●太宰治の熱海を歩く
    初版2009年6月13日  <V01L02>

 梅雨の季節になりました。村上春樹の「1Q84」は相変わらず売れているようです(本屋ではまだ見かけない!)。今回は「太宰治を巡って」に戻って、”熱海”を歩いてみました。太宰治は熱海に短期滞在も含めて4回ほど訪ねています。今回は昭和11年と、戦後の昭和23年を歩いてみました。


「小説 太宰治」
檀一雄 「小説 太宰治」>
 太宰治の訪ねた戦前の熱海については、檀一雄が「小説 太宰治」の中で、詳細に書いています。昭和11年後半の太宰といえば、パピナール中毒からようやく開放されて、すこしづづ書き始めていたころだとおもいます。檀一雄の「小説 太宰治」からです。
「井伏さんの覚え書きによると、昭和十一年の十二月という事になっている。本郷の私の下宿に思いがけぬ、女の来訪客がやってきた。
 誰かと思って、出てみると、初代さんだった。
「ああ、奥さんか、津島君どうかしたんですか?」
「いいえ、ちょっとお願いがあるのよ」と、初代さんは穏和にほほ笑むようだから、
 「よかったら、どうぞ」
 「じゃ、ちょっと」
 と、初代さんは素直に私の部屋に上がってきた。
「お願いって?」
「あのね、津島が熱海に仕事をしにいってますの。お金がないといって来ましたから、やっとこれだけ作ったのよ。檀さん、すみませんけど、持っていって下さらない? そうして早く連れて帰って来て下さいね」…」

 太宰は小説を書きに熱海に行っていたとおもうのですが、結局、何も書かずに遊んでいただけだったようです。ミ木乃伊(みいら)取りが木乃伊になるお話です。

写真は熱海の話が書かれている檀一雄の「小説 太宰治」です。今読むのなら、「太宰と安吾」の方が良いとおもいます。このなかに”熱海行”として、同じものが掲載されています。

「旅館八百松跡」
<旅館八百松(旅館八島館)>
 太宰が熱海を訪ねた時期については、檀一雄は”井伏さんの覚え書き”を参照していて、昭和11年の12月と書いています。実際は少し早く、11月25日から滞在していたようです。太宰が熱海で最初に宿泊した旅館は旧御用邸近くの旅館でした。この旅館の場所は分かっているのですが、旅館の名前がはっきりしていません。書いてある本によって違うのです。今回は柳原一日さんの書かれた「緑風閣の一日 文人の素顔」からです。
「…昭和六十一年のある日、知人が毎日新聞の「砂時計」というコラムを切り取って送ってくれた。当時の熱海市立図書館の館長である小林米男氏が書いたものだった。…
…小林氏の文中には、十月二十五日に単身熱海に来た太宰は、八百松という小さな宿屋に十二月六日まで滞在していたが、そこを一カ月ほどで追い出され、檀の行ったときには海岸通りの村上旅館にいた、とあり、『続・熱海風土記』では、太宰が泊まっていた旅館は馬場下の八島館とされ、「小説内で碧魚荘となっていた緑風閣」の写真が掲載されている。…」。

 山田兼次氏の「続 熱海風土記(昭和54年11月)」では、太宰が最初に宿泊した旅館名は「馬場下の八島館」と書かれています。熱海市立図書館の館長である小林米男氏(昭和61年)は上記の通り「八百松」と書いています。太宰治研究者の長篠康一郎氏は昭和56年に「八百松」と書いています。熱海市立図書館の館長である小林米男氏は後に「熱海と文学者」という本を出版(平成元年)されています。この本では当然ですが「八百松」となっていました。太宰が熱海に来た日付ですが、上記には10月25日と書いていますが、11月の間違いだとおもいます。

写真は旅館八百松(旅館八島館)跡です。この場所は長篠康一郎氏の写真と「続 熱海風土記(昭和54年11月)」により判明しました。詳細の場所は写真の小道を入った右側です。

「旧村上旅館」
<村上旅館>
 ここからは檀一雄の「小説 太宰治」からです。太宰は旅館八百松(旅館八島館)を追い出され、海岸近くの村上旅館に移ります。檀一雄が訪ねたのはこの村上旅館でした。
「… その小さい、太宰の宿は難なくわかった。
 女中に取り次ぐと、間もなく、太宰が如才なく降りて来た。嬉しいようだった。
「ああ、檀君」
 何処かへ出掛ける処なのか、ラクダの上等のモジリを着込んでいた。
「奥さんから、金をことづかって来たんだよ」
「そう、まあ、あがれよ」
と、太宰は先に立って階段を上がっていった。
 海の見える部屋だった。海の反対側のところにもう一間あり、そこへ机を置き、その上に例の通り、朱線の原稿用紙の中央にきっちりと古びた万年筆がのせられていた。しかし、何も書かれている様子はない。…」

 村上旅館は国道135号線沿いの初川橋の傍ですから、当時は海のすぐ傍だったとおもいます。現在は海側に建物が建ち、村山旅館からは直接海を直接見ることは出来ません。

写真は現存する旧村上旅館です。建物はそのままのようです。建物の前の松は昔のままで、”太宰治の松”と呼ばれているそうです。

「緑風閣」
<緑風閣>
 ここも檀一雄の「小説 太宰治」からです。
「…談笑しながら、三人は海岸の道を上がっていった。トンネルを越えると例の(ちょっと待て)の木札が立っている、断崖の淵である。碧魚荘はその手前の海ぎしの上に建っていた。太宰は前に来たことでもあるのか、つかつかと這入り込んで、真下に海の見下ろせる、料理場の中に歩いていった。調理場は、丁度バーの風に囲われていて、即席のてんぷらが揚げられるようだった。高級の小料理屋風である。…
…「いくら? お勘定」と、太宰が言うと、「へえ、有難うございます。二十八円七十銭」
 やっぱり、と私はさっと青ざめたが、さすがに太宰の血の気も失せてゆくようだった。…」

 太宰と二人は伊東へ向かう道を登っていきます。”碧魚荘”と書いているのが「緑風閣」のことです。”トンネルを越える”と書いていますが、現在の錦ヶ浦トンネルは少し先になります。檀一雄は初代さんから70円預かってきましたが、28円払うと残金では太宰の借金は払えなくなってしまいます。それにしても天麩羅が28円とは、ものすごく高いです。

 この後数日して太宰は「檀君、菊池寛の処に行ってくる」と言って、熱海を離れます。檀は太宰の戻りを待ちますが、幾日経っても戻ってきません。檀は仕方がなく、付け馬を伴って荻窪の井伏宅に向かいます。
「… 荻窪の駅を降り、清水町に出掛けていった。
「御免下さい。太宰を、御存知ありませんでしょうか?」
 「ああ、見えてますよ」
「います?」と、自分でも厭な声だった。
「檀さん、ですよ」と奥さんが座敷の方に声をかけられた。
 「ああ、檀君」
 太宰の狼狽の声が聞こえてくる。私は障子を開け放った。
「何だ、君。あんまりじゃないか」と、私は激怒した。いや、激怒しなければならない、其場の打算が強くきた。
 太宰は井伏さんと、将棋をさしていた。その儀、私の怒声に、パラパラと駒を盤上に崩してしまうのである。
 指先は細かに震えていた。血の気が失せてしまった顔だった。オロオロと声も何も出ないようである。…」

 太宰の性格を良く表しています。

写真の左側のビルが現在の緑風閣です。当時と同じ場所かどうかはよく分かりませんでした(大体は当たっているとおもいます)。


太宰治年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 太宰治の足跡
昭和11年 1936 2.26事件 28 2月中旬 芝済生会病院に入院
8月群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
10月13日 江古田の東京武蔵野病院に入院
11月12日 杉並区荻窪の光明院裏の照山荘アパートに転居
11月15日 天沼一丁目238番地の碧雲荘に転居
11月25日 熱海に向かう
12月7日 村上旅館に移る
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 29 3月下旬 群馬県谷川温泉 川久保屋に宿泊
6月 初代と離婚成立
6月21日 天沼一丁目213の鎌滝方に転居
         
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
37 4月 三鷹から妻美智子の実家、甲府市水門町に疎開
7月28日 津軽に疎開
昭和23年 1948 太宰治自殺 40 3月7日 熱海 起雲閣別館に滞在(3月31日まで滞在)
[3月18日 熱海 起雲閣本館に滞在]
4月25日 豊島与志雄宅を訪ねる
4月29日 大宮 小野沢宅に滞在(5月12日まで滞在)



「起雲閣」
<起雲閣>
 昭和23年になると、太宰の体調は悪化してきます。筑摩書房の吉田は何とか太宰に書かせようと熱海の旅館に休養を兼ねて滞在させます。
「…終戦後まもなく執筆への意慾を燃やしはじめたと思われる「人間失格」の当初の構想が、現在我々の前に残されている作品、二十三年五月、死への傾斜のなかで完結された「人間失格」と同じものであったかどうかは疑わしい。ともあれ、太宰さんは力をふりしぼってこの作品にとり組み、最後のいのちをここで燃焼させた。親友古田晃への最後の餞として。
 三月八日から執筆に専念し、十九日に「第一の手記」を脱稿、一旦帰京し、二十一日から再び熱海に戻って稿を継ぎ、二十八日、「第二の手記」までを脱稿、三十一日、迎えにきた古田さんと共に東京に帰った。
 その間、体調はもうかなり悪化していたようである。…」

 太宰は起雲閣別館で執筆を始めますが、どういうわけか、山崎富枝と二人で昭和23年3月18日、起雲閣本館に泊まります。
 
写真は現存する起雲閣本館です。建物もそのままで、太宰が宿泊した部屋もそのまま残っていました。

「太宰治記念碑」
<起雲閣別館>
 太宰と山崎富枝が滞在したのが起雲閣別館です。熱海駅から少し北西に登ったところにありました。
「…太宰さんが、『展望』の連載小説「人間失格」の執筆にかかるため熱海の起雲閣別館に赴いたのは二十三年三月七日である。古田さんと筑摩書房編集部員石井立君、それと山崎富栄さんが同行した。
 「人間失格」の構想がいつごろから太宰さんのなかに芽生えたのかは明らかでないが、すでに二十一年一月二十五日付堤重久氏宛書簡で、「断り切れない義理あるところに、二、三作品を発表しなければならぬが、しかし、四月頃から『展望』に戯曲(注『冬の花火』)を書く。それから或る季刊雑誌に長編『人間失格』を連載の予定なり。その季刊雑誌は、僕がその長編執筆中は、他のどこにも書かずとも僕の生活費を支給してくれるらしい。僕も三十八だからね、四十までには、大傑作を一つ書いて置きたい
よ。」
 この季刊雑誌とは、創元社から発刊される予定だった『創元』のことであろう。…」

 起雲閣別館の建物は既になく、マンション?になっていました。

写真は起雲閣別館跡にある太宰の記念碑です。この記念碑はかなり登った上にありますので、見つけるのが大変でした。歩いて登るのは少し大変です。昔は起雲閣別館へは階段を登って行ったとおもわれます。


太宰治の熱海地図(谷崎潤一郎、永井荷風地図と共用)