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最終更新日:2018年06月07日

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●荷風 昭和20年 夏 (東京から明石へ)
  初版2000年8月
  二版2004年5月29日
  三版2006年4月22日
  四版2008年11月30日 明石の菅原氏実家跡の写真を追加
  五版2016年8月22日 <V02L01> 明石 菅原氏実家の地番判明

 昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館が消失、都内を転々とした後、再び5月25日東中野のアパートでも空襲を受けています。その後空襲を避けて6月2日に東京を立ち、明石に向かいます。



明石城>
 永井荷風は菅原氏と昭和20年6月3日から12日までの間、明石に滞在します。しかし明石も川崎航空機明石工場が近くにあるため空襲に対しては安全ではなく岡山に向かいます。

 「断腸亭日乗」より(以下同じ)
 「…六月初八、晴、午前七時警報あり姑くにして解除となる、朝飯を食して後菅原君と共に町を歩み、理髪店に入りしが五分刈りならでは出来ずと言ふ、省線停車場附近稍繁華なる町に至らばよき店もあるべしと思ひて赴きしがいづこも客多く休むべき椅子もなし、乃ち去って城内の公園を歩む、老松の枯るゝもの昨夕歩みたりし遊園地の如し、されど他の樹木は繁茂し欝然として深山の趣をなす、池塘の風致殊に愛すべし、石級を昇るに往時の城楼石塔猶存在す、眺望最佳きところに一茶亭あり、名所写真人の土産物を売る、床凡に休みて茶を命ずるに一老翁渋茶と共に甘いものもありますとて一碗を勧む、味ふに麦こがLに似たり、粉末にしたる干柿の皮を煮たるものなりと云、天主台の跡に立ち眼下に市街及江湾を挑む、…」

上記の”省線停車場”とは明石駅のことです。その後明石城を訪ね楼 閣の上から姫路市内と瀬戸内海、淡路島を見たものとおもいます。楼閣の上から見た風景を掲載しておきます。また一茶亭も残っていませんでした。

左上の写真が明石城の楼閣です。元和三年(1617)の築城で明石藩が生まれます。現在は写真の楼閣のみで天守閣は元々建てられて無く写真が全てでした。姫路城に比べれば小さいお城ですがJRと山陽電鉄の明石駅前にありますので庶民の公園といった感じでした。ただ、この城郭から見る瀬戸内海から淡路島は絶景です。荷風は良く見ていますね。


<中野区住吉町 国際アパート>
 昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館が消失、一時滞在していた代々木の五叟邸から4月15日、菅原氏の紹介で東中野駅近くの住吉町23番地にある国際アパートに転居します。

 「…四月十五日 日曜日 晴、東中野のアパートに移らむとて夜具食器の運搬を五叟の子弟に頼み十一時過省線電車にて行く、菅原君の居室にて雑談すること一時間あまり、五叟子自転車にて先に来り子弟の曳く荷車つゞいて来る、夕刻小堀画伯来り話す、夕飯を菅原君の室にて喫する時偶然洋琴家宅氏の来るに会ふ、九時過空襲警報あり、爆音近からず、火の空に映ずる方向より考ふるに被害の地は目黒大森辺なるべし、夜半二時頃警戒解除となる。…」

 しかし、東中野も空襲から逃れることは出来ませんでした。5月25日の空襲で国際アパートも焼失してしまいます。暫く駒場の知人宅に身を寄せますが、菅原氏の勧めで菅原氏の故郷である兵庫県明石に疎開することにします。しかし明石までの切符を手に入れるのにも苦労します。

 「…六月初一、晴、菅原氏日く埼玉県志木町の農家にも行きがたくなりたれば今は其
故郷なる播州明石の家に行くより外に為すべき道なしとて頻に同行を勧めらる。六月二日。…午前八時三たび行くに及びて辛くも駅員より乗車券の交附を受けたり。その手続の不便にかつ繁雑なること人の意表に出づ。我国役人気質の愚劣なること唯これ一驚すべきのみ。」
 
と、今も昔も役人は変わりませんね!やっと明石行きの切符を手に入れて列車に乗ります。

右上の写真の正面辺り(上落合一丁目交差点)に国際アパートがありました。現在の住所で中野区東中野四丁目27−28〜32、当時の住所で住吉町23番地です。

明石の菅原氏実家へ>
 2008年11月30日 写真を更新
 2016年8月22日 菅原氏実家の地番判明
 
 中野区住吉町の国際アパートが空襲で焼けたのが5月25日で、明石に向かったのが6月2日です。

 「…山の手省線にて品川を過ぎ東京駅に至り罹災民専用大阪行の列車に乗る。乗客思の外に雑沓せず、余ら三人皆腰掛に坐するを得たるは不幸中の事なり。午後四時半列車初てプラトホームを離る。……六月初三。…午前六時過京都駅七条の停車場に安着す。夜来の雨もまた晴れ涼風和し郎うたり、直に明石行電車に乗換へ大阪神戸の諸市を過ぎ明石に下車す。菅原君に導かれ歩みて大蔵町八丁目なるその邸に至り母堂に謁す。…」


 菅原氏の実家に入りますが、既に疎開してきている方で満室になっていました。

写真の正面付近に菅原明朗氏の実家がありました(現在の住居表示で大蔵天神町18、当時の住居表示で明石市大蔵町八丁目3408)。もう少し細かく言うと、当時の地番で、大蔵町八丁目3408、3417〜3523となり、写真右側一帯全てとなります。お爺様が明治20年代に取得されたようで、昭和3年には菅原明朗氏(本名:吉治郎)が相続されています。菅原明朗さん本人です。昭和20年代には売却されています。(明石 法務局調査)

西林寺>
 菅原氏の実家に入れないため近くのお寺に向います。

 「…邸内には既に罹災者の家族の来り寓するもの多く空室なしとの事に、三、四丁隔りたる真宗の一寺院西林寺といふに至り当分ここに宿泊することになれり。……西林寺は潅岸に櫛比する漁家の間にあり、書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが牧神の午後
の一詩を思起せしむ、江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に背かず、殊に余の目をよろこぼすものは西林寺の墓地の波打寄する石垣の上に在ることなり…
 
 
と断腸亭日乗に書かれています。現在は埋め立てられて海岸線まで遠くなっており、海水浴場等ができています。今は、明石と淡路島を結ぶ明石大橋が目の前に広がっています。現在の寺の裏の墓地からの写真を掲載しておきます。

右の写真が現在の西林寺です。現在の住所で明石市大蔵町11です。

人丸神社、月照寺>
 6月12日に岡山へ向うまでの間に、菅原氏と荷風は明石市内を散策しています。

「…明石の市街は近年西の方に延長し工場の煙突林立せり、これが為既に一二回空襲
を蒙りたりと云、余の宿泊する西林寺は旧市街の東端に在るなり…」

 明石の西の工場は、川崎航空機明石工場のことです(現 川崎重工明石工場)。主に航空機のエンジンを製作しており、主に飛燕用のエンジンを造っていたようです。昭和20年1月には最初の空襲をうけており、6月9日には26機の空襲をうけています。

「…六月初九、時、午前九時比警報あり、寺に避難せる人々と共に玄関の階段に腰かけてラヂオの放送をきく、忽にして爆音轟然家屋を震動し砂塵を巻く、狼狽して菜園の壕中にかくれ線に志なきを得たり、家に入るに戸障子倒れ砂土狼寿たり、旛弾は西方の工場地及び余が昨日杖を曳きし城跡の公園に落ちたるなりと云…」


 この後も6月22日に再度空襲を受けています。徹底的に航空機工場が狙われたようです。

「漫歩明石神社
を拝し林間の石径を上りまた下りて人丸神社に至る、石橙の麓に亀齢井と称する霊泉あり、掬するに清冷水の如し神社に郊して月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり、海湾の眺望城址の公園に劣らず、石級を下り電車通に至る間路傍の人家の庭に芥子矢車草庚申薔薇の花爛漫たるを見る、麦もまた熟したり、正午過寺に帰る、食後寺の女主人また苺を馳走せらる、」

上記に書かれている人丸神社は現在の柿本神社のことです。また、”月照寺といふ寺あり、山門甚古雅なり、庭に名高き八房の梅あり”も写真を掲載しておきます。荷風は明石にも長くおられませんでした。神戸が6月5日大空襲に会っており、明石市内も時間の問題とされていましたので、それを聞いた永井荷風は岡山に疎開し直す事にしています。断腸亭日乗には「六月十日。晴。日曜日。明石の町も遠からず焼払はるべしとて流言百出、人心恟々たり。と書かれています。滞在わずか一週間一寸、いかに空襲が恐ろしかったかということでしょうか!

左の写真柿本神社の山門です。階段を上った先に柿本神社、月照寺と並んでいます。左上に市立天文科学館のドームが見えます。

次週は荷風の岡山を大幅に改版します。

明石付近地図



【参考文献】
・断腸亭日乗(上)(下):永井荷風 岩波書店
・永井荷風ひとり暮し:松本はじめ 朝日文庫
・荷風散策:江藤 淳 新潮社
・荷風語録:川本三郎 岩波書店
・荷風と東京:川本三郎 都市出版
・永井荷風の東京空間:松本はじめ 河出書房新社

【交通のご案内】
・西林寺:山陽電鉄「大蔵谷駅」下車 徒歩5分

【見学について】
・西林寺:兵庫県明石市大蔵町11番22号

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