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●青山二郎の東京を歩く -2-
    初版2008年12月13日 <V01L01>

 「青山二郎の世界」の 二回目を掲載します。今回は武原はんさんとの結婚から離婚までを歩いてみました。青山二郎自身は二回目の結婚になります。麻布一の橋にある実家の家作から赤坂台町、花園アパートと転居を繰り返します。正式離婚まで4年間でした。


「花園東公園付近」
花園アパート>
 青山二郎が武原はんと正式離婚する直前に住んだのが花園アパートでした。花園アパートは有名なので良くご存じだとおもいます。花園アパートは「続々 中原中也の東京を歩く」で詳細に書いています。参考図書は村上護の文壇資料「四谷花園アパート」です。
「…青山二郎は経済的に窮すると新宿方面へと移り住んだ。四谷区番衆町には、竹田鎌二郎が住んでいた。彼とは気さくな仲で、青山から頼まれるまでもなく、格好なアパートを捜してきた。それが花園アパートである。
……青山二郎がこの場末のアパートに移り住んだのは、昭和八年九月十五日であった。
……中原中也が住んだ部屋は二号館の二階であった。アパートは全部で三棟あり、一号館と二号館が東西に並び、廊下でコの字につながっていた。三号館は廊下の東側に独立して建っていた。花園アパートは四周を高い塀に囲まれて、出入り口が北と南に二つあった。二号館の住人たちは、南側の門を利用するのが便利で、その南門を入ると、一号館の廊下の突き当たりが青山二郎の住む部屋であった。赤坂の次は、ここが”青山学院”の所在となったところ。…」

 このアパートには文壇の面々だけではなく、さまざまな人種が住みます。高見順の最初の妻だった石田愛子、「坂本睦子」で紹介していますが大岡昇平と関係があった坂本睦子、後に青山二郎と結婚することになる服部愛子等、すごいメンバーです。阿部金剛夫人であった三宅艶子も、昭和十年ごろからよく花園アパートを訪ねています。
「…正直言って、「へんなアパートに住んでる」ときいてはいたけれど、私は花園アパートの玄関では、「どうしてこんなところに青山さんが」と、不思議だったり同情する気分だったりしたのだ。それが一瞬とびらを開くと、ここが新宿のごみごみしたところとは思えない静けさと美しさ豪華さに満ちている。……青山さんは、「今起きてふとん片づけたばっかり。お前たちあんまり早過ぎたよ」とおっしゃる。もう夕方だった。私はふだん夜中が好きで、夜昼をとり違えたような暮らしをしていたので、十一時に起きるんですかと、ひとにあきれられ、肩身のせまい思いをしていたところだ。もう暗くなって、夕方というより夜に近いのに、「こんなに早く来て」としかられるのも面白かった。…」うむ…〜すごい!!

左上の写真付近に花園アパートがありました。現在の花園東公園付近です。戦後の区画整理でこの付近は変わってしまっていますので、推定です。村上護の文壇資料「四谷花園アパート」にも詳細の場所は書かれていせんでした。

「麻布十番四丁目古川付近」
古川>
 前回も記載しましたが、青山二郎が武原はんさんと結婚して初めて住んだのが、一の橋の実家裏にあった古川傍の家作でした。今回は宇野千代の「青山二郎の話」を参照します。
「…同じ年の十一月に、「結婚して、一之橋の長屋に住む。」
と言う一項がある。結婚して、と言うのは、勿論おほんさんと結婚したのであるが、一之橋の長屋と言うのは、普通の長屋と同じように、狭い間取りの家であったかも知れないが、青山さんの生家である麻布新広尾町の同じ敷地内に建てられた家のことである。…」

 一の橋の長屋(家作)は古川の傍にあったようです。現在の古川は余り綺麗ではありません。もう少し川の水が澄んでいればいいのですが、残念です。

写真は現在の古川です。写真の橋は一の橋と二の橋の間にある小山橋です。一の橋の長屋(家作)はもう少し先の左側あったようです。


青山二郎年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 6月1日 麻布区新広尾町一丁目24番地 青山八郎右衞門、きんの次男として誕生
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 8 4月 飯倉小学校に入学
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 麻布中学校に入学
大正8年 1919 松井須磨子自殺 18 4月 日本大学法学科に入学
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚



「赤坂七丁目7番付近」
赤坂台町>
 青山二郎と武原はんさん夫妻が次に住んだのが赤坂台町でした(本当に二人で住んでいたかはわかりません)。赤坂台町の詳細の場所が分かりませんでしたので、二人の結婚のことについて。宇野千代の「青山二郎の話」から引用します。
「…青山さんの戸籍にこの結婚のことが記入されたのは、昭和七年の一月二十日で、武原幸子と婚姻届出となっている。それによると、幸子は明治三十六年二月四日生れであるから、青山さんとは二歳の年下である。昭和五年の十一月に青山さんと結婚したときには、青山さんは二十九歳、おはんさんは二十七歳であったことになる。
 そのときから三年経った昭和八年の一月に、「母病気になる。女房と喧嘩して待合にいる。」と言う一項があり、同じ年の八月二十九日に、「母死去。」とあって、それから半月経った九月十五日に、「新宿花園アパートに移転。家賃三十一円。敷金百五十円。夫婦別居。女房は灘万。」とある。戸籍に武原幸子と協議離婚と記載されたのは、昭和九年十一月二十九日である。…」

 武原はんさんについては「ウィキペディア」を参照すると
『武原 はん(たけはら はん)、1903年(明治36年)2月4日 - 1998年(平成10年)2月5日)は昭和期に活躍した上方舞の日本舞踊家。1985年(昭和60年)に日本芸術院会員、1988年(昭和63年)には文化功労者となった。
徳島県徳島市篭屋町に生まれる。12歳で大阪の大和屋芸妓学校に入学し、山村流の上方舞を修行し、28歳の時に上京して藤間勘十郎や西川鯉三郎に師事、関西の上方舞を東京に根付かせるのに尽力した。…』。
 日本舞踊では有名な方でした。”大阪の大和屋”とは、宗右衛門町にあった大和屋という高級料亭のことです。屋号が大和屋で、坂口楼が正式な名前です。「谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 大阪編」「上司小剣の「鱧の皮」を歩く」を参照してください。この辺りのお話は、武原はんさん自身が書かれた「武原はん一代」、「おはん」に詳しく書かれています。

左上の写真の左側が赤坂台町です。番地が不明のため詳細の場所を特定することはできませんでした。


麻花園アパート、赤坂台町地図


「銀座五丁目14付近」
なだ万>
 武原はんさんが東京で働いていたのが木挽町(銀座)の「なだ万」でした。「なだ万」自体は大阪の料亭で、明治以前からあったようですが、「灘万楼」という名前になったのが明治初期だそうです。戦前、東京に進出してきています。
「…青山さんの日記その他によって、極くたまに散見しているおはんさんの名前を拾って、おはんさんに対する青山さんのそのときどきの気拝を、自分流に推測するだけのことである。昭和五年五月の欄に、「幸子、灘万と来る。」と言う一行がある。幸子と言うのはおはんさんの本名で、灘万と言うのは、その頃、おはんさんが寄寓していた木挽町の料亭の名前である。…」

左上の写真付近に戦前の「なだ万」がありました。現在の銀座五丁目14付近です。武原はんさんは戦後、「なだ万」の女将に復帰しています。

「六本木三丁目付近」
はん居>
 武原はんさんは青山二郎と離婚後、しばらくして「なだ万」に戻ります。昭和14年には芝神明町でお茶屋を開業しますが、上手くいかず、半年で閉めています。戦後は、昭和21年「なだ万」の女将として復帰、昭和28年「なだ万」を退職後、赤坂新町で「はん居」とう料亭を開業します。この年に「おはん」を出版します。昭和38年に「はん居」を六本木三丁目に移します。
「…六本木から狸穴へぬける通りに、「はん居」と書いた標札が、黒板塀の門柱に掛けてある家がある。そこが、地唄舞の舞踊家であるおはんさんのやっている料亭であることは、誰でもが知っていることである。いまから二十五六年前、私が木挽町に住んでいた頃、おはんさんもまた、近くに住んでいて、互いに往き来したことがある。短い間のことであったが、お互いに好きな着物やその他の話などして、或るときには、家に上り込んで、日の暮れる計で帰らないこともあった。…」

写真の茶色いビルが「は:ん居」です。黒板堀がビルになってしまっています。現在も「はん居ビル」となっていますので、関係者の方が経営されているとおもいます。


青山二郎の麻布周辺全図


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