●孫文を歩く 東京編 -6-
    初版2014年7月26日  <V02L04>  結婚記念写真他を追加 暫定版

 自作パソコンの調子が悪く、二週間位いじっていたのですがあきらめて、マザーボードを交換し、Windows8.1を再インストールしました。新しいチップセットのマザーボードに交換し、CPUも新しくしましたので性能もそれなりになっているようです。今回も引き続いて「孫文を歩く」を掲載します。孫文と宋慶齢の結婚前後の時期を歩いてみました。


「孫中山年譜長編」
<孫中山年譜長編 中華書局>
 今回も「孫中山年譜長編 上冊」 を参考にします。孫文の年譜を詳細に書いてある本です。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)3月と大正4年(1915)9月の孫文の最初の妻である盧夫人の日本訪問の記述から始めます。
「…3月10日 自京都經奈良抵大阪。
  △ 盧夫人抵大阪。
  盧夫人於3月8日到達~戸、10日抵大阪、住在與先生所住大阪飯店鄰近之銀水樓。是晩,先生去看地,談約半小時即告別。…

  3月17日 抵八幡,參観製鐵所。
  先生在赴福岡途中,接獲東京友人電告:盧夫人及先生秘書宋靄齢於16日在東京因車禍受傷。當宋嘉樹探詢先生是否轉往東京探視時、先生冷静地説:“不是醫生的人到東京有什麼用,就是人醫,現在也来不及了。…」

 「孫中山年譜長編 上冊」 によると孫文の最初の妻である盧夫人は二度日本を訪ねています。
 一度目は大正2年(1913)3月、孫文が辛亥革命に成功し、鉄道大臣に就任していた頃の日本訪問です。孫文が先に日本に発ち、後から盧夫人を呼んだようです。その時に大阪の中之島にあった銀水楼(「夏目漱石散歩」で掲載)で出会っています。その後の3月17日、孫文が八幡製鉄所を見学中に、”盧夫人と秘書の宋靄齢”が交通事故にあったとの連絡が入っています。この一節で、宋慶齢の姉の宋靄齢がこの時期に既に孫文の秘書をしていた事が分ります。

「… 9月1日 盧夫人抵東京。
  盧夫人係護先生之請來日商談離婚事,是晩抵東京。 18日 ,先生偕盧夫人遊上野公園。22日,又偕夫人出遊並購物。23日,先生送夫人至東京車站,盧夫人經横濱回澳門。(日本外務省檔案,1915年9月2、19、24日《孫文動静》,乙秘第1267、1856、1881號)…」

 二度目の日本訪問は大正4年(1915)9月になります。正式に離婚の成立した時です。10月には宋慶齢との結婚が迫っていた時期です。

【盧 慕貞(ろ ぼてい、ルー・ムージェン、1867年7月30日 - 1952年9月7日)】
 孫文の正室夫人。中国広東省香山県(現中山市)に生まれ、キリスト教徒。18歳の時に孫文と結婚し、一男二女(孫科と孫娫と孫婉)をもうけます。辛亥革命の後、孫文は忙しく国事を遂行していたことや、宋慶齢とのこともあり、1915年孫文と離婚します(孫文が生活の面倒は見ていた)。その後、盧はマカオへ移民し、1952年に死去、マカオの墓地に埋葬されます。2005年、中山市人民政府の依頼により、中山市に移されます。長男の孫科は孫文とともに国民政府において要職を歴任しています。(ウイキペディア参照)

写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。

「革命いまだ成らず」
<「革命いまだ成らず」 (下) 譚璐美(たん・ろみ)>
 今譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 から、孫文、宋慶齢の結婚についてのところです。
「… ただし、上海から日本を訪れていた大実業家の宋嘉樹とその娘、宋靄齢だけは例外だった。彼らは気軽に訪れてはおしゃべりに興じた。宋嘉樹は孫文の熱烈な崇拝者であり、スポンサーでもあったからだ。宋嘉樹は、間もなくアメリカの名門女子大学を卒業して帰国する次女・宋慶齢を、横浜
で出迎える約束になっていた。
 八月下旬、宋慶齢は横浜に到着して、父の出迎えを受けると、孫文にも挨拶に訪れた。
 彼女は二十歳を過ぎたばかりの、絶世の美女だった。目鼻立ちの整ったぽっちゃりした顔に、聡明さと気品を漂わせ、物静かだが、辺りを払うような毅然とした雰囲気を備えていた。孫文が一目ぼれしても、当然のことだったろう。
 かつて孫文は犬養毅の質問に答えて、「趣味はウーマン」と答えたことがある。事実、日本には横浜で見初めた女性との間に子供が一人いたし、ハワイでも華僑の娘との間に女の子をもうけていた。
 だが、宋慶齢は誰とも比較できない特別な存在であった。アメリカで近代知識を身に付けた女性は立派な人格を有し、男性に対しても堂々と自分の意見を主張する。そんな中国女性に出会ったのは、これが初めてだったのである。孫文の感激もひとしおだったはずだ。
 孫文は故郷の広東には旧習に従って親が決めた妻と二人の子供もいたが、妻を日本へ呼び寄せて上野公園を案内し、買い物に付き合った後に、協議離婚の話し合いをして納得させた。
 翌年、晴れて独身に戻った孫文は改めて宋慶齢にプロポーズし、日本で結婚することになった。
 結婚式は梅屋庄吉の自宅で行った。梅屋夫妻は二人の結婚を祝福して準備を整えてくれた。梅屋は香港で出会って以来、孫文の革命を資金面で支援しつづけてくれたが、この亡命時代には、とくに物心ともに気を遣い、暖かく支援してくれた一人だった。
 孫文は当時四十八歳。宋慶齢二十二歳。年の差は二十六歳あったが、彼女は妻として秘書として、その後の孫文を助け、ともに戦い続ける最良の伴侶となったのであった。…」

  ”一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した”と言われる三姉妹(長女靄齢、三女美齢、次女慶齢)は余りに有名ですが、その三姉妹の父親、宋嘉樹は、”チャールズ・ジョーンズ・スン(チャーリー)”と呼ばれ、十九世紀後半の上海を舞台に一代で財を成した実業家です。海南島の貧農家に生まれますが、幼小時代にボストンで茶や絹を商っていた移民の親類の養子となり渡米します。この時から宋姓を名乗っています。本人は養子先である商家を家出しハワイで神学を修め、メソジスト教会の宣教師となって上海に帰国します。上海で米国での知人の義妹に当たる名門の娘倪桂珍と結婚します。倪家は中国で初めてキリスト教信仰を受容したとも言われる徐光啓の子孫でした。家庭をもったチャーリーは、聖書の出版を手始めに実業家に転身し一代で財を成します。宋家は三姉妹を含め6人の子供に恵まれます。

・長女靄齢:国民政府の財政部門を担当したが、腐敗政権の象徴と言われた孔祥熙の妻
・次女慶齢:孫文の妻
・三女美齢:初代中華民国総統の蒋介石の妻

写真は新潮社版、譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)です。史実に忠実で詳細に書かれており、大変参考になります。よく調べて書けている本だとおもいました。一読を勧めます。

「宋慶齢」
<「宋慶齢」、イスラエル・エプシュタイン著、久保田博子訳>
 宋慶齢については全く無知だったので、一冊本を購入しました。「宋慶齢」(イスラエル・エプシュタイン著、久保田博子訳)です。孫文との結婚についても良く書かれており、参照にさせて頂きました。

 久保田博子訳「宋慶齢 上」から、孫文との結婚のところです。
「…   2帰国、そして結婚―東京

     孫文との再会

 宋慶齢は一九一三年八月二九日、アメリカ合衆国からの帰途、横浜に上陸し、翌八月三〇日、父親宋嘉樹〔チャールズ・スン〕、姉靄齢に連れられ、孫文の東京の隠れ家〔赤坂区霊南坂町二七番地 海妻猪勇彦方〕を訪れた。彼女が携えてきた孫文宛の書簡は、たぶん、この時に手渡されたと思われる。
 中華民国の創設者とともに亡命中の宋嘉樹は、孫の新たな革命の計画を財政的に援助し、また、その事務も分担していた。靄齢は孫の英文秘書として活動していた…」


 宋靄齢(長女)、宋慶齢(次女)と孫文との出合いを順に追ってみました。「孫中山年譜長編 上冊」からです。

和 暦(西暦) 内 容
大正2年(1913)3月16日 盧夫人及先生秘書宋靄齢於在東京因車禍受傷
(交通事故と書いていますが長女宋靄齢が孫文の秘書になっていました)
大正2年(1913)8月29日 宋慶齢自美抵日本横濱、其父宋嘉樹往迎
(父宋嘉樹はアメリカから横浜に到着する宋慶齢を迎えています)
大正2年(1913)8月30日 與宋慶齢會陪於海妻猪勇彦家
(宋慶齢は孫文が滞在していた海妻猪勇彦家を訪ねます)
大正2年(1913)9月 1日 乗晩7時的火車経紳戸赴上海。此行因故未能成行,又従紳戸返回東京
(姉妹は神戸経由で上海に向おうとしますが渡航できず東京に戻ります)
大正3年(1914)3月23日 宋慶齢単獨來訪
(宋慶齢が一人で孫文を訪ねます)
大正3年(1914)3月27日 患腸胃病、宋靄齢姐妹前來看護
(体調を崩した孫文を姉妹で看病します)
大正3年(1914)11月○日 両親の看病のため上海に戻ります(久保田博子訳「宋慶齢 上」から)
大正4年(1915)3月17日 赴東京車站迎接由滬返東京之宋慶齢
(宋慶齢が上海から東京に戻ってきます)
大正4年(1915)3月22日 偕宋嘉樹、宋慶齢及頭山滿女兒岩生赴熱海
(宋嘉樹、宋慶齢は孫文の滞在している熱海に向います)
大正4年(1915)3月26日 在熱海。次日、宋嘉樹偕頭山岩生返東京、先生與慶齢働留熱海,至31日、二人返東京
(孫文は熱海に滞在、宋嘉樹は先に東京に帰るが慶齢は31日まで滞在)
大正4年(1915)6月21日 宋慶齢上海に向け発つ(久保田博子訳「宋慶齢 上」から)
大正4年(1915)10月24日 宋慶齢東京に戻る(久保田博子訳「宋慶齢 上」から)
大正4年(1915)10月25日 與宋慶齢在東京結婚
(東京で孫文、宋慶齢結婚)

久保田博子訳「宋慶齢 上」から、大正3年(1914)11月頃のところです。
「… 一九一四年一一月、両親が上海に戻った時、彼らの健康状態がすぐれなかったので、慶齢も両親の面倒をみるために帰国した。
 一一月二九日付の日本の警察の報告によると、「孫文は、上海のロザモンド・スン宛に書留郵便を送った」となっている。その同じ資料によると、慶齢はほぼ三ヵ月間上海に滞在し、孫に呼ばれて、一九一五年三月一七日、東京に戻った。それから六月二一日まで、彼女はたびたび彼に会ったことを、刑事は書き残した。その日に、彼女はまた、上海に向けて船に乗ったようである。彼らが結婚の計画について話し合ったのは、その幾週間かであっただろう。ある説によると。二人の結婚の考えは早くからあり、両親が慶齢を上海に同行したのは、その計画を察知したからだという。…」

 ”一一月二九日付の日本の警察の報告”は”乙秘第2394號 大正3年11月29日”、”一九一五年三月一七日、東京に戻った”は”乙秘第574號 大正4年3月19日”で確認しました。孫文は大正3年3月18日午前9時40分に東京駅まで迎えに行っています。東京駅は大正3年(1914)12月20日に開業していますからピッタリ合っています(アジア歴史資料センターでインターネットで検索することができます)。六月二一日についてはまだ未確認です。

写真は「宋慶齢 上」、イスラエル・エプシュタイン著、久保田博子訳です。1995年12月発行で、発行所はサイマル出版会です。

「風に向かって走れ」
<「風に向かって走れ」、和田裕>
 もう一つ、孫文と宋慶齢の結婚について書かれた本を見つけました。和田裕氏の「風に向かって走れ」です。基本的のは和田裕氏の自伝で、東大卒、通産省から防衛庁装備局長をへてシャープへ天下り、副社長までなられた方です。和田裕氏の伯父が和田瑞で、この方が孫文と宋慶齢の結婚を取り持ったことで有名で、この時の事を聞き伝えとして書かれています。ご本人は昭和7年生まれなので、この時はまだ生まれておりません。

 和田裕氏の「風に向かって走れ」から孫文と宋慶齢の結婚のところです。
「… 和田家の語り部は、屯と茂登の末娘牧子(明治三十二年生まれ)であった。彼女が娘の頃、最も華やかな想い出は、東京女学院の女学生の頃、袋町の自宅で「孫逸仙(孫文の本名)さんが赤いきれいな中国風の花嫁姿に着飾ったお嫁さん(宋慶齢)と結婚式を挙げたこと」と話す。
 亡命中の孫文(近代中国の父、初代中華民国大統領)について記した著作(「梅屋庄吉と孫文」や「孫文とその女たち」)によると、孫文と宋慶齢は大正四年(一九一五)十月二十五日、牛込袋町の和田瑞宅で結婚した。和田瑞が立会人となって結婚の誓約書を書いていると記す。
 この時、和田家は、屯の長男の瑞が相続し戸主となっており、わが父弘も、この大きな家の部屋住みであった。瑞は、東京商科大学(現在の一橋大学)卒業後、日銀に入ったが、数年にして独立、屯から受け継いだ財産を元手に、中国貿易をはじめ、手広く事業を営んだ。そんな関係で、清国政府から、首に四十万円の賞金が懸かっている孫文氏と親交を結び、在日中百五十回の面談を行い、ついには同氏を自宅に招き彼と宋慶齢の結婚式を挙げた。
 多くの中国人が、日本に亡命や留学をして、それをまた多くの日本人が、中国の近代化のために、支援していた時代でもあった。我が家に残る孫文氏の想い出の品は、二人の結婚誓約書のほか神楽坂の夏目写真館で撮った氏の肖像写真一葉と宋慶齢夫人が使ったと伝えられる扇子一本だけである。このほか叔母の家には、氏が持参した中国式の立派な麻雀牌が残っている。…」

 孫文と宋慶齢についてはよく調べられているなと感心しました。お歳なので何方かが調べられているのではないかとおもいますが、それにしても良く詳細に調べられています。上記に書かれている”夏目写真館”は神楽坂では有名な写真館です。撮影に訪ねたら新しいビルに変っていて向い側のビルに神楽坂写真館として移転していました。手持ちの写真を探したら2000年に撮影した夏目写真館の写真を見つけることが出来ました。ただ当時はデジカメの性能が良くなく、いまいちの写真です。

写真は和田裕氏の「風に向かって走れ」です。2011年発行で、発行所は文芸社です。

「乙秘第****號」
<乙秘第****號大正**年**月**日>
 孫文には常に警官が付いており、行動は逐一報告されていました。原宿の自宅の前には巡査詰所があり、孫文本人を暗殺や妨害活動から守るだけではなく、24時間人の出入りや郵便物を監視していたようです。孫文だけではなく黄興等にも同じ状況でした。この監視状況を毎日、”孫文ノ動静”として報告していました。これがタイトルにある”乙秘第****號大正**年**月**日”となるわけです。これが外務省政務局に報告され、現在も国立公文書館アジア資料センターに外務省外交資料館資料として保存されています。

 ”乙秘第****號大正**年**月**日”の内容を見ることができるのは「アジア歴史資料センター」で、インターネットで検索することができます。ただ検索ワードを上手に使わないと見ることができません。例えば、”孫文”、”孫逸仙”とキーワードが別れている場合があります。氏名よりは”革命党”等で検索する方が抜けが無くデータを見ることがでます。

写真は乙秘第1258號大正4年8月30日の”孫文ノ動静”です。特に見にくい資料を選んでいます(拡大はしません)。はっきり読み取れる資料も多いのですが、このように薄くなって全く読み取れない資料もかなりあります。又、カタカナで書かれているので一層読みにくくなっています。読めない資料は直接現物を閲覧に行くか、前後関係や人名から推測するしかありません。

「今川小路二丁目一〇番地」
<神田区今川小路二丁目十番地>
 宋嘉樹と娘二人(靄齢、慶齢)は度々孫文を訪ねています。大正2年(1913)9月以降のことです。その後、姉妹と弟は上海に戻ろうとしますが帰ることが出来ず、再び東京に戻ります。姉妹はそのまま大正3年(1914)11月まで東京に滞在し孫文の面倒をみます。

 久保田博子訳「宋慶齢 上」からです。
「   2帰国、そして結婚―東京

     孫文との再会

 宋慶齢は一九一三年八月二九日、アメリカ合衆国からの帰途、横浜に上陸し、翌八月三〇日、父親宋嘉樹〔チャールズースン〕、姉靄齢に連れられ、孫文の東京の隠れ家〔赤坂区霊南坂町二七番地 海妻猪勇彦方〕を訪れた。彼女が携えてきた孫文宛の書簡は、たぶん、この時に手渡されたと思われる。
 中華民国の創設者とともに亡命中の宋嘉樹は、孫の新たな革命の計画を財政的に援助し、また、その事務も分担していた。靄齢は孫の英文秘書として活動していた〔慶齢は、その後、九月一日に姉と弟の宋子良とともに上海に赴くために、孫の隠れ家を出て神戸に向かうが、帰国ができないまま神戸オリエンタルホテルに滞在することになった。その間、嘉樹は東京市神田区今川小路二丁目一〇番地(当時)に居を定め、同月中旬、宋の家族はみな上京してそこに落ち着いた]。
 慶齢は同十六日、再び姉といっしょに孫文を訪ね、以後、父や姉とともに一〇日間に七回、毎回数時間としうような頻度で孫と会っている。このようにして、彼女はすばやく、熱心に、孫文の革命事業の活動に加わり、その必要に応えていった。…」

 父親の宋嘉樹は東京に長く滞在することを見越して神田區今川小路に家を借りています。上記に書かれている東京市神田区今川小路二丁目一〇番地です。姉妹はこれで安心して孫文のところに通えるわけです。

写真の正面付近が東京市神田区今川小路二丁目一〇番地です。現在の千代田区西神田三丁目8−4附近で、専修大学5号館のところとなります。宋嘉樹は大正3年(1914)には神田区仲猿楽町9に移られたようです。

「神田区錦町三ノ四」
<神田区錦町三ノ四>
 和田瑞(わだずい)について少し書かなければ話が良く分らないとおもいます。孫文との関係のところを記載します。

 和田裕氏の「風に向かって走れ」からです。
「… この時、和田家は、屯の長男の瑞が相続し戸主となっており、わが父弘も、この大きな家の部屋住みであった。瑞は、東京商科大学(現在の一橋大学)卒業後、日銀に入ったが、数年にして独立、屯から受け継いだ財産を元手に、中国貿易をはじめ、手広く事業を営んだ。そんな関係で、清国政府から、首に四十万円の賞金が懸かっている孫文氏と親交を結び、在日中百五十回の面談を行い、ついには同氏を自宅に招き彼と宋慶麗の結婚式を挙げた。…

… 大正二年(一九一三)、第三革命に敗れて袁世凱に政権を奪われ日本へ渡航を志した孫文に対して、袁政権に遠慮する山本権兵衛内閣は、極めて冷たかった。「叛軍首領を叛意させ、本邦に渡来せしめざるよう」との日本政府の孫文の中国出発に対する指令が出された。しかし、孫の日本亡命の強い意志と孫の日本における同志萱野長知らの努力で、日本政府も結局は何とか神戸への上陸を黙認(九月十七日)することとなった。その直後、山本内閣は袁政府の問い合わせについては「孫文の来日は帝国政府の極めて迷惑とするところ」と答えている。以下、瑞と孫文の交流を「記録」で追いたい。

   東京の隠れ家に着いた後の九月十七日「記録」乙秘第一三○三号は記す。
       午前零時二〇分 神田区錦町三ノ四 支那貿易商 和田瑞、萱野長知と共に来訪
           同五〇分 退出
  九月十九日 午前一一時三○分 神田区錦町三ノ四 和田瑞 来訪
        午後○時四〇分 退出

 これで分かる通り、瑞は郷土土佐の先輩で孫文の友人の萱野氏に紹介されて、孫文に初会見している。
 もっとも、瑞は九月十六日には、孫文と並ぶ共和革命の大立物黄興氏をも、午後九時五十分より翌朝十二時まで訪問会談している、
   孫文訪問の第五回目の報告(記録)
   午後九時四〇分和田瑞、使をもって十三日発行の中外商業新報に、自分(和田)の意見を掲載したるを以って一見せられたき旨を名刺に記し、該新聞を送り越せり。添付として「支那と袁の将来、強圧の動機と反感熱」との見出しの二段六〇行の投稿を記録している。その内容は「袁が施政を誤り、追従の徒のみを用い、国民の信を失墜し、今や暗澹たる状況に陥った」との趣旨。…」

 和田瑞は中国貿易を行なっており、そのため孫文に近づいています。商社マンとしては当然ですね。中国で孫文が必ず権力を掌握すると見込んで肩入れしている訳です。

【萱野 長知(かやの ながとも、1873年10月12日 - 1947年2月14日)】
 日本の政治運動家・民間外交家で大陸浪人・アジア主義者の代表的人物のひとり。高知県出身。自由民権運動に傾倒するが、後に大阪時事通信社の社員となります。後に中国に渡って中国語を学び、広東・香港で新聞通信員となり、辛亥革命中の孫文と知り合い、辛亥革命をアジア主義者として支援します。満洲事変解決のために犬養毅の命を受け、蒋介石との停戦和平交渉に出向く途中で松井石根陸軍中将(当時)、外務官僚重光葵、書記官長森恪の妨害により、失敗したことが有名です。

写真の正面角が左側が神田区錦町三ノ四です。この場所に和田瑞の中国貿易会社があったものとおもわれます。自宅は下記の袋町です。現在の地番で東京都千代田区神田錦町3丁目6−7となります。

「和田瑞邸跡」
<牛込区袋町五番地の和田瑞邸>
 和田瑞の自宅が牛込区袋町五番地です。和田瑞が孫文と宋慶齢の結婚式のお膳立てをし、彼の家で結婚式をあげたものとおもわれます。離婚の手続きと結婚の手続きを和田瑞に依頼していたためで、結婚の誓約書も和田瑞が立会人となっています。誓約書の日付が10月26日になっているのが少し気になります(26日には和田瑞と合っていないので25日に26日の日付でサインしたものと推定します)。

 和田裕氏の「風に向かって走れ」からです。
「…  「記録」
 昨二十五日(大正四年十月)
 午前八時、内地郵便一通到着
 午前十時五分、和田瑞来訪、同十時三十分退出
 この間、略(十一時十五分より三時五十分まで中国の要人八名が次々に踵を連ねて来訪)
 同四時三十分孫文は、同宿の宋慶林(ママ)を伴い、自動車にて外出
 牛込区袋町五番地 和田瑞方に至り、晩餐の饗應を受け、同七時和田を連し、自動車にて退出、赤坂区溜池待合三島へ、和田を送り、
 同七時三十分帰宅せり
 同六時三十分、居正(革命の同志)来訪、同八時十分退出、孫は帰宅すると直ちに談話をなし 以上

とある。…」

 大正4年(1915)10月25日の日の孫文の行動については、乙秘第2074號大正4年10月26日〜で確認済みです。

右上の写真左側附近が牛込区袋町五番地の和田瑞邸跡で、坂道は地蔵坂です。神楽坂の直ぐ傍です。現在の地番も全く同じです。

「梅屋庄吉邸跡」
<梅屋庄吉邸>
 多くの書籍に孫文と宋慶齢の結婚披露宴が梅屋庄吉邸で開かれたと書かれています。孫文と宋慶齢の結婚式は和田瑞邸で行なわれた事は明白なのですが、梅屋庄吉邸で本当に披露宴は開かれたのか、もし開かれたならば何時で開かれたのかが謎です

【梅屋庄吉(うめや しょうきち、明治元年11月26日(1869年1月8日)- 昭和9年(1934年)11月23日)】
 日本の実業家。アジア主義者。孫文の支援者であり、日活の創業者のひとりです。長崎県に生まれ幼少期、土佐藩経営の土佐商会の家主でもあった貿易商・梅屋家に養子入りをしまる。一時は米穀相場に失敗して中国へ退転しますが、写真術を学んで写真館を経営するなど、香港で貿易商として地位を築いていきます。明治28年(1895)に中国革命を企図した孫文と香港で知り合い、多額の資金援助をし、辛亥革命の成就に寄与しています。明治38年(1905)頃に日本に帰国し、日活の前身であるM・パテー商会を設立、映画事業に取り組んで白瀬矗の南極探検や辛亥革命の記録映画を製作し、これらの事業で得た多額の資金を革命に投じています。大正2年(1913)に孫文が袁世凱に敗北し日本に亡命した後も、大正4年(1915)に孫文と宋慶齢との結婚披露宴を東京・新宿(大久保百人町)の自邸で主催するなど、たびたび孫文への援助を続けます。昭和4年(1929)には南京に孫文像を寄贈しています。千葉県夷隅郡長者町(現・いすみ市日在)の別荘において孫文らと秘密の会議をしばしば行なっていました。日中関係の悪化に伴い、外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上、別荘の最寄駅である外房線三門駅にて倒れ、急死します。65歳歿。(ウイキペディア参照)

 和田裕氏の「風に向かって走れ」からです。
「…翌二十六日の「記録」は記す。
  三時三十分 孫は同宿の宋慶林を伴い自動車にて府下大久保百人町三一二番地 梅屋庄吉方を訪問
  同五時十五分帰宅
 この時、一部の孫文研究によると、孫文氏が、瑞の邸宅にいる間に、瑞が結婚契約書を作成用意し、証人として二人の署名に添えて署名した。その後、梅屋庄吉邸で披露宴を行ったという。しかし、この後段の披露宴の話は「記録」と合致しない。つまり、「記録」は、和田邸にて(結婚式の)晩餐があったとする(これは内輪のしかし結婚誓約書と証人が揃っていて、法律的には完全なものであった)。この晩の「記録」はハイティーンであった叔母牧子の話と一致する。その、牧子が見たと言っている、赤い結婚衣装は、神戸舞子海岸の孫文記念館の移情閣に展示されている中国衣装そのものであろう。しかし、この「記録」中には、孫文が梅屋庄吉宅で、「梅屋庄吉と孫文」(読売新聞社刊)が伝えるような披露宴を挙げたということを証する記述は一切ないし、またその時間も見出し得ない。また、披露宴に当然呼ばれたであろう日本の政財界の大物の出入りを監視していたであろう警視庁の公安の記録もない。したがって、以下に述べるところから、披露宴の開催は関係者の善意の記憶違いであったのかと、筆者は推察している。むしろ後に記するように、披露宴が開かれなかったことを示す積極的ないくつかの記録があるとの有力な推論が成立すると考えている。
 この結婚に在日の中国亡命者は全員猛反対であった。糟糠の妻と二人の息子を捨てて、二十六歳も年下の小娘と、革命も煮詰まったこの時期に何だ、と言うことであったろう。同志が、広東で、また仏山で戦い、多くが倒れていた時期であった。もし呼ばれていても披露宴の出席には、在日中国人同志は全員ボイコットしたであろう。
 披露宴がなかったことを証明するかのように「雑纂」は記す。
 「十一月五日。宋慶林(ママ)は孫方に滞在中なり。追って、孫は来る十日宋慶林に結婚披露宴を施し、十数名の知人を招致する模様なりと言う」
 しかし、その後の雑纂には、招待宴が開かれた記録がない。このしばらく後、孫文が宋慶齢をともない、外出中に中国商工会を訪れ中に入ろうとしたが、宋は車を降りることを拒んだと雑纂は記している。正式な披露宴も開かれず、自分の結婚に反対した人達の前に姿を現したくない若い夫人の気持ちを察すべしである。…」

 ”翌二十六日の「記録」は記す。”のところが、乙秘第2086號大正4年10月28日を見ると、27日に梅屋庄吉方を訪問したことになっています。一日違います。乙秘第2086號大正4年10月28日の方の27日が正しいのではないかとおもわれます。梅屋庄吉宅の住所も”府下大久保百人町三一二番地”と書かれていますが原本は下記の通り”府下大久保百人町三百五十番地”で、350番地が正しいです。

「乙秘第2086號大正4年10月28日
「昨二十七日…
仝十時四十分朱超外出 午後四時三十分宋嘉樹夫婦ヲ同伴寄宿、…
仝三時卅分 孫ハ同宿ノ宋慶林(ママ)ヲ伴ヒ自働車ニテ府下大久保百人町三百五十番地梅屋庄吉方ヲ訪問仝五時十五分退出帰宅、…
仝十時 孫ハ宋嘉樹夫婦及宋慶林(ママ)ヲ伴ヒ自働車ニテ外出 神田区水道橋際ニテ宋夫婦ト別レ仝十一時帰宅、…」

(関連項目のみを記述しました)
 乙秘第2086號大正4年10月28日によると、孫文と宋慶齢が27日15時30分に梅屋庄吉邸に出かけ、一時間程滞在しています。梅屋庄吉邸に滞在中の16時30分に宋嘉樹夫妻が原宿の孫文宅に到着していて梅屋庄吉邸には行っておらず、これを見ても10月27日には梅屋庄吉邸での披露宴は開かれていないのが分かります。

 長崎歴史博物館のホームページに”孫文と宋慶齢は、1915年10月25日東京で結婚し、11月10日に新宿百人町の梅屋庄吉邸で披露宴が行われた。”と書かれていました。

「乙秘第3029號大正4年11月 6日
…宋慶林(ママ)ハ孫方に滞在中**追テ孫**仝*十日宋慶林ト結婚披露宴*為*十数名ノ知人を招待ト***様****(*は薄くて字が読めない)…」

との記述があり、披露宴の予定が書かれています。しかしながら、乙秘第3029號大正4年11月11日(10日の行動が書かれている)以降には披露宴が開催された記述はありません(乙秘が日付順に全て揃っているわけではありませんので絶対ではありません)。又、披露宴の寫眞も残っていませんので、開かれなかった可能性が高いのですが、もう少し調べてみる必用もありそうです。

右上の写真左側一帯が大久保百人町三百五十番地 梅屋庄吉宅です。

【M・パテー商会(エム・パテーしょうかい、1906年7月4日 - 1912年9月1日 合併)】
 かつて東京に存在した日本の映画会社。日本最古の映画会社のひとつであり、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。長崎の貿易商で、20代の1895年(明治28年)ころには香港島の金融街で写真館「梅屋照相館」を経営していた梅屋庄吉が、フランスのパテー(Pathé)社の映画プリントをイギリスの植民地のシンガポールで入手、それを手に帰国して1906年(明治38年)7月4日に「M・パテー活動写真商会」を設立、京橋区の「新富座」で第1回興行を行ったのが同社の始まりです。同年、同会は「M・パテー商会」に改組。当初は輸入物の作品を翻訳して活弁台本を作成、興行をしていたが1908年(明治40年)には中村歌扇らの俳優を出演させた劇映画を製作し始めます。同年、株式会社化。1909年(明治42年)、東京府豊多摩郡大久保百人町(現在の新宿区百人町)に撮影所をオープン、同年5月23日には岩藤の脚本・監督作『日本桜』が「第一文明館」で公開されている。同作は岩岡が撮影し、新派劇の俳優・関根達発が主演しています。1911年(明治44年)には、同社の撮影技師田泉保直を南極に派遣し、白瀬矗率いる「第二次南極探検隊」に随行させて、ドキュメンタリー映画『日本南極探検』を製作、翌1912年(大正元年)に公開しています。同年9月1日、福宝堂、横田商会、吉沢商店との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立しています。梅屋の私邸の敷地内であった大久保撮影所はこのとき閉鎖されますが、のちに梅屋はM・カシー商会を立ち上げ、同撮影所を稼動することになります。(ウイキペディア参照)

「結婚記念写真」
<孫文・宋慶齢結婚記念写真>
 孫文と宋慶齢は結婚の翌年の大正5年(1916)4月24日に結婚記念写真を撮影しています。披露宴が開かれればその時の寫眞が記念写真になっていたとおもうのですが、披露宴が開かれず、ずるずると翌年の4月まで経ってしまったという感じでしょうか!、4月27日には上海に向わなければならず、ぎぎりぎりでした。

 外務省記録の革命党関係資料からです。
「乙秘第517號 4月25日
昨日廿四日…
仝五時 孫文ハ宋慶林及来訪者・梅屋庄吉・妻某ト自働車ニテ外出、麹町区有楽町一ノ三大武写真店ニ行キ撮影シ仝店ニ於テ署名(?)シ別レ孫ハ仝五時五十分写真店を出テ……」

 梅屋庄吉夫妻が同行していますので、お膳立ては梅屋庄吉夫妻が全て行なったものとおもわれます。

右上の写真がその時に撮影された写真です。まだしっかり残っています。撮影した大武写真館の住所は大正11年の職業別電話名簿で確認済みです。当時はすでに日比谷から銀座四丁目交差点への道が出来ており、有楽町一丁目三番は現在の日比谷マリンビル、東宝ツインタワービルのところとおもわれます。関東大震災後、大武写真館は復活していましたが昭和10年代には無くなっています。元々は仙台の写真館で、仙台では現在も営業されているようです。



旧神田區(現 千代田区)附近地図



飯田橋、神楽坂附近地図



新宿、新大久保附近地図



霞ヶ関、日比谷附近地図




孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 帝国大学令公布
自由の女神像が完成
20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
11月〜12月 孫文は香港から横浜経由でハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 カナダ経由で横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 47 8月 孫文、日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 49 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
58 3月 孫文死去