●立原道造の世界  【長崎ノート 奈良編】
    初版2011年9月24日
    二版2011年11月28日  亀山駅プラットホームの写真を追加
    三版2013年12月20日  <V01L02>  乗車列車の時刻修正と写真変更

 「立原道造の世界」を引き続き掲載します。やっと「長崎ノート」の掲載までたどり着きました。「盛岡ノート」を先に掲載する予定だったのですが、諸般の事情で西から始めることにしました。ただ、全て掲載するには少し時間がかかります。今回は東京を出発して奈良までを掲載します。




「亀山駅」
<亀山駅>
 2011年11月28日 プラットホームの写真を追加
 立原道造は昭和13年11月24日夜、東京から長崎に向けて出発します。盛岡から戻ってから1ヶ月後でした。盛岡の寒さが身に応えて、東京に戻ってきましたが、より温かいところを求めて長崎に向かいます。ここからは、角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、「長崎ノート」、友人達のエッセイなどを参考にしたいとおもいます。
 角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。
「575 十一月二十五日〔金〕 土井治宛 〔亀山驛發〕
 また亀山驛の朝。奈良へ行く汽車を待ってゐます。君とはじめてここを過ぎてから、三度目位にここへ來たのでせう。あたたかくよいお天気です。松林に風が吹いて、テニスコオトの網がゆれてゐます。プラットフォームの椅子に腰かけて二十分ほどじつとしてゐます。けふ旅がはじまったといふ気持をささへるやうな姿勢で ── 秋はもうをはりに近いので、景色が色どり多く眼にうつります。京都から山陰をまはって十二月のはじめには長崎に着きます。…」

 土井治宛の書簡で、亀山駅は三度目だと書いています。一度目は昭和11年8月に土井治と一緒に紀州を回ったときです。二度目は同じ年の10月に京都の田中一三を訪ねたときです。京都へ東海道線で直接向かわず、奈良経由ばかりです。堀辰雄の影響か奈良が好きなようです。奈良に向かう列車は、昭和10年10月の時刻表を参考にすると東京発22時30分、鳥羽行に乗ったのではないでしょうか。名古屋着6時4分、亀山着7時43分、ここで関西本線の8時38分発に乗り換えます。奈良着が10時47分となります。

上記の写真は現在のJR亀山駅です。紀勢本線と関西本線の乗換駅です。関西本線には名古屋で乗換えてもいいのですが、立原道造は亀山駅で乗換えています。乗換え時間が一時間弱ありますので、亀山駅のプラットホームで手紙を書くことが出来たのだとおもいます。亀山駅の構造は関西本線が主なので、名古屋から亀山経由で奈良、大阪へは列車の向きが変わりません。しかし、伊勢方面の場合は、亀山駅で逆方向になります。名古屋方面と伊勢方面の線路が別れている写真を掲載しておきます(写真の左側が名古屋方面で、右側が伊勢方面になります。ですから、名古屋から伊勢方面に行くには列車の向きが反対になります。丁度、伊勢方面から列車が到着したところです。)。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


関西方面地図



「薬師寺 三重塔」
<薬師寺 三重塔>
 ここからは「長崎ノート」を参照します。「長崎ノート」の書き出しは薬師寺からです。奈良駅着が10時47分ですから、奈良駅から大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の奈良駅に向かい、西大寺で乗換えて西ノ京駅で下車したものとおもわれます。堀辰雄も同じルートで訪ねています。
 立原道造の「長崎ノート」の書き出しです(昭和13年)。
「 十一月二十五日正午
 今僕は最初の二頁を薬師寺の境内で書く。僕は大すきな唐招提寺の金堂を見て來たところだ。ここには三重塔がある。その下でこの頁を書きはじめる。鳩が鳴いてゐる。空は晴れたり、急に時雨がすぎて行ったり、定まりない。カツと明るくなると、ここの白い明るい土はまぶしいくらゐ、美しい。僕はその白い土の色に見入りながら、とほくへ行ってしまった昨日、一昨日……近い過ぎた日の僕の東京での日々をおもひ出してゐた。どうしておまへから離れることが出來たのだらうか。昨夜まで僕は知らなかったこの別離がどんなものかを。今もまだわからない。おまへは僕とはとはくにゐる。あの僕の知ってゐるビルディングにゐる。しかし僕はそれを信じられない。僕がとほくに來てゐることも信じられない。別離とはこんなことだったのだらうか。しかし僕はさびしい。そしてすべてがむなしい。何かささへるものを失ったやうな気がする。この眼にうつくしくながれる古代の白い雲と明るい空とすべてをかがやかせる太陽を今この土地で見てさへ僕の心はむなしい。この土地こそ僕の期待だつたのに。ここでは秋は完成してゐる、紅葉の美しさに、とりいれのすんだあとのむなしさに、そして風の寂蓼に。長くつづいた土塀の色、明るく乾いた白い土 − 色どりの多い風景のなかに、僕は、歩いてゐる。陽ざしは傾きはじめて、しづかに澄んでゐる。……薬師寺の境内で松が班らに影を落してゐる土を見入りながら、ノオトを書いてゐるこの一とき。僕だけすべての螢みからとほく離れてしまったのではないか。溢れつづけてゐる泉がある、鳥が梢に空に囁きつづけてゐる。固定したやうに静かな空間をそれがそよぎのやうに搖つてゐる。…」

 「堀辰雄の奈良を歩く【大和路編 -2-】」でも書きましたが、立原道造が訪ねたときの薬師寺で現在まで残っている建物は東塔(三重塔)のみです。残りの建物は全て建て直されています(詳細は「堀辰雄の奈良を歩く【大和路編 -2-】」を参照して下さい)。

写真は今年春の東塔(上記に書かれている三重塔)です。東塔は現在修理に入っています。

「秋篠寺東門」
<秋篠寺>
 立原道造は秋篠寺を訪ねています。堀辰雄と全く同じパターンです。ただ違うのは、堀辰雄は仏像(伎芸天)について書いていますが、立原道造は建物が中心です。
 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 僕はもう長く旅に出てゐたやうな気もするし、ここが東京とはそんなに離れてゐないやうな菊もする。
 西ノ京驛で西大寺行の電車を待ってゐるところだ。小田急沿線のどこか小さい驛で電車を待ってゐるよりもとぼしい旅情しか僕にはない。今夜どんな宿が待ってゐるかなど忘れてしまふ。そして一夜旅の宿で眠ったら、すこしはこんな気拝から離れるかどうかわからない。日は先刻とおなじやうにかげつたり照ったり定まりなく明るい。
             *
 秋篠寺 ── 道のほとりの叢(くさむら)に休んでゐる。眼のまへに奈良平野が陽の光をうけてしづかにある。もうとりいれはすんで、すこしさびしい冬のはじめの眺めだ。かうしてゐると、ここが浦和ぐらゐのところのやうな気がする。おまへも來れば來られたのだとおもつてゐる。何でもないちひさい寺、樹木が多い、曲りくねった道で本堂まで行く庭、この秋篠寺の裏の門の黄い土の色はおどろくばかりに美しい。そして數少い石段を組み合せた門への巧妙な入り方は美しい。そしてそれをかこんでゐる民家が、その美しさを何倍にもしてゐる。これは日常的な at-home な美しい山門だ。金堂などは大していいものではないが、この門の美しさだけはけふ歩いたうちでいちばん心を打った。金堂をあとにしたとき黄い落葉の群が風に一せいに動いて走った。
 かげはもう大分長くなった。浦和に行った日のあの時刻ぐらゐだらう。あれからまだ十日しかたってゐないことにちょっと気がついた。おまへもあれをずつと音のことのやうにおもってゐるだらう。僕もさうだった。ここが浦和ぐらゐのところのやうな気がするので、僕は夕ぐれにはおまへと會ふためにどこかへすぐ行けさうな気もする。かはいさうな錯覚! 僕はそれを大切にかかへて、この美しい風景のなかで、崩れてしまひさうな自分を辛うじてささへてゐる。だがおまへを忘れてただこの美しさに自分を投げ出せたら!…」

 この秋篠寺は南門から入って金堂に向かうのが普通なのですが、立原道造は少し回り道になる東門から入っています。南門が分からなかったのかなともおもいます。この付近の道は細く入り組んでいて分り難いです。秋篠寺の境内図を掲載しておきます。

写真は秋篠寺の東門です。立原道造が見た壁の色と変わっていません。この右側に駐車場があります。徒歩の場合は南門から入りますが、車の場合、裏門からになります。直ぐ傍に競輪場があり、開催日には道路がすごく混み合います。道が狭いのですれ違いが出来ず大変です。

「二月堂」
<二月堂>
 西ノ京の唐招提寺、薬師寺、秋篠寺から東大寺の三月堂、二月堂に戻っています。午前中に奈良駅に到着していることから考えれば、午前中は東大寺から三月堂、二月堂と回って、午後に西の京を訪ねる方がいいとおもうのですが、どうでしょうか? 二月堂、三月堂は時間に余裕が出来たのでまわったのかもしれません。時間を考えれば、正午に薬師寺ですから、秋篠寺を回っていくと2時頃に二月堂かなとおもいます。
 立原道造の「長崎ノート」からです。、
「… 僕は三月堂の日光月光のまへに立ってゐた。いつまでもそこに立ってゐたかった、心はすっかり投げられてゐた。
 いまその酔った眼で二月堂のパルコンに立って眼の下に完成する奈良の晩秋の午後を眺める。
 まだ心はさわざしづかにうるほうてゐる。
 僕はよいもののそばによいもののなかに、すべてを興へつくして生きてゐる。
 この風景もまた美しく無限だ!
 いま僕は古代の時間をこえて無限に生きてゐる。
 ここは存在の根椋だ。

 二月堂、三月堂も、時間を超えてゐる。
 僕は時間のなかでの建築といふ僕の意味の限界をここで感じる。…」

 三月堂は正式名勝は東大寺法華堂で、奈良時代の仏堂です。通称で三月堂と呼ばれています(国宝)。三月堂に納められている仏像は中心が不空羂索観音像で、のすぐ下の横に、向かって右が日光菩薩像、左が月光菩薩像です。その回りには四天王も有り、迫力があります。

左の写真は現在の二月堂です。当時の二月堂の寫眞も掲載しておきます。

「奈良駅」
<奈良駅>
 2013年12月20日 乗車時刻を修正、写真を変更
 立原道造はその日のうちに京都に向かいます。元々、京都の友人宅に滞在する予定でした。奈良から京都へは鉄道省の京都線か大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)の京都線で行くのが普通なのですが、大阪経由も考えたようです。
 立原道造の「長崎ノート」からです。、
「… 四時すぎてゐる。夕陽が窓から膵の待合室にいっぱいにさしこんでゐる。三分ばかりで汽車にのりおくれたので、京都にまっすぐ行かうか、大阪をまはってしまほうか、迷ひはじめてゐる。大阪に行くなら、もう七分で汽車は出る。京都はそれから三十分あとだ。そしてどちらも時間は同じだけかかる。夕ぐれ、いつもおまへと約束したあのくらくなりはじめるころ、大阪に着いたらいいだらうか。まるであの人ごみのなかに、おまへがバスか地下鐵かであらはれるとでもいふやうに ── どこか兄も知らない停留場でおまへを待ってゐようか。そして、當然おまへが來ないのだ。そのとき僕はどうなってしまふだらうか。よさう、よさう、そんな風にして、自分をいぢめるのは。京都へ行くとすれば、汽車のなかですつかり夜になる。それは三年まへに田中のところへ行ったのとすっかりおなじだ。そしてその夜になる時間には、ただおまへとはとほく離れて、汽車のなかにゐるばかりだ。そこには感傷やファンタジイのたはむれはないだらう。どちらをゑらんだらいい子 もう一分で大阪行の汽車は出る。僕はそれを諦めよう。まだのるためにいそいでゐる人たちがゐる。プラットホームの方で發車のベルが鳴った。心のなかに浮んだだけでむなしく滑えたひとつの夢、汽車の出て行く音がする。この汽車がとほる夕ぐれの法隆寺の村が僕の心をさっと過ぎる。京都に夜行くことになったのだ、そしてそれはとりかへしつかないことでもあるかのやうだ、四時半には陽が沈む。この美しい日没を僕はもつと、古代的な雰囲気のなかで見れば見られたのだ、そしてそれを一層強くねがふ。しかもいまこの停車場の雑沓で、(それはおまへを待つ上野驛の雑沓とかはりもしないのだ)おまへを、手のつけようもなくとほくにゐるおまへを、欲しながら、その美しい瞬間に眼をとぢる。…
… 汽車は出てしまった。大阪行の急行より二分早く、出るまで僕は迷ってゐた。あの急行に乗れば! と……もう京都に向つて走ってゐる。…」

 上記に書いてある京都行きのことを整理すると、

・4時前後に奈良駅(鉄道省の奈良駅か、大軌奈良駅かは分からない)に着いたが3分違いで乗り遅れた。
・大阪行は7分後に出発する。
・京都行きは30分後の発車。
・上記には”この汽車がとほる夕ぐれの法隆寺”と書かれている。大軌は電車で法隆寺は通らない。
・京都行きは大阪行よりも2分早い

・鉄道省の関西本線か京都線を使うと、昭和10年10月の時刻表では、乗り遅れたのが大阪行の場合、15時39分、次の大阪行は櫻井回りが16時32分、関西本線経由が16時21分発です。乗り遅れたのが京都行の場合、15時52分、次の京都行は16時35分とあります。
・大軌は京都行きは20分から1時間毎の運転、大阪(上本町)行きは15分間隔運転。

 整理すると、文章的には鉄道省の路線を使ったように書かれています。上記に書かれている時刻からすると、乗り遅れたのが京都行15時52分で、次の大阪(湊町行)は16時21分、7分後に出発で、現在時間は16時14分と考えるのが妥当です。そして櫻井回りの大阪行16時32分より3分遅い16時35分の京都行きに乗ったとおもわれます。京都着は17時29分で、急行とは書いてありませんが途中3駅しか停まりませんので急行扱いでいいとおもいます。時間が前後していたり急行が違ったりしていますが全体としては合っているとおもいます。

左の写真は現在のJR奈良駅です。写真の建物は二代目奈良駅です。昭和9年に建てられますが、高架化のため平成15年以降に現在地に移転しています。

  続きます。

奈良 西の京地図(堀辰雄と共用)


奈良駅周辺地図(堀辰雄と共用)


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着