<古田晁伝説(ふるたあきら)>
筑摩書房創設者の古田晁は長野の出身で、自身の出身地である筑摩郡の名前を取って「筑摩書房(昭和15年設立)」と名付けたようです。太宰治との関わりは昭和16年に出版した「千代女」からです。「千代女」の装幀は太宰が古田社長に無理やり頼み込み、阿部合成にやらせています。阿部合成の装幀料が、当時としては破格の50円+50円=100円だったそうです。当時、装幀料で最も高かったのは青山二郎で、50円でしたから破格の値段です。何故50円+50円になっているかというと、最初の50円は阿部合成と二人で呑んでしまって、また貰いに行ったからだそうです。古田晃はなんと太っ腹なんでしょうか。太宰の将来を見込んでのことなのでしょう、たいしたものです。ここでは、戦後の大宮でのお話を中心に進めます。まず、塩澤実信氏の「古田晁伝説」からです。
「…太宰治の精神的な自叙伝ともいうべき『人間失格』は「展望」誌上に昭和二十三年の六月号から、八月号まで連載された。
作品は、「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」が連載の第一回分で、三月十日から三十一日まで熱海市咲見町の起雲閣で執筆され、「第三の手記」 の前半の連載第二回分は、四月中旬に三鷹の仕事部屋で執筆。「第三の手記」 の後半と 「あとがき」連載第三回分は、四月二十九日から五月十二日にかけて、埼玉は大宮町の藤縄方で執筆された。
このあと、朝日新聞に連載予定の 「グッド・バイ」という、太宰の最後を暗示するような軽妙な小説を書きはじめていたが、六月十三日深更、彼を慕う山崎富栄と共に玉川上水に投身して果てた。…」。
太宰は大宮に滞在する少し前に熱海の起雲閣に滞在しています。この頃はそうとう体調を崩していますので、「人間失格」の執筆を兼ねた静養だったとおもいます。太宰治の熱海に関しては、「太宰治の熱海を歩く」を参照してください。ここでは大宮を訪ねる直前について、塩澤実信氏の「古田晁伝説」を参照します。
「…臼井吉見の述懐によると、太宰は第三部を書くために大宮へ行く前の日に、千駄木町の豊島与志雄邸を訪ね、そこで夜を徹して呑みつづけたという。
本郷は東大前の筑摩書房の二階に、山賊のような暮らしをしていた臼井に、この夜太宰から電話があって、「よかったら来ないか」の誘いがあり、訪ねて行っている。……
… 臼井は、その翌日の暮れ方、再び豊島邸を訪ね、あれから流達し呑みつづけていた太宰を筑摩書房へ連れて来て、「自分ながら不興げに、君は豊島氏の作品が大好きとか言ったが、どんなのが好きなんだと聞くと、にやりと笑ってほおをなで、『いやァ、実はなんにも読んでないんだよ』 と答えた」と言う。…」
千駄木町の豊島与志雄邸を訪ねたのは豊島与志雄氏の記述によるは昭和23年4月25日になっています(「山崎富枝を歩く」を参照)。翌日の夕方に本郷の筑摩書房に連れてきて、その翌日まで筑摩書房にいたようですので、27日までは行動がはっきりしています。大宮を訪ねたのは29日ですから上記に書かれている”大宮に行く前の日”とは辻褄があいません。太宰の2日間の行動が分かりませんでした。
★写真は、塩澤実信氏の河出書房新社版「古田晁伝説」です。小説家達との駆け引きがなんとも面白いです。一読を薦めます。