●大岡昇平の東京を歩く -4-
    初版2008年5月10日  <V01L02> 
 今週は「大岡昇平の東京を歩く」の四回目を掲載します。大岡昇平は昭和7年3月京都帝国大学を卒業し東京に戻ります。東京で就職もしますが長く続かず、昭和13年11月に神戸の帝国酸素株式会社に再就職します。この昭和7年から昭和13年までの6年間の東京を歩いてみました。

「ウィンゾアー跡」
ウィンゾアー>
今週は「大岡昇平の東京を歩く」の四回目を掲載します。「細雪」も終わっていないのですが、同じタイトルの掲載だと面白くありませんので大岡昇平にもどりました。大岡昇平は昭和7年3月京都帝国大学を卒業し東京に戻ります。東京で就職もしますが長く続かず、昭和13年11月に神戸の帝国酸素株式会社に再就職します。この昭和7年から昭和13年までの6年間の東京を歩いてみました。
「… 京橋を渡って八重洲通の手前の東仲通の横町に「ウィンゾアー」といふ酒場があった。これは私の死んだ女房の弟夫婦にやらせた酒場で、英国の家具を一通り鳩居堂から借りて来て使ってゐたからウィンゾアーといふ名にしたので、「星ケ岡茶寮」も祝って呉れたし「文芸春秋」でも特に書いてくれた。「エスパニョール」や「ブーケ」が出来る直ぐ前の年で、連中が日本橋の「グラウス」から此処に移って来た。我々は誰も彼も三十歳前で中村光夫は未だ現れず、大岡昇平は学校を出たばかりだった。…… 酒場の主人夫婦は音楽学校出で、自家用車に乗って働きに来る女の子がゐたし、伊太利大使夫人の姪といふ美人も遊びに来た。坂本睦子が初めて酒場に出たのが此処で、彼女は未だ十九位だった。高田博厚の姪もゐた。「ウィンゾアー」が出来る迄は新橋の「よし野屋」が溜りで、酒場と言へば日本橋の「グラウス」だった。後、此処からは沢山のマダムが出た。現役では、電通近くの今の「ジルベスター」 のマダムがその一人である。当時はカフェーが全盛だった。菊池寛、永井荷風、岸田劉生などが「タイガー」に現れた。カフェーは、一滴も飲めないでも毎晩通ふのが上客だった。 私は責任上、日に一度は顔を出したが、中でも中原は私塾でも開いた様に「ウィンゾアー」が潰れる迄 (彼が潰したのだが)熱心に通ひ徹した。十二坪ばかりの酒場で、その中三分の二がウィンゾアーの椅子を使った煉瓦敷、その奥は現代風だった。我々が集ったのは奥の方である。暇を見ては小林も来た。河上も酒場に慣れて、段々足まめに来る棟になった。今日出海、中島健蔵、大岡昇平が常連だった。…」
 上記の文は「青山二郎 全文集[上]」に書かれています。坂口安吾か青山二郎の特集で書くべきだったかもしれませんが、「ウィンゾアー」について掲載してみました。坂口安吾が矢田津世子に初めて出会ったのがこの「ウインゾアー」、坂口安吾は「ウインザー」と書いていて読み方が難しかったようです。坂本睦子もこの「ウインザー」に勤めています。大岡昇平が坂本睦子に初めて会ったのはこのお店ではないかとおもいます。

上記に”文藝春秋でも特に書いてくれた”と書いてありましたので探してみました。
「◇通三丁目邦文タイプの横を入るとウインゾアという酒場。場所も場所だが斯んな上品な店は銀座にも珍しい。それだけに静かすぎる。サンドイッチの味なのを食べさせる。開店日は浅い、勉強、勉強。」
文藝春秋(昭和7年7月号)の「目、耳、口」のコーナーに上記の様に書かれていました。探すのがたいへんでした!!

「青山二郎」
左上の写真は銀座通り、左側がブリヂストン美術館ですから、コナカの赤い看板の所を左に曲がった右側のところに「ウインゾアー」があったようです。文藝春秋に書かれている”邦文タイプ”の会社はコナカの赤い看板の所と昭和初期の地図で確認しています。

左の写真は、ちくま学芸文庫の「青山二郎 全文集[上]」です。

 長谷川泰子も「ウインゾアー」について「ゆきてかえらぬ」に書いていました。
「…ちょっと勤めたところでは、ほかに「ウインザー」という酒場があります。そこは青山さんと何かの縁にあたる人がやっていた酒場で、青山さんがここで働いてみたら、と勧めたから、しばらく行って、そこもやめました。私が仕事してないときは、友だちまわりの托鉢みたいなことで、その日その日をつなぎました。 私が銀座の酒場で、一番長く勤めたのは三度目の「エスパニョ−ル」という店でした。そこも青山さんのロききで、「おれたちがいつでも行く酒場があるから、そこに行ってろ」ということで、私はそこに勤めはじめました。昭和九年だったと思います。…」。
 長谷川泰子は子供ができてからこの「ウインゾアー」に勤めだしています。このお店を潰したのは毎日通って喧嘩ばかりしていた中原中也ですから、責任の一端があるかもしれません。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


大岡昇平 東京 -4-



大岡昇平の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居
大正8年 1919 松井須磨子自殺 10 5月 大向小学校に転校
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 12 4月 府立一中は不合格、青山学院中等部に入学
大正11年 1922 ワシントン条約調印 13 2月 中渋谷716番地(松濤二丁目14番地)に転居
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
16 3月 静岡高等学校を受験したが不合格
12月 成城二中に編入
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
17 4月 成城二中が成城高等学校となる
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
18 9月 アテネフランセに通う
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
19 2月 小林秀雄にフランス語の個人教授を受ける
小林秀雄宅で長谷川泰子と出会う
3月 小林秀雄宅で中原中也と出会う
12月 下北沢の別邸に住む
昭和4年 1929 世界大恐慌 20 4月 京都帝国大学文学部文学科入学
4月 左京区東福ノ川丁(黒谷前)に下宿
5月 上京区塔之段今出川上ルに転居
秋 上京区銀閣寺町付近に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 21 1月 荏原郡世田谷町下北沢246番地に転居
4月 母つる死去 左京区浄土寺西田町に転居
昭和6年 1931 満州事変 22 9月頃 都ホテル前のアリゾナで矢田津世子、林芙美子に合う
左京区東福ノ川の貸間に移る
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
23 3月 京都帝国大学卒業
3月 坂口安吾が京都に来る
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
24 夏前 赤坂区溜池2の溜池アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 25 4月 国民新聞社に入社 一年で退社
6月 蒲田区女塚町303に転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 26 3月 国民新聞社を退社
8月 アパートを引き払って信州霧ヶ峰に滞在
9月 青山通り三丁目の神宮アパートに転居
昭和11年 1936 2.26事件 27 3月 北沢の自宅に戻る
3月下旬 鎌倉 米新亭に下宿
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 28 8月 父親死去
246番地の隣のアパート晴風荘に住む
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
29 10月 神戸の帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
30 10月 社内恋愛で上村春江と結婚
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 32 2月 長女誕生
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 34 6月 帝国酸素を退社
7月 長男誕生
11月 川崎重工業に入社
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
35 2月 川崎重工東京事務所に転勤
3月 教育召集を受ける
6月 臨時召集となる
7月 フィリッピンに出征
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 1月 ミンドロ島で米軍の捕虜となる
12月 復員、妻の疎開先の明石市大久保に住む
12月 和歌山の姉と大叔母を訪ねる
昭和23年 1948 太宰治自殺 39 1月 上京
東京都小金井市中町1丁目の富永次郎宅に寄寓
12月 鎌倉市雪ノ下の小林秀雄宅離れに転居
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 40 5月 鎌倉市極楽寺104番地に転居
7月 鎌倉市極楽寺108番地に転居
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定 44 2月 大磯町東町に転居
10月 ロックフェラー財団の給費生として渡米


「下北沢246番地」
下北沢の自宅>
大岡家は昭和5年1月、下北沢246番地に家を新築し転居します。渋谷から下北沢ですから当時としては田舎に引っ込んだという感じですね。
「…それに下北沢の家にいた期間は、昭和五年から八年まで、九年から女と同棲したし、あとは鎌倉ですから。それにたいてい銀座で飲んでて、殆んど家へ帰りませんからね。渋谷や鎌倉みたいに根を下さないんだな。でも全然、あの淋しい郊外の感じを覚えてないってわけじゃないんで、あれは森厳寺という寺、淡島のお灸で有名な寺ですが、真に古墳がありましてね。その地続きの斜面を親父が広く借りて、植木店を作って隠居するつもりだったんです。すると不景気が来た。渋谷の家は売れないから人に貸したんですが、下北沢の家は斜面へ納戸を入れると三階の家ですが、最後の段階で予算を切りつめたから、ひと室が.廻り廊下なしで、ひどく窮屈になった。まだ下北沢の谷が田圃だった頃で、向う側の代田にも家がなかったから、富士が見えた。しかし西日がひどくて、殊にぼくの階下の部屋は夏は暑くて、昼寝もできゃしない。引越した翌年の六年に母が死に、九年に弟が死んで、葬式ばかり出していたし、いい思い出はあまりない。『パルムの僧院』を窓から松ばかり見ながら読んだことぐらいで、いやなことばかり続いた家ですね。 家はいまでもまだありますよ。豪徳寺で叔母の十三回忌のあと、弟夫婦とこっちも夫婦子供連れで前を通ってみたら、女房も娘も、これは豪邸だ、お祖父様はお父様より偉かったんじゃないっていやがるんで、頭へきたけど、結局、当時の金で二万円で売れたんだから、いまなら億かも知れない。五万円かかったそうです。…」
 京王井の頭線は昭和8年(1934)全線開通、小田急線は昭和2年(1928)に全線開通ですから、大岡家は当初は小田急で新宿へ出ていたようです。

左上の写真は森厳寺 の裏のお墓の所から北側を撮影したものです。写真の辺り全体が旧地番246番地となります。上記に家が残っていたと書かれていましたので、探してみました。斜面の三階建の豪邸 で直ぐに分かりました(確認したわけでは無いので推定としておきます)。上記の写真の道を少し歩くと左側に玄関があります。三階建を見るには左側の斜面の下からみるしかありません。

「アパート晴風荘跡」
アパート晴風荘>
大岡昇平は父親が亡くなってから借金を返すため家屋敷を処分します。住むところが無いため、近くのアパートに転居します。
「…青田健一氏が「作家の肖像」に、下北沢の駅の改札口にいた大岡さんの印象を中心に、観念の世界にがんじがらめになって出口もなかった二十代の印象を描いていますが、その下北沢時代のこ自分について、語りにくいかもしれませんが、なにがしかのコメントを伺いたいものです〈吉田氏は「孤独」といっていて、それは言葉の世界に封じこめられたまま、現実を所有できない近代知識人の典型的な青春だと書いていますが。大岡 そんな高尚なことじゃなく、要するに淋しいということでしょう。吉田に会ったのは、親父が死んで、しばらく香臭で暮してた時じゃないかな。下北沢の家の近所のアパートにいた頃、時と処を得ないという感じは、十七、八の時から、ずっとありましたからね。…」
 この下北沢で大岡昇平は出会いが多かった様です。

左上の写真は一つ上の写真の道を150m程歩いたところです。アパートはこの右側あたりにあったのではないかとおもいます(あくまでも推定で詳細の場所はわかりませんでした)。

「溜池2」
溜池アパート>
大岡昇平は昭和8年から二年間、女給Hと同棲しています。
「…今度は大岡さん自身のことですが、大岡さん自身の青春時代にまわりにいた女性についてはどうですか。大岡 それはまあ、よしましょう。小林に会う少し前から酒を飲み、女郎買いに行ってたわけで、素人の女、ことに理屈をいう女は嫌いだったですね。これまでに書いた範囲で言うと、学校を出てからバーのホステスと二年ばかりいっしょにいたことがあります。しかしそんなことはたいしたことじゃないんじゃないですか。ぼくの場合には、殊に戦前はたいして問題はないですよ。鎌倉で三好芝に「お前、よう女と別れられたな、霊はそんな器用なことようせんわ」といわれて、ちょっと参ったけどね。 …」。
 女給はHとしか分かりませんでした。坂本睦子かともおもったのですが、Hではイニシャルがあいません。大岡昇平はこの後、銀座の国民新聞社に就職しますが僅か一年で退社しています。住まいも蒲田、青山と移ります。

左上の写真は溜池交差点から南東にすこし入った所です。溜池アパートは当時の地番で溜池2なのですが、場所が広すぎて詳細のところは分かりませんでした。蒲田については地番が蒲田区女塚町303 と分かっていますので詳細の場所が分かりました。青山については神宮アパートの場所は分かりませんでした。

「国民新聞社跡」
国民新聞社>
 大岡昇平は京都帝国大学を卒業後初めて就職します。
「…あれを書いた頃は国民新聞社の学芸部にいたんですが、ひまな時、ソファーに寝っころがってヴァレリー読んでいたもんだから、論説委員の山浦貫一に怒られちゃってさ、社会部にとばされちゃったんだ。そうするともう朝から晩まで、こき使われて、ものを書く暇も、本を読む暇もなくなっちゃったわけですよ。…」
 仕事を頑張るタイプでは無いですから、いやになったのでしょう、一年で辞めてしまいます。

右上の写真は銀座七丁目3番を電通通りより撮影したものです。写真正面ビル(リクルートG7ビル)の所に国民新聞社がありました。良い場所にありますね。まっすぐ家に帰れません。

「経堂292番地」
姉の家>
大岡昇平は昭和19年2月、神戸の川崎重工から単身で東京に転勤します。その時の下宿が姉の嫁ぎ先でした。
「…大叔母は恐らく父への面当てであろう、ぽんと経堂に家を買ったが、名義まで義兄の名前にしてしまったのは、少し早計であった。 家の価格は三千円であった。…… 十九年の初め、私は東京へ転任になった。家は無論ないので、妻子を神戸へ残して単身赴任である。私は姉の下宿屋へ一時寄寓を申込んだ。 下宿は学徒出陣のあとだから本郷辺の学生宿へ行く気ならいくらでもあったが、私が殊更姉の家を選んだのは、姉の家の様子を一度この眼で見なくてはならぬと思ったからである。問題以来私はたまに上京しても、姉の家へは寄らなかったので、その後のことを、私はすべて姉の口を通じて聞くだけである。お人好しの彼女が義兄を庇って何を隠しているかわからない。もう三年経っている。とにかくこの眼で確かめなくてはならない。 私が表向き提出した住宅難と経済的理由に対して、姉は悲痛な承諾の返事を寄越した。…」。
 大岡昇平の姉は夫と合わず、結局、昭和19年に離婚し、和歌山の大叔母のところに戻ります。

左上の写真は小田急経堂駅の北側、経堂西通りの先の三ツ和会の通りを撮影したものです。大岡昇平の姉の家は写真の右側の角を曲がった先の左側になります(直接の写真、住所は控えさせていただきます)。経堂駅から600m位の距離です。



大岡昇平 東京 -5-