●堀辰雄の奈良を歩く 【大和路編 -2-】
    初版2011年4月9日  <V01L02>  暫定版

 「堀辰雄の奈良を歩く 大和路編」を引き続き掲載します。前回は佐保路を転害門から海龍王寺まで、そして歌姫を歩きましたが、今回は秋篠寺から唐招提寺までを歩きます。「大和路・信濃路」の昭和16年10月14日として書かれたものです。




「大和路文学散歩」
<カラーブックス 「大和路文学散歩」>
 堀辰雄の「大和路・信濃路」は奈良・大和路を紹介する本には必ず引用されているようです。奈良を紹介する戦前の本としては、堀辰雄の「大和路・信濃路」の他に、和辻哲郎の「古寺巡礼」、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」等が有名です。後の2冊については別途紹介したいとおもっています。
 今回はこのような本を上手に引用しているカラーブックス「大和路文学散歩」を紹介します。今時の地域紹介本は食について書いていないと全く売れないようで、”文学散歩”ではなくて、”食の散歩”になってしまっています。
 カラーブックス 「大和路文学散歩」から、堀辰雄の「大和路・信濃路」を引用しているところです。
「… 唐招提寺 古代の大寺院は、中世にはいると一様に天災や兵火で堂塔を失っている。その中で、今も草創の時の姿を保っているのは、唐招提寺と法隆寺とがあるのみである。……
… 大和の古寺の美しさが心にしみいる時刻は、たそがれである。そのひととき、仕事の手がかりを求めて大和へやってきた堀辰雄は、(自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じてゐられるだけでよかった)と思いながら、唐招提寺の金堂の壇上に立った。(最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰ふやうに、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味ははうとした。僕はそのときふとその手を休めて、ぢっと一つところにそれを押しっけた。僕は異様に心が躍った。さうやってみてゐると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に藩み込んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残ってゐるらしい)
 詩人堀辰雄が、この時てのひらに感じとったあたたかみこそは、千数百年来、この寺に流れつづけてきた、異国の僧鑑真の心のあたたかさだったのではなかろうか。
 彼は、(自分の何処かにまだ感ぜられてゐる異様な温かみと匂ひを、何か貴重なもののやうにかかへをがら)、天平の大寺を去っていったのだった。…」

 前回紹介した『岩波写真文庫 「奈良 -西部-」』は写真が全てモノクロでしたが、今回のカラーブックス 「大和路文学散歩」は発行が昭和46年ということもあり、名前の通り写真はカラーです。

左上の写真はカラーブックス 「大和路文学散歩」です。表紙のミニスカートで昭和46年発行も理解できます。重版もされていましたが現在は絶版になっています。著者は駒敏郎氏です。上記にも書きましたが”文学散歩”だけでは本は売れず、食に関することが書かれていないと売れる本にはならないようです。因みに私は”奈良 散歩マップ”なるものを購入しました。地図が分かりやすかったので購入したのですが、食に関してもしっかり書かれていました。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「秋篠寺」
<秋篠寺>
 前回は「大和路・信濃路」の中で10月10日として書かれた佐保路を歩きましたが、今回は10月14日の項を歩いてみます。その日の午前中は奈良ホテルにいたようですが、午後になって秋篠寺に向かいます。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”午後、秋篠寺にて”です。
「…午後、秋篠寺にて
 いま、秋篠寺という寺の、秋草のなかに寐そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女(ぎげいてんにょ)の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられて、わけてもお慕わしい。朱(あか)い髪をし、おおどかな御顔だけすっかり香にお灼けになって、右手を胸のあたりにもちあげて軽く印を結ばれながら、すこし伏せ目にこちらを見下ろされ、いまにも何かおっしゃられそうな様子をなすってお立ちになっていられた。……
 此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂のなかに、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくだすったのかとおもうと、本当にありがたい。…」

 奈良ホテルから秋篠寺に向かうには大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道奈良線)の奈良駅から奈良線で西大寺駅で下車し徒歩で向かうか、又は西大寺駅で奈良電気鉄道(現在の近畿日本鉄道京都線)に乗換えて平城駅まで行き、そこから徒歩かのどちらかです。西大寺駅から秋篠寺までは徒歩で1.3Km、平城駅からは900m程になります。

 秋篠寺は奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林になってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。(奈良市観光協会ホームページより)

写真は秋篠寺の南門です。秋篠寺自体は唐招提寺や薬師寺クラスのお寺であったとおもうのですが、残念ながら建物があまり残っていません。現在の南門のもう少し南側に南大門があったようです。金堂、東塔、西塔も敷石のみとなって、建物はありません。元講堂のところに再建された本堂のみが残っているようです。秋篠寺の境内図を掲載しておきます。

「大和西大寺駅」
<西大寺駅>
 堀辰雄は秋篠寺から西大寺駅まで歩きます。道なりで1.3Km程の距離ですが秋篠川沿いに歩くともう少し距離があります。下記の地図を参照して下さい。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”夕方、西の京にて”です。
「…夕方、西の京にて
 秋篠の村はずれからは、生駒山が丁度いい工合に眺められた。
 もうすこし昔だと、もっと佗びしい村だったろう。何か平安朝の小さな物語になら、その背景には打ってつけに見えるが、それだけに、此処もこんどの仕事には使えそうもないとあきらめ、ただ伎芸天女と共にした幸福なひとときをきょうの収穫にして。僕はもう何をしようというあてもなく、秋篠川に添うて歩きながら、これを往けるところまで往って見ようかと思ったりした。
 が、道がいつか川と分かれて、ひとりでに西大寺駅に出たので、もうこれまでと思い切って、奈良行の切符を買ったが、ふいと気がかわって郡山行の電車に乗り、西の京で下りた。…」

 西大寺駅(現在の大和西大寺駅)から郡山に向かう線は近鉄橿原線ですが、当時は大阪電気軌道畝傍線と呼ばれていました。

写真は現在の大和西大寺駅です。秋篠寺の側には競輪場があり、開催日に当たると大変です。

「西の京駅前」
<西の京の駅前>
 堀辰雄は西大寺から大阪電気軌道畝傍線で西の京駅に向かいます。西の京駅は薬師寺と唐招提寺の直ぐ側の駅です。唐招提寺には11日にも訪ねており、今回の旅では2回目の訪問となります。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”夕方、西の京にて”です。
「… 西の京の駅を出て、薬師寺の方へ折れようとするとっつきに、小さな切符売場を兼ねて、古瓦のかけらなどを店さきに並べた、侘びしい骨董店がある。いつも通りすがりに、ちょっと気になって、その中をのぞいて見るのだが、まだ一ぺんもはいって見たことがなかった。が、きょうその店の中に日があかるくさしこんでいるのを見ると、ふいとその中にはいってみる気になった。何か埴輪の土偶のようなものでもあったら欲しいと思ったのだが、そんなものでなくとも、なんでもよかった。ただふいと何か仕事の手がかりになりそうなものがそんな店のがらくたの中にころがっていはすまいかという空頼みもあったのだ。だが、そこで二十分ばかりねばってみていたが、唐草文様(からくさもよう)などの工合のいい古瓦のかけらの他にはこれといって目ぼしいものも見あたらなかった。なんぼなんでも、そんな古瓦など買った日には重くって、持てあますばかりだろうから、又こんど来ることにして、何も買わずに出た。…」
 上記に書かれている”小さな切符売場を兼ねて、古瓦のかけらなどを店さきに並べた、侘びしい骨董店”は残念ながらありませんでした。現在の西の京駅の東側はロータリーや駐車場となっており、推定ですが、駅前の家は立ち退いたのではないかとおもっています。

写真は西の京駅前から薬師寺北門に向かう路です。推定ですがこの左側に堀辰雄が訪ねた骨董店があったのではないでしょうか。現在は空き地になっていました。この路の少し先の左側に骨董店的なお店がありました。

「薬師寺南大門より」
<薬師寺>
 西の京駅から東に向かうと薬師寺の興楽門になります。観光客用の入口になっていますので、当時からあったかどうかはわかりません。この入口を入ると講堂の裏手となります。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”夕方、西の京にて”です。
「… 荒れた池の傍をとおって、講堂の裏から薬師寺にはいり、金堂や塔のまわりをぶらぶらしながら、ときどき塔の相輪を見上げて、その水煙のなかに透かし彫になって一人の天女の飛翔しつつある姿を、どうしたら一番よく捉まえられるだろうかと角度など工夫してみていた。が、その水煙のなかにそういう天女を彫り込むような、すばらしい工夫を凝らした古人に比べると、いまどきの人間の工夫しようとしてる事なんぞは何んと間が抜けていることだと気がついて、もう止める事にした。…」
 堀辰雄が見た薬師寺は江戸時代後期に仮再建した金堂、講堂であり、創建当時の伽藍は焼け残った東塔だけでした。戦後、薬師寺は順次再建され、昭和51年(1976)に金堂が再建されたのをはじめとして、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建されています。ですから、堀辰雄が見た薬師寺で、現在残っているのは東塔のみとなります。戦後間もなくの金堂と、再建された金堂を比較して見て下さい。

写真は現在の薬師寺南大門前からの撮影です。正面が南大門で、右側が東塔、左側が西塔、南大門の向側に金堂が見えます。南大門は元薬師寺西院の門を移築したものです。東塔は修理に入るため暫く見ることが出来ません。

「唐招提寺 南大門」
<唐招提寺 南大門>
 堀辰雄は薬師寺から徒歩で唐招提寺にむかいます。薬師寺の興楽門前から真っ直ぐに唐招提寺に向かう道があります。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”夕方、西の京にて”です。
「… それから僕はもと来た道を引っ返し、すっかり日のかげった築土道(ついじみち)を北に向って歩いていった。二三度、うしろをふりかえってみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日に赫(かがや)いていた。
 裏門を過ぎると、すこし田圃があって、そのまわりに黄いろい粗壁の農家が数軒かたまっている。それが五条という床しい字名の残っている小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしていたものと見える。
 もうそこがすぐ唐招提寺の森だ。僕はわざとその森の前を素どおりし、南大門も往き過ぎて、なんでもない木橋の上に出ると、はじめてそこで足を止めて、その下に水草を茂らせながら気もちよげに流れている小川にじいっと見入りだした。これが秋篠川のつづきなのだ。…」

 薬師寺の興楽門前から少し北に歩くと、北大門跡です(五条大路が通っていましたが現在はなにも残っていません)。又、少し歩くと上記に書かれている”五条という床しい字名の残っている小さな部落”となります。

写真は現在の唐招提寺南大門前の通りです。少し先の左側に唐招提寺の南大門があります。昔の南大門前の写真と比べてみて下さい。

「唐招提寺」
<唐招提寺>
 堀辰雄は唐招提寺の南大門の前を過ぎて秋篠川に架かる橋から北に回ります。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”夕方、西の京にて”です。
「… 僕は再び木橋の方にもどり、しばらくまた自分の仕事のことなど考え出しながら、すこし気が鬱(ふさ)いで秋篠川にそうて歩いていたが、急に首をふってそんな考えを払い落し、せっかくこちらに来ていて随分ばかばかしい事だと思いながら、裏手から唐招提寺の森のなかへはいっていった。
 金堂も、講堂も、その他の建物も、まわりの松林とともに、すっかりもう陰ってしまっていた。そうして急にひえびえとしだした夕暗のなかに、白壁だけをあかるく残して、軒も、柱も、扉も、一様に灰ばんだ色をして沈んでゆこうとしていた。
 僕はそれでもよかった。いま、自分たち人間のはかなさをこんなに心にしみて感じていられるだけでよかった。僕はひとりで金堂の石段にあがって、しばらくその吹き放しの円柱のかげを歩きまわっていた。それからちょっとその扉の前に立って、このまえ来たときはじめて気がついたいくつかの美しい花文を夕暗のなかに捜して見た。最初はただそこいらが数箇所、何かが剥げてでもしまった跡のような工合にしか見えないでいたが、じいっと見ているうちに、自分がこのまえに見たものをそこにいま思い出しているのに過ぎないのか、それともそれが本当に見え出してきたのか、どちらかよく分からない位の仄かさで、いくつかの花文がそこにぼおっと浮かび出していた。………」

 現在の橋の上から見た秋篠川の写真を掲載しておきます。川沿いに少し北方に歩いていくと左側に唐招提寺に入る門があります。

写真は現在の唐招提寺金堂です。修理が終わって綺麗になっていました。この金堂は堀辰雄が見た講堂と同じものです。

 続きます!

堀辰雄の奈良地図 -2-


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良を尋ねる
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都に滞在、奈良も訪問
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る