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●戸石泰一の東京を歩く
    初版2009年9月29日 <V01L05>

 今回は「太宰治を巡って」の戸石泰一編を掲載します。戸石泰一は東京帝国大学在学中の昭和15年に太宰と親しくなります。昭和17年に入隊、昭和21年に復員しています。戦後は仙台で過ごしており、昭和23年に再度上京するまでは太宰との親交は多くはなかったようです。


「上野駅構内」
<太宰治 「未帰還の友に」>
 戸石泰一は東京帝国大学を半年繰上げで昭和17年9月、卒業しています。翌月の10月1日、第二乙種で仙台の第二師団歩兵第四連隊に入営します。昭和19年1月、スマトラに向かうため、乗船予定の大阪に向かいますが、途中、上野駅で太宰と会うことになります。太宰はこの時の出会いを「未帰還の友に」、として書いています。
「…昭和十八年の早春に、アス五ジ ウエノツクという君からの電報を受け取った。……
…三時間も遅れた。僕は改札口のところで、トンビの両袖を重ねてしゃがみ、君を待っていたのだが、内心、気が気でなかった。……
…ざッざッざッという軍靴の響きと共に、君たち幹部候補生二百名くらいが四列縦隊で改札口へやって来た。僕は改札口の傍で爪先き立ち、君を捜した。君が僕を見つけたのと、僕が君を見つけたのと、ほとんど同時くらいであったようだ。……
…「酒を飲みたいね。」と僕は、公園の石段を登りながら、低くひとりごとのように言った。
「それも、悪い趣味でしょう。」
「しかし、少くとも、見栄ではない。見栄で酒を飲む人なんか無い。」
 僕は公園の南洲の銅像の近くの茶店にはいって、酒は無いかと聞いてみた。有る筈はない。お酒どころか、その頃の日本の飲食店には、既にコーヒーも甘酒も、何も無くなっていたのである。…」

 当時としてはこのような出会いはよくあったのでしょうか。太宰が三時間もよく待ったものです。西郷南州の銅像の傍に当時は三軒ほどのお茶店があったようです(昭和15年の地図)。現在は一軒しか残っていませんでした。

写真は現在の上野駅構内です。長距離列車の発着ホームがこの奥にあります。戸石泰一はこの先の改札口を抜けて来たのだとおもいます。

「森川町 石田方」
<東京帝国大学文学部国文科入学>
 戸石泰一は仙台の第二高等学校を卒業後、東京帝国大学国文科に入学します。下宿先は大学前の森川町百二十番地、石田方に下宿しています。そしてその歳の12月に三鷹の太宰を訪ねます。「太宰治研究 臨時増刊 思い出」からです。
「…そのころの日記があるので、はっきり書けるのだが、僕は昭和十五年十二月十日の夜始めて、先生と逢った。
 その数日前、僕は、先生に、「逢って頂きたい」旨の手紙を書き、「単なる好奇心でなかったら、何時でも来なさい」というような御返事を頂き、興奮して、戀文のような手紙を書いてその日にお訪ねするという手紙を更にさしあげたのだった。…」

 太宰が書いた手紙については、ほとんどが「太宰治全集 12」に残っていますので、戸石泰一宛の手紙を探してみました。
「   二月六日 東京府下三鷹町下連雀一一三より 
    東京市本郷區森川町一二〇 石田方 戸石泰一宛(はがき)
 拝復
 九日においでの由、九日は、ちょっと都合がわるいのですが、八日のおひるすぎあたりは、どうですか。その日だと、都合がいいわけです。勉強してゐますか。はげまし合ってお願ひ致します。        不一。」

 「太宰治全集 12」に掲載されている書簡では、昭和16年2月6日の手紙が一番最初の手紙でした。

写真は戸石泰一が東京帝国大学国文科に入学した時に下宿していたところです(写真の左側)。「群狼 戸石泰一追憶特集号」の年譜に下記のように書かれていました。
「…本郷森川町の素人下宿二階、北向きの四畳半。斜め向うに、昔、啄木が下宿、富士がみえると感激したという木造三階建の蓋平館が見えた。…」
 啄木が下宿していたのは「蓋平館別荘」で現在は「太栄館」となっています。「太栄館」の玄関に啄木の記念碑がありますので直ぐにわかります。上記の写真では、拡大すると右側に「太栄館」の看板が見えます。左側が戸石泰一の下宿ですので、北側の窓から「蓋平館別荘」が見えるわけです。

「荻窪税務署前」
<荻窪へ転居>
 戸石泰一は昭和16年春に荻窪に転居します。三鷹に近づきたかったのだとおもいます。「太宰治研究 臨時増刊 思い出」からです。
「…次の年の春、僕は本郷から荻窪に移ってひんばんに、三鷹をおたずねした。そのころは、だんだん酒を呑むのが窮窟になって来て、五時からでないと、酒を飲ませない仕掛になっていた。その時間が、近ずいて来ると、先生は落着かず、主客ともに話がとだえ勝ちになった。五時少し前になると、先生はサッと立上って、壁のトソビを外すと、
 「一寸、散歩に……。」
 と、半ば僕に、半ば奥さんに云うと、もう外に出ていた。そして、僕が、いつもの事ながら、慌てゝ、奥さんに御挨拶して、露地に出ると、先生は、もう、ずつと前を急ぎ足に歩いて居り、病院の角のところを曲ると、ゆっくりになるのだった。
 その頃、よく行ったのは、
三鷹駅前の「きくや」、「千草」の通りにあるカフェー、鳥居の横町のカフエー、それから、吉祥寺では「てんぐ」(?)などという所であつた。大てい一軒ではすまなかった。…」
 三鷹駅前の「きくや」、「千草」は有名です。「千草」の通りにあるカフェー、鳥居の横町のカフエー、それから、吉祥寺では「てんぐ」はよく分かりません。

写真の右側は荻窪税務署です。この付近は昭和11年から12年にかけて太宰が下宿していたところで、鎌滝や松嵐荘、碧雲荘がすぐ近くにあります。推定ですが、太宰がこの付近を紹介したのではないでしょうか。杉並区天沼一丁目二三四番地U方は荻窪税務署の前の道を入った右側です。まだお住まいのようでしたので、直接の写真は控えさせていただきました。

「佐藤春夫宅(新宮市)」
<佐藤春夫宅>
 太宰は戸石泰一を連れて小石川の佐藤春夫宅を訪ねています。太宰は戸石泰一を誘う葉書を出しています。
「六月二十五日 東京府下三鷹町下連雀一一三より 
 東京市杉並區天沼一ノ二三四 U方 戸石泰一宛
 拝復 貴翰拝誦。二度おいでになったさうで、失禮しました。明日も、用事があって市内に出ますが、でも、
午前九時半に荻窪驛のプラットフォームに君が立ってゐると、それから、ちょっとよいところに案内します。有楽町行の切符を買ふ事。かならず和服。袴をはく事。明朝、君のほうで都合がわるかつたら、二十七日の夜、おいでなさい。二十八日は不在。…」
 太宰の葉書には何処に行くのか書いていません。「太宰治研究 臨時増刊 思い出」には、戸石泰一本人は佐藤宅には行きたくなかったと書いています。大御所の所へは行きたくはないですね。
「…「明日、九時半ごろ荻窪のプラットホームで待っていなさい。いゝ所に御案内致します。但しセルの袴着用のこと。紺絣」、というような意味のはがきを頂き、その指定の服装をして待つていると間もなく、先生も、そのような服装をして現われた。
 佐藤春夫先生の所に行くという。僕はこわいからいやだというのに、いゝよ、いゝよと、無理矢理に小石川の佐藤先生のお宅まで連れて行かれた。
 佐藤先生は丁度文化學院の講演会へ(?)に出かけられるところで、自動車が待ってた。僕達は、あがらずに、そのまま自動車に御一緒に乗って、御茶の水に向つた。
 先生は、佐藤先生に山岸外史さんの結婚式に出て頂きたいという用件で行かれたのであった。
 僕は遠慮して、助手台にのろうとすると、先生は、
 「コレ戸石クン、僕の友人デ……」
 とやゝ口ごもって早口に佐藤先生に紹介され、佐藤先生は、僕をジワッと見て、フンフンとかすかにうなずいたきりにこりともされなかった。僕は、想像していた通り、佐藤先生は大へんこわい人だと思い、助手台で固くなって、身動きも出来ないような気がした。…」

 大御所はお相手がたいへんです。

写真は和歌山県新宮市に移設された佐藤春夫宅です。昨年、新宮市を訪ねたおりに写真撮影をしてきました。なかなか個性的な家です。内部も撮影していますので、二階の一部を掲載しておきます(新宮市は佐藤春夫生誕の地です)。旧居があった小石川にはご親族の方が住まわれているようです。記念碑が門の前に建てられており、ピンク色の門は昔のままでした。

「下連雀三一二番地」
<三鷹へ転居(仙台より)>
 戸石泰一は昭和17年9月、東京帝国大学国文科を半年繰上げで卒業。10月1日、仙台の第二師団歩兵第四連隊に入営しています。10月9日付の太宰治からの葉書には、「タマに死すとも、病いに死ぬな」、と書かれていたそうです(太宰治全集には未掲載で未確認)。その後の太宰との出会いは、昭和19年1月、外地出発時の太宰との上野駅での別れとなります。太宰は戸石泰一との上野での出会いを「未帰還の友に」、として書いていますが、戸石泰一本人は、無事、昭和21年6月復員します。復員後は仙台で河北新報社に勤めています。太宰が昭和21年11月、金木から上京する折に仙台で会っています。その後も時折東京に出てきていたようです。昭和23年6月、太宰の入水の一報で上京し、三鷹の太宰宅に泊り込んでいます。その後のことは、戸石泰一が「五日市街道」の中で、「三鷹下連雀」として書いています。
「…三鷹に住むようになったのは、昭和二十三年の冬近くからだ。その年の六月、にわかな事があって、故郷の町に居た私は、ある出版社から誘いをうけて、上京した。妻は前年、長女を生み、その時二度目の妊娠中だった。焼跡の東京の住宅事情は悪い。が、できるだけ早く住む所を見つけて、彼女たちを呼びよせるという約束だった。…
…三鷹町下連雀三百十二番地。三鷹はまだ市になっていなかった。駅前広場の西よりに斜めに入る道が二本、そのどちらを入っても溝川のある道に突当り、左に回ると、またすぐ広い通りになる。その角が古びた構えの酒屋で、その隣りが、三百十二番地だった。この通りを南に下れば、鴎外の墓所があり、北はすぐ三鷹駅西の大踏切り。駅前広場からは、線路沿いの路と、もう一本南の路も、その大通りに直角に突当っていた。…」

 太宰が亡くなった後に三鷹に住んでいます。やはり”太宰治”のインパクトが大きかったのでしょう。

写真は三鷹通りから下連雀34番地の西北の角を撮影したものです。写真中央が高橋酒屋跡で右側が旧地番で三鷹町下連雀三百十二番地とります。ただ、三鷹通りが拡張されており、戸石泰一が住んだ三鷹町下連雀三百十二番地は道路の上ではないかとおもいます。この場所については、田中英光が自殺する直前に訪ねた所として有名です。

次回は「小山清」を歩きたいなとおもっています。


戸石泰一年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 戸石泰一の足跡
大正8年 1919 松井須磨子自殺 0 1月28日、宮城県仙台市石垣町三番地で生誕
昭和12年 1937 関東大震災 18 4月 第二高等学校文科に入学
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
21 4月 東京帝国大学文学部国文科に入学、森川町百二十番地石田方に下宿
12月 三鷹の太宰治を訪ねる
昭和16年
1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 22 春 本郷から杉並区天沼一丁目二三四番地U方に転居
12月 田中英光に会う
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 23 9月25日 東京帝国大学を半年繰上げで卒業
10月1日 仙台の第二師団歩兵第四連隊に入営
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
25 1月3日 高橋八千代と結婚
1月9日 仙台からスマトラに向かう
1月10日 上野駅で太宰と面会
昭和21年 1946 日本国憲法公布 28 6月 広島県呉に復員、仙台の実家に向かう
9月 河北新報社に入社
11月13日 東京に帰京する太宰一家が仙台に立ち寄る
昭和23年 1948 太宰治自殺 29 2月 宮城県立仙台第一高等学校の教師となる
6月13日 太宰入水、19日遺体発見
(上京し三鷹の太宰宅泊り込む)
11月 北多摩郡三鷹町下連雀三一二番地に転居



太宰治の本郷地図



太宰治の西荻窪地図


太宰治の三鷹駅前地図(戦後編)



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