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最終更新日:2018年06月07日


●田中英光を歩く 三鷹編
  初版2005年3月26日 <V02L01>

 去年からお約束していた「田中英光を歩く」を掲載します。調べるのに時間がかかってしまいました。最初の掲載は太宰治の墓の前で自殺したその一日を追ってみました。


太宰治の墓>
 田中英光というと、太宰ファンなら誰でもが知っている名前ですが、初めて聞く方も多いのではないかとおもいます。下記の紹介文を読んでいただくと分かるのですが、太宰の弟子として有名で、無頼派としては太宰、坂口、織田作の三人に続く存在でした(太宰治の弟子と自称していた)。流行作家として売れたのは愛人との刃傷沙汰(別に紹介します)と、太宰の墓の前で自殺したことで有名になったからです。ここでは野平健一氏に紹介してもらいます。「…太宰治の自殺までは、私は、英光氏の噂を耳にするばかりで、会うことは出来なかった。そうして、太宰治の葬列に加わっている英光氏を見たときは、もうその生活もかなり乱れかけていると見た。作品だけはかなりの数を発表し始めていたのだが。 しかし私には、どういうことになっているのか、よくわからなかった。殆ど一年が過ぎ、英光氏の絶品『野狐』を読んでほぼ英光氏の心の半分を知ったのである。…… 死ぬ半月程前のある日、英光氏は私をたずねてくれて、そのとき「小説新潮」に掲載された「酒場にいる英光」の写真を示し、「自分は、こんな写真まで太宰治の真似みたいになってる」となげいていた。バアの丸椅子の上に、象の碁盤のりみたいに、あぐらをかいている写真である。『さようなら』という作品もつくった。自害した日の午後はわざわざ私を、家にまで訪ねてくれたらしい。私は生憎留守をしていた。留守居の家内に「もう、さようならも書いたし、書くものもない」と言っていたそうである。その上、悪いことに、その日彼の訪ねた人が、誰も彼もみんな出払っていたらしい。田中英光は薄暮の雑木林の中でたった一人で死んだ。そうして私は、偶然、太宰、田中、二故人の遺骸を抱くことになったのであるが、人は評して墓掘り人夫だと言う。…」。野平健一氏は新潮社の編集者で、太宰とはかなり親しかったわけで、その関係で田中英光とも親しくなっていたようです。バーの丸椅子の上での写真というのは林忠彦が撮影したもので、田中英光が頼んで撮影して貰っています。新橋のスダンドバーで撮影したそうです。太宰の写真そっくりですね。(版権の関係で掲載できませんが、「昭和写真 全仕事 3」に掲載されています)

左上の写真は田中英光が自殺した太宰治のお墓です。三鷹の禅林寺にあり、森林太郎(森鴎外)の墓の斜め前にあります。訪ねたことのない方は是非とも一度訪ねられることをお薦めします。

【田中英光】
大正2年(1913)1月10日東京都赤坂区榎坂町に生まれます。早稲田大学在学中に第10回ロサンゼルスオリンピックのボート日本代表選手として参加しています。在学中に友人たちと始めた同人誌「非望」に『急行列車』、『空吹く風』を発表。『空吹く風』は太宰治に好意的に批評されます。昭和10年、早稲田大学を卒業後横浜ゴムに入社します。昭和15年(1940)、「文学界」に『オリンポスの果実』を発表、池谷賞を受賞し文壇に登場します。昭和23年(1948)6月、太宰治自殺に大きな衝撃を受けます。昭和24年(1949)11月3日、三鷹禅林寺の太宰治の墓前で自殺。(あおぞら文庫を参照)

田中英光の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

田中英光の足跡

昭和21年
1946
日本国憲法公布
33
3月 疎開先の静岡県三津浜で共産党に入党、国鉄沼津機関区で活動する
昭和22年
1947
織田作之助死去
中華人民共和国成立
34
3月 共産党を離党
10月 新宿武蔵野館前で山崎敬子と知り合う
昭和23年
1948
太宰治自殺
35
6月 太宰治自殺
昭和24年
1949
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
36
11月 太宰治の墓の前で自殺
<田中英光の三鷹地図>

神田錦旅館跡>
 太宰治の自殺後、田中英光は出版各社の編集者にかなりの量の仕事をさせられます。その中で親身になって面倒をみていたのは宇留野氏でした。「…十月十七日、英光、鳴子温泉より帰る。宇留野元右日記。<家の傍まで車で送らせてきたらしく、群像の編集者ふたりに両側から身体を支えられ、べろべろになっている。足をとられたその酔い方から、アドルムだ、と直感する。怒りが、かっと私の胸を熱くしたが、いまは何をいっても通じまい。すぐまた、ふたりに抱えられるようにして家を出る。神田の錦旅館で群像の原稿 「君あしたに去りぬ」を完成するため。> 二十四日、夜、宇留野宅に両手を傷だらけにして帰宅。英恭宅で暴れ、素手でガラス窓を叩きこわしたという。…」。太宰はパピナール中毒(鎮痛剤)、織田作はヒロポン中毒(覚醒剤)でしたが、田中英光はアドルム中毒(睡眠薬)になっています。なんだかわかりませんが、少しヅヅ違いますね。その頃、滞在していた宇留野氏宅については別途掲載したいとおもいます。

左上の写真の左側二軒目が神田錦旅館跡です。神田橋からすぐの所で、かなり昔に廃業しており、現在は駐車場に変わっていました。当時、講談社の編集者がよく使っていた旅館です。現在の住所で神田錦町一丁目23付近です。

禅林寺>
 禅林寺は森鴎外や太宰治で有名なので、特に説明することはないのですが、田中英光が自殺した状況を記載します。「…"文化の日"十一月三日午後五時ごろ、都下三鷹町下連雀二九六の禅林寺、太宰治の暮前で六尺近い大男が苦もんしているのを、近所の子供が発見し、寺の門前の石屋さんが大男を抱き起してみると、まだ意識は明りょうで、安全カミソリの刃で切った左手首の傷もごく浅い。「しっかりしろ」 というと、「手を切ったからほう帯してくれ。遺書はここにある。近所に住んでいる新潮社の野平健一君に知らせてくれ」 とはっきりいう。生命に別条はないとタカをくくつて、さっそく禅林寺住職木村宜豊さん(七〇)のもとへ担ぎこみ手当てを加えていた。…」。田中英光は師匠である太宰治の墓の前で自殺します。手首を切ったのは大したことはなかったようですが、アドルム(睡眠薬)を300錠とお酒を相当量飲んでいたようです。

右の写真は禅林寺です。お墓はこの裏側にあります。三鷹の駅からは1.3Kmほど。

鈴木産婦人科病院跡>
 昭和24年11月3日、田中英光は死を前にして野平健一、戸石泰一、亀井勝一郎宅を訪ねています。
「…初めに事件を知ったのは、鈴木平三郎氏が鈴木産婦人科病院の病室(離れ。今は婦人会館)に寝泊まりしていた私を大声で探しに見え、「お産婦さんはいるか……」と叫んだからである。「禅林寺で田中エイコという人が自殺した。鈴木病院にいるノヒラという人に知らせてくれと書き置きがあった、と寺の使いが知らせてきた。奥さんはいるか!」 午後四時過ぎ。禅林寺のお使いさんも、平三郎先生も、現場を見てなくて、自殺した人が男か女かも知らなかったのである。殊に平三郎先生は、産院の離れにいる私の妻が、産後の逆上で、禅林寺で自殺したか? と錯覚した。「エイコじゃなくて田中ヒデミツという、大男の小説書きです」「兎も角、禅林寺までいっしょに行こう」平三郎先生がいう。当時、救急車は三鷹市(町)にも一台もなかったのである。電話もなかったのかなア?鈴木病院から禅林寺まで、七、八町ぐらいあったろうか。半分駆け足である。その日、小生は朝から競馬場行き産後の家内が、尋ねて見えた田中英光さんに小生の留守を詫び、二言三言ことばを交わしたらしい。無論、死ぬとは思っていなかったから。しかし、モーローとしてはいた。睡眠薬をもう飲み始めていたのであろう。鈴木病院に訪ねて見える前、吉祥寺の亀井勝一郎さん、それから小生、最後に三鷹の駅前の「鳩小舎」邸である戸石泰一さんの家を尋ねたがいずれも留守。田中さんはガッカリしていたそうだ。ほんとに無念。…」
 三鷹で訪ねた順番は亀井勝一郎(吉祥寺)鈴木産婦人科病院(野平)→戸石泰一(三鷹駅前)禅林寺(自殺)、となります(上記の地図を参照)。野平健一氏は奥様が出産で三鷹の鈴木産婦人科病院に泊り込んでいたようです。戸石泰一宅については「戸石泰一の東京を歩く」を参照してください。

左上の写真、左側の白い建物が鈴木産婦人科病院跡、現在の三鷹婦人会館です。現在の住所で下連雀3−33の路地を入ったところです。

井之頭病院>
 田中英光は野平健一氏と鈴木産婦人科病院の平三郎先生に連れられてすぐ近くの井之頭病院に担ぎ込まれます。「…平三郎先生の現場の判断では、「まだ呼吸をしているから、精神病院へ運ぼう。井の頭病院だ。俺のとこは無理だ」 禅林寺のリヤカーを借り、寝かせたが、兎も角大きい。脚がはみ出して、ひきずるしかない。荒縄で足首を結わえ、宙ずりするしかない。平三郎先生がリヤカーを引っ張り、小生が脚を宙吊り。井の頭病院まで、同じく七、八町ほど。今にして思うと、誰一人、寄って来なかったことの不思議。 祝日の病院はほとんど無人のようだったが、当直の先生の胃洗浄が手際よく、舌さえ巻き込まれなければ助かります、といわれ、一足先に平三郎先生は鈴木病院へ帰られた。小生は一時間ほど、舌を紺子で、看護婦さん数人と交替しながら引っ張っていた。 もうこれで助かります、と看護婦さん。「じゃあちょっと食事に帰ってきます」と小生。その間、学校の同級生だった読売のスクープ・名文の村尾記者に事件を電話で知らせたりした。鈴木病院に帰りつくと間もなく、井の頭病院からお使いの人が来て、「田中さんが、たった今亡くなりました」 ただ唖然。平三郎先生、御世話になりました。…」。周りの方はまさか死ぬとはおもっていなかったようです。

右上の写真が井の頭病院です。三鷹駅付近では一番大きな病院です。

田中家の墓>
 田中英光の葬式は兄の岩崎英恭で行われました。兄には自殺した翌日の朝、警察から死去が伝えられています。名字が兄弟で違うのは英光の方が名前だけの養子へ出されたからです。

遺書は新潮社版「太宰治集」上巻の表紙や扉その他の余白に鉛筆で書かれていました。
「覚悟の死です。どうかぼくの死体、その他恥かしめないように。」
「中野重治さん、間宮さん、とうとう再生できなかったぼくをお笑いください、太宰先生の墓に埋めてください、豊島与志雄さん、花田清輝さん、河上徹太郎さん、できれば選集を編んでください、印税は子供に渡るようにしてください。」
「のり坊(愛人敬子さんの愛称) 元気でクズれずに、お願い。弓子よ、丈夫でいて欲しい。鳴子温泉の新悟ちゃんの処に、弓子とぼくの写真、河北新報のとってくれたものあります。」


友人が田中英光について書いています。

散りゆく命に    花田清輝

 太宰治の墓前に自殺するなど、いささか唯物論者らしからぬ最後だが、たしかに田中英光には、そういう封建的なところがあった。大時代な好みがあった。やはり、不肖の弟子というほかはない。どうやら先生のほうが、弟子よりも、いくらか自殺の仕方もスマートだった。もっとも、心中というのも古風な手だが。……」
。(抜粋です)

左の写真が田中家のお墓です。最初、多摩墓地の岩崎家の墓に埋葬されましたが、後に東京青山立山墓地の田中家の墓に改葬されています。


<田中英光の東京地図>

【参考文献】
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・田中英光愛と死と:竹内良夫、別所直樹 大光社
・田中英光全集:芳賀書店
・小説 田中英光:北村鱒夫、三一書房
・オリンポスの黄昏:田中光二、集英社文庫
・師 太宰治:田中英光、津軽書房

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