<孫中山年譜長編 中華書局>
今回も「孫中山年譜長編 上冊」
を参考にします。孫文の年譜を詳細に書いてある本です。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)3月と大正4年(1915)9月の孫文の最初の妻である盧夫人の日本訪問の記述から始めます。
「…3月10日 自京都經奈良抵大阪。
△ 盧夫人抵大阪。
盧夫人於3月8日到達~戸、10日抵大阪、住在與先生所住大阪飯店鄰近之銀水樓。是晩,先生去看地,談約半小時即告別。…
…
3月17日 抵八幡,參観製鐵所。
先生在赴福岡途中,接獲東京友人電告:盧夫人及先生秘書宋靄齢於16日在東京因車禍受傷。當宋嘉樹探詢先生是否轉往東京探視時、先生冷静地説:“不是醫生的人到東京有什麼用,就是人醫,現在也来不及了。…」
「孫中山年譜長編 上冊」 によると孫文の最初の妻である盧夫人は二度日本を訪ねています。
一度目は大正2年(1913)3月、孫文が辛亥革命に成功し、鉄道大臣に就任していた頃の日本訪問です。孫文が先に日本に発ち、後から盧夫人を呼んだようです。その時に大阪の中之島にあった銀水楼(「夏目漱石散歩」で掲載)で出会っています。その後の3月17日、孫文が八幡製鉄所を見学中に、”盧夫人と秘書の宋靄齢”が交通事故にあったとの連絡が入っています。この一節で、宋慶齢の姉の宋靄齢がこの時期に既に孫文の秘書をしていた事が分ります。
「… 9月1日 盧夫人抵東京。
盧夫人係護先生之請來日商談離婚事,是晩抵東京。
18日 ,先生偕盧夫人遊上野公園。22日,又偕夫人出遊並購物。23日,先生送夫人至東京車站,盧夫人經横濱回澳門。(日本外務省檔案,1915年9月2、19、24日《孫文動静》,乙秘第1267、1856、1881號)…」
二度目の日本訪問は大正4年(1915)9月になります。正式に離婚の成立した時です。10月には宋慶齢との結婚が迫っていた時期です。
【盧 慕貞(ろ ぼてい、ルー・ムージェン、1867年7月30日 - 1952年9月7日)】
孫文の正室夫人。中国広東省香山県(現中山市)に生まれ、キリスト教徒。18歳の時に孫文と結婚し、一男二女(孫科と孫娫と孫婉)をもうけます。辛亥革命の後、孫文は忙しく国事を遂行していたことや、宋慶齢とのこともあり、1915年孫文と離婚します(孫文が生活の面倒は見ていた)。その後、盧はマカオへ移民し、1952年に死去、マカオの墓地に埋葬されます。2005年、中山市人民政府の依頼により、中山市に移されます。長男の孫科は孫文とともに国民政府において要職を歴任しています。(ウイキペディア参照)
★写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。