がボックスをならべた小さな喫茶店であり、二階が住居であったとする当時のお話の再確認をする。
 太宰治の三島の保護者であった坂部武郎さんが、「太宰(津島) はこの喫茶店が好きで、好みの女性がママさんだということで、『向こうも私に気があるようなんだよ』とよく冗談を言っていた」という話をされていた。…」


右の写真が三島広小路のララ洋菓子店です。お土産に源兵衛川ロールというロールケーキを買ってきました(写真を掲載しておきます)。場所は伊豆箱根鉄道の三島広小路駅の直ぐそばで、横に鰻で有名な「桜屋」があります。この桜屋は戦前から同じ場所にあるわけではなさそうです。三島市郷土資料館発行「みしま町」昭和12年の地図によると、伊豆箱根鉄道線路から三軒目が「ララ洋菓子店」、其処から三石神社まで四軒の店がありました。

「今井産婦人科病院跡」
今井産婦人科病院>
 太宰治の「満願」に登場する”まち医者”については諸説あるようです。「三島文学散歩」では、今井産婦人科病院ではないかと推定しています。
「…そのお医者さんは新潟県出身であり、慈恵医大を卒業後、東京から三島に来て、社会保険三島病院の産婦人科に勤務した後、昭和七年に南本町三番内の旧明宝劇場(終戦前後のポッポ座)付近に今井産婦人科病院を経営し、後、昭和九年に緑町の元松坂病院の地に移転した今井直氏ではないかと、
ターゲットをしばるにいたっている。…」

 ”まち医者”の一案は松根印刷の左隣にある宮内病院(昭和7年開業)、二案は上記に書かれた今井産婦人科病院です。宮内病院については上記の松根印刷の左隣に写っています。

左上の写真は現在の源兵衛川と三島中央病院です。昭和9年以降の今井産婦人科病院は現在の三島中央病院(松阪病院跡)のところにありました。昭和7年に開設した南本町三番の今井産婦人科病院は旧明宝劇場(終戦前後のポッポ座)跡付近あり、現在の南本町2番地となります。

「江戸一跡」
江戸一跡>
 「ララ洋菓子店」の千代子さんが太宰治が通った飲み屋を紹介しています。
「…千代子さんが、「太宰さんと武郎さんがよく遊びにいかれた飲み屋さんは、本町のしらとり靴店付近にあった、江戸一さんではないかと思いますよ」とも語られる。…」

右の写真の一番右側に電柱がありますが、この電柱の左隣が「しらとり靴店」になります。この付近に「江戸一」があったとおもわれます。

「伊豆国分寺」
伊豆国分寺跡>
 坂部武郎酒店の近くに太宰治の「ロマネスク」に登場する”伊豆国分寺跡”がありました。
「…私たちはそのあと、小説『ロマネスク』中にある「家の裏手にあたる国分寺跡の松林の中で修業をした」とする泉町の日蓮宗国分寺の伊豆国分寺跡を見学に出かけた。松林というのが気になって、途中の山本米穀店の店主やご近所の方にうかがうと、あの昔と変わらない桜湯の近辺あたりから楽寿園の西側一帯にかけては松林続きだったとするお話があって、私も「そうだった」と子どものころの風景をかなり鮮明に思い出した。…」

左上の写真は広小路町にある伊豆国分寺です。国分寺跡の碑はこのお寺の裏側にありました。写真をクリックして拡大すると伊豆国分寺跡の記念碑が分かります。



「安田屋旅館」
安田屋旅館>
 太宰は戦後の昭和22年2月、下曽我に疎開していた太田静子を訪ねます。この時、太宰は太田静子の日記を預かります。この日記が後の「斜陽」の元になります。またこの出会いで太田静子は身ごもります。太宰は下曽我で太田静子の日記を預かった後、静岡県沼津市三津浜の安田屋旅館に向かいます。友人の田中英光の疎開宅の前が安田屋旅館であったためです。この当りの詳細は「斜陽日記を巡る」を見て頂ければよく分かります。

右上の写真はが安田屋旅館です。建物は当時のままで、太宰が「斜陽」を執筆した部屋も当時のまま保存されています。

「太宰治を巡って」は今回から順次改版していきます。



太宰治 三島地図