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最終更新日:2006年2月21日


●島崎藤村の東京を歩く(第三回)
  初版2001年3月3日 二版2005年2月5日 <V02L02> 05/02/13 湯島新花町の写真を入替

 今週は「島崎藤村の東京を歩く(第三回)」を掲載します。一、二回目から少し時間が経ちましたが、仙台から東京に戻ってきた時と、小諸から東京に戻ってきた時をすこし歩いてみました。(初版からは大幅改版しています)。

 「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり、やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり、わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな、林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は 誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ」は島崎藤村の『若菜集』に書かれています”秋の思”の中の”初恋”です。「まだあげ初めし前髪の」は皆様よくご存知ですね。一見、藤村の作品には貧しさの中に苦さがあり、ひなびた甘さがあるように見えるのですが、このことを嵐山光三郎は「うまい料理を知っている人間のみが、まずい料理をまずそうに書くことができる。まずさのなかにしんしんと冷える悲しさがなければならない・・・恋愛をまずそうに書く達人であり、自分を嫌われ物にして売りつける寝業師・・・貧しい食事に豊かな性欲」と書いています。故に芥川龍之介には「老獪なる偽善者」と言われたりするわけです。でもやっぱり藤村の作品はすばらしいですね

<新片町だより>
 明治32年4月に信州の小諸義塾に赴任、そこで結婚した藤村は、明治38年5月、執筆中の小説『破壊』を完成させるため、家族をつれて再び上京しています。そして西大久保から浅草新片町に転居します。この時代のことを書いたのがこの「新片町だより」です。

左の写真は昭和7年11月発行の春陽堂版の「新片町だより」です。「七月のことであつた。私の今居る家は、種菓子屋の隠居さん夫婦の居たところで、手狭な住居だから、下町の暑にほ表を開けて置かなければやりきれない。で、入口のところへすこしばかり南天を好ゑて見たが、それでもまだ往来から見透かざれるから、その中へ古い簾を掛けて置くことにした。…。」、と新片町の住居のことを書いています。この種菓子屋さんとは「この種菓子屋は家主で浅草下平右衛門町にあった「ますや」をいい、相川氏といった。「三月桃節句」と題すた広告文を同氏のために書いている。…」、だそうです。

<島崎藤村(明治5年(1872)〜昭和18年(1943)>
 明治5年(1872)島崎藤村(本名:春樹)は長野県木曽郡山口村字馬籠で父正樹、母ぬいの四男として生まれます。生家は馬籠宿の本陣・庄屋を兼ねる旧家でした。小学生の時に上京、明治25年には明治女学校の教師となります。北村透谷らと文芸雑誌「文学界」を創刊、明治30年に刊行した第一詩集「若菜集」によって名声を得ます。代表作としては「破戒」「春」「家」「夜明け前」などがあります。昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなります。

島崎藤村の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

島崎藤村の足跡

明治29年
1895
樋口一葉死去
24
8月 本郷森川町に転居、母と長兄の妻子を移す
9月 東北学院に作文教師として赴任
明治30年
1896
金本位制実施
25
7月 東北学院を辞して本郷森川町一番地宮裏に戻る
詩集『若菜集』を刊行
秋 本郷湯島新花町九三番地に転居
明治31年
1897
永井荷風誕生
26
春 本郷湯島新花町九六番地に転居
明治32年
1898
ハワイ併合条約
27
4月 小諸義塾教師として長野県小諸馬場裏に転居
明治38年
1905
ポーツマス条約
33
4月 小諸義塾を辞して東京府南豊島郡西大久保405に転居
明治39年
1906
南満州鉄道会社設立
34
4月 二女孝子、6月に長女緑が相次いで死去
10月 浅草区新片町一番地に転居
明治40年
1907
 
35
9月 佃島 海水館に滞在
明治43年
1910
 
38
8月、四女柳子出生、妻フユは死去
大正2年
1913
孫文が日本に亡命
41
4月 パリに出発
芝二本榎町三番地に留守宅を置く
大正5年
1916
ドイツ海軍が大西洋で武装商船攻撃
44
7月 芝二本榎町三番地の留守宅に帰国
大正6年
1917
 
45
6月 芝区西久保桜川町二番地 風柳館に転居
大正7年
1918
第1次世界大戦終結
46
10月 麻布区飯倉片町三十三に転居

島崎藤村 東京地図



本郷湯島新花町九三、九六番地> 05/02/13 写真を入替修正
 明治30年7月、東北学院を辞した島崎藤村は本郷森川町の母や姉の住んでいる借家に戻ってきます。「…明治二十九年の秋、私は湯島にあった家を更に本郷森川町に移し、そこに母を残して置いて、仙台の方へさみしい旅をした。私は仙台の名掛町の宿で詩作をはじめて、毎日それを東京の星野君宛に送った。私の『若菜集』はそれから一年ばかりの間にわたって『文学界』に分載した。…」。丁度この頃が「若菜集」を出版した頃です。この後、島崎藤村は再び湯島新花町に戻り、すぐにまた近くに転居しています。2年後の明治32年4月には、小諸義塾の教師となって湯島を去っています。

左の写真の右側の辺りが当時の湯島新花町九六番地、現在の湯島二丁目19、20番地です。東京に戻ってからの最初の転居は本郷森川町から湯島新花町九三番地で、次に転居したのが写真右側辺りの湯島新花町九六番地となります。湯島新花町九三番地は少し先を右に曲がって次の右角辺りです。



島崎藤村の小諸を歩く(小諸義塾教師として長野県小諸に赴く)



西大久保四○五番地>
 明治32年4月に信州の小諸義塾に赴任、そこで結婚した藤村は、明治38年5月、執筆中の小説『破壊』を完成させるため、家族をつれて再び上京しています。この西大久保の旧居を藤村に世話したのは、明治学院時代の学友で画家の三宅克巳で、三宅は自身のの著書『思い出づるまま』の中で「私が大久保の静かな植木屋の地内の新築家屋を発見して御知らせして、其所に住まわれることになったが、藤村さんも未だ幼少なお嬢さん達を引連れ、不安の思いで上京される。間もなく引続く不幸が重なり、とうとう大久保の住居も見捨て、今度は賑やかな粋な柳橋の芸者屋町に移転された」と書いています。不幸とは、極貧による栄養失調により三人の娘を次々失ない、妻も鳥目になるというもので、明治39年9月浅草新片町に転居します。島崎家は相当貧しかったようで「破壊」を完成させるための犠牲だったのではないでしょうか。

左の写真が記念碑のある歌舞伎町2−4−11です。記念碑のある通りは職安通りで右側に新宿7丁目の交差点が見えます。左側に少し歩くと三姉妹の当初のお墓があった長光寺があります。現在は馬籠に移されています。


新片町一番>
 島崎藤村は娘を失った西大久保からを離れます。「…明治三十九年の秋、私は西大久保から浅草新片町の方へ住居を移した。そこで新居に移ってから第二の長篇に取りかかった。浅草新片町の住居は隅田川に近く、家の前を右に取れば浅草橋の畔へ出られ、左に取れば柳橋の畔に出られて、横町一つ隔てて神田川の水に添うような位置にあった。あの旧両国附近から大川端へかけては、私が少年時代より青年時代への種々な記憶のあるところで、日本橋浜町の不動新道には恩人吉村氏の故家もあっこんな縁故も深かった上に、手狭ではあったが住心地の好い二階が私の心を新たにさせた。私はあの水辺に近い町中の空の見える新居に移って来たばかりの時のめずらしい心でもって、新片町の往来に面した二階の障子も何となく気分を改めさせるところで、『春』を書きはじめた。もともと私が西大久保の郊外を去ろうと思いたったのも、一年の間に三人まで女の児を失ったその屋根の下には長く暮しかねたので。…」。転居したかった訳が分かりますね。ここで島崎藤村は約七年過ごしますが明治43年8月四女柳子の誕生と引き換えに妻フエを亡くします。

右の写真が島崎藤村が転居した浅草区新片町一番地付近です。転居したのが明治39年10月ですから当然関東大震災(大正12年9月1日)の前で、その後の区画整理や空襲でこの付近は全く変わってしまっています。一筋置いて神田川、左に隅田川なので昔の地図から推測すると現在の柳橋一丁目10番辺りではないかとおもわれます。昔の面影は柳橋のみです。

佃島 海水館跡>
 「今年中に半分を―出来得べくんば三分の二位を書き置く必要より ・・・ 小生は閑静なる境地に身を置くべく考え ・・・ 昨日よりこの海岸にある宿へ引移り申候。この宿は友人にも告げず ・・・ 朝日新聞執筆のことも、未だ世上には発表いたさず候。二階の西隅にある一室にて、寺院の如き閑静と、旅舎の便利とを兼ね候。」と島崎藤村全集の”書簡200”に書かれています。ここに書かれている宿が海水館です。藤村が、『春』執筆の準備から連載を終えるまでの間、明治40年(1907)9月から約1年を過ごしたところです。この「春」は夏目漱石の「坑夫」の後をうけて明治41年4月7日から朝日新聞に135回掲載されます。海水館はまた、小山内薫、市川左団次、三木露風、久保田万太郎、日夏耿之助、竹久夢二ら、文人墨客が次々に集い散じた館でもあったそうです。

右の写真が佃島 海水館の跡地の記念碑です。堤防の向こう側は晴海運河、堤防の上にベイサイドタワーがかすかに見えます。海水館が建てられた頃の佃は人家もまばらで、正面は東京湾から遠く木更津まで見ることができたそうです。海水館の先代は職人気質というか、食べ物、住居に関するやかましさは一通りではなく、温泉もないのに、一日中風呂をわかし、また海に向かってせり出した座敷からは、一日中釣りを楽しむこともできたそうです。

来週は「島崎藤村の東京を歩く(四)」を掲載します。

島崎藤村東京地図 -3-


島崎藤村東京地図 -4-


参考文献】
・冬の家 島崎藤村夫人・冬子:森本貞子、文藝春秋
・群像 日本の作家 島崎藤村:小学館
・新片町だより:島崎藤村、春陽堂
・評伝島崎藤村:瀬沼茂樹、筑摩書房
・新潮文庫大正の文豪:新潮社版(CD-ROM版)
・島崎藤村全集:新潮社
・文学散歩:文一総合出版、野田宇太郎
・新潮日本文学アルバム(島崎藤村):新潮社
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会
・文人悪食:新潮社、嵐山光三郎
・新宿区の文化財 史跡:新宿歴史博物館

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