●孫文を歩く 長崎編 -2-
    初版2014年10月31日 <V01L01> 暫定版

 長崎シリーズの最後となる、「孫文を歩く 長崎編 -2-」を掲載します。孫文は大陸(上海)への窓口である長崎を9回(通過も含めて)訪問しており、今回は5回目から最後の9回目までを掲載します。最後の訪問は孫文が亡くなる4ヶ月前となります。この頃は相当体調が良くなかったとおもいます。


「孫文と長崎」
<「孫文と長崎」 長崎中国交流史協会編(前回と同じ)>
 今回の参考図書は長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」 です。訪問日時別に詳細に書かれており、非常に参考になりました。地図も付いていましたが、大まかだったため、詳細の地番等を調べた上で、写真撮影をしてきました。

 長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」 からです。
「 「大アジア主義の原型」

 孫文が最後に長崎を訪れた1924年11月23日、出島岸壁の船上で、長崎の『東洋日の出新聞』記者にたいし、次のように語った、と報道されている(現代文に改めた)。

「日本は東アジアの盟主としての地位を確立した後、アジア民族のために尽力すべきであるにもかかわらず、その使命を誤っている。逆にアジアにたいし、列強に伍して貧狼の欲望をほしいままに真似ている。根本的に、日本のアジア政策は欧米のアジア政策と正反対でなければならない。ところが欧米の尻馬に乗じて、東アジアの日本が東アジアを批なっている。現代は日本が列強の愚行から脱する絶好の機会である。目醒めたアジアの国々の国民の力を世界は認めるべきである。日本は目醒めたアジア、諸国の盟主として、アジア政策を立案し、欧米に当たらなければならない。これが大アジア主義である。」

 日本が欧米の覇道政治から脱して、東洋の王道政治へ進むことを求めた孫文の「大アジア主義」の有名な演説は、この後に訪れた神戸で行なわれたものである。日本の中国侵略に警告を発した言葉として、後世に語り伝えられている。 しかし、そのエッセンスはすでに長崎で語られていたのである。

 孫文は、このときを介めて、合計9回ほど長崎を訪れた。清朝打倒の革命蜂起でお尋ね者となって、日本に亡命中が6回、辛亥革命が成就して中華民国が誕生したものの、軍閥支配に苦しむ中国を救おうと革命運動を継続した時が3回。
 孫文は決して長崎に長期滞在したことはなかった。中国大陸との窓口であった長崎は孫文が日中を往来する窓口でもあった。通過のための短期滞在が多かったが、やはり多くの華僑が活躍する長崎には特別の思いがあったのであろう。「大アジア主義」の原型も、ここ長崎で語られたのだ。…」

 孫文の「大アジヤ主義」は本当にその通りです。戦前の日本で、このようなことが出来れば良かったとおもうのですが、当時の状況を考えれば、まず無理だったとおもいます。日本自体(国民が)が成長していないと、このようなことは考えもつかず、出来ないとおもいます。

写真は2003年発行の長崎文献社 長崎中国交流史協会著の「孫文と長崎」です。古本で手にいれました。

「日本郵船八幡丸」
<五回目:明治35年(1902)1月>
 前回に引き続いて5回目の長崎訪問から掲載します。孫文は明治33年、義和団事件後の恵州起義に失敗し、日本に滞在していましたが、日本郵船八幡丸で再び香港に向います。

 外務省資料、秘甲第21號 明治35年1月17日によると(横浜)
「清国亡命者孫逸仙は同国人鄭安を従へ本日正午出航の日本郵船会社汽船八幡丸にて香港へ向け出港せり…」

 外務省資料、兵撥秘第29號 明治35年1月20日によると(神戸)
「外国人の来往
一.神奈川縣電報の清国亡命者孫逸仙は同国人鄭弼臣を随へ再昨十八日午後三時汽船八幡丸にて着港せしが来る二十一日当港出港門司を経て香港へ向ふ筈なりと云ふ目下視察中……」


 外務省資料、兵撥秘第32號 明治35年1月21日によると(神戸)
「孫逸仙出発の件
既報(本月廿日兵撥第29号)清国亡命者孫逸仙外一名は豫報の通り本日午前十時当港出船汽船八幡丸にて門司長崎を経て香港に向い出発せり……」


 外務省資料、高秘第68號 明治35年1月22日によると(門司)
「孫逸仙に付き
兵庫縣通報(本月兵撥秘第29号)に係る清国亡命者孫逸仙と随行者二名は本日午前九時汽船八幡丸にて縣下門司港に入港……」


 外務省資料、高秘第75號 明治35年1月24日によると(門司)
「孫逸仙の一行出発の件
既報(本月廿二日高秘第68号参照)を経たる清国亡命者孫逸仙は「チュウサン」と変名し…
…昨廿三日午後四時香港に向け出発…」


 外務省資料、高秘第23號 明治35年1月25日によると(長崎)
「孫逸仙の寄港
清国亡命者孫逸仙は随員鄭弼臣等と共に昨日廿四日午前七時入港の汽船八幡丸にて當港に寄港(神奈川兵庫福岡県の通報に接す)午前中上陸して市街を散策観覧すること一時間余にして歸船午後は一二の往訪新聞記者に接したる外他の訪客を謝絶せり記者に対しても僅かに世辞を談したるのみにて敢えて国事を語らず且つ這○帰国○…○午後四出航○…○て香港に向け出発せり行動異常なし
右及報告候他」

 ※○は字の判別が困難で不明

 外務省資料を順に追っていくと面白いです。電話は東京−大阪間が開通したのが明治32年(1899)ですから、当時は電報が主流だったようです。長崎−東京間の電報が開通したのが明治6年(1873)です。

 長崎では散歩のみで、新聞記者以外、特に訪問者もなかったようです。午前7時入港で、午後4時出港ですから、長崎での滞在時間は9時間はあったようです。

写真は日本郵船の八幡丸(3818トン)です。明治31年、英国グラスゴーの造船所(Robert Napier & Sons Shipyard)で進水、翌年日本に回航されています。

「支那革命と其の…」
<六回目:明治40年(1907)3月>
 6回目の長崎訪問は明治40年3月です。香港に向う途中長崎に寄港しています。この時期、日本は清国より孫文の国外追放を要求されており、当時の西園寺総理は、孫文に自発的に国外退去をさせようとしていました。

 この頃の孫文に関しては外務省資料が見つかりませんでした。検索条件を色々変えてみたのですが、見つかりません。他の資料でも、この時期の孫文に関して外務省資料が掲載されていませんので、元々無いのか、紛失したか、掲載されていないのか分りません。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行、明治40年(1907)3月から
「… 3月4日(正月二十日)應日本要求離開該国。
行前接受日方贈款,因款項使用問題,引起黨内糾紛是日,先生乘徳船“阿里斯王子號”離開横濱。汪精衛,胡漢民,池亨吉及萱野長知同行。(〈宮崎滔天年譜稿〉)…」

 中国語ですからこのままではよく分かりません。「孫文と長崎」 長崎中国交流史協会編を参照します。

 「孫文と長崎」 長崎中国交流史協会編より
「… 5年ぶりの長崎である。この間、情勢は大きく変った。 1905年、各地で別々に活動していた革命結社が大同団結し、東京で中国革命同盟会が結成された。しかしお尋ね者の孫文は日本から国外追放の退去命令を受けた。このためドイツ船「プリンス・アリス号」で日本を離れ、香港に向かった。その途中、長崎に寄港した。この長崎寄港は、中国の孫文関係年譜などには現れない。黙殺されている。だが孫文は船上でロシア革命党のナロードニキである二コライ・ラッセル(あとの解説参照)と会談した。
 佐世保出身の金子克己『支那革命と其の前後』が詳しい。…
… 二コライ・ラッセルは長崎で亡命ナロードニキの革命機関紙『ヴォーリヤ』(ロシア語で自由の意味)を発行していた。その機関紙発行は、胡漢民の手で中国同盟会機関誌『民報』に紹介されている。中国革命派とロシア亡命ナロードニキ派との間に、共感するところが多かったのだろう。ただし、孫文と二コライ・ラッセルとの船中密談の内容は不明である。
孫文自身、その事火を明らかにしていない。…」

 “阿里斯王子號”は”ドイツ船「プリンス・アリス号」”なのですね。
 ここでは”二コライ・ラッセル”との会談がメインのようです。原文の「支那革命と其の前後」を探してみました。

 金子克己さんの「支那革命と其の前後」から
「   露支革命党両首領の握手
 此の前後の事である、御外遊中の宮殿下の随員に加はるべく山本権兵衛大将が財部彪中佐を伴ふて行くのと船を同ふして孫文が萱野長知を伴ひ日本から南洋方面に向ふ途中長崎に寄航した。金子は此の機会に於て露國革命党東亜本部の首領二コライ・ラッセルと、支那革命党の首領孫文とを船中に一時会見せしむるべく手筈を定めて待って居た。長崎停船中、一時間余両者は船室深く語り込んでドラの鳴りひびく迄出て来なかった。
 会見を終へて自宅に帰れるラッセル博士は何時になく御機嫌であった。此の時と斗り金子は支那革命の進行はどの程度であるかを聞いた。大略を話してくれと頼んだ処、ラッセルは厳然として、「左様な事は先方が自ら進んで話をすれば格別、当方より問い訊すなどと云ふ不作法な事をなすべきものでない。之が礼儀である」と革党の國際作法を諄々として説ききかされ襟を正さしめたとの事である。
 二コライ・ラッセルは白髪童顔、長身の温客春の如き老紳士であった。斯くの如く神の如き老大家が祖國革命の来らざるべからざるを論じ、案を断ずる時は烈々たる意気犯すべからずものがあった。年少気鋭の青年が盛んに革命史の示す花々しき一面を見て眉をあげ肩を張り、鉄血よく之を断ずべきを論ずるに對し、老博士は静かに千万の武器、百千の爆弾、無論用なきではないが、革命の武器は先づ退いて綴る数部の宣傳文にあると訓へて止まなかった。露西亜人の宣傳に関する天才的なる点、今日に照して博士の言を成る程と思はれるのである。」

 金子克己さんの「支那革命と其の前後」は参考にはなるのですが、日時の記載が全くなく、事実かどうかの確認が全く取れません。

【ラッセル(Nikolay Konstantinovich Russel')(1850―1930)】
本名スジロフスキーСудзиловский/Sudzilovskiy。ロシアの革命家、医師。白ロシア地方に生まれ、ペテルブルグ大学、キエフ大学に学ぶ。ナロードニキ主義の立場にたってさまざまな社会運動にかかわる。1875年に国外に亡命、初めバルカン諸国の運動に足跡を残したのちハワイに渡り、土着住民のために活動。日露戦争期には日本にきてロシアの戦争捕虜に対する革命宣伝に従事、「在長崎露国革命党首領」と称された。1910年、取締りの厳しくなった日本を去りフィリピンに移住、その後一時長崎に帰るが、晩年は中国の天津で過ごし、同地で死去した。(コトバク参照)

 ラッセルは当時下り松南山手12番地に滞在していたようです(「沢田和彦 ピウスツキと日本」参照)。この番地には「立原道造の世界【長崎ノート 九州編W】」で立原道造が滞在しようとおもっていたアパートがありました。30年程時期がずれていますが、”亡命ロシア人の数家族”と書かれていますので、当時と余り変っていないようです。

写真は金子克己さんの平成8年発行「支那革命と其の前後」(非売品)です。

「旧長崎駅」
<七回目:大正2年(1913)2月>
 辛亥革命が大正元年(1912)に成立し、中華民国が誕生すると、孫文は臨時大総統に就任します。3ヶ月で袁世凱に大総統を譲りますが、袁世凱に協力し、閣内に留まります。そして孫文は鉄道開発の資金調達のため日本を訪れます。この時は中華民国の正式代表としての訪問のため、日本側は大歓迎で迎えます。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)2月から
「 2月11日 以籌辧全国鐵路全権名義,乘”山城丸”自上海啓程赴日考察。
  從2月初起,日本報紙就開始報道先生誇於中旬訪日消息。據1913年(大正二年)2月4日《福岡日日新聞》報道:“孫逸仙将於本月中旬来日訪問,有關方面已接到通知。…
… 2月13日 至日本長崎、門司、下関。
 上午8時至長崎,中国駐長崎領事徐善慶、時任新疆青海墾屯使胡瑛、留日學生曾會長黄申○、東京国民黨支部代表黄伯群、共和黨支部代表韓開一、長崎市長特派員菊池良一、長崎商業曾所主席橋本氏,以及宮崎寅藏和各處新聞記者凡三十餘人来迎。先生下船後,至車站貴賓室小憩,長崎市長北川,以及市曾議長、薦業僉議所曾長等人趨前問候,北川市長並堅請先生於歸国時在長崎稍住遊覧,先生欣然答應。隨後,中国學生二十餘人来謁。 10時10分,乘鐵道院所備特別列車駛向東京,迭行者腕帽呼萬歳。…」

 長崎には山城丸で大正2年2月13日午前8時に到着、10時10分に長崎駅より特別列車で東京に向います。長崎港駅が出来たのは昭和5年ですから、長崎駅で特別列車に乗車したものとおもわれます。

右上の写真は当時の長崎駅です。昭和20年4年の空襲で被害を受け、昭和20年8月の原爆で焼失しています。現在の駅舎の写真を掲載しておきます。この駅舎も高架化で変ってしまいます。

「中華民国領事館跡」
<八回目:大正2年(1913)3月>
 前項のように孫文は大正2年2月13日に長崎到着、東京へ列車で向います。その後、仕事を果たして帰国が3月23日となります。帰国の直前に事件が起きます。3月20日午後10時45分滬寧鉄道上海駅で宋教仁が狙撃されます。午後11時発の特急列車南京経由津浦鉄道で北京に向け上海を出発しようとするところ、黄興、寥仲凱、拓魯生、陳策ら国民党の指導者らと一緒にプラットホームに向って歩いているところでした。滬寧鉄道病院で腹部に入った弾丸をとり出す開腹手術が施されますが22日午前4時に死去します。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)3月から
「…19日,洪電筋座“事速進行”。是日,夜10時45分,宋教仁擬由上海乗車北上,輿黄興,陳勤,寥仲憧等向車姑出口處前進,甫至剪票處,槍聾突作,宋中槍伏地不能起,凶手乗乱遠畷。于右任等起來急迭宋入瀧寧鐵路醫院槍救。 22日,宋終於斟世。黄興,陳其美,于右任,居正等皆悲憤填膚,哭不可仰。
 宋人醫院後,自分必死,授意黄興擬致袁世凱電。内中有云:“伏糞大總統開誠心,怖公道,燭力保障民権,伸國會得確定不抜之憲法,則雖死之日,猶生之年。”(〈民立報〉1913年3月22日)…
… 3月21日 抵長崎,出席中國駐長崎領事招待會。
  先生離開熊本時,上山熊本縣知事,高橋縣内務部長等官員以及長江虎臣,村上一郎,内藤正義,林千八,宗方小太郎,行徳健男等及其他東亜同文會成員,以及在熊本學習的中國留學生到車姑迭行。在候車室内,“経宮崎氏介紹,前田下學氏來見,説孫氏宿年曾揮筆噌送紀念題詞,富面脱下羽織軍衣,将孫氏在羽織衣裏的題詞出示。孫氏宿即表示出感慨的回憶,且露出會心微笑”。(《孫中山在福岡》《近代史資料》總第55號)晩,中國駐長崎徐領事在領事館内宴請先生一行,先生又一次撥表中日関係的講話,稱:“関於中國的将來,能狗制中國於死命者必総日本、對此余確信無疑。”(〈孫中山全集〉第3巻第50頁)…
… 3月23日 由長崎乗山陽丸啓程回國。
  上午,先生意三菱長崎造船所濫請,參観該所所轄各廠,磁出席該所午餐歓迎會。下午4時離開長崎。日本官紳並華僑群集両頭熱烈歓迭,華僑情緒尤鳥熱烈。……」

 孫文は3月21日午後6時10分、熊本から長崎に入ります。

 出航の23日までの行動は 長崎中国交流史協会編「孫文と長崎」を参考にしました。(元は東洋日の出新聞の記事)
 3月21日:福島屋に宿泊(万才町3-16(旧大村町14))
          夜:中華民国領事館で歓迎晩餐会
 3月22日 午前:袋町の青年会館、「世界の平和と基督教」を講演(現 西九州酒類販売:栄町3−28(旧袋町9?))
        午後:館内町にある福建会館で午餐会に出席(天后堂の横あった、現在は公園
           古川町の東洋日の出新聞社長・鈴木天眼宅を訪問(古川町6-25(旧本古川町5))
           小島の鳳鳴館(旧福屋)で市の官民歓迎会に出席(中小島1-5(長崎村小島郷字梅園))
          夜:西浜町の精洋亭で長崎医専在学中国留学生の晩餐会に出席(銅座町3-17(旧西浜町68))
 3月23日 午前:三菱長崎造船所を訪問
        午後4時長崎を出航

 孫文が長崎に一番長く滞在した時でした。二泊三日となります。

写真正面、やや左のところに中華民国領事館がありました。元々は清国領事館で、そのまま中華民国領事館に変っただけでした。当時の住所で大浦町2(長崎商工名録 大正13年)です。

「長崎港岸壁の上海丸」
<九回目:大正13年(1924)11月>
 孫文最後の日本訪問となります。馮玉祥が10月23日北京政変を起こし、孫文の北京入場を促したため、孫文は国民会議の開催を条件に北京入りを決意します。孫文は大正13年11月13日北京入するために広州を出発しますが、上海でイギリスに妨害を受けたために日本を経由し、天津から北京に入るという方法をとらざるを得ませんでした(「孫文と神戸」では)。そのために22日上海から長崎経由、神戸に向い、大正13年11月23日、上海丸にて長崎に到着します。翌24日、神戸に到着、天津航路の船を神戸で待ちます。11月30日、神戸から近海郵船 北嶺丸で下関経由天津に向います。そして12月4日天津に到着します。天津は北京から一番近い港です。

 「孫中山年譜長編 下冊」 中華書局発行から、大正13年(1924)11月から
「… 11月22日 段祺瑞離津入京,馮玉祥,張學良,昼光新,許世英等十餘人陪行。
  △ 偕夫人宋慶齡等離開上海前往日本,啓航前在船上接見中外記者,重申收回租界,主張召開国民僉議,並望申日用国提携親善。
  先生是日晨6時45分起床,早餐後即乗出租的七一二七號汽車赴匯山碼頭,隨行者有副官等。7時,先生與夫人宋慶齢登上準備航往日本的“上海丸”。…
… 11月23日 黄郛攝政内閣通電宣怖次日總辭職,讓權於執政府。北伐軍程潛部克湘南宜章縣。
  △ 抵日本長崎,在“上海丸”先後對新聞記者和中国留學生等發表談話,強調以国民僉議解決国事,以及中俄革命是一家。
  是日正午,先生等乘坐的“上海丸”抵逹日本長崎,受到長崎新聞記者,中国留日學生及華僑等二百餘人歓迎。先生在船上一接待登輪的歓迎者。…
… 11月24日 段祺瑞在北京組織臨時執政府。馮玉祥被迫通電解除兵柄下野。
   △ 抵日本神戸,在船上對新聞記者發表談話,強調中日共同提携以維東亞大局和中国必須實現和平統一。    
   是日下午2時半許,先生乘坐之“上海丸”抵神戸…」

 下記の上海航路の時刻表を見てもらうと分りますが、上海出航は朝9時です。上記によると、6時45分起床で、7時には乗船の準備をしています。そして、翌日の11月24日正午には長崎に着いています。船中で新聞記者と留学生向けの対応を行ない、僅か2時間半後の午後2時30分、神戸に向けて出港しています。(その後は神戸編で記載予定)

 <上海航路>
 大正12年(1923)2月11日に日華連絡船として、長崎−上海間の航路が日本郵船により開設されます。 航路開設に伴い投入された長崎丸と上海丸は、英国のウィリアム・デニー社造船所にて建造された姉妹船で、最高速力は約21ノットと当時としては快速の貨客船でした。しかし、乗客が伸びず、長崎港での帯港時間短縮や運行回数等の見直し等の合理化に着手し、大正14年(1924)5月からは航路の起点を神戸港とし、神戸ー長崎間の都市間輸送による乗客数の増加を狙います。神戸・長崎間の運賃は10円(3等)で、「汽車よりも安くて快適」と乗客の評価は高く、利用者は順調に伸びます。(ウイキペディア参照)
神戸寄航後、昭和2年(1927)当時の行程
往航:神戸(1日目・午前11時発)→長崎(2日目・午前9時着、午後1時発)→上海(3日目・午後4時着)
復航:上海(1日目・午前9時発)→長崎(2日目・午前12時着、午後3時発)→神戸(3日目・午後3時着)

<天津航路>
 大正13年(1923)4月、日本郵船の近海内航部門を分離独立させ近海郵船(初代)を設立、神戸−天津線も近海郵船の運航となります。当時、南嶺丸(2086トン)と北嶺丸(2085トン)が就航していました。

写真は長崎港の日本郵船上海丸です。同じ場所からの現在の写真を掲載しておきます。



孫文長崎地図(谷崎潤一郎の地図を流用)



和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 帝国大学令公布
自由の女神像が完成
20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
11月 孫文は香港から神戸・横浜経由でハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 カナダ経由で横浜に到着
明治33年 1900 義和団事件
ノーベル財団発足
夏目漱石英国留学
34 6月 義和団北京入城、清朝欧米列国に宣戦布告
8月 連合軍北京入城
10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治35年 1902 日英同盟 36  
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 47 2月〜3月 孫文日本を正式に訪問
8月 孫文、日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 49 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
11月 日本経由で北京に向う
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
58 3月 孫文死去