
今週は「大岡昇平の東京を歩く」の四回目を掲載します。「細雪」も終わっていないのですが、同じタイトルの掲載だと面白くありませんので大岡昇平にもどりました。大岡昇平は昭和7年3月京都帝国大学を卒業し東京に戻ります。東京で就職もしますが長く続かず、昭和13年11月に神戸の帝国酸素株式会社に再就職します。この昭和7年から昭和13年までの6年間の東京を歩いてみました。
「… 京橋を渡って八重洲通の手前の東仲通の横町に「ウィンゾアー」といふ酒場があった。これは私の死んだ女房の弟夫婦にやらせた酒場で、英国の家具を一通り鳩居堂から借りて来て使ってゐたからウィンゾアーといふ名にしたので、「星ケ岡茶寮」も祝って呉れたし「文芸春秋」でも特に書いてくれた。「エスパニョール」や「ブーケ」が出来る直ぐ前の年で、連中が日本橋の「グラウス」から此処に移って来た。我々は誰も彼も三十歳前で中村光夫は未だ現れず、大岡昇平は学校を出たばかりだった。…… 酒場の主人夫婦は音楽学校出で、自家用車に乗って働きに来る女の子がゐたし、伊太利大使夫人の姪といふ美人も遊びに来た。坂本睦子が初めて酒場に出たのが此処で、彼女は未だ十九位だった。高田博厚の姪もゐた。「ウィンゾアー」が出来る迄は新橋の「よし野屋」が溜りで、酒場と言へば日本橋の「グラウス」だった。後、此処からは沢山のマダムが出た。現役では、電通近くの今の「ジルベスター」 のマダムがその一人である。当時はカフェーが全盛だった。菊池寛、永井荷風、岸田劉生などが「タイガー」に現れた。カフェーは、一滴も飲めないでも毎晩通ふのが上客だった。 私は責任上、日に一度は顔を出したが、中でも中原は私塾でも開いた様に「ウィンゾアー」が潰れる迄 (彼が潰したのだが)熱心に通ひ徹した。十二坪ばかりの酒場で、その中三分の二がウィンゾアーの椅子を使った煉瓦敷、その奥は現代風だった。我々が集ったのは奥の方である。暇を見ては小林も来た。河上も酒場に慣れて、段々足まめに来る棟になった。今日出海、中島健蔵、大岡昇平が常連だった。…」。
上記の文は「青山二郎 全文集[上]」に書かれています。坂口安吾か青山二郎の特集で書くべきだったかもしれませんが、「ウィンゾアー」について掲載してみました。坂口安吾が矢田津世子に初めて出会ったのがこの「ウインゾアー」、坂口安吾は「ウインザー」と書いていて読み方が難しかったようです。坂本睦子もこの「ウインザー」に勤めています。大岡昇平が坂本睦子に初めて会ったのはこのお店ではないかとおもいます。
上記に”文藝春秋でも特に書いてくれた”と書いてありましたので探してみました。
「◇通三丁目邦文タイプの横を入るとウインゾアという酒場。場所も場所だが斯んな上品な店は銀座にも珍しい。それだけに静かすぎる。サンドイッチの味なのを食べさせる。開店日は浅い、勉強、勉強。」
文藝春秋(昭和7年7月号)の「目、耳、口」のコーナーに上記の様に書かれていました。探すのがたいへんでした!!