立原道造は昭和12年の7月と昭和13年の7月に室生犀星一家が軽井沢に避暑に行っている問の留守番として大森区馬込の室生犀星宅(魚眠洞)に滞在しています。この頃の大森区馬込は「馬込文士村」として有名でした。
室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」から”立原道造”についてです。
「… 或る夏、三週間くらい、立原に私の家の留守番をして貰ったことがあったが、その間に私は急用が出来て夕方頃、大森の家に帰った。立原は友人二人と、座敷のまん中に腰を下ろす箱を置き、同じ箱を二つ重ねてテエブルのかわりに拵え、電灯をその上に引きおろして雑談最中であった。いつも椅子に坐っている彼はこんなふうに、座敷の拵えを更めて住んでいた。
立原は私の顔を見ると急いで林檎箱一つを抱え、その友人もまた各々一つを提げると、またたく間にそれらの椅子とテエブルを片づけてしまった。そして畳の上に痩せた膝を揃えて、ぺたんと坐りこむと、笑いをおさえながら、彼は子供のような顔をして言った。
「や、お帰んなさい、ちっとも知らなかった。」
「納屋に藤椅子の一つくらいは、なかったかな。」
「椅子というものは此の家には、一脚もありませんよ。」
「見たか。」
「見た。」
立原もその友人も笑った。若い人が住めば茶の間もわかやいで見え、雑誌とか本とかが鳥のように翼をひろげていた。…」
昭和12年のことか、昭和13年のことかは上記からは判りませんが、立原道造の体調からすると、昭和12年の夏のことかなとおもいます。この頃はまだまだ元気だったようです。
室生犀星のお嬢さんの室生朝子さんが「倖せな詩人の碑に」の中で、立原道造について書いています。
「… ある夏休み、ドウゾウさんは大森馬込区の家を留守番してくれたことがあった。私は大事なビーズのブローチを、鏡の引き出しにおき忘れて来たことを、軽井沢に着いてから気がついた。マッチ箱よりやや小さい、紺地に燕脂の花が浮き出している、ビーズのブローチである。このブローチはなくなりもせず、今でも私の少女の頃の唯一の思い出として、小引出しの綿の中に沈んでいる。浅間山の絵葉書に、ブローチを送ってほしいと、ドウゾウさんに書いて送った。四、五日して私宛の小さい小包を、父は目の前で開けなさいと言った。何故ドウゾウさんから私に小包が届いたか、父はわからないのである。几帳面に紐でゆわかれている小包をほどく私の手元を見る父の顔は、少々こわい表情であった。見馴れているブローチひとつだけが出てきたので、父は機嫌が悪かった。
「小包を作る手間がどれほど煩わしいかというー心とも考えずに、君は勝手にドウゾウ君に小包を頼んだことは、よくないことだ、早速お礼の返事を出しておきなさい。」
と言った。私はドウゾウさんのおかげで、ひと夏中プローチを胸に飾り、得意であった。…」
立原道造が”ドウゾウ”さんと呼ばれています。みちぞう→道造→ドウゾウとなるわけです。ブローチノ件も室生朝子さんのやらせですね。わざとブローチを送って貰ったとおもいます。
★左の写真の右側の建物が室生犀星宅跡です。正確には室生マンションになっています。入口には大田区の記念碑が建てられていますので見て頂ければとおもいます。室生犀星は元々は田端に住んでおり、その頃に堀辰雄が田端の家を訪問したりしていました。関東大震災後の昭和3年に馬込に移り、現在地には昭和7年に家を建てています。この場所の当時の住所は馬込町東三丁目七六三でしたが現在は南馬込一丁目49番10号です。本によっては49番5号と書いてある場合もあるようですが、10号が正しい地番です。地図の見方によっては5号に見えてしまうこともあるようです(地図の上部を正しく北にして地図を見れば正しい地番が分かります)。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)