<亀山駅>
2011年11月28日 プラットホームの写真を追加
立原道造は昭和13年11月24日夜、東京から長崎に向けて出発します。盛岡から戻ってから1ヶ月後でした。盛岡の寒さが身に応えて、東京に戻ってきましたが、より温かいところを求めて長崎に向かいます。ここからは、角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、「長崎ノート」、友人達のエッセイなどを参考にしたいとおもいます。
角川版立原道造全集(五巻)の書簡集、昭和13年からです。(最初の番号は書簡の通し番号です)。
「575 十一月二十五日〔金〕 土井治宛 〔亀山驛發〕
また亀山驛の朝。奈良へ行く汽車を待ってゐます。君とはじめてここを過ぎてから、三度目位にここへ來たのでせう。あたたかくよいお天気です。松林に風が吹いて、テニスコオトの網がゆれてゐます。プラットフォームの椅子に腰かけて二十分ほどじつとしてゐます。けふ旅がはじまったといふ気持をささへるやうな姿勢で
── 秋はもうをはりに近いので、景色が色どり多く眼にうつります。京都から山陰をまはって十二月のはじめには長崎に着きます。…」
土井治宛の書簡で、亀山駅は三度目だと書いています。一度目は昭和11年8月に土井治と一緒に紀州を回ったときです。二度目は同じ年の10月に京都の田中一三を訪ねたときです。京都へ東海道線で直接向かわず、奈良経由ばかりです。堀辰雄の影響か奈良が好きなようです。奈良に向かう列車は、昭和10年10月の時刻表を参考にすると東京発22時30分、鳥羽行に乗ったのではないでしょうか。名古屋着6時4分、亀山着7時43分、ここで関西本線の8時38分発に乗り換えます。奈良着が10時47分となります。
★上記の写真は現在のJR亀山駅です。紀勢本線と関西本線の乗換駅です。関西本線には名古屋で乗換えてもいいのですが、立原道造は亀山駅で乗換えています。乗換え時間が一時間弱ありますので、亀山駅のプラットホームで手紙を書くことが出来たのだとおもいます。亀山駅の構造は関西本線が主なので、名古屋から亀山経由で奈良、大阪へは列車の向きが変わりません。しかし、伊勢方面の場合は、亀山駅で逆方向になります。名古屋方面と伊勢方面の線路が別れている写真を掲載しておきます(写真の左側が名古屋方面で、右側が伊勢方面になります。ですから、名古屋から伊勢方面に行くには列車の向きが反対になります。丁度、伊勢方面から列車が到着したところです。)。
【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)