<「四季 立原道造追悼号」>
立原道造は東京帝国大学卒業後の昭和13年に体調を崩します。東京に居ては何かと忙しくじっくり静養が出来ないため、9月に入り友人の深沢紅子の実家がある盛岡に向かいます。向かう途中に友人の竹村俊郎氏の故郷である山形に立寄っています。立原道造の「盛岡ノート」の中での山形は、竹村俊郎氏と楯岡(現在の山形県村山市)、山形市内、その他では上ノ山温泉の記載が少しあるのみです。これでは歩けませんので、竹村俊郎氏が「四季
立原道造追悼号」の中で書いた「山形の立原道造君」を参考にして歩いてみました。
竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。
「山形の立原道造君
竹 村 俊 郎
去年の初秋のある晩、子供等を東京へ返してひとり田舎家に雑用を取片づけてゐた僕を、立原道造君は突然に訪ねてくれた。ここに住んでゐれば東京なぞは左程遠くは思はれないものの、東京からはじめてここ山形まで訪ねて来る人にはかなりのはるばるしさであるらしく、同君は途中の永かったこと、言葉のずいぶんと異り解らなかったこと、山の珍らしかったこと、モンペ着た人人の異様だったことなぞを多少昂奮して話すのであった。食事が済んだと言ふので萄葡酒をすすめると小さなグラスで一二杯飲み若々しい頻を奇麗に染め、ああ、ここはまた東京だなあ、と感慨探げに言ふのであった。ほんの小量の酒に色づいた立原君はぢつに奇麗であった、これはその時より以前、津村信夫君の結婚披露式の式場で感じたことであるが、ランボオとかコクトオとか言ふ人たちはかうした美少年であったらうと供に想像さすのであつた。その夜も立原君はそのやうにあでやかに見えた。…」。
竹村俊郎氏は室生犀星や萩原朔太郎と親しかった詩人で、昭和6年から馬込文士村に住んでいました(実家は山形県北村山郡大倉村林崎、後に大倉村村長)。馬込に移り住んだ室生犀星の直ぐ側に住んでおり、そのため立原道造とも親しかったとおもわれます(竹村俊郎氏は立原道造より18歳年上です)。室生犀星、堀辰雄、立原道造は軽井沢つながりですね!!
★写真は「四季 立原道造追悼号」です。昭和14年5月発行ですから、立原道造が結核で死去した昭和14年3月の後、直ぐに出版されています(写真は復刻版)。立原道造の先輩や友人達が追悼文を寄せている数少ない本となっています。竹村俊郎氏は昭和19年に亡くなられていますので、彼が立原道造について書いた唯一の追悼文となっています。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)