●立原道造の世界  【盛岡ノート 山形編T】
    初版2010年8月21日  <V01L02> 暫定版

 先般、山形に出かけることがあり、その折に「立原道造」の「盛岡ノート」を歩いてきました。「堀辰雄を歩く」が終了してから掲載しようかともおもったのですが、忘れないうちということで掲載しておきます。中身が結構濃くなってしまったので、三回位に分けて掲載します。立原道造を知らないと全く面白くありません。




「四季」
<「四季 立原道造追悼号」>
 立原道造は東京帝国大学卒業後の昭和13年に体調を崩します。東京に居ては何かと忙しくじっくり静養が出来ないため、9月に入り友人の深沢紅子の実家がある盛岡に向かいます。向かう途中に友人の竹村俊郎氏の故郷である山形に立寄っています。立原道造の「盛岡ノート」の中での山形は、竹村俊郎氏と楯岡(現在の山形県村山市)、山形市内、その他では上ノ山温泉の記載が少しあるのみです。これでは歩けませんので、竹村俊郎氏が「四季 立原道造追悼号」の中で書いた「山形の立原道造君」を参考にして歩いてみました。
 竹村俊郎氏の「山形の立原道造君」からです。 
「山形の立原道造君
                              竹 村 俊 郎
 去年の初秋のある晩、子供等を東京へ返してひとり田舎家に雑用を取片づけてゐた僕を、立原道造君は突然に訪ねてくれた。ここに住んでゐれば東京なぞは左程遠くは思はれないものの、東京からはじめてここ山形まで訪ねて来る人にはかなりのはるばるしさであるらしく、同君は途中の永かったこと、言葉のずいぶんと異り解らなかったこと、山の珍らしかったこと、モンペ着た人人の異様だったことなぞを多少昂奮して話すのであった。食事が済んだと言ふので萄葡酒をすすめると小さなグラスで一二杯飲み若々しい頻を奇麗に染め、ああ、ここはまた東京だなあ、と感慨探げに言ふのであった。ほんの小量の酒に色づいた立原君はぢつに奇麗であった、これはその時より以前、津村信夫君の結婚披露式の式場で感じたことであるが、ランボオとかコクトオとか言ふ人たちはかうした美少年であったらうと供に想像さすのであつた。その夜も立原君はそのやうにあでやかに見えた。…」。

 竹村俊郎氏は室生犀星や萩原朔太郎と親しかった詩人で、昭和6年から馬込文士村に住んでいました(実家は山形県北村山郡大倉村林崎、後に大倉村村長)。馬込に移り住んだ室生犀星の直ぐ側に住んでおり、そのため立原道造とも親しかったとおもわれます(竹村俊郎氏は立原道造より18歳年上です)。室生犀星、堀辰雄、立原道造は軽井沢つながりですね!!

写真は「四季 立原道造追悼号」です。昭和14年5月発行ですから、立原道造が結核で死去した昭和14年3月の後、直ぐに出版されています(写真は復刻版)。立原道造の先輩や友人達が追悼文を寄せている数少ない本となっています。竹村俊郎氏は昭和19年に亡くなられていますので、彼が立原道造について書いた唯一の追悼文となっています。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)

「JR奥羽本線村山駅」
<楯岡駅>
 でも、やはり最初は立原道造の「盛岡ノート」からはじめたいとおもいます。
 立原道造の「盛岡ノート」の書き出しです。
「 汽車はいま山形をすぎた ── 燈火管制の最中で町はまつくらだ ここに降りても案内がわからないので 楯岡まで行くことにした……
 窓はみな鎧戸をおろしてゐる 先刻まであかりは半分だけ消されてゐた そしてついてゐたのはくらい電球だつた まだ宵は浅い 外の方がひよつとすると明るいくらゐだ 東京でもまた燈火管制だらうか

 最初の一頁の最初の記事は「夜がくらい」といふことだ いひかへれば「くらい夜を通って」といつてよい それがどういふことだか僕は知らない 間もなく 今夜の宿に着くだらう
 窓から水つぽい植物のにほひが風といつしよにはいって来る
          *
 楯岡もまつくらだつた リルケの「白」の停車場の景色をおもひ出す しかし くらいなかにいつまでもゐるのは心ぼそかった それで くらい道をあかりもなく歩いて竹村さんのうちまで来た ここでもやはり「くらい夜をとほつて」…」

 燈火管制は昭和13年4月に施行された「燈火管制規則」以降のこととおもわれます。朝、上野を発って、夜遅く山形から楯岡(現在の村山市)に到着しています。

写真は現在のJR奥羽本線村山駅(当時は楯岡駅)です。上野からは東北本線で福島経由の奥羽本線、山形、楯岡となります。時刻表を調べて見ますと、立原道造が乗車したのは、上野10時発、奥羽本線経由青森行急行です。福島を15時43分、山形は18時47分です。この急行は楯岡には止まりませんので山形で乗り換えとなります。山形19時35分発の青森行各駅停車に乗り換え、楯岡には20時28分着となります。

「竹村俊郎邸」
<竹村俊郎邸>
 立原道造は昭和13年9月15日から16日まで山形県北村山郡大倉村林崎の竹村俊郎氏の実家に滞在します。たまたま竹村俊郎氏が東京から帰省していました。
「 翌朝、起きて来た立原君はすっかり身じたくしてゐた。脊廣こそ着てゐず、スヱーターをはふつてゐたが、どこか散歩にゆきませうか、と問ふやうな様子に見えた。婆やが拵へた簡単にまづい朝飯をすますと、僕は雅用があったので、三階を開けて立原君に気楽にくつろいで貰ふことにした。十時頃、あまり静かなのでそつと三階を覗いて見ると立原君は座蒲団を並べて長々と寝てゐた。− 疲れたかねと訊ねると、── いや。と言ひながら眼をこすってゐた。午後二時頃散歩に連れ出さうといって見るとやはり寝てゐた。疲れたのだらうと心配すると、── 「ふや、あまり静かなのでついうとうとして寝てしまうのですと言ふてゐた。…」
 当時の楯岡駅から竹村俊郎氏の実家までは3km以上あります。昔の田舎の道ですから、真っ暗の中を3Km以上歩くのはたいへんだったとおもいます。

写真の左側全部が竹村俊郎邸です。ご家族の方がお住まいのようです。竹村俊郎氏は渡航経験もあり、大倉村の村長までなられていますので、地元の名士だったのだとおもいます。

「風景画2ページ目」
<風景画(2ページ目)>
 立原道造の「盛岡ノート」に書かれた竹村俊郎邸から眺めた山の風景を探してみました。上記に”竹村俊郎邸の三階”と書かれていましたので、推定ですが立原道造はこの三階から見た山の風景を描いたのだとおもいます。
 「盛岡ノート」の”山の風景”に書かれたコメントです。
「…〔編註・以下に青鉛筆書きで鳥海山の西側、南側、および裾の稲田の風景が三図措かれている〕
 いちばんに美しく「星のやうに」といふ言葉に近く たったひとつだけ燈が きらきらしてゐる あのきらきらがいつもはもつとなつかしい仕方で どの部落にも平和にちらつくのだらう しかし 今夜は禁ぜられてゐる あのひとつだけがなぜともつてゐるのか そのことは大へんに僕を打つ
       ◇
 人の生きることが ここでは すべて 美しい槍のやうだ
 信濃の高原では それが音楽のなかであったやうに
 僕の眼がここではものをきかねばならない
       ◇
 ここにもまた別の部落がしずかにある
       ◇
 ここにある部落が
 何かしら非常になつかしい感じがする
 夕ぐれの白つぽい青い煙がかすませてゐる
       ◇
 鉄道がとはつてゐる 油屋と追分の線路ぐらゐの距離…」


上記には、二つ絵が描かれています。まず上部に描かれた絵です。絵の真ん中には鳥海山が描かれていますが、竹村俊郎邸付近からは鳥海山は見つけることが出来ませんでした(方向的には竹村俊郎邸からは北北西)。北北西方面を撮影した写真を掲載しておきます(上の絵も拡大して見比べてください)。

下部に描かれた絵は、鉄道方面(奥羽本線)なので、だいたいの絵の方向がわかりました。竹村俊郎邸からは西側となります。山の形もほぼ合っているとおもいます。西方面を撮影した写真を掲載しておきます(上の絵も拡大して見比べてください)。

「風景画4ページ目」
<風景画(4ページ目)>
 立原道造の「盛岡ノート」に書かれた竹村俊郎邸付近から眺めた絵です(4ページ目)。竹村俊郎邸の西側から眺めた山の風景のようです。
 「盛岡ノート」の”山の風景”に書かれたコメントです。
「…〔編註・以下に鳥海山の東側および裾の民家の風景が五図措かれている〕
 近いので風景のうちでいちばん大きく見えかが、ほんとうはあまり大きくなく名もない山
       ◇
 ここから炭焼ほどの煙がのぼってゐる
 ここほ金鑛がある しかし乏しい
       ◇
 家はみな街道に向いて妻から入る
      ◇
 ここではもう木がありありとかぞへられる…」

 上記の絵に描かれている家の絵で中央やや右の”三角屋根”は現在もそのままにありました。竹村俊郎邸の三階建ての上の部分だとおもわれます。

上記の絵の構図だとおもわれる場所付近から撮影した写真を掲載します。少し北にずれたところからしか撮影できませんでしたので、山の位置と三角屋根がずれています。

「竹村俊郎記念碑」
<竹村俊郎記念碑>
 最後に、村山市役所に竹村俊郎記念碑がありましたので、撮影してきました。
 立原道造の「盛岡ノート」で、竹村俊郎邸に滞在中のことについて書いたものを掲載しておきます。
「… たくさんに眠れる 身體ぢゆうが眠りになってゐる ゆうべは夢もなく明け方まで 石のやうに眠った、朝も午後からも 眠つた しぐれが過ぎて行つた 二度ほど外を歩きまはつた 平野はすっかり黄いろい稲田だ まはりをいろいろな高さの山々がとりかこんでゐる 雲が多いので とほくの山は見えない 夕ぐれ 鳥海山の見える西の方が晴れた ここでも夕空は美しい

 僕はまたこんなに 疲れてゐたのだらうか 夕ぐれ何もかんがへることがない (眠ったことの疲れだらうか) ここの風景が ただ 裸の僕ノの眼にうつつてゐるだけだ

 防空演習のサイレンが鳴り 部落のあちらこちらで不吉な音をして半鍾がひびく 防空演習だけが 東京から僕に蹤いて来る しかし ここでは 牛が鳴いたり 燈の消しやうもともしやうもない山や 稲田が 僕をとりかこんでゐて あの夜々のそれとは全くちがふ

 赤い夕焼雲のあたりを夥しい鴉(からす)が鳴いてさはぐ こんなに 数多くの鴉を僕ははじめて見た 田の上の低くにも別の一群がさはいでゐる
 僕よりもこの鴉たちはこの村のことをよく知つて〔§〕ゐても 僕は 鴉よ おまへらはどこへ行かうとしてゐるのだ? と 問ひたださずにはゐられない すべての夕ぐれを おまへらは どこからともなくこんなに多く あつまるのだらうか…」

 東京の忙しさから逃れて、やっとのんびりできたのだとおもいます。盛岡よりは此方に滞在していた方が体によかったではないかとおもいます。

写真は村山市役所にある竹村俊郎記念碑です。竹村俊郎の「故郷の歌」の詩が刻まれていました。

 続きがあります。


立原道造の山形楯岡地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
15、16日 山形 竹村邸泊
17日 上ノ山温泉泊