<谷崎潤一郎「吉野葛」>
奈良の吉野といえば谷崎潤一郎の「吉野葛」が自然に思い浮かびます。本人は「現代小説(当時の)」としてよりは「歴史小説」として書きたかったようです。「吉野葛」の最後に本人も書いていますが””やや材料負け”となってしまったようです。
谷崎潤一郎の「吉野葛」からです。
「…私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年程まえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、今とは違って交通の不便なあの時代に、あんな山奥、
── 近頃の言葉で云えば「大和アルプス」の地方なぞへ、何しに出かけて行く気になったか。 ── この話は先ずその因縁から説く必要がある。読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民に依って「南朝様」或は「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、
── 後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮と云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。……」。
ここまで読むと、胸踊る後南朝の「歴史小説」となってしまうのですが …‥。私も後南朝にはまってしまってかなりの図書を読破しました(参考図書を見てください)。
★左上の写真が谷崎潤一郎の「吉野葛」です。初版は昭和6年(1931)に「中央公論」に掲載されています。ですから谷崎潤一郎が初めて吉野を訪ねたのは明治末か大正初めになるわけです。谷崎潤一郎の昭和6年は千代婦人と離婚して吉川丁末子と結婚した年です。吉野の桜花壇という旅館に泊まって執筆したようです。この旅館は現在でもそのまま残っていました。
【谷崎潤一郎】
明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)