●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 大阪編
    初版2008年8月2日
    二版2008年8月9日 「播半」の所在地を掲載  <V02L01> 

『谷崎潤一郎の「細雪」を歩く』の最終回になります。六回に分けて掲載してきましたが最後に「大阪を歩く」を掲載します。大阪でも心斎橋や宗右衛門町の有名店が登場します。残念ながら殆どのお店が残っていませんでした。


「西宮の播半跡」
西宮の播半>
  ここ大阪でも昭和10年代の有名なお店が登場しています。まず最初は「播半」です。明治十年(1877)頃に心斎橋の北話で創業した大阪でも由緒ある料亭です。西宮から少し山手に入った甲陽園近くにも店を出し、戦前は大阪市内三店と甲陽園の四店で営業されていました。心斎橋の北詰に二店あったりしたのですが、大阪のお店は戦災で全て焼けています。戦後も甲陽園の店だけは残っていましたが、昨年に廃業され、跡地にはマンションが建つ予定になっています(反対運動が盛んです)。「本吉兆」のように戦後大阪市内でお店を開いていればこのご時世でも生き残れたかもしれません。
「…幸子は考えて、まだ滞在が長びくのであったら、旅館へ移る方がよいかも知れない、浜屋と云う家は行ったことはないけれども、そこの女将はもと大阪の播半の仲居をしていた人で、亡くなった父もよく知っていたし、自分も「娘さん」時代から顔見知りの仲であるから、始めての旅館へ泊るようなものではあるまい、…」
  「細雪」に書かれている「播半」は心斎橋北詰のお店だとおもいますが、北話には西と東に二店ありました。本店が東側のお店です。

「はり半本店」
左上の写真は甲陽園の「播半」の写真です。阪急甲陽園駅から北に1.1 Km程の距離で、バス停では山王町が目の前です。料亭にバスで行くわけには行かず、タクシーになります。繁華街からあまりに遠く、これでは人は行かないなとおもいました。現在では場所が悪すぎます。家並みの写真 も掲載しておきます。

左の写真は心斎橋北話を撮影しています(左端が心斎橋筋です)。最も、心斎橋は欄干だけで川は埋め立てられて残っていませんが! 「はり半(播半)本店」はこの写真の中央、白いビルのところにありました。「はり半(播半)洋館」は心斎橋の西側、御堂筋の角 です。三軒目の「はり半(播半)」は戎橋近くの宗右衛門町(写真の左側付近) にありました。「はり半本店」は戦時中、軍の接収にあったりしますが、結局、昭和20年の空襲で大阪の三軒は焼けてしまいます。残ったのは甲陽園の「播半」のみとなります。
「…義兄の本当の腹の中は、大阪で父の法事をすればどうしても華美になり、無駄な費えが懸るのを恐れたのであろうと、幸子は察していた。何しろ父は芸人を晶眉にした人なので、三回忌の時迄は俳優や芸妓などの参会者も相当にあり、心斎橋の播半での精進落ちの宴会は、春団治の落語などの余興もあって、なかなか盛大に、蒔岡家花やかなりし昔を偲ばせるものがあった。それで、辰雄はその時の負担に懲りて、去る昭和六年の七回忌には案内状などもずっと内輪にしたのだけれども、矢張年忌を忘れずにいたり、聞き伝えたりして来る人々が多かったために、予定したように地味にする訳に行かなくなり、最初は料理屋での 宴会を止めてお寺で弁当を出すつもりにしていたのが、結局又播半へ持って行くことになってしまった。…」
  「播半」について調べるには、女将であった乾御代子さんが書かれた「御代女おぼえがき」という本が一番いいとおもいます。下記に「はり半」の所在を記載しておきます。下記の記載以外に江戸橋支店と堀江店があったようです。

播半の所在地
地区 「播半」名 住 所
大阪市 はり半本店 南区末吉橋3-11(戦前の電話番号簿より)
はり半洋館 南区末吉橋4-10(戦前の電話番号簿より)
はり半商店 南区宗右衛門町25(戦前の電話番号簿より)
兵庫県西宮市 播半 兵庫県西宮市甲陽園東山町9(現在の住居表示)



【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)


大阪 「細雪」地図



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
大正9年 1920 国際連盟成立 34 7月 阪神急行電鉄が十三〜神戸(上筒井二丁目)間を開通
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 7月 阪神急行電鉄の十三〜梅田間が開通
昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
昭和11年 1936 2.26事件 50 4月 阪神急行電鉄が三ノ宮まで開通(上筒井線は支線となる)
11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地(倚松庵)に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版




「下寺町付近」
下寺町善慶寺>
  下寺町はお寺の町です。当然ですが「下寺町善慶寺」は架空の名前で実在しません。推定ですが松子夫人の実家での経験が参考になっているのではないかとおもいます。又、下寺町の東側は織田作之助が生まれた谷町筋の生玉前町や生国魂神社があります。
「…案内状の内容は、父の十七回忌と母の二十三回忌の法要を営むに付、来る九月廿四日の日曜日午前十時に下寺町善慶寺へ御来臨願たく、と云う簡単な文面のものであるが、それが届いた数日後に姉は始めて電話を懸けて来て委しい話をした。── 先日貞之助さんが見えた時には、そんなつもりはなかったのであるが、かねてから兄さんは、国民精神総動員などが叫ばれている今日、法事などに無駄な金を費す時代ではなくなったから、お父さんの年忌も今年一緒にやってしまったら、とは云っていたのであること …」
  下寺町の北側にある下寺町交差点にはは織田作之助が書いた「夫婦善哉」の「サロン千代」がありました。詳細は「織田作之助の夫婦善哉を見てください。

左上の写真は松屋町筋から下寺町一丁目付近を撮影したものです。谷崎潤一郎の「細雪」ではこの付近のお寺をイメージしたものとおもわれます。下寺町から西に300mで千日前から難波となります。道頓堀も近く、谷崎潤一郎も歩いたことがあるのではないでしょうか。

「高津宮」
高津の八百丹>
 高津も高津宮として織田作之助の小説には良く登場します。谷崎潤一郎が「細雪」を書いたのは昭和18年から昭和23年です。織田作之助が「夫婦善哉」を書いたのは昭和15年ですから、谷崎潤一郎は知っていたはずです。上手に大阪の文化を使っています。
「…あたしは二年ぶりの大阪であるし、留守の方もお久どんがいてくれるからまあ安心だし、又いつ行けるやら分らないから四五日は泊っていたいけれども、遅くも廿六日には帰らなければ、と云うので、当日のお昼御飯はどうするのん? と尋ねると、さあそのことやが、と云って、お昼はお寺の座敷を借りて、高津の八百丹から仕出しを取ることにした、万事は電話で庄吉に云い付けたので、庄吉がやってくれている筈で、手落ちはないと思うけれども、なお一往幸子ちゃんから、お寺の方と八百丹の方を念を押して置いて貰いたい、人数は大体三十四五人の見込みであるが、料理は四十人前注文してある、お酒も一人あて一二合ぐらいは出ることになっている、お欄番は善慶寺の奥さんや娘さんに手伝って貰うつもりだけれども、お座敷の斡旋は専らわれわれが勤めなければなるまいから、そのつもりで、…」
 高津宮の参道の両側には料理屋(仕出屋)があったようです。多分、「八百丹」はこの料理屋の一軒であったとおもっています。「八百丹」について調べたのですがよく分かりませんでした。何方かご存じの方はご教授ねがいます。

右上の写真は高津宮の正面です。この参道の両側に料理屋があったようです。この先の小高い丘の上にお宮さんがあります。

「本吉兆」
島之内の吉兆>
  「吉兆」というと、今は良いイメージはありせんが、今回は大阪でも「本吉兆」のお話です。問題を起こしたのは「船場吉兆」で、、「本吉兆」は長男が継いだ本家なのです。「吉兆」は元々、新町遊廓の宇和島橋際にあり。戦前に南船場の畳屋町一度移転し、戦後に高麗橋傍に移っています。
「…幸子はその日はただ一と通りに聞いて帰って来たが、丹生夫人と云い井谷と云い、執方も性急で且実行力に富んでいる方なので、多分この話は立ち消えになることはあるまいと思っていると、果してそれから三日後の朝十時頃に井谷から懸って来た。この間の件のことで只今丹生さんから電話があり、今日の午後六時に嶋の内の「吉兆」と云う日本料理屋まで、私にお嬢さんをお連れして来るようにと云うことですが、如何でしょうか…」

 宇和島橋は長堀通りの四ツ橋から西に現在で二筋目(当時は一筋目)にあった橋です。上記に書かれている通り「吉兆」は宇和島橋北話(写真の左から二つ目のビルの手前) にあったとおもわれます。現在は埋め立てられて橋はありません。

左上の写真は高麗橋二丁目の「本吉兆」です。戦後の昭和23年に移っています。戦後ですから古いというイメージはありませんが、建物は料理屋そのものですね。この付近は新しいビルも多いですが、昔ながらの建物も残っています。

「夕陽丘女学校跡」
夕陽丘女学校>
 大阪でも古い方に入る女学校です。松子婦人は何処の卒業だったかと調べたのですが、よく分からず、調査の上、追加改版します。
「…幸子は丹生夫人を呼び出して先方のことをあれこれと尋ねて見た。それで、その人は橋寺福三郎と云い、静岡県の出身で、兄が二人あり、その兄たちも皆医学博士であること、独逸に留学したことがあること、住宅は大阪の天王寺区烏ヶ辻に借家していて、現在は娘と二人で「ばあや」を使って暮していること、娘は夕陽丘女学校に通っているが、亡くなった夫人に似て器量の美しい、素直らしい児であること…」
 明治39年(1906)に大阪府立島之内高等女学校として開校し、明治42年に大阪府立夕陽丘高等女学校に名前が変わっています。昭和9年に現在地(大阪府立夕陽丘高等学校)に移っていますが、「細雪」で書かれているのは昭和13年の話なので時期的には転居先の大阪府立夕陽丘高等学校の所だとおもわれます。

右上の写真は昭和9年まで大阪府立夕陽丘高等女学校があった所の記念碑です。転居先の天王寺区北山町の大阪府立夕陽丘高等学校の写真 を掲載しておきます。

「道修町」
道修町>
 谷崎潤一郎と薬問屋街の道修町は関係が深いですね。昭和8年に中央公論に掲載された「春琴抄」の書き出しは「春琴、ほんたうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生まれで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。…」とあり、4項目前に説明した「下寺町善慶寺」は「春琴抄」の”市内下寺町の浄土宗の某寺”とほぼ同じバターンを使っています。
「…幸子が、自分の家ではいつも独逸製のヴィタミンB剤とズルフォンアミド剤とを絶やしたことがないのだが、この頃戦争の影響でプロントジールの錠剤や注射液が時々切れて困ることがある、と云うと、自分の会社で作っているプレミールというズルフォンアミド剤の錠剤を是非お使いになって見て下さい、これは多くの国産品のような副作用が絶対になく、効力に於いてプロントジールと変りはないつもりです、それにヴィタミンB剤も会社で作ったのがありますから試して下さい
……その日貞之助は少し早めに事務所を出て堺筋を歩いて行った。会社と云うのは、堺筋から西へ一丁程這入った道修町通りの北側に、土蔵造りの昔風な老舗が多く並んでいる中で、それ一軒だけ近代風な鉄筋コンクリートの建物であるのが直ぐ眼に付いたが、奥から出て来た橋寺は、用件を聞く迄もなく、挨拶を済ますと丁稚を呼んで、これこれの薬とこれこれの薬を幾箱ずつ包んで提げられるようにして持って来るように、と云い付け、ここはお通しするような部屋もございませんから何処かその辺までお供致しましょう、ちょっとお待ちを、と、一旦奥に引っ込んで二三の店員に何事か命じて置いてから、外套も帽子も被らずに出て来た。…」

 ヴィタミンB剤、ズルフォンアミド剤とか、薬の名前の羅列です。当時としてはこのような薬の名前を出すこと自体が新鮮だったのかもしれません。

左上の写真は堺筋からみた道修町二丁目です。上記の会社はここから約108m進んだ右側にあったはずです。現在の丸善薬品の付近だとおもいます。


「中ノ島の朝日ビル」
アラスカ>
 このお店の名前は小説に良く登場しています。朝日新聞社との関係は深く、現在も大阪と東京の朝日新聞社内にレストランを開いています。
「…もうその時分、街でタキシーを拾うのはむずかしくなって来ていたので、橋寺は電話で何処かのガレージからパッカードを呼んだ。そして中之嶋の朝日ビルの角まで来ると、如何です、阪急までお送りしても宜しいですが、お差支えなかったらちょっとお降りになりませんか、と云うのであった。ちょうど時分時なので、アラスカへ誘う気なのだと察した貞之助は、今日も亦饗応にあずかることは重ね重ねで心苦しいけれども、この機会に娘と親しんで見たくもあり、こう云う風にしてだんだん交情が深まるのは願ってもないことでもあるので、ままよと、招きに応じてしまった。で、それから又一時間ばかり、洋食のテーブルを囲みながら漫談を交した訳であったが、今度は娘が加わったので、映画の話、歌舞伎劇の話、亜米利加や日本の俳優の話、女学校の話等々、一層たわいのないことをしゃべっただけであった。…」

右上の写真は朝日新聞大阪本社です。現在もこの13Fに「アラスカ」はあります。

「坂口楼跡」
坂口楼>
  戦前、大阪ミナミの宗右衛門町にあったお茶屋です。屋号は大和屋で、こちらの方が有名です。上司小剣の「鱧の皮」にも登場しています。この辺りは空襲で焼けていますが、戦後もお店を続けられていたようです。現在はビルを建て直されてホテルになっていました(2009.4.15)。
「…「僕昨夜、坂口楼で菊五郎と一緒やった」
「誰が菊五郎呼びやはったん?」
「柴本君が呼んでん」
「あの人、えらい六代目贔屓やてな」
「この間から一遍六代目と飯食うさかい来給え云われててんけど、六代目の奴、なかなか来おれへなんでん。── 」
「この間から一遍六代目と飯食うさかい来給え云われててんけど、六代目の奴、なかなか来 おれへなんでん。── 」
生れつき急勝で、注意力が散漫で、じっと一つ事に身を入れることの出来ない奥畑は、見る物と云ってはせいぜい映画ぐらいなところで、芝居などは辛気臭がってめったに覗かないのであるが、それでいて俳優と交際することを好み、以前金廻りの好かった時代には、しばしば彼等を茶屋や料理屋へ招いたものであった。そんなことから、水谷八重子、夏川静江、花柳章太郎などとは、懇意な仲になっていて、そう云う連中が大阪へ来ると、舞台はロクに兄もしない癖に必ず楽屋を訪問することを忘れなかったが、六代目なども、芸を愛すると云うのではなしに、ただ訳もなく人気役者と知合いになりたいところから、一度誰かに紹介して貰いたがっていたのであった。
妙子がいろいろと尋ねるので、奥佃は得意になって昨夜の坂口楼の座敷の模様を語りつづけ、六代目の口の利き方や冗談の云いっ振などを真似て見せるのであった…」


左上の写真の右側のビルが現在の大和屋跡です。「HOTEL VISTA GRANDE OSAKA」、です(2009.4.15)。

「宗右衛門町の鰻屋 菱富」
菱富>
 こちらも大阪ミナミの宗右衛門町にある鰻屋です。
「…それから中二日置いて、又同じ時刻にやって来て、その日は六時過ぎになっても帰らないので、お春の一存で国道の菱富から料理を取り寄せ、お銚子まで一本添えて出すと、すっかり嬉しがってしまって、九時になってもまだ話している始末であったが、ようよう帰って行ったあとで、お春どん、あんな余計なことせんかてええのんに、と、妙子がえらく機嫌を悪くした。あの人、ちょっとでも優しい顔見せたら何ぼでも図に乗るよってにな、と云うのであったが、でも、そう云う妙子がたった今まで愛想よくあしらっていた後だったので、自分が何で叱られたのやら、お春にはさっぱり呑み込めなかった。妙子が予想した通り、思いの外の優待に味を占めた奥畑は、二三日すると又訪ねて来、夕飯に菱富の料理を食べ、十時になっても帰ろうとせず、しまいに泊って行くと云い出したので、一往電話で幸子の許可を得た上で、窮屈だけれども八畳の間に、病人の床と「水戸ちゃん」の床に並べて、この間じゅう雪子が寝ていた床を敷いて泊め、特にその晩はお春も居残って、これは有り合せの座布団に毛布を被って次の間で寝た。…」
 よく分からないのですが、宗右衛門町の「菱富」の支店が阪神御影駅近くの国道添いにあったとおもわれます。宗右衛門町の「菱富」で聞いてみないと分からないとおもいます(まだ食していません)。

右上の写真左側のビルの右側に正面の両側に「菱富」があります。戎橋の直ぐ側になります。

「みのや保寿堂跡」
みのや保寿堂>
 大阪心斎橋筋の「みのや保寿堂」です。少し前までは営業されていたようですが、現在は無くなっています。
「…五月には独軍が、和蘭陀、白耳義、ルクセンブルグ等に進撃してダンケルクの悲劇を生み、六月には仏蘭西が降伏してコンビエーニュで休戦協定が成立すると云う有様であった。
……なお別便でローゼマリーに絹と扇とを送る旨を追白に書いた。彼女はその草稿を持って翌日ヘニング夫人を訪ねて翻訳を依頼し、又数日後に大阪へついでがあったので、心斎橋筋の「みのや」へ行って舞扇を買い、それをクレプ・ド・シンの生地と一緒に小包便でハンブルクへ出した。…」

 読みは和蘭陀(オランダ)、白耳義(ベルキー)です。白耳義(ベルキー)は読めませんね。

左上の写真正面の右から二軒目に「みのや保寿堂」がありました(ドコモショップの左隣)。現在はすっかり変わってしまっています。

今回で「細雪を歩く」は終了します。まだまだ不十分ですので、順次改版してブラシュアップしてまいります。