●立原道造の世界  【東京編V】
    初版2011年7月9日  <V01L01> 暫定版

 「立原道造の世界」を引き続き掲載します。東京編では「立原道造の世界 【東京編U】」として、第三中学校入学から東京帝国大学までを掲載しましたので、今回は昭和12年の石本建築事務所に就職する前後を歩いてみました。




「萬福寺」
<萬福寺>
 立原道造は昭和12年の7月と昭和13年の7月に室生犀星一家が軽井沢に避暑に行っている問の留守番として大森区馬込の室生犀星宅(魚眠洞)に滞在しています。この頃の大森区馬込は「馬込文士村」として有名でした。
 室生犀星の「我が愛する詩人の伝記」から”立原道造”についてです。
「… 或る夏、三週間くらい、立原に私の家の留守番をして貰ったことがあったが、その間に私は急用が出来て夕方頃、大森の家に帰った。立原は友人二人と、座敷のまん中に腰を下ろす箱を置き、同じ箱を二つ重ねてテエブルのかわりに拵え、電灯をその上に引きおろして雑談最中であった。いつも椅子に坐っている彼はこんなふうに、座敷の拵えを更めて住んでいた。
 立原は私の顔を見ると急いで林檎箱一つを抱え、その友人もまた各々一つを提げると、またたく間にそれらの椅子とテエブルを片づけてしまった。そして畳の上に痩せた膝を揃えて、ぺたんと坐りこむと、笑いをおさえながら、彼は子供のような顔をして言った。
「や、お帰んなさい、ちっとも知らなかった。」
「納屋に藤椅子の一つくらいは、なかったかな。」
「椅子というものは此の家には、一脚もありませんよ。」
「見たか。」
「見た。」
立原もその友人も笑った。若い人が住めば茶の間もわかやいで見え、雑誌とか本とかが鳥のように翼をひろげていた。…」

 昭和12年のことか、昭和13年のことかは上記からは判りませんが、立原道造の体調からすると、昭和12年の夏のことかなとおもいます。この頃はまだまだ元気だったようです。
 室生犀星のお嬢さんの室生朝子さんが「倖せな詩人の碑に」の中で、立原道造について書いています。
「… ある夏休み、ドウゾウさんは大森馬込区の家を留守番してくれたことがあった。私は大事なビーズのブローチを、鏡の引き出しにおき忘れて来たことを、軽井沢に着いてから気がついた。マッチ箱よりやや小さい、紺地に燕脂の花が浮き出している、ビーズのブローチである。このブローチはなくなりもせず、今でも私の少女の頃の唯一の思い出として、小引出しの綿の中に沈んでいる。浅間山の絵葉書に、ブローチを送ってほしいと、ドウゾウさんに書いて送った。四、五日して私宛の小さい小包を、父は目の前で開けなさいと言った。何故ドウゾウさんから私に小包が届いたか、父はわからないのである。几帳面に紐でゆわかれている小包をほどく私の手元を見る父の顔は、少々こわい表情であった。見馴れているブローチひとつだけが出てきたので、父は機嫌が悪かった。
「小包を作る手間がどれほど煩わしいかというー心とも考えずに、君は勝手にドウゾウ君に小包を頼んだことは、よくないことだ、早速お礼の返事を出しておきなさい。」
 と言った。私はドウゾウさんのおかげで、ひと夏中プローチを胸に飾り、得意であった。…」

 立原道造が”ドウゾウ”さんと呼ばれています。みちぞう→道造→ドウゾウとなるわけです。ブローチノ件も室生朝子さんのやらせですね。わざとブローチを送って貰ったとおもいます。

「室生犀星宅跡」
上記写真は馬込の室生犀星宅があった萬福寺です。このお寺の左側奥にあります。正確には外の道を左にグルッと回っていきます。このお寺の中には室生犀星の碑が二つあります。鐘楼の横の詩碑少し奥にある詩碑(犀星宅の庭石を使用)の写真を掲載しておいます。

左の写真の右側の建物が室生犀星宅跡です。正確には室生マンションになっています。入口には大田区の記念碑が建てられていますので見て頂ければとおもいます。室生犀星は元々は田端に住んでおり、その頃に堀辰雄が田端の家を訪問したりしていました。関東大震災後の昭和3年に馬込に移り、現在地には昭和7年に家を建てています。この場所の当時の住所は馬込町東三丁目七六三でしたが現在は南馬込一丁目49番10号です。本によっては49番5号と書いてある場合もあるようですが、10号が正しい地番です。地図の見方によっては5号に見えてしまうこともあるようです(地図の上部を正しく北にして地図を見れば正しい地番が分かります)。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「馬込町東三丁目七四五」
<馬込の竹村俊郎宅>
 立原道造は昭和13年に盛岡を訪問していますが、その途中に山形の竹村俊郎宅を訪ねています。竹村俊郎は元々は山形の人なのですが、室生犀星を慕って馬込に住んでいました。立原道造とは室生犀星つながりで知り合ったようです。馬込に移ったのは昭和6年になりますので、室生犀星が上記の家に移る少し前になります。。
 室生朝子さんの「大森 犀星 昭和」の中に竹村俊郎について書かれたところがあります。
「… 昭和六年の十二月に、詩人竹村俊郎が馬込町東三丁目七四五番地に、駒込から引っ越して来た。
 竹村俊郎は山形県北村山部大倉村の旧家の出であって、大正五年犀星が同人誌「感情」を発行する時に、世話になった。
 朔太郎も犀星と親友であるが、竹村俊郎とは、家族ぐるみのやはり親友であったと思う。「感情」を出版するについて、朔太郎の援助を受けていたことは、すでにわかっているのだが、それだけでは不足で竹村俊郎にも授けてもらっていたのである。それらのことを封筒の裏側に細々とした字で綿々と書いてあった。私はその手紙を雪に頚われている山形の三階建の城のような大きな竹村の家で見たとき、胸がつまった。竹村の母上はすべてに厳しい人であったから、もしもなにかの都合で手紙を見られた場合、竹村がお金を融通する意志があったとしても、止められてしまうだろう。その危供を思い、あえて犀星は封筒の裏側に書いたのである。そのようなことまでして、「感情」を作らなくてはならなかったのか。その頃は詩人として認められた時であったから、すべての情熱が雑誌作りに向けられて、ほとばしり出ていたのだと思う。
 竹村俊郎と奥さんのかつ子さんには、弟と同じ年齢の凍々子と、九年離れて仙子が生まれた。仙ちゃんは私と同じ亥年、三歳ほどになると、親分、親分といって私に馴ついた。母はかつ子さんとよく銀座に買物に出た。そのような次の日、かつ子さんはうちに来て茶の間で、昨日の買物の計算をしていた。
 犀星と俊郎はよく会っていたが、子供の私達もよく遊んだ。…」

 馬込の竹村俊郎宅は「馬込文士村」によると、馬込町東三丁目七四五です。書簡などを調べたのですが、上記と「馬込文士村」以外に住所が書かれている書簡や本を見つける事が出来ませんでした。

写真の正面付近が現在の住所で南馬込一丁目59番(当時の地番で馬込町東三丁目七四五)です。室生犀星に土地を斡旋して貰い、百坪ほどの借地に自身で家を建てています。当時のこの付近は雑木林で建物もほとんどなかったとおもいます。竹村俊郎の山形については「盛岡ノートを歩く(山形編T)」に書かれていますので参照して下さい。


馬込地図



「深沢紅子宅跡」
<深沢紅子宅>
 深沢紅子さんは立原道造の「盛岡ノート」で有名ですが、初めての手合いは昭和10年の夏、追分の油屋になります。深沢紅子さんは明治36年(1903)盛岡の生まれで、立原道造の11歳年上になります。東京女子美術学校卒業後、同郷の深沢省二と結婚し、吉祥寺に住んでいました。
 佐藤実の「深沢紅子と立原道造」からです。
「 昭和一二年(一九三七) 三月、立原は東京帝国大学工学部建築学科を卒業、一学年下に世界的建築家となる丹下健三がいるが、学内三度目の辰野金吾賞を受賞、四月には岸田日出刀教授の推薦で、石本喜久治の建築事務所に職を得ている。
 七月六日火曜日には、既述のように、深沢は立原から、第一詩集となった『萱草に寄す』を受贈している。……
… 立原はこのころよく伊藤憲治と自転車二人相乗りで、吉祥寺の深沢宅を訪問していたが、伊藤は立原の深沢への思慕の情はひそかに察知していたという(伊藤談)。。…」

 自転車で二人乗りは吉祥寺の駅から深沢宅まででしょう。都心から吉祥寺までの自転車はとても無理です。伊藤憲治は深沢の教え子で、立原道造とは歳が近かったので仲が良かったのだとおもいます。

上記写真の左側、公園のところが深沢紅子宅跡です。吉祥寺の住宅街の真ん中にあります。当時の住所で吉祥寺一八七五番、現在の住居表示で吉祥寺本町四丁目12番、野田南公園のところになります。

「東芝ビル」
<石本建築事務所>
 立原道造は昭和12年3月、東京帝国大学建築学科を卒業、岸田日出刀教授の紹介で石本建築事務所に入社します。この石本建築事務所は現在もあり、数寄屋の朝日新聞社屋や日本場所白木屋を設計したことで有名な設計事務所でした。
 角川書店版立原道造全集(六巻)の年譜からです。
「…このころ、卒業を前にして、岸田日出刀教授の推薦で石本建築事務所(所長・石本喜久治)に就職が決まり、また卒業記念として『萱草に寄す』を出版するために原稿を印刷所に入れる。二十九日、阿比留信から軽井沢に作る山荘の設計を依嘱され、土地の下検分のために軽井沢に行き、一泊。ただし、その設計図は現存するが、山荘の建築は実現しなかった。
大学卒業。
四月、一日、石本建築事務所に初出勤。同事務所は数寄最橋際の、マツダビル(現・阪急百貨店)五階にあった。…」

 立原道造のこの石本建築事務所で水戸部アサイと出会うことになります。

写真は現在の銀座TSビルです(一つ前の名称は”銀座東芝ビル”で、その前は”マツダビルディング”)。この建物は一度増築されており、手前側半分は昔のマツダビルディングそのままです。このビルは昭和9年(1934)に建てられており、耐用年数的にも問題があり、建て直される予定ときいています。


三鷹・吉祥寺地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊