●太宰治の大宮を歩く
    初版2009年9月26日  <V01L01>

 「太宰治を巡って」の未掲載部分を順次掲載しています。今週は「太宰治の大宮を歩く」です。太宰治は玉川上水に入水自殺する一ヶ月程前に、半月ほど大宮に滞在しています。筑摩書房の古田社長に薦められたようです。


「古田晁伝説」
<古田晁伝説(ふるたあきら)>
 筑摩書房創設者の古田晁は長野の出身で、自身の出身地である筑摩郡の名前を取って「筑摩書房(昭和15年設立)」と名付けたようです。太宰治との関わりは昭和16年に出版した「千代女」からです。「千代女」の装幀は太宰が古田社長に無理やり頼み込み、阿部合成にやらせています。阿部合成の装幀料が、当時としては破格の50円+50円=100円だったそうです。当時、装幀料で最も高かったのは青山二郎で、50円でしたから破格の値段です。何故50円+50円になっているかというと、最初の50円は阿部合成と二人で呑んでしまって、また貰いに行ったからだそうです。古田晃はなんと太っ腹なんでしょうか。太宰の将来を見込んでのことなのでしょう、たいしたものです。ここでは、戦後の大宮でのお話を中心に進めます。まず、塩澤実信氏の「古田晁伝説」からです。
「…太宰治の精神的な自叙伝ともいうべき『人間失格』は「展望」誌上に昭和二十三年の六月号から、八月号まで連載された。
 作品は、「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」が連載の第一回分で、三月十日から三十一日まで熱海市咲見町の起雲閣で執筆され、「第三の手記」 の前半の連載第二回分は、四月中旬に三鷹の仕事部屋で執筆。「第三の手記」 の後半と 「あとがき」連載第三回分は、四月二十九日から五月十二日にかけて、埼玉は大宮町の藤縄方で執筆された。
 このあと、朝日新聞に連載予定の 「グッド・バイ」という、太宰の最後を暗示するような軽妙な小説を書きはじめていたが、六月十三日深更、彼を慕う山崎富栄と共に玉川上水に投身して果てた。…」

 太宰は大宮に滞在する少し前に熱海の起雲閣に滞在しています。この頃はそうとう体調を崩していますので、「人間失格」の執筆を兼ねた静養だったとおもいます。太宰治の熱海に関しては、「太宰治の熱海を歩く」を参照してください。ここでは大宮を訪ねる直前について、塩澤実信氏の「古田晁伝説」を参照します。
「…臼井吉見の述懐によると、太宰は第三部を書くために大宮へ行く前の日に、千駄木町の豊島与志雄邸を訪ね、そこで夜を徹して呑みつづけたという。
 本郷は東大前の筑摩書房の二階に、山賊のような暮らしをしていた臼井に、この夜太宰から電話があって、「よかったら来ないか」の誘いがあり、訪ねて行っている。……
… 臼井は、その翌日の暮れ方、再び豊島邸を訪ね、あれから流達し呑みつづけていた太宰を筑摩書房へ連れて来て、「自分ながら不興げに、君は豊島氏の作品が大好きとか言ったが、どんなのが好きなんだと聞くと、にやりと笑ってほおをなで、『いやァ、実はなんにも読んでないんだよ』 と答えた」と言う。…」

 千駄木町の豊島与志雄邸を訪ねたのは豊島与志雄氏の記述によるは昭和23年4月25日になっています(「山崎富枝を歩く」を参照)。翌日の夕方に本郷の筑摩書房に連れてきて、その翌日まで筑摩書房にいたようですので、27日までは行動がはっきりしています。大宮を訪ねたのは29日ですから上記に書かれている”大宮に行く前の日”とは辻褄があいません。太宰の2日間の行動が分かりませんでした。

写真は、塩澤実信氏の河出書房新社版「古田晁伝説」です。小説家達との駆け引きがなんとも面白いです。一読を薦めます。

「小野沢宅跡」
<小野沢宅>
 昭和23年4月29日、古田晃に連れられて太宰治と山崎富枝は大宮駅にほど近い大宮市大門町の藤縄方を訪ねます。ここでは山崎富枝の「太宰治との愛と死のノート」からです。
「…を四日二十九日、古田さんと、神田駅で待ち合わせて、ここ大宮市の一隅に修治さんと生活する。人間失格の第三の手記を執筆なさるためのカンヅメ。藤縄信子さん(十八)は顔立ちのよい、上品なお嬢様で、動作もおちついていて、よいお方。お若いのに随分苦労をなさってこられたからなのでしょう。
 お食事もここの御主人が大変心をこめておつくり下さるので、いつも美味しく頂き、お蔭で太宰さんもめっきり太って来られた。…」

 太宰治の大宮での滞在先は小野沢宅が一般的ですが、さいたま市立大宮西部図書館編の「大宮文学散歩」によると、(所有者小野沢氏・名義人藤縄氏)だそうです。さいたま市立大宮西部図書館編の「大宮文学散歩」では、
「昭和二十三年四月二十九日、太宰治は恋人の山崎富栄に付添われ古田筑摩書房主人の案内で、大宮市大門町三丁目一〇三番地の小野沢清澄方(やなぎ小路天清の主人)の居宅に落ち着いた。……
…日々の生活は極めて規則的で、九時頃起床すると、正午すぎから三時頃まで原稿を書き、夜はゆっくり食事して就寝、一日中ほとんど部屋に籠ったままで、わずか廊下を隔てた小野沢方の茶の間を訪れたことすらなかった。…」

 と書かれています。さいたま市立大宮西部図書館編の「大宮文学散歩」は直接小野沢氏か藤縄氏に取材されているようです。信頼がおけます。上記に書かれている”やなぎ小路天清”については、現在は中華料理屋になっていました(当時は天麩羅屋)。
 
写真の左側、真ん中を左に折れた左側角から二軒目に小野沢宅がありました。現在は無くなっています。(直接の写真は控えさせていただきました)

「松ノ湯跡」
<松ノ湯>
 さいたま市立大宮西部図書館編の「大宮文学散歩」には、太宰の大宮での生活が詳細に書かれています。上記にも書きましたが、小野沢氏か藤縄氏に直接取材されているようです。
「…太宰はほとんど散歩に出なかった。しかし時折銭湯の”松の湯”に出かける時、氷川参道両側の闇市がめずらしかったらしく、無口の太宰が「ご主人、今日は珍しい魚が出ていましたよ」と、小野沢氏に言ったこともあったという。…」
 小野沢宅から170m程、南東に歩いたところに「松ノ湯」がありました。残念ながら現在は無くなっていました。

写真の左側、菊地酒店の先が「松ノ湯」でした。現在は病院になっているようです(直接の写真は控えさせていただきました)。正面は氷川神社参道です。当時は戦後間もなくですから、闇市が盛んだったのだとおもいます。大宮氷川神社はお正月の初詣では全国四位の人出でです。たいしたものです。

「宇治病院」
<宇治病院>
 太宰は体調を崩したままで、近くの「宇治病院」に通います。この病院は古田晃の奥様の姉の嫁ぎ先でした。古田晁自身も家族を長野の実家に戻しており、戦後しばらくはこの宇治病院に間借りしていました。
「…外出と言えばこの外は、宇治病院に注射に行くくらいで、それも五月に入ると
恋人の山崎富栄にやってもらうようになっていた。
 こうした生活の中に「人間失格」は完成した。太宰は五月十二日に小野沢方を去っている。…」。

 太宰はようやく「人間失格」を書き上げます。よほどこの場所が気に入ったようで、”また来たい”と小野沢氏に言い残して三鷹に戻っていきます。太宰は入水自殺する前日、6月12日に古田社長に合いにわざわざ宇治病院を訪ねています。古田社長は長野に帰っており、合えずに帰ります。吉田社長に相談があったのだとおもいます。会えていたら、自殺は無かったかもしれません。

写真の正面が宇治病院です。立派なビルになっていました。この後、太宰治は自殺へまっしぐらに進んでいきます。

次回は「小山清」を歩きたいなとおもっています。


太宰治の本郷地図


太宰治の大宮地図


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和14年
1939 ドイツ軍ポーランド進撃 31 1月8日 杉並の井伏鱒二宅で太宰、石原美智子と結婚式をあげる。甲府の御崎町に転居
9月1日 東京府三鷹村下連雀百十三番地に転居
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 34 12月 今官一が三鷹町上連雀山中南97番地に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
36 1月10日 上野駅でスマトラに向かう戸石泰一と面会
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 38 11月 金木から三鷹に戻る、山崎富枝、ミタカ美容室に移る(三鷹の野川家に転居)
12月 中鉢家の二階を借りる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
39 1月 小山清が三鷹を去る
2月 下曽我に太田静子を訪ねる、三津浜で「斜陽」を執筆
3月 山崎富枝、屋台で太宰治と出会う
4月 田辺精肉店の離れを借りる
5月 西山家を借りる
8月 千草の二階で執筆
昭和23年 1948 太宰治入水自殺 40 3月7日 熱海 起雲閣別館に滞在(3月31日まで滞在)
3月18日 熱海 起雲閣本館に滞在
4月25日 本郷の豊島与志雄宅を訪問
4月26日 本郷の筑摩書房を訪ねる
4月29日〜5月12日 大宮に滞在、「人間失格」を書き上げる
6月12日 大宮の古田晃を訪ねる(不在)
6月13日 玉川上水に入水自殺