●夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (上)  【明治44年】
    初版2012年7月14日 
    二版2013年3月18日  銀水楼跡の写真を入替え
    三版2013年5月25日  朝日倶楽部の写真を追加
    三版2015年1月31日  <V01L01> 銀水楼の写真を追加 暫定版

 「夏目漱石散歩」を順次掲載しています。今回は”夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (上) 明治44年”です。大阪朝日新聞社主催の講演会に招かれての旅で、明石、和歌山、堺、大阪と四ヵ所での講演をこなしています。宿泊場所、講演会場を順次歩いてみました。




「漱石全集」
<漱石全集>
 夏目漱石はかなりの回数、関西を訪ねています。その中で今回は明治44年8月の大阪朝日新聞社主催の講演会で明石、和歌山、堺、大阪を訪ねた足跡を巡ってみました。参考図書は主として「漱石全集 第二十巻」の日記と、「漱石全集 第二十七巻」の年譜を参考にしました。
 「漱石全集 第二十七巻」の年譜、明治44年8月からです。
「8月11日 大阪朝日新聞主宰の講演会のため東京を出発した。十日発の予定であったが、台風で鉄道が不通になり予定を遅らせた。《S日記九》
8月12日 箕面の朝日倶楽部に泊まった。《S日記九》
8月13日(日) 明石の公会堂で『道楽と職業』と題した講演を行なった。《S日記九》
8月14日 電車で和歌浦に出て、エレベーターに上ったり、紀三井寺に参詣したりした。《S日記九》
8月15日 新和歌浦を見物した後、県会議事堂で『現代日本の開化』と題して講演を行なった。固辞した講演後の宴会に出るが、風雨はげしく漱石らは和歌浦に戻らず新和歌浦に泊まった。《S日記九》
8月16日 大阪に戻った。《S日記九》
8月17日 堺の市立高等女学校講堂で『中味と形式』と題した講演を行なった。《O》
8月18日 大阪の中之島公会堂で『文芸と道徳』と題した講演を行なった《O》。講演後、宿舎の紫雲楼に戻ったところ、「宿屋で寝てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろい」たと。後に回顧した《○23書簡1556》。

 8月19日 大阪朝日新聞社の紹介により、大阪市東区の湯川胃腸病院に入院した。《鏡子》
 8月21日 鏡子が東京から駆けつけた。《鏡子》《荒》

 9月14日 十三日に大阪を発ち、この日帰京した。 《荒》…」

 上記の年譜は大阪朝日新聞社主催の講演会で明石、和歌山、堺、大阪を訪ねた項目以外は省いています。”○23”は○の中に23が入っています(第二水準を超えるため)。
 8月13日から8月18日で講演は終っているのですが、漱石の持病である胃の病気が再発し、大阪で約一ヶ月入院しています。そのため帰京が遅れ、9月に東京に戻っています。

 年譜内容に関しては、一部、日記との相違が見受けられます。
・8月12日 箕面の朝日倶楽部に泊まった。《S日記九》 → 日記では明石の「衝濤館」に宿泊
・8月15日 …風雨はげしく漱石らは和歌浦に戻らず新和歌浦に泊まった。《S日記九》 → 本町の富士屋旅館に宿泊
日記の方が正しいとおものですがどうでしょうか?

上記写真は岩波書店の「漱石全集」です。全28巻、別巻一巻となります。凄い量なので本棚ではなくて積み上げています。この全集は古本でしか買えませんので、文庫本で筑摩書房版の漱石全集を紹介しておきます。文庫本は安くていいですね。

「二代目大阪駅」
<大阪駅>
 漱石は明治44年8月10日に大阪に向けて出発する予定でしたが、台風のため一日出発を延ばします。講演の最初は明石で、8月12日でしたので1日余裕がありました。
 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「〔八月〕十日〔木〕

○夜眼を三度さます。一度は静かであつたがあとの二度は大変な音をして雨が降ってゐだ。明日はとても不通だらうと思ふ。昨夕寝る時、車夫に起きがけに電話をかけて不通か連絡がついたかを聞き合せてもし不通ならば、汽車不通あすの朝迄待って見るといふ電報を社へかけるやうに命じた。所が今朝六時に起きて飯を食って、七時過になっても車夫が帰らない。聞いて見ると電話が御話中で中々かゝらないのだといふ事が分った。そのうち七時四十分になった。八時三十分の汽車には殆んど返事の如何に関らず到底間に合ひさうもない。雨は一時小降りになると共に天地が非常に静かになった。表をあるく人の足音が耳に入る。門の外を窺ふとあらゆる泥を洗つたやうに白い砂利の肌が明らさまに見えた、八時頃車夫が帰って、矢張不通だといふ。

 〔八月〕十一日〔金〕

 快晴新橋に行くと東海道全通とある。早速乗り込む。鶴見の手前で電信柱の半水に埋れたのを見る。道中夫程の災害もなき模様、袋井の処はレイルの下を刳って二十尺ばかり持って行ったので長さは僅ばかりである。

 車中川崎造船所の桑ばた、小山正太郎画伯、浜野工学、逓信省の猪木土彦に逢ふ。暑甚し。八時半つく。長谷川高原両氏迎へらる。銀水に入る。川向の家なり。対岸に病院、前に図書館、公会堂、夜暑甚し、縁側を明け放して寝る。…」

 漱石が乗車した列車を探してみました。朝8時30分新橋駅発(東京駅発に変わったのは大正3年(1914))なので、大正元年の時刻表で見ると、「特別急行下関行」で、新橋駅発午前8時30分、大阪駅着午後8時25分で、約12時間掛かっています。「特別急行下関行」は一日一本で、その他は急行でした。

写真は二代目の「大阪駅」です。一代目の「大阪駅」は明治7年5月に建てられています。二代目は明治34年にゴシック様式で建てられます。今回の大阪訪問は明治44年ですから夏目漱石はこの大阪駅に降り立ったわけです。三代目の「大阪駅」は昭和15年です(三階建ての鉄筋コンクリートの建物)。

【夏目漱石(なつめそうせき)】
慶応3年(1867)、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)

「銀水樓」
<銀水>
 2013年3月18日 写真を入替え
 2015年1月31日 銀水楼の絵葉書を追加

 漱石は新橋駅発の「特別急行下関行」の一等車に乗ったとおもわれます。それにしても12時間列車に乗っていればそうとう疲れていたでしょう。大阪駅から出迎えに付き添われて宿に向います。
 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十一日〔金〕

 快晴新橋に行くと東海道全通とある。早速乗り込む。鶴見の手前で電信柱の半水に埋れたのを見る。道中夫程の災害もなき模様、袋井の処はレイルの下を刳って二十尺ばかり持って行ったので長さは僅ばかりである。

 車中川崎造船所の桑ばた、小山正太郎画伯、浜野工学、逓信省の猪木土彦に逢ふ。暑甚し。八時半つく。長谷川高原両氏迎へらる。銀水に入る。川向の家なり。対岸に病院、前に図書館、公会堂、夜暑甚し、縁側を明け放して寝る。

 〔八月〕十二日〔土〕

 五時半起床、朝見るときたなき旅屋なり下宿の少し気の利いたやうなものなり、室に渋を引いた紙を一杯にしく。たまらぬ暑なり、七時になっても下女が床を上げに来ず。。…」

 漱石が大阪で泊った宿は”銀水”と書かれています。銀水は”川向の家なり”と書かれていますので、堂島川を越えた中之島で、”銀水”といえば、”銀水樓”のこととなります。銀水楼は、堂島川に面した有名な料理旅館のはずなのですが、漱石が宿泊した時は建物が古くなっていたのかもしれません。

左上の絵葉書は堂島川を挟んで梅田側から撮影した「銀水樓」です。絵葉書のスタンプが明治42年となっていますので、漱石が大阪を訪ねる2年程前の絵葉書になります。かなり大きな料理旅館だったようです。絵葉書の右上に公会堂の屋根が写っていますが、現在の大阪市中央公会堂(大正7年(1918)開館)ではありません。古い公会堂の屋根です。「銀水樓」の位置は中之島公会堂北側やや東にありました。


夏目漱石の大阪地図 -1-



「阪急 箕面駅」
<箕面電車 箕面駅>
 大阪に到着した翌日の8月12日、漱石は箕面に向います。明石での講演は翌日であり、旅の疲れ取りと避暑を兼ねて、箕面の朝日倶楽部に向ったものとおもわれます。
 箕面は大阪駅から北に直線で15Km程、古くから修験道の道場であり、勝尾寺、瀧安寺、延喜式内大社である阿比太神社や為那都比古神社などがありました。明治43年(1910)には箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は宝塚本線と併せて箕面線を開通させています。もともと箕面滝や瀧安寺を訪れる観光客の輸送を目的として箕面線が敷設されたために、現在の市街地の最も北端の山裾である箕面滝道の入り口に駅が設置されています(東京で云うと高尾山かな!)。(ウイキペディア参照)
 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十二日〔土〕

 五時半起床、朝見るときたなき旅屋なり下宿の少し気の利いたやうなものなり、室に渋を引いた紙を一杯にしく。たまらぬ暑なり、七時になっても下女が床を上げに来ず。
 九時過箕面電車にて箕面に行く渓流の間を上る。朝日倶楽部は寺の左の崖の上にあり、甃、縄暖簾、ぢゞと婆、婆はっんぽ。ぢいさんも 婆さんはくりくり坊主である。…」


上記写真は現在の阪急箕面駅です。 当時の箕面駅は大正期までは折り返しをラケット状のループ線で行っており、ポールの付け替えの手間を省いていました。また、開業当時は石橋駅がデルタ線となっていたため、梅田から当駅まで来て折り返し、宝塚へ向かう電車も設定されたといわれています。(ウイキペディア参照)

「朝日倶楽部跡」
<朝日倶楽部>
 2013年5月25日 当時の朝日倶楽部の写真を追加
 漱石が休息した箕面の朝日倶楽部について少し文献を探してみました。詳細を記載した文献がないかと探しましたら、箕面市立図書館の館報「らぶっく 第31号」に”特集 箕面にまつわる本のはなし 夏目漱石 「彼岸過迄」”として”朝日倶楽部”が書かれていました。
「 朝日倶楽部の跡地をたずねて
 昆虫館を越え、滝道をさらに登る。事前の調査によれば朝日倶楽部は瀧安寺の山門付近にあったと推定されるが現地でなかなかその痕跡がみつからない。途方にくれ本堂付近で休んでいると住職の姿が見えた。早速跡地について尋ねると寺より持参された「播州箕面山瀧安寺全図」の中に、旧名である秋錦楼があった場所が記されていた。大きな手がかりを頂いた住職に感謝し、絵図をたよりに瀧安寺霊園付近を探索すると、点々と続く古い石段を発見。上りロのある少し開けた丘には、古い建物の基礎とみられるブロック片も残っていた。小説にあるように二階建てであればここから鳳凰閣も見渡すことができる。明治から変わらない美しい風景がまぶたに浮かんだ。「大変好い所でした」そんな漱石の声がふと聞こえたような心地がした。…」

 上記を読んだだけではまだ場所がとく掴めませんでした。仕方が無いので実際に歩いてみました。
1.箕面駅から一の橋を渡って滝道をすすむ(古い一の橋の絵葉書)。
1.昆虫館前をすすむ。
2.昆虫館を過ぎてすぐ左手に鳥居が見えてくるので、滝道から左に折れて鳥居をくぐってすすむ(龍安寺霊園の矢印あり)。
3.十数メートルで左に曲がります(真っ直ぐ進むと龍安寺山門の左手にでます)。
4.左手に曲ると、すぐ左手に龍安寺霊園の入口があります。その反対側に小径があります。
5.この小径を数十メートル登っていくと左手が広く”切り開かれた平地”にでます(上記写真を参照)。
6.この”切り開かれた平地”が朝日倶楽部跡と推定しています。
7.この小径をさらに進と弁天堂の入口、護摩堂の手前にでます。

夏目漱石 「彼岸過迄」より
「…僕は昨日京都から大阪へ来ました。今日朝日新聞にいる友達を尋ねたら、その友人が箕面という紅葉の名所へ案内してくれました。時節が時節ですから、紅葉は無論見られませんでしたが、渓川があって、山があって、山の行き当りに滝があって、大変好い所でした。友人は僕を休ませるために社の倶楽部とかいう二階建の建物の中へ案内しました。そこへ這入って見ると、幅の広い長い土間が、竪に家の間口を貫ぬいていました。そうしてそれがことごとく敷瓦で敷きつめられている模様が、何だか支那の御寺へでも行ったような沈んだ心持を僕に与えました。この家は何でも誰かが始め別荘に拵えたのを、朝日新聞で買い取って倶楽部用にしたのだとか聞きましたが、…」

「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十二日〔土〕

 九時過箕面電車にて箕面に行く渓流の間を上る。朝日倶楽部は寺の左の崖の上にあり、甃、縄暖簾、ぢゞと婆、婆はっんぽ。ぢいさんも 婆さんはくりくり坊主である。其上又外の婆さんの頭をくりくりにしてゐる。脊中を叩くと、おや御免やす、今八十六の御婆さんの頭を剃っとる所だすよって。
── 御婆さんぢっとしてゐなはれや、もう少しげけれ、 ── よう剃ったけれ毛は一本もありゃせんよって、何も恐ろしい事あありゃせん。 ── 御婆さんは頭を撫でゝ、大きにといふ。それから御免やすといって帰って行く。御婆さんどこだと聞くと千秋閣だす、御帰りに御寄りゃす。千秋閣とは入口の立派な料理屋なり。
 滝の処に七丁程上る。シブキを浴びて床几に腰を掛けて話す。夫から倶楽部に帰って千秋亭(閣)から料理をとって食ふ。ひる寝。五時頃起きる。婆さんが又湯に入れといふ。やめて入らず。又電車で梅田に帰る。。…」

 上記に書かれている”千秋閣”は、滝道沿いの龍安寺山門右側手前にありました(現在は更地です)。

写真は現在の朝日倶楽部跡入口です。この階段を登った左側にありました。この朝日倶楽部は旧名を秋錦楼といい、大阪朝日新聞が買い取って保養所にしたようです。

 箕面市役所行政史科より当時の箕面山朝日閣(朝日倶楽部)の写真をお借りすることが出来ましたので、掲載しておきます。


夏目漱石の箕面地図



「衝濤館」
<衝濤館(しょうとうかん)>
 8月12日、漱石は箕面の朝日倶楽部で休息した後、大阪に戻って明石に向います。13日に明石の公会堂で講演をするためでした。
 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十二日〔土〕

…又電車で梅田に帰る。夫から直に明石に向ふ。社の販売部の男案内をしたり荷物を持ってくれる。八時三十分明石着衝濤館に入る。庭先三間の所に三尺程の石垣あり、波が其外でじゃぶじゃぶといふ。川か海か分らず、船で三味線を引ひて提灯をつけて来る。幅の広い涼み船なり。販売の人帰る。たゞ波の音をきく。

 〔八月〕十三日〔日〕
 昨夜次の部屋で何かこそこそいふ。よく聞くと西洋人である。黒い影が一寸蚊帳へさす。見返ればもうなし、しばらくして彼姻草を呑むといふ声がする。下の座敷で騒ぐ。
 朝六時頃起きて風呂へ這入らうとすると雨戸がしまってゐて、明ける事出来ず。やうやく冷水を浴びてゐると女が風呂の戸を開ける。部屋へ帰って雨戸を開けて海を見る、男が二人出て泳ぎ出す。下の男何処からかボートを借りて来て漕ぎ廻る。昨夕の芸者が一人づゝ乗る。夫から漁船を雇って乗りうつるに、かの男真黒な小供を二人舳臚に乗せて漕ぎ廻る。芸者大きな声を出して阿呆といふ。
 舞子の先が見える。淡路の燈台が見える。泳いでゐる人の足がよく見える。くらげが見える。帆懸船がぞくぞく出る。…」

 大阪駅から明石駅まで漱石が乗車した列車を探してみました。
 大正元年の時刻表で見ると、大阪駅発午後6時40分、明石駅発午後8時24分(姫路行)の列車がありました。明石駅は急行が停まりませんので、各駅停車になります。明石駅から宿泊所の「衝濤館」までは1.1Kmの距離ですので、「衝濤館」着午後8時30分は丁度です。

夏目漱石 「彼岸過迄」より
… 次のは明石から来たもので、前に比べると多少複雑なだけに、市蔵の性格をより鮮やかに現わしている。
「今夜ここに来ました。月が出て庭は明らかですが、僕の部屋は影になってかえって暗い心持がします。飯を食って煙草を呑んで海の方を眺めていると、―― 海はつい庭先にあるのです。漣さえ打たない静かな晩だから、河縁とも池の端とも片のつかない渚《なぎさ》の景色なんですが、そこへ涼み船が一艘流れて来ました。その船の形好は夜でよく分らなかったけれども、幅の広い底の平たい、どうしても海に浮ぶものとは思えない穏やかな形を具えていました。…

―― 僕はこんな事を考えて、静かな波の上を流れて行く涼み船を見送りながら、このくらいな程度の慰さみが人間としてちょうど手頃なんだろうと思いました。僕も叔父さんから注意されたように、だんだん浮気になって行きます。賞めて下さい。月の差す二階の客は、神戸から遊びに来たとかで、僕の厭な東京語ばかり使って、折々詩吟などをやります。その中に艶めかしい女の声も交っていましたが、二三十分前から急におとなしくなりました。下女に聞いたらもう神戸へ帰ったのだそうです。夜もだいぶ更けましたから、僕も休みます」…」

 「彼岸過迄」は大正元年(1912)1月1日から4月29日まで「朝日新聞」に連載された新聞小説です。明石で講演をおこなった翌年ですから、日記を参考にして書いているのがよく分かります。

上記写真は現在の「衝濤館」です。「衝濤館」付近は空襲を受けていませんので建物は当時のままとおもわれます。明石市の西側(西明石駅付近)は川崎航空機明石工場があり空襲の標的とされていました。昭和20年6月に永井荷風が一時疎開したところで有名です。

「公会堂」
<公会堂>
 漱石は8月13日、明石公会堂で講演を行います。この公会堂の落成記念の講演でした。
 午後1時30分からの講演内容
・仏領安南の事情:西村白虹(西村天囚、大阪朝日新聞記者)
・満州問題:牧放浪(牧巻次郎、大阪朝日新聞記者)
・道楽と職業:夏目漱石
 大阪朝日新聞記者の講演タイトルが時勢を繁栄しています。ただまだ明治時代です。
 講演の記録
 ただいまは牧君の満洲問題――満洲の過去と満洲の未来というような問題について、大変条理の明かな、そうして秩序のよい演説がありました。そこで牧君の披露に依ると、そのあとへ出る私は一段と面白い話をするというようになっているが、なかなか牧君のように旨くできませぬ。ことに秩序が無かろうと思う。ただいま本社の人が明日の新聞に出すんだから、講演の梗概を二十行ばかりにつづめて書けという注文でしたが、それは書けないと言って断ったくらいです。それじゃアしゃべらないかというと、現にこうやってしゃべりつつある。しゃべる事はあるのですが、秩序とか何とかいう事が、ハッキリ句切りがついて頭に畳み込んでありませぬから、あるいは前後したり、混雑したり、いろいろお聴きにくいところがあるだろうと思います。ことにあなた方の頭も大分労れておいででしょうから、まずなるべく短かく申そうと思う。
 私の申すのは少しもむずかしいことではありません。満洲とか安南とかいう対外問題とは違って極やさしい「道楽と職業」という至極簡単なみだしです。内容も従って簡単なものであります。まあそれをちょっとわずかばかり御話をしようと思う。…」

 講演の最初のみ記載しました。後は青空文庫で読んで下さい。

 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十三日〔日〕

   *〔会〕
 午後公開堂で演説。宿に郡長、市長、助役などくる。七時頃帰る。九時着、紫雲楼に入る。…」

 「衝濤館」もこの公会堂も海の傍に建てられていました。現在は埋め立てられて海岸線は170〜180m先になっています。公会堂の裏側の写真と、現在の海岸線から見た淡路島の写真を掲載しておきます。上記に書かれている「紫雲樓」は大阪市北区今橋にあった旅館です(次回掲載)。

写真は現在の公会堂です。小高い丘の上にあります。「衝濤館」はこの公会堂の右手、路地を110m歩いた左手になります。

「明石駅」
<明石駅>
 夏目漱石の明石での講演について内田百聞が書いています、「百鬼園随筆」の中の”明石の漱石先生”です。
 内田百聞の「百鬼園随筆」からです。
「   明石の漱石先生

 明治四十四年の夏、私は暑中休暇で郷里の岡山に帰って居りました。ある日の新聞で、夏目漱石先生が、播州明石へ講演に来られると云う事を知ったので、早速東京早稲田にいられた先生に問い合わせの手紙を出しました。…

  漱石先生が演壇に起たれた時の感激は。二十年後の今日思い出しても、まだ胸が微かに轟くようです。題は「道楽と職業」と云うのでした。段段話が進んで行って、先生の子供の時分に、変な男が旗をかついで往来を歩きながら、「いたずら者はいないかな」と云って来るので、自分達を買いに来たのではないかと心配したと云う様な話をせられました。…

  講演が終った時は、本当に夢からさめた様な気持でした。そうして、直ぐに、こんな講演が又いつ聞かれる事か解らないと云う様な淋しい気持がしました。
 先生は講演会場から、一先ず衝濤館へ帰られた様でした。しかし私は、先生が大阪に立たれる汽車の時間を、誰かにきいて知っていたので、すぐに明石の駅に行って、先生を待っていました。
 先生の著かれる前から、構内には紋附がざわついて居りました。間もなく、先生は外の人人と共に体に乗って来られました。先生の傍には中中近づけない様な混雑でした。
 そのうちに汽車が来ました。或は、そう思うのは勘違いで、明石仕立ての区間列車だったかも知れません。兎に角、車室は古風な横開きの扉のついた四輪式で、丁度私の起っていた前の二等車に、例の紋付の人が既に幾人か乗っていました。そうして。まだ歩廊に起っていられる先生に、中から頻りに、「どうぞ、どうぞ」と招じていた様子でした。しかし先生は、中中乗られませんでした。その内に、先生は一人でつかつかと歩き出して、二三台先の一等車の中に這入ってしまいました。そうして、直ぐに汽車は動き出しました。その前に頭を下げて、先生を見送った時の気持を思い出すと。先生の思い出は申すまでもなく、それと共に自分の昔が懐しくて堪りません。」

 当時の内田百聞からは夏目漱石は雲の上の人だったようです。

写真は現在の明石駅です。写真に写っている駅は山陽電鉄明石駅で、JR明石駅は向こう側になります。当時は山陽電鉄明石駅はありませんでした。


夏目漱石の明石地図(永井荷風の明石地図を流用)


夏目漱石年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 夏目漱石の足跡
明治23年 1980 帝国ホテル開業 23 9月 帝国大学文科大学英文学科に入学
明治24年 1981 大津事件
東北本線全通
24 3月 三男直矩の妻登世が死去
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都、大阪、岡山、松山を訪ねる
8月 岡山で水害に会う
明治26年 1893   26 7月 帝国大学文科大学英文学科卒業
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 10月 小石川の法蔵院に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 3月 山口高等中学校の就職を断る
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 34 1月 次女恒子誕生
明治35年 1902 日英同盟 35 9月19日 正岡子規死去(享年36歳)
12月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 36 1月20日 長崎港着
4月 第一高等学校と東京帝国大学の講師に就任
10月 三女栄子誕生
明治37年 1904 日露戦争 37 4月 明治大学講師に就任
明治38年 1905 日本海海戦
ポーツマス条約
38 1月 「吾輩は猫である」をホトトギスで発表(第一章)
12月 四女愛子誕生
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 39 4月 「坊っちやん」をホトトギスで発表
明治40年 1907 義務教育6年制 40 3月 東京帝国大学と第一高等学校に辞表を提出、朝日新聞社に入社
3月〜4月 京都、大阪を訪問
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
41 12月 次男伸六誕生
         
明治44年 1911 辛亥革命 44 8月 朝日新聞の招きで講演旅行を行う(明石、和歌山、堺、大阪)