●山崎富栄を歩く <太宰治>
    初版2000年12月2日
    二版2009年3月21日
    三版2009年5月30日
    四版2011年3月26日 <V01L01> マ・ソアール美容院を追加

 今週も引き続いて「太宰治を巡って」の改版を継続します。今回は太宰治と玉川上水で入水自殺した「山崎富栄」を歩いてみました。これから改版する太宰治の他のページと重ならないように、未掲載分を中心にしました。


「本郷区東竹町十七番地」
「山崎富栄の生涯」
<本郷区東竹町十七番地>
 山崎富栄については、書かれている本が少なく、結局、長篠康一郎氏の「山崎富栄の生涯」を参考にしながら歩いてみました。長篠康一郎氏は太宰治研究の第一人者だとおもっております。残念ながら平成19年に亡くなられています。一度お会いしたかったです。
「…山崎富栄(一九一九−一九四八)は、大正二年本郷お茶ノ水に全国最初の美容学校である東京婦人美髪美容学校を設立した山崎晴弘、信子夫妻の末娘として大正八年九月二十四日東京市本郷区東竹町十七番地に生まれた。……
 …山崎晴弘は全国最初の美容と洋裁の学校である東京婦人美髪美容学校(通称お茶ノ水美容学校)を創設した斯界の功労者であるが、骨の髄からの教育者として知られ、また氏が大正十二年に発行した校友雑誌「中外美容」は、現在の美容雑誌の前身といえるものである。…」

 山崎富栄の父 山崎晴弘氏は戦前の美容業界では有名な方でした。山崎晴弘氏が設立した「お茶の水美容学校」(正式名称は東京婦人美髪美容学校)は東京では唯一といってもよい美容学校で、多くの有名な卒業生を輩出しています。山崎富栄本人もこの学校を卒業しており、将来はこの学校を背負ってゆくつもりだったでしょう。

写真正面に写っている茶色のビルのところが本郷区東竹町十七番地、山崎富栄生誕の地です。現在の住居表示で本郷二丁目9番地となります(左側のビルは順天堂大学です)。山崎富栄の父親が設立した「お茶の水美容学校」(正式名称は東京婦人美髪美容学校)もこの場所に建てられています。住んでいたところも同じですので、この一帯の地所を広く所有していたものとおもいます。山崎富栄は昭和19年12月に奥名修一と結婚しますが、結婚後の住まいもこの住所になっていました。

「八日市 本町通り」
<八日市 ほんまち>
 昭和20年3月10日の東京大空襲で、お茶の水美容学校(正式名称は東京婦人美髪美容学校)と山崎富栄が経営していた銀座オリンピア美容室は焼失してしまいます。やむをえず、両親と富栄は母親の実家がある滋賀県八日市町に疎開します。
「…二十年三月十日米機の大空襲が敢行され、この夜の東京の街々は一瞬のうちに火の海と化した。軍部に接収された本校は鉄筋のために無事であったが、完成して間もない新校舎は木造のため全焼し、銀座の美容院も同夜罷災した。
 着のみ着のままで焼け出された校長夫妻は、満州から引揚げてきた黒川嘉一郎(山崎信子の弟)の住む滋賀県八日市町に疎開し、被災した学校の跡始末を終えた富栄も、一カ月後に八日市町に向った。…」

 八日市は昭和29年に八日市町から八日市市になっています。JR(当時は国鉄)の駅が無い珍しい市でした。現在は近隣と合併して東近江市になっています。

写真の商店街を少し入ったところに疎開していました。薬局の裏を借りていたようです。訪ねたときが休日で、先方がお休みでお尋ねすることが出来なかったため、確認が取れておりません。商店街の写真も掲載ししておきます。

「マ・ソアール美容院跡」
<マ・ソアール美容院>
 2011年3月26日 マ・ソアール美容院を追加
 山崎富栄は戦後すぐに上京します。最初は鎌倉に共同経営で美容院を開きます。亡くなった三男の妻山崎つたさんとの共同経営でした。
「… 翌二十一年春、つた女史と知人の青木氏との問で共同経営の話がきまり、女史は二人の子供を伴って鎌倉に居を移した。富栄はつた女史が美容院を経営する話が正式にきまると、自分も参加させて欲しいと義姉に頼み、結局三人の共同経営という形で、鎌倉市長谷通りにマ・ソアール美容院を開店する運びとなった。…」
 亡くなった三男の妻山崎つたさんとの共同経営なので、技術的には何の問題も無く、かなり流行ったのではないかとおもいます。

写真の左側に美容院があります。当時の美容院の名前と変わっていて、八日市で開いたお店の名前と同じ名前になっていました。お店はもう無くなっているだろうとおもっていたのですが、調べて見たら昔の名前のお店があったので直ぐに分かりました。

「野川家跡」
野川家>
 山崎富栄は鎌倉からまもなく東京に戻ります。戦前は銀座でオリンピア美容室を開いていたわけですから、両親の期待でもあった東京で自身のお店を持ちたかったのだとおもいます。
「…富栄を三鷹に迎えた塚本女史は、彼女のために野川あやの女に頼み、その二階六帖間の一室を借りてくれた。戦後の住宅払底の時である。女史の適切な措置に、富栄が感謝したのはいうまでもない。塚本女史はもと野川家(下連雀二一二)の隣りに住んでいた関係で、野川アヤノ女とは旧くからの友だちだったのである。…」
 塚本女史はお茶の水美容学校の卒業生であり、三鷹駅前で「ミタカ美容室」を開いていました。山崎富栄はそこで働くわけです。

写真の右側が野川家跡です。現在は永塚葬儀社になっています。塚本女史のお宅は右側の駐車場のところだとおもわれます。この付近のお話は別途詳細に掲載します。


太宰治の三鷹駅前地図(昭和20年代編)


山崎富栄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 山崎富栄の足跡
大正8年 1919 松井須磨子自殺 0 9月24日 山崎晴弘、信子夫妻の末娘として本郷区東竹町十七番地で生まれる
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 4 4月 愛の園幼稚園に入園
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
6 4月 本郷元町小学校に入学
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
12 4月 京華女学校に入学、後に錦秋高等実業学校に転校
昭和11年 1936 2.26事件 16 3月 錦秋高等実業学校を卒業
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
18 銀座にオリンピア美容院を開設
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
24 12月 奥名修一と結婚、夫はすぐにマニラ転勤
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
25 3月 東京大空襲によりお茶の水の学校や銀座のお店が焼失、両親と滋賀県八日市町に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 26 4月 鎌倉で美容院を共同経営(鎌倉に転居)
11月 ミタカ美容室に移る(三鷹の野川家に転居)
12月 進駐軍のキャバレー・ニューキャッスルの美容室を手伝う
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
27 3月 三鷹駅前の屋台で太宰治と出会う
7月 夫 奥名修一の戦死公報が届く
昭和23年 1948 太宰治自殺 28 4月 本郷の豊島与志雄宅を訪問
6月13日 玉川上水に入水自殺



「ミタカ美容室跡」
ミタカ美容室>
 上記にも書きましたが、山崎富栄は鎌倉から三鷹駅前の「ミタカ美容室」に移ってきます。ミタカ美容室を経営している塚本女史はお茶の水美容学校の卒業生であり、昔からの知り合いだったわけです。
「…お茶ノ水美容学校の卒業生で、三鷹に美容院を経営する塚本サキ女史の許で美容学校が再開されるまで暫くの間勤めさせて貰うことになったのである。…」
 昭和20年代の三鷹駅前は平屋か二階建ての建物ばかりであり、ミタカ美容室も二階建ての一階にあったとおもわれます。上記に掲載している「昭和20年代の三鷹駅前地図」を参照してください。

写真の左側、塚本ビルのところが「ミタカ美容室」跡です。少し前までミタカ美容室があったのですが、現在は無くなっています。塚本ビルに”ヘャーグラッシュ三鷹店”という美容室がありますが関係があるのか分かりません。

「ニューキャッスル跡」
キャバレー・ニューキャッスル>
 山崎富栄がアルバイトしていた進駐軍専用のキャバレーはニューキャッスルでした。
「…彼女の腕を見込んだ女史は、進駐軍専用のキャバレーニューキャッスル内に美容室を新設し、富栄を主任として、今野貞子と共に派遣した。富栄にとって、他人の下で働くのは生まれてはじめてのことであったが、昼間は駅前の美容院に勤め、夜はキャバレーで遅くまで働くようになったので、その収入も増大し、戦前に銀座で経営していた美容院を、もう一度自分の手で再建することも、間近いものと思われるまでになっていた。…」
 三鷹市は中島航空機製作所があったため、終戦後、進駐軍が駐留していました。その進駐軍のためのキャバレーがありました。山崎富栄はそのキャバレーの美容室に勤めていたわけです。

右の写真が進駐軍専用のキャバレー・ニューキャッスル跡です。跡というのは、そのキャバレー跡の建物を使って第一中学校ができます。写真はその第一中学校の写真です。三鷹図書館の真ん前になります。現在の第一中学校の写真も掲載しておきます。

「筑摩書房跡」
<筑摩書房> 2009年5月30日 筑摩書房を追加
 昭和22年以降になると、山崎富栄は太宰の主治医として、ピッタリ付いて歩きます。その当時のことを本郷の豊島与志雄が「太宰治との一日」として、太宰の死後、書いています。
「…昭和二十三年四月二十五日、日曜日の、午後のこと、電話があった。
「太宰ですが、これから伺っても、宜しいでしょうか。」
 声の主は、太宰自身でなく、さっちゃんだ。――さっちゃんというのは、吾々の間の呼び名で、本名は山崎富栄さん。
 日曜日はたいてい私のところには来客がない。太宰とゆっくり出来るなと思った。…
……折よく、私のところに少し酒があった。だが、私のこの近所、自由販売の酒類はすぐに売り切れてしまう。入手に甚だ困難だ。太宰はさっちゃんに耳打ちして、電話をかけさせる。日曜日でどうかと思われるが、さほど遠くないところに、二人とも懇意な
筑摩書房と八雲書店とがある。…」
 「太宰治の荻窪を歩く 鎌滝編」でも太宰が本郷の豊島与志雄を訪ねたときのことを掲載しました。良く訪ねていたようです。今回は昭和23年4月ですから、入水自殺する2ヶ月前になります。太宰は相当病んでいたとおもいます。

写真の右側、電信柱のところの角に筑摩書房がありました(現在の住所で本郷五丁目31)。戦前は神保町にあったとおもうのですが、戦後は、戦災で本郷に一時避難していたのだとおもいます。筑摩書房は昭和15年(1940)に東京帝国大学出身の古田晁が創業しており、太宰治とは親しい間柄でした。筑摩書房という名称は、古田晁の故郷である長野県東筑摩郡筑摩地(ちくまち)村(現在の塩尻市)からとったようです。

「八雲書店跡」
<八雲書店> 2009年5月30日 八雲書店を追加
 八雲書店も太宰治と親しくしていたことで有名です。太宰の入水自殺直前に太宰治全集を出版しますが、会社が倒産し、一部未刊となっています。
「…「もしもし、わたし、さっちゃん……。」そう自分でさっちゃんは名乗る。太宰さんが豊島さんところに来ているが、お酒が手にはいるまいかとねだる。お代は原稿料から差引きにして、と言う。――両方に留守の人がいた。八雲から上等のウイスキーが一本届けられ、夜になって、筑摩からも上等のウイスキーを一本、臼井君が自分で持参された。…」
 太宰治全集は昭和27年に創藝社から文庫版として刊行され、完成しています。本格的な全集は昭和30年(1955)に筑摩書房から刊行されたものを待たなければなりませんでした。

右の写真正面に八雲書店がありました(現在の住所で本郷六丁目12)。この辺りは空襲を免れており、筑摩書房もそうですが、多くの会社が戦後一時避難していました。

「永泉寺」
<永泉寺>
 太宰治と玉川上水に入水自殺した山崎富栄の方は、21日 本郷指ガ谷町山崎達夫宅にて密葬を行い、都内文京区関口二丁目の目白坂の途中にある永泉寺に埋葬されました。この目白坂は谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内晴美 が住んでいた目白台アパートへの道です。

正面は永泉寺の正面入口です。裏手の方に墓地があり、その中に山崎家の墓があります。良く探さないと分かりません、丁度墓地の真ん中あたりで、墓石の右側に小さく富栄と書いてあります。このお墓は昭和36年にお茶の水会(お茶の水美容学校卒業生)によって建立されています。

玉川上水への入水までの経緯等は別途掲載する予定です。


山崎富栄関連地図


太宰治の三鷹地図


太宰治の本郷地図