●谷崎潤一郎の「吉野葛」を歩く (下 その他編)
    初版2013年1月19日
    二版2013年2月21日
    三版2013年3月10日 <V01L01> 追加・更新

 残っていた「谷崎潤一郎の吉野葛を歩く(下 その他編)」を掲載します。今回は主人公の友人”津村”について少し歩いてみました。又、深田久弥が「奥吉野の隠し平」の中で「吉野葛」について書いていますので此方も掲載します。再度、「奥吉野の隠し平」を訪ねてみようかなとおもっています。


「吉野葛」
<谷崎潤一郎「吉野葛」>(共通です)
  奈良の吉野といえば谷崎潤一郎の「吉野葛」が自然に思い浮かびます。本人は「現代小説(当時の)」としてよりは「歴史小説」として書きたかったようです。「吉野葛」の最後に本人も書いていますが””やや材料負け”となってしまったようです。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、 ── 近頃の言葉で云えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。 ── この話は先ずその因縁から説く必要がある。読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民に依って「南朝様」或は「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、 ── 後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。……」

 ここまで読むと、胸踊る後南朝の「歴史小説」となってしまうのですが …‥。私も後南朝にはまってしまってかなりの図書を読破しました(参考図書を見てください)。

左上の写真が谷崎潤一郎の「吉野葛」です。初版は昭和5年(1930)12月に「中央公論」に掲載されています。ですから「吉野葛」を信じれば主人公(谷崎潤一郎?)が初めて吉野を訪ねたのは明治末か大正初めになるわけです。ただ、谷崎潤一郎の年譜によると、本人が吉野を訪ねたのは大正後期以降のようです。谷崎潤一郎の昭和6年は千代婦人と離婚して吉川丁末子と結婚した年です。吉野では有名な桜花壇に泊まって執筆したようです。この旅館は現在でもそのまま残っていました。

【谷崎潤一郎】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)

「奥吉野の隠し平」
<深田久弥 奥吉野の隠し平>
 深田久弥は東京紅団では「堀辰雄の鎌倉・逗子を歩く」と、『太宰治の「狂言の神」を歩く』で二度登場しています。堀辰雄が深田久弥宅の門前で喀血し深田久弥宅で静養したこと、太宰治が鎌倉で自殺しそこなった時のことをそれぞれ書いています。今回は、山登りの話になります。「日本百名山」で有名なので奥吉野も当然書いています。

 深田久弥の「奥吉野の隠し平」からです。
「… 谷川に沿うゆったりした山の背を登って行くと、まばらな立木の間に「尊義親王御墓」という石標があった。青年たちの話では、この谷川のさらに上に、もっと広い台地があったそうだが、前年の伊勢湾台風で崩れてしまったらしい。その地形の変化に彼等もおどろいていた。
 二青年とも隠し平まで来たのは、三、四年ぶりのことだという。八幡平の元気な青年でさえそぅだから、一般の人がここまで訪ねて来ることは滅多にない。以前、たまに都会から来た人もあったが、たいてい、道の峻しさに辟易して、途中で引返したそうである。『吉野葛』の主人公は隠し平を訪ねたことになっているが、おそらくそれは小説上の作為であろう。作者は、自分で実際に見聞した土地については、事細かに描写してあるが、そうでない所はごく簡単に片づけている。
 例えば作中に五色温泉に宿を取ったという一行があるが、事実はそんな宿などない。谷が狭く迫っていて、建物の立つ余裕さえない。だから五色温泉は作者の想像であろう。
 同様に隠し平の描写もしごく簡単で、実際に行った人の筆つきではない。そして次のような文章で補われている。
「しかしいかに南朝の宮方が人目を避けておられたとしても、あの谷の奥は余りにも不便すぎる。『逃れ来て身をおくやまの柴の戸に月と心をあほせてぞすむ』と云う北山宮の御歌は、まさか彼処でお詠みになったとは考えられない。要するに三の公は史実よりも伝説の地ではないであろうか」 私もそう思いたい。しかし今現実に隠し平の土壌の上に立って、連れの青年から、彼のお祖父さんが昔ここで山仕事をしていた時、柄に十二支を彫った見事な短刀を掘り当てた、などという話を聞いていると、やはりここに南朝の後裔の宮居があったと空想していた方が、私のロマンチシズムに適いそうであった。…」


  「吉野葛」を読んでいるとよく分かります。自らが歩いて訪ねて、裏が取れている事柄は固有名詞も含めて詳細に書いています。「五色温泉」については私もまだ訪ねていませんので詳細は分かりません。谷崎潤一郎は「吉野葛」のなかで、この辺りを廻ったと書いています。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…翌朝、津村と私とは相談の上、暫くめいめいが別箇行動を取ることに定めた。津村は自分の大切な問題を提げて、話をまとめて貰うように昆布家の人々を説き伏せる。私はその間ここにいては邪魔になるから、例の小説の資料を探訪すべく、五六日の予定で更に深く吉野川の源流地方を究めて来る。第一日は国栖を発し、東川村に後亀山天皇の皇子小倉宮の御墓を弔い、五社峠を経て川上の荘に入り、相木に至って一泊。第二日は伯母ケ峰峠を越えて北山の荘河合に一泊。第三日は自天王の御所跡である小橡の龍泉寺、北山宮の御墓等に詣で、大台ケ原山に登り山中に一泊。第四日は五色温泉を経て三の公の峡谷を探り、もし行けたらば八幡平、隠し平までも見届けて、木樵りの小屋にでも泊めて貰うか、人の波まで出て来て泊まる。第五日は人の波から再び相木に戻り、その日のうちか翌日に国楢へ帰る。 ── 私は昆布家の人々に地理を尋ねて、大体こう云う日程を作った。…

私も予め覚悟はしていた。それで四日目には少し日程を変更して五色温泉に宿を取り、案内者を一人世話して貰って明くる日の朝早く立った。…」


 谷崎潤一郎はこの後、”三の公”へ向ったと書いています。「吉野葛」が中央公論に掲載されたのが昭和5年12月ですから、当時の谷崎潤一郎が”三の公”へ行ったとは到底おもえません。

「吉野の川上」
 もう一人、谷崎潤一郎が奥吉野を訪ねたかについて書いている人がいました。

 白洲正子の「かくれ里」の中の「吉野の川上」からです。、
「…先日、考古学の末永雅雄先生にお目にかかった時、偶然その話をすると、昔、先生が宮滝遺跡を発掘しておられた頃、取材にみえた谷崎さんと出会った。「どんぐり眼の、ずんぐりした人で、川向うの旧家へ初音の鼓というのを見に来ていた。はじめは誰だかわからなかったが、さすがにどっしりと、腰をすえたような所があり、何か持っている人だと思ったが、後で聞いたら、それが谷崎さんだった」。モデルになった「津村」も一緒であった。が、谷崎さんが行ったのは、たぶん宮滝あたりまでで、川上村まで入ったことはないように記憶している…」

 やはり川上村へは訪ねていません。又”モデルになった「津村」も一緒であった”と書いていますが、津村のモデルは友人の妹尾健太郎ではないかと云われています。もう少し調べてみる必用がありあそうです。

右上の写真が朝日新聞社版「深田久弥 山の文庫5 山さまざま」です。この中に「奥吉野の隠し平」が書かれています。

右の写真が白州正子の講談社学芸文庫版「かくれ里」です。この中に「吉野の川上」が書かれています。



奈良県、大阪府全体地図



「島之内の質屋」
<津村の家は島の内の旧家>
 2013年2月21日 写真を入替
 主人公の友人 津村の実家は大阪の中心部 島之内の質屋でした。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…彼と私とは東京の一高時代の同窓で、当時は親しい間柄であったが、一高から大学へ遭入る時に、家事上の都合と云うことで彼は大阪の生家へ帰り、それきり学業を廃してしまった。その頃私が聞いたのでは、津村の家は島の内の旧家で、代々質屋を営み、彼の外に女のきょうだいが二人あるが、両親は早く残して、子供たちは主に祖母の手で育てられた。そして姉娘は夙に他家へ縁づき、今度妹も嫁入り先がきまったについて、祖母も追い追い心細くなり、枠を側へ呼びたくなったのと、家の方の面倒を見る者がないのとで、急に学校を止めることにした。「それなら京大へ行ったらどうか」と、私はすすめてみたけれども、当時津村の志は学問よりも創作にあったので、どうせ商売は番頭任せでよいのだから、暇を見てぽつぽつ小説でも書いた方が気楽だと、云うつもりらしかった。…」

  津村の家がある”島の内”とは、東を東横堀川、西を西横堀川、南を道頓堀川、北を長堀川に囲まれた地域で、人工の堀川開削によってできた島の内側であることから島之内と呼ばれていました。(ウイキペディア参照)
・東横堀川:1585年もしくは1594年完成。現存。阪神高速1号環状線南行きの高架。
・西横堀川:1617年完成。1962年埋立。阪神高速1号環状線北行きの高架。
・道頓堀川:1615年完成。現存。
・長堀川:1622年完成(既存の小河川を拡幅したとも言われる)。1964年埋立(四ツ橋以西は1970年埋立)。

左の写真は島之内にある質屋です。現在、島之内ではここの一軒のみのようです。



大阪市内中心部



「葛の葉稲荷」
<葛の葉稲荷>
 2013年3月10日 写真を追加
 谷崎潤一郎の小説に大阪の中心部から遠く離れた葛の葉稲荷が何故登場するのかとおもったら、歌舞伎で『葛の葉物語』の舞台となった所だそうです。やはり谷崎潤一郎の知識の範囲だったわけです。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…自分は信田の森へ行けば母に会えるような気がして、たしか尋常二三年の
頃、そっと、家には内証で、同級生の友達を誘って彼処まで出かけたことがあった。あの辺は今でも南海電車を降りて半里も歩かねばならぬ不便な場所で、その時分は途中まで汽車があったかどうか、何でも大部分ガタ馬車に乗って、余程歩いたように思う。行ってみると、楠の大木の森の中に葛の葉稲荷の詞が建っていて、葛の葉姫の姿見の井戸と云うものがあった。自分は絵馬堂に掲げてある子別れの場の押絵の絵馬や、雀右衛門か誰かの似顔絵の額を眺めたりして、綾かに慰められて森を出たが、…」


  【信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)】
 大阪府和泉市葛の葉町、JR北信太駅の西南約300mの市街地に鎮座する神社です。信太森神社(しのだのもりじんじゃ)、葛葉稲荷(くずのはいなり)などともいわれています。本殿の外に拝殿・神饌所がありし、末社に楠木神社・厳島神社・白狐社を持っています。文学・歌舞伎などで知られる『葛の葉物語』の舞台となった場所で、清明の母・白狐が住んでいたと伝えられています。豊穣・商売繁盛の他、学徳成就・良縁祈願・安産祈願・子宝・夜泣き・交通安全に御利益があるそうです。(ウイキペディア参照)

右の写真は現在の「信太森葛葉稲荷神社」です。JR阪和線の前身である阪和電気鉄道が葛葉稲荷停留場(現北信太駅)を開設したのは昭和7年(1932)です(「吉野葛」を書いた時は無かった)。最も近い南海電鉄の駅は葛葉駅(現在は高石駅)で明治34年(1901)に開設していますから、当時は葛葉駅から葛の葉稲荷へ通っていたわけです。約1.7Kmの距離です(上記には”半里”と書かれている)。”姿見の井戸”の写真も掲載しておきます。”絵馬堂”については神社の方にお聞きしたところ、本殿に入るところにお堂があって、この建物のことではないかと言われていましたが、現在は無くなっているそうです。



大阪府高石市北信太駅付近



谷崎潤一郎の「吉野葛」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
         
大正12年 1923 関東大震災 37 4月〜5月 吉野「桜花壇」に宿泊
大正15年 1925 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 1月〜2月 上海へ旅
4月 吉野観光
10月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園2号に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 45 千代夫人と離婚
10月 吉野「桜花壇」に宿泊し『吉野葛』を執筆
11月 奈良県柏木川上ホテル箔、奥吉野まで自動車
12月 「吉野葛 (上)」を中央公論1月号に掲載
昭和6年 1931 満州事変 46 1月 「吉野葛 (下)」を中央公論2月号に掲載
1月 吉川丁末子と婚約
3月 千代の籍が抜ける
4月24日 丁末子と結婚式を挙げる
5月 和歌山県伊都郡高野町 竜泉院内に滞在
9月 根津家の善根寺、稲荷山の別荘に移る
11月 兵庫県武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在



「くらがり峠」
<くらがり峠>
  大変な峠でした。国道とは到底おもえません。現在でもこんな国道の峠があるんだなと実感したしだいです。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…それから母の家族の中に、姉か妹であるらしい「おりと」と云う婦人のあることが分った。尚その外に「おえい」と云う婦人も見えて、「おえいは日々雪のつもる山に葛をはりに行き候みなしてかせぎためろぎん出来候へば其身にあいに参り候たのしみいてくれられよ」とあって、「子をおもふおやの心はやみ故にくらがり峠のかたぞこひしき」と、最後に和歌が記されていた。
 この歌の中にある「くらがり峠」と云う所は、大阪から大和へ越える街道にあって、汽車がなかった時代には皆その峠を越えたのである。…」


 【暗峠(くらがりとうげ)】
 奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある峠。現在は国道308号及び大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線(重複)が通る。 標高は455m。暗越奈良街道の生駒山地における難所で、つづら折りの少ない直線的な急勾配が続きます。峠の頂上には小さな集落があり、茶店もあります。また、この付近の路面は江戸時代に郡山藩により敷設された石畳となっています。「暗がり」の名称の起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 江戸時代に刊行された『河内名所図会』には、「世に暗峠という者非ならん……(中略)……生駒の山脈続て小椋山という。井原西鶴の『世間胸算用』にはこの峠の近くで追い剥ぎが出たという記述があります。元禄7年(1694)9月9日、松尾芭蕉が大坂へ向かう途中この峠を通った。このとき「菊の香に くらがり登る 節句哉」という重陽の節句にちなんだ句が詠まれたといいます。(ウイキペディア参照)

左の写真は現在のくらがり峠です。石畳なのが分かります。峠には石碑がありました。手前側が奈良側で向側が大阪側です。私は車で大阪側から奈良にぬけましたが、特に大阪府側は、麓から峠まで約2.5kmにわたる勾配で車では大変でした。小型車でも小さい方だったので何とかなりましたが少し大きい車では通れないかもしれません。



くらがり峠付近地図