< 西大久保四○五番地> 明治32年4月に信州の小諸義塾に赴任、そこで結婚した藤村は、明治38年5月、執筆中の小説『破壊』を完成させるため、家族をつれて再び上京しています。この西大久保の旧居を藤村に世話したのは、明治学院時代の学友で画家の三宅克巳で、三宅は自身のの著書『思い出づるまま』の中で「私が大久保の静かな植木屋の地内の新築家屋を発見して御知らせして、其所に住まわれることになったが、藤村さんも未だ幼少なお嬢さん達を引連れ、不安の思いで上京される。間もなく引続く不幸が重なり、とうとう大久保の住居も見捨て、今度は賑やかな粋な柳橋の芸者屋町に移転された」と書いています。不幸とは、極貧による栄養失調により三人の娘を次々失ない、妻も鳥目になるというもので、明治39年9月浅草新片町に転居します。島崎家は相当貧しかったようで「破壊」を完成させるための犠牲だったのではないでしょうか。
★左の写真が記念碑のある歌舞伎町2−4−11です。記念碑のある通りは職安通りで右側に新宿7丁目の交差点が見えます。左側に少し歩くと三姉妹の当初のお墓があった長光寺があります。現在は馬籠に移されています。
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