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最終更新日:2007年2月23日


●「千曲川のスケッチ」の小諸を歩く
 初版2001年6月16日
 二版2005年2月19日
 三版2005年4月10日 
<V01L02> 島崎藤村旧栖の家を追加

 先週に引き続いて「島崎藤村を歩く」を掲載します。東北学院を辞した島崎藤村は明治32年4月、信州北佐久郡小諸町の小諸義塾に教師として赴いています。今週は藤村の小諸と最初の結婚を歩いてみました。

揚羽屋>
  島崎藤村が小諸で良く通っていた一膳飯屋がこの「揚羽屋」でした。「千曲川スケッチ」に実名で登場しています。「私は外出した序に時々立寄って焚火にあてて貰う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処、揚羽屋とした看板の出してあるのがそれだ。私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子を相手にして、石菖蒲、万年青などの青い葉に眼を楽ませながら錯々と着物を造える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹を店頭に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩を渡世にする頭を円めた盲人が居る。駒鳥だの瑠璃だのその他小鳥が籠の中で囀っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。揚羽屋では豆腐を造るから、服装に関わず働く内儀さんがよく荷を担いで、襦袢の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。……次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。」。島崎藤村が書いた店の看板もお店の中に飾ってありました。

左上の写真が”一ぜんめし”です。観光客用に定食としてメニュー化していました。島崎藤村も上記で書いているようにとうふが中心の料理です。またこのとうふが田舎豆腐で、歯ごたえがあり美味しかったです。ただ、このお店は”ソースカツ丼”で有名なようで、そちらも食べてみましたがカツの衣が独特で、ソースの味と合いマッチしてこちらも美味しかったです。因みに一ぜんめしが1,450円、ソースカツ丼が並で700円、上で900円でした。

右の写真が揚羽屋さんです。私が訪ねたときはなにか”ソースカツ丼”が本か、テレビで紹介され後だったとかで凄く混んでしました。約一時間くらい外で並びました。小諸は寒かった!!

<開花楼跡>
  島崎藤村は小諸に赴いた後、秦フユ(冬)と結婚のため東京に戻ります。森本貞子の「冬の家」によると、「…東京の島崎宅は借家の佗び住いであった。しかも新郎春樹は小諸で新世帯を持つのであるから、結婚式は神田明神祠畔の料理屋「開花楼」で挙式することにしていた。当時庶民の結婚式は新郎の家で行うことが多かったのである。……明治十八年発行「東都割烹店通誌」は、「(開花楼は)神田明神祠畔宮本町にあり、高台に位置し、魂々たる三層楼を有し、眺望絶佳にして殊に柳繁の霧々として一天銀世界となるの日、三層に坐して酒を酌むが如き、此楼をおいて他にあらざる所なり(後略)Lと記している。高層建築のなかった時代に本郷台地の三層の開花櫻から眺める月もまた格別だったという。…」と書かれています。秦家は函館の豪商で、秦フユは明治女学院の生徒であり、島崎藤村は以前から旧知の中だったようです。しかし、結婚については秦家が明治女学院に相手探しを依頼し、学校が島崎藤村を紹介したようです。島崎藤村の「家」にもこの結婚式について書かれていました。「春の新学期の始まる前、三吉は任地へ向けて出発することに成った。仙台の方より東京へ帰るから、この田舎行の話があるまで――足掛二年ばかり、三吉も兄の家族と一緒に暮してみた。復た彼は旅の準備にいそがしかった。彼は小泉の家から離れようとした。別に彼は彼だけの新しい粗末な家を作ろうと思い立った。 (ここから四章です)  三吉は発って行った。一月ばかり経って、実は大島先生からの電報を手にした。名倉の親達は娘を連れて、船に乗込む、とある。名倉とは、大島先生が取持とうとする娘の生家である。「来る来るとは言っても、この電報を見ないうちは安心が出来なかった。先ず好かった――実に俺は心配したよ」……田舎の方から引返して来た三吉は、この人達と一緒に、料理屋を指して出掛けた。日暮に近かった。…」。名倉家と書かれているのが秦家のことです。秦家が函館から上京したときに泊まっていた旅館が名倉屋といい、その名前を使ったのだとおもわれます。因みに名倉屋は当時有名な旅館で本店が日本橋、支店が上野駅前にあり、秦家は両方に泊まっていたようです(現在はありません)。”船に乗込む”とも書いていますが、秦家は函館から船に乗って青森から上野の道筋なので、そのまま「家」に書いているのでしょう。また、料理屋は当然、開花楼のことになります。

左上の写真が明神男坂です。この坂道は神田明神の右裏手側になります。当時の開花楼は写真中央やや右側の白いビルの所です。ビルの名前もKAIKAとなっています。お店の方はすぐ近くで新開花として営業しています。

<島崎藤村(明治5年(1872)〜昭和18年(1943)>
 明治5年(1872)島崎藤村(本名:春樹)は長野県木曽郡山口村字馬籠で父正樹、母ぬいの四男として生まれます。生家は馬籠宿の本陣・庄屋を兼ねる旧家でした。小学生の時に上京、明治25年には明治女学校の教師となります。北村透谷らと文芸雑誌「文学界」を創刊、明治30年に刊行した第一詩集「若菜集」によって名声を得ます。代表作としては「破戒」「春」「家」「夜明け前」などがあります。昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなります。

島崎藤村の小諸年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

島崎藤村の足跡

明治30年
1896
金本位制実施
25
7月 東北学院を辞して本郷森川町一番地宮裏に戻る
詩集『若菜集』を刊行
秋 本郷湯島新花町九三番地に転居
明治31年
1897
永井荷風誕生
26
春 本郷湯島新花町九六番地に転居
明治32年
1898
ハワイ併合条約
27
4月 小諸義塾教師として長野県小諸馬場裏に転居
明治38年
1905
ポーツマス条約
33
4月 小諸義塾を辞して東京府南豊島郡西大久保405に転居

小諸駅>
 「小諸はこの傾斜に添うて、北国街道の両側に細長く発達した町だ。本町、荒町は光岳寺を境にして左右に曲折した、主なる商家のあるところだが、その両端に市町、与良町が続いている。私は本町の裏手から停車場と共に開けた相生町の道路を横ぎり、古い士族屋敷の残った袋町を通りぬけて、田圃側の細道へ出た。そこまで行くと、荒町、与良町と続いた家々の屋根が町の全景の一部を望むように見られる。白壁、土壁は青葉に埋れていた。・・・・しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。今でも私は千曲川の川上から川下までを生々と眼の前に見ることが出来る。あの浅間の麓の岩石の多い傾斜のところに身を置くような気がする。あの土のにおいを嗅ぐような気がする。私がつぎつぎに公けにした「破戒」、「緑葉集」、それから「藤村集」と「家」の一部、最近の短篇なぞ、私の書いたものをよく読んでいてくれる君は何程私があの山の上から深い感化を受けたかを知らるるであろうと思う。」は島崎藤村の「千曲川のスケッチ」の”麦畑”と”序文”の一部です。島崎藤村は明治32年(1899)4月、旧師木村熊二の招きで小諸義塾に英語・国語教師として赴任します。同月冬子と結婚、翌年5月長女緑が誕生します。明治38年(1905)3月に小諸義塾を退職するまで、6年間小諸で過ごしています。当初の給料は最初は30〜40円で、最後は経営難から25円になっていたようです。辞めたくなりますね!(夏目漱石が明治28年英語教師として松山中学に赴任した時の給与が80円です。帝大出は高給取りか!)

左の写真は「しなの鉄道」、小諸駅正面(北口)です。懐古園は駅の反対側にあります。信越線が明治21年に開通、北国街道の要所でもあり栄えましたが現在は長野新幹線から外れて「しなの鉄道」の小諸駅となり、淋しい限りです。駅前の商店街も空き家が目立ち、人通りはまばらでした。

懐古園、三の門> 《国重要文化財》
 「…一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋れていた。……旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣に行く隠士風の人もあれば、姉と二人きり城門の傍に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了った。……懐古園内の藤、木蘭(もくれん)、躑躅(つつじ)、牡丹なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。…」、は同じく「千曲川のスケッチ」に書かれている「懐古園」の部分です。「千曲川のスケッチ」は詩というよりは散文で一種の小説ではないかとおもいます。藤村が通った「小諸義塾」は現在の懐古園の入口付近、小諸駅の裏手にあり、上にも書かれていますが学生とたびたび懐古園に行っていた様で、小諸市の 島崎藤村記念館も懐古園の中に作られています。千曲川を見るには上記にも書かれていますが、懐古園の最も奥にある”千曲川旅情の詩碑”がある所の”水の手展望台”まで行く必要があります。そこからの眺めはすばらしいものです(上記にも書かれていますが、千曲川の谷の深さに感激します)。

右の写真は懐古園(小諸城)三の門です。三之門は現在、懐古園の玄関口にあたり、二層、寄棟造、瓦茸の門で、両袖での塀には矢狭間・鉄砲狭間が付けられています。寛保2年(1742年)の「寛保の戌の満水」と呼ばれる大洪水により流失し、現在のものはそれ以降、おそらく明和2、3年(1765、1766年)頃の再建と考えられています。門の正面には、徳川家達(徳川宗家の相続者で、貴族院議長、日本赤十字社長などの重職にあった)の筆による「懐古園」という扇額(槙に長い額)が掲げられていました。

小諸義塾跡>
 「…私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一隅を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠、竹藪などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。…」、と”小諸義塾の校舎”のことを「千曲川のスケッチ」に書いています。”小諸義塾”は、明治26年11月、小諸の小山太郎等の熱意ある要請にこたえて、木村熊二によって誕生した私塾です。木村熊二は、明治初年アメリカに渡リ12年の留学によって近代の西欧文化を身につけた新進気鋭の教育者であり、キリスト教の牧師でした。生徒は、当時高等小学校を卒業し、なお向学の志に燃える近郷の青年で、遠隔の者には寄宿舎を与え寝食を共にしました。その後私立中学校認可を得、やがて島崎藤村等を教師陣に加えて充実した中学校教育へと発展しました。その背景には、町当局や有志、また郡会からの積極的な支援があったわけです。しかし小諸市に商業学校設立の義が起こり、義塾に対する町費の補助が打ち切られることになったため、明治39年”小諸義塾”は、13年間の短い歴史を閉じています。(小諸義塾記念館パンフレットより)

左の写真が小諸義塾後です。小諸駅の裏手になります。この写真の反対側に小諸義塾記念館があります。。平成6年、校舎本館が市に寄贈されたのを機会に旧地から100m程離れた場所に復元して、小諸義塾記念館としています。

島崎藤村旧栖地>
 小諸駅から緩やかな坂を上り、小諸ガス店角を左折した先が馬場裏の旧居です(現在の相生町3丁目)。藤村は明治32年4月、小諸義塾に赴任、その月の下旬に冬子と結婚し、この馬場裏に新居を構えています。藤村28歳、冬子22歳の時でした。住んでいた所は「北国街道に沿ふた本町の裏手にあつて、浅間山から流れて来る二筋の細流に囲続されるやうな位置にあつた。」と「緑葉集」の序説に書かれており、家は「もと士族屋敷の跡、二棟続いた草茸屋根の平家」と「雲」にあり、から松の垣根が結ってあったといわれています。家賃は3円、月給ははじめ30〜40円ぐらいであったそうです。その家つづきの畑を借りて野菜を作り簡素な生活が営まれ、「冬の夜なぞはよく家の柱の凍り裂ける音を聞き乍ら」とも「緑葉集」に書かれており、長野の厳しい寒さが分かりますね。旧居は既にありませんが、すぐそばに昭和28年4月小諸の有志の発起により、有島生馬の筆になる「藤村舊栖地」の碑が建てられていま す。近くには島崎家が使った井戸もあります。(小諸・ 藤村記念館より)

右の写真が島崎藤村の旧宅の碑です。北国街道は別名、北国脇往還とも呼ばれ、中山道追分(軽井沢)で中山道と分かれ小諸、田中、海野、上田、善光寺町、野尻、高田、直江津を通り北陸道高田を結ぶ35里(約140Km)の信州長野を横断する道です。この道は、裏日本と表日本を結ぶ重要な道で、佐渡金山の金の輸送、加賀前田藩の参勤交代の街道や善光寺参拝の道として使われていました。今は国道18号線が北国街道に沿って通っています。

島崎藤村旧栖の家> 2005年4月10日追加
 島崎藤村は明治38年東京市西大久保に転居します。その後、馬場裏の旧居の建物は転々としますが保存のため大正9年佐久市大字前山南に移設されます。昭和49年、島崎藤村生誕100年を記念して解体復元を行い、佐久市前山 貞祥寺に移設されます。説明看板によると、できるだけ当時にちかく復元したそうです。中には入れませんでした。

右の写真が島崎藤村の旧宅です。貞祥寺は佐久市内では有名な名刹ですが、場所が佐久市内からはかなり離れており、私が訪ねたときもほとんど人はおりませんでした。寂しい限りです。

水明楼>
 島崎藤村がよく訪ねたのか水明楼です。「千曲川スケッチ」にも書かれています。「…八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠が見える。千曲川はその向を流れている。……そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚って眺望の好い位置に在る。……水明楼へ来る度に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄に倚りながら恣に賞することが出来る。対岸に煙の見えるのは大久保村だ。その下に見える釣橋が戻り橋だ。川向から聞える朝々の鶏の鳴声、毎晩農村に点く灯の色、種々思いやられる。…」。小諸駅裏から千曲川へ下りる坂道の途中に上記に書かれている”中棚の鉱泉”あります。現在は中棚温泉として中棚荘の中に水明楼があります。

右の写真が水明楼です。当時のままでした。左下が千曲川になります。田舎だからこのような建物が保存できたのでしょう。

次週は東京の最終回を掲載します。

島崎藤村小諸地図

島崎藤村東京地図 -6-


【参考文献】
・冬の家 島崎藤村夫人・冬子:森本貞子、文藝春秋
・新片町だより:島崎藤村、春陽堂
・群像 日本の作家 島崎藤村:小学館
・評伝島崎藤村:瀬沼茂樹、筑摩書房
・新潮文庫大正の文豪:新潮社版(CD-ROM版)
・島崎藤村全集:新潮社
・文学散歩:文一総合出版、野田宇太郎
・新潮日本文学アルバム(島崎藤村):新潮社
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会
・文人悪食:新潮社、嵐山光三郎
・新宿区の文化財 史跡:新宿歴史博物館

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