●立原道造の世界  【長崎ノート 九州編W】
    初版2015年7月25日  <V01L05> 暫定版

 「立原道造の世界 長崎ノート 九州編」を続けて掲載します。佐賀から長崎で「立原道造の世界」は最終回となります。2010年8月から掲載を初めて丸5年かかりました。山形から始めたので東北から九州まで歩いたことになります。改版は継続して行なっていきます。




「立原道造への旅」
<「立原道造への旅」、田代俊一郎>
 「立原道造の長崎ノート」については参考図書が余りなく、唯一見つけたのが田代俊一郎氏の「立原道造への旅」でした。「盛岡ノート」に関しては参考図書が多くて助かったのですが、今回は「立原道造の長崎ノート」を参照しながら自力で調べられるだけ調べました。

 田代俊一郎氏の「立原道造への旅」からです。
「南国の空青けれど

 詩人立原道造の最後の恋人だった水戸部アサイは立原の死後五十年経って初めて、立原が長崎で滞在していた場所を訪ねた。水戸部は再婚して長崎県内に移住する前、立原の母に会い、東京を離れることを告げた。すると、立原の母は「長崎の方に行ったら、道造のいた所を一度訪ねてちょうだい」といった。それは供養的な意味であっただろう。水戸部はうなずいた。それ以来、立原への追憶というより、その母との約束が水戸部の中でずっとしこりになっていたという。約三十年ぶりに約東を果たした水戸部は「これでホツとしました」と小さく笑った。
 ノートを読むと、水戸部は少なくとも長崎の立原に二通の便りをしている。その「気付」のあて名は眼鏡橋に近い「長崎市磨屋町四一、武医院」である。そこは立原が勤めていた「石本建設設計事務所」の同僚、武基雄の実家であった。立原はこの武の家を足場に洋館の下宿を探し、そこで冬を暮らし、春になって帰京する予定だった。その洋館の一室で、立原は正月、遊びに来る水戸部を待つつもりであった。
 水戸部は手紙のほかに小包も送っている。中身は立原から頼まれた武の妹へのプレゼントであるハンカチだった。それは東京のアクセサリーの店「アザミ」で買ったもので、立原はノートの中で「アザミの包紙がなつかしかつた」と記している。…」

 立原道造は何でも一流なんですね、東京の感覚で長崎でも同じように生活できるとおもっていたようです。

上記の本は田代俊一郎氏の「立原道造への旅」です。2008年12月、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)から発行されています。出版社名がユニークです。

【立原 道造(たちはら みちぞう、大正3年(1914)7月30日 - 昭和14年(1939)3月29日)】
 大正3年(1914)、立原貞次郎、とめ夫妻の長男として日本橋区橘町(現:東日本橋)に生まれる。東京府立第三中学(現東京都立両国高等学校)から第一高等学校に進学した。堀辰雄、室生犀星との交流が始まる。昭和9年(1934)東京帝国大学工学部建築学科に入学した。建築学科では岸田日出刀の研究室に所属。丹下健三が1学年下に在籍した。帝大在学中に建築の奨励賞である辰野賞を3度受賞した秀才。昭和11年(1937)、シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。翌12年(1938)、石本建築事務所に入所した道造は「豊田氏山荘」を設計。詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、詩集『ゆふすげびとの歌』を編んだ。詩集『萱草に寄す』や『暁と夕の詩』に収められたソネット(十四行詩)に音楽性を託したことで、近代文学史に名前をとどめることとなる。昭和13年、静養のために盛岡、長崎に相次いで向かうが、長崎で病状が悪化、12月東京に戻り入院、その旅で盛岡ノート、長崎ノートを記する。昭和14年、第1回中原中也賞(現在の同名の賞とは異なる)を受賞したものの、同年3月29日、結核のため24歳で夭折した。(ウイキペディア参照)


立原道造の柳川地図



「筑後柳河駅跡」
<国鉄の佐賀線筑後柳河駅>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月4日、柳河(柳川)の旅館から佐賀に向かいます。
 柳河から佐賀に向かう方法は、
1.国鉄 佐賀線筑後柳河駅から佐賀に向かう
2.九州鉄道大牟田線で久留米で国鉄久留米に乗換
 ですが、久留米に戻るのは時間的にも無駄が多く、佐賀線筑後柳河駅が佐賀に向かうのが便利とおもわれます。ただ、賀線筑後柳河駅は辺鄙なところに有り、京町交差点から北に1.2Km程あります。15分程の距離です。

 当時の時刻表では、
・筑後柳河駅発:9時25分 → 佐賀駅着:9時54分
・筑後柳河駅発:10時10分 → 佐賀駅着:10時44分
 となり、約30分ですから便利です。10時10分に乗車したのではないかとおもわれます。

写真は国鉄 佐賀線筑後柳河駅跡に建てられている記念看板です。広い駅舎、ヤード跡が公園として残っています。

 佐賀線は、佐賀県佐賀市の佐賀駅と福岡県みやま市(廃止当時、山門郡瀬高町)の瀬高駅を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)です。昭和6年(1931)矢部川 - 筑後柳河間 (8.6km) を佐賀線として新規開業。三橋駅・筑後柳河駅を新設、昭和8年(1933)筑後柳河 - 筑後大川間 (5.4km) 延伸開業、昭和10年(1935)佐賀 - 筑後大川間 (10.0km) を延伸開業し全通しています。昭和55年(1980)制定の国鉄再建法により、第2次特定地方交通線に指定され、国鉄分割民営化直前の昭和62年(1987)に全線が廃止されています。(ウイキペディア参照)


立原道造の佐賀地図



「佐賀玉屋跡」
<佐賀のデパート>
 立原道造は昭和13年(1938)年12月4日、柳河(柳川)から佐賀に向かいます。佐賀駅からバスに乗り、地元のデパートを訪ねています。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 最後のためらひのやうに眞晝の佐賀の町をぶらぶらと歩きまはつてゐる。頭はぼんやりしてゐる。眠いやうな疲れた気持だ。佐賀の町は汚い古ぼけたつまらない町で、デパートの入口は八百屋の店先のやうに亂雑に果物がつみかさねてあつたりして、おそろしくへんな雰圍気だ。
 バスのなかで小麥色の皮膚の可愛らしい少女がゐた。母親らしい中年の女の人とはなしをしてゐるが、僕にはそれがきこえても何をはなしてゐるのかわからない。笑ふたびにすこしくづれた歯並びの白い歯が見える。これが南の國の美しい少女の顔のタイプだらうか。それはまだわからない。非常に明るく快活だ。しかし小麥色の皮膚は一種の憂愁をたたへてゐる。それがこの少女の顔に奇妙な調和を與へてゐる。…」

 若松の丸柏百貨店から数えて3軒目のデパート訪問です。昼食を取るのにデパートを選んでいるようです。サンドイッチ等のハイカラな食事をとることが出来るからだとおもわれます。佐賀でのデパートは昭和8年(1933)に開業した佐賀市呉服町の佐賀玉屋のことだとおもわれます。4階建てのビルディングでした。(当時は呉服町が佐賀市の繁華街でしたが、現在は繁華街が移り、寂れています)

写真の左側から右に2軒目の駐車場のところが佐賀玉屋跡です。元々は丸木屋という百貨店の建物(4階建)で、昭和8年(1933)に古賀銀行破産により閉店したものを、佐賀玉屋が買収し開店したようです。右側が窓乃梅寿屋跡(現在は佐賀県国保会館)です。佐賀玉屋は昭和40年(1965) 呉服町から中央大通りへ新築移転しています。

「旧佐賀駅」
<佐賀駅>
 立原道造は柳河(柳川)から佐賀線で佐賀に午前中に到着、佐賀駅で下車、佐賀市内のデパート佐賀玉屋等をぶらぶらした後、佐賀駅から最終目的地の長崎に向かいます。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 佐賀驛で ── いよいよ最絡のコオスの汽車を待つてゐる。○時五一分に急行があるが、僕のためらひは一時一二分の普通列車をゑらばせるだらう。一時間半ほど長崎につくのがおくれるのだが、その方が今の気持のたゆたひに甘く気に入るだらう。……かうしてたうとう最終のコオスだ。汽車は間もなく来ようとしてゐる。…」
 当時の時刻表を見ると、
・急行 12時51分発 → 長崎着:15時5分着
・普通 13時12分発 → 長崎着:16時22分着
 やっぱり急行の方が圧倒的に早いです。急行料金は400Km以内は二等:1円30錢、三等:65銭です。(大卒の初任給が50円から70円の頃です)

写真は昭和30年代の佐賀駅です。昭和50年(1975)の佐賀国体開催に合わせて、佐賀駅は北に200m移転、高架駅に建て直されたそうです。現在の佐賀駅と、昔、佐賀駅があったところの写真を掲載しておきます。

「戦前の長崎駅」
<長崎駅>
 立原道造は佐賀駅発12時51分の急行で長崎に向かいます。私も佐賀駅から14時33分発の”特急かもめ”で長崎に向かいました。長崎着は15時48分です。1時間15分掛かっています。当時の急行は2時間14分掛かりますから、約半分の時間で着いています。早くなったものです。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 長崎行急行列車のなかで ──
 いよいよ最終のコオスを汽車は走つてゐる、ためらひながらも急いでゐた僕の心そのままに。……風景はかはらない九州の平野だ。刈りとられて人の背ぐらゐに積んである稲の束が田のどの區劃にも列をつくつてならんでゐる。それは非常に夥しい數だ。正午すぎて間もない光が一様にそそいでゐる。ときどき家がむらがつたなかや停車場をとほりすぎる。右手の窓には山がとほくに見えてゐるが、あれはどこの山だらう。……突然この汽車をゑらんでしまった僕はどうしたのだらう、四時半ごろの日没に着くのをおそれたのかしら、…
… 汽車はいま有明海のほとりを走ってゐる。水がすっかりひいて長いひろい砂演がっづいてゐる。先刻すこし曇った地方を通ったが、今は明るく晴れてゐる。空の色がまたあたらしい青さをひろげはじめる。暗いものをみな忘れてしまふがいいとおもってゐる。そしてそれにうまくゆきさうだ。……海には帆かけ船がたくさん出てゐる。網代木のやうなものが明るい橙灰色に陽をうけてゐる。波はじっにこまかく岸によせて來る。トンネルをいくつかこえるとだんだんにひらけた景色のなかに入ってゆく。海邊はいつか干潟でなく水が鐵道線路の下の岸にまで近づいてゐる。……こんな簡単な言葉でいっていいのだらうか。 ── しかし僕はこの風景になごやかな南方を感じる。…
… 「女誡扇奇譚」の安平港のやうな荒廢した港を過ぎる。これもまた僕に南方を告げる。
 だんだんまた海から汽車は離れはじめて、ひろい野に入って行く。次は諌早だと擴聲器が告げてゐる。
      *
 あと半時間ほどして僕は長崎に着くだらう。たうとう終りになる長い長い旅! 僕はこの終りを待ちのぞんだのだらうか。待ちのぞんだとしたら、それは今から半時間に次第次第に高まって來るこの気持の行き着く限界だらうか。長崎は、今、たいへんに高い意味を持って僕の身邊にやって來だ! 身を投じることを僕に要求してゐるこのひとっの限界―つひにひとっの實現がいまはすべてのためらひと道程を超えて僕のうちに果される。長いこと夢想してゐたひとっの生活がいよいよはじまらうとするのだ!…
… たうとう僕の眼は、浦上の天主堂が丘の上に、ちひさい花のやうに赤く建ってゐるのを見た。……それからあとは汽車は一層早く長崎にいそぐ。……ああ僕は、つひに、着いた!…」

 立原道造は佐賀から長崎までの列車の中で、かなりの量の文章を書いています。相当疲れていたとおもいますが、長崎に着くという期待感で、胸を弾ませていたのだとおもいます。佐賀を発車して暫くすると、左側に有明海が見えてきます。上記に書かれている「女誡扇綺譚」は佐藤春夫が大正14年に発表した作品で、台湾の安平を題材としています。有明海沿の漁港の写真を列車から撮影しましたので掲載しておきます。荒廃はしていません。

写真は当時の長崎駅です。昭和20年8月の原爆で焼失しています。現在の駅舎の写真を掲載しておきます。この駅舎も高架化で変ってしまいます。

「武医院跡」
<武基雄の実家 武医院>
 立原道造は長崎でも友人の家に滞在します。立原が勤めていた「石本建設設計事務所」の同僚、武基雄の実家でした。武基雄の実家は「武泌尿科医院」が正式名称で、場所は当時の書簡から長崎市磨屋町41、現在の長崎市古川町8−10とおもわれます。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 日がもう暮れはじめた。僕は先刻からこの武君の家の一室でねころんで高い窓から空をながめてゐる。疲れてしまってゐて何をすることもかんがへない。もう旅をしないでもいいのだとおもふとかへって何かしら不思議な落っかない気がする。荷を解いたら、なかから十日もまへにあわただしくこしらへたものが、散らばってばらばらに出た。僕を形づくったりささへたりしてゐるこんなさまざまのものが、奇妙に過去の過失の記憶に僕を誘ふやうだ。そんなものがこの部屋にあることがいたいたしいやうな感じもする。なぜこんなところにまでそれらは縦いて來たのだらうか。………」
 立原道造の書簡から「武泌尿科医院」の住所は分かっていたので、簡単に場所を特定することができました。調査は長崎県立図書館で行ないました。長崎県立図書館は原爆でも、場所が良くて焼失を免れたそうで、当時の資料がそのまま残っていました。郷土資料研究閲覧室の方々にはご協力いただきありがとうございました。

 小山栄雅の「うつせみの命を愛しみ… -小説 齊藤茂吉・立原道造の「長崎」-」より、
「          3
 「あれが有名な、眼鏡橋、ね?」
 と前方をゆびさしてチズ子が言った。
 「四海楼」で昼食を終えた三人は「大浦天主堂駅」から長崎電気軌道の路面電車に乗り「賑橋」で下車をしてそこから徒歩で「眼鏡橋」のあたりまでやって来た。
 橋は寛永年間に下を流れる中島川にかけられた石造りのアーチ形のものでそれが川面に写るとメガネのように見えるので橋の名がついた。長崎の町の数ある橋のなかでも観光的にはいわばシンボル的な存在となっている。…
… 三人は、「眼鏡橋」から東へ向う舗装道路を入って行った。
 通りは半ば商店街のような道で電柱にはたしかに「磨屋町通り」と金属性の札が打ちつけてありあたりの塀や木造家屋の柱にはところどころに「旧町名磨屋町」という表示が認められた。…
… 通りの中程には横に道が走っていて四つ角になっておりその右の角に創業天保元
年と書かれた「梅寿軒」という和菓子屋があった。
「あの店で聞けば、わかるだろう」
 と柿沼は言って店頭から店のなかへ声を掛けた。
 すると五十前後の男性が出て来て、
 「このあたりは、たしかに、むかしは、磨屋町、といいました」
 と説明してくれた。
 「昭和の十年代の話なんですが、この近くに、武医院、という病院はありませんでしたか?」
 と秋山は訊いた。
 店の主人らしいその男性は、
「ちょっと待って下さい。そのころのことなら、お袋が知ってるかもしれません」
 と言って店の奥へ戻りしばらくして出て来て、
「たしかに、あのあたりにあった、そうです」
 と言った。
「ここからだと、あの産婦人科病院のあたり、ですか?」
 と秋山はせく心を押しとどめて確認した。
「そうです。あの病院の手前、になりますね」
 と主人は答えた。…」

 小説なので全てが真実かは分かりませんが、私が調べた場所と同じなので間違いないとおもわれます。

写真の左側に「しもむら産婦人科」がありますが、その右隣が「武泌尿科医院」となります(現在は空き地)。当時の番地は長崎市磨屋町41で、地図で見ると、岩永梅寿軒さんの角から南側4軒目になります。

 昭和8年発行の「日本医師名簿 長崎市」に”磨屋町四一 武 清”で記載がありました。

「南山手十二番地跡」
<南山手十二番館>
 立原道造が長崎で滞在する予定だったのが長崎 南山手の十二番館でした。南山手なので南向きの場所かとおもったら、北西向きの斜面で、場所柄、暖かいとはおもいますが、日光がさんさんと照りつけると言うわけにはいきません。この場所を誰に頼んだかがよく分かりません。立原道造の「長崎ノート」からすると、会社の同僚、武基雄に頼んだようなのですが、矢山哲治が長崎の友人 島尾敏雄に頼んだようにも書かれてます。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 熱っぽくつかれた身體をこの町にはめづらしいのだといふ冬のやうな曇り空にひどい風の吹くなかを南山手といふ方に野村恭二君に連れてゆかれる。ひどくうらがなしい日だ。いくらか寒く感じられる。大浦の向い天主堂の見えるあたりで電車を降りる。そのあたりはもう古ぼけた洋館が澤山あった。坂をのぼるととつつきの宏壮な洋館が、そこが僕の借りようとする部屋のある家だといふ。茶色のペンキのもう剥げかかった古い建物が黒ずんだ木のあひだから暗鬱な空の下にある。僕の心は期待にをどった。と同時にそのあまりに荒發した外観にすこしの不安が湧いた。赤煉瓦の塀に沿うてすこし行き、門をくぐると、中は亂雑をきはめてゐた。勝手な配列で建てられた幾棟もの洋館のなかには、幾家族も住んでゐて、ひもをはってシャツをほしてあったり、ザルなどが窓にかかってゐる。おまへはどこかかういふ家を東京のなかにさがさうとするなら、よほどひどい町へ行かねばならないだらう。そのひとつの棟にはいって行った。家主の郡屋をノックすると、留守らしいので、その部屋にのぼって行く。階段は窓がないのでうすぐらい。踊場で身をひとっまはすと、次ののぼりは全く暗く、二階に行き着く暗がりのなかに亂雑に椅子のこはれや何かが何が何だかわからないままにうづたかく積んである。そのなかでやうやく名札の剥げてゐる扉を見つける。それをおけるとものの腐るやうなにほひのする八畳あまりの天井の高い部屋があった ── 八疊といふのは粗製のスクリーンで仕切っだので、ほんとうはその倍くらゐの部屋らしい。マントルピースらしいものが入口側の壁に着いてゐて、その向ひ側の窓には大きな環をつけたカーテン・ロッドが用意してあって、カーテンはなく、窓の外には暗澹とした空と、その背景の上にこの家とおなじやうな荒發して。ペンキの剥げた洋館がある。その内部にも幾家族も住んでゐるのだらうか、亂雑に生活のきれはしが見えてゐる。隣りの部屋が明き部屋だったら、ひとつの部屋はこれをなほしてそこへべッドをおいて住めるだらうとおもひながら、外に出て、隣のひっそりとした部屋の扉をひらくとじっにちひさい婆がまるくくるまって寝てゐる。病気らしく、ひとの気配におどろいたのに起きられないらしい。郡屋のなかには家具らしいものもなく、その人一人ぢっと天井を見て眠ってゐる。……僕はあわてて扉をしめた。すぐそばに暗い汚い洗面場があって、いろいろな汚れたものがうづたかく積みかさねてあった。僕はオーバーブリッヂで次の棟にっづいてゐるそのブリッヂの上まで、光が欲しくて出て行った。向うの棟にもやはり人がゐて、魚の干物など窓に干してある。その棟にっいてゐる屋外階段を降りてゆくと鎧戸のなかで一人の女の人が野菜をきざんでゐる。その人に家主はゐないかとたづねると、ゐないらしいなら留守だらうと答へてくれる。あきらめて外へ出ようとする。煉瓦の塀は行きどまりでまたまはって家の間を通りぬけ、入っだのとは別の門に出る…」
 上記に書かれている”野村恭二君”についてはよく分かりません。”野村恭二”作の長崎の絵葉書が有ります。私が手に入れたのは「」、「浦上天主堂」、「眼鏡橋」の三種です。袋には”野村恭二”の名、絵葉書のは”kyoji”のサインがあり、”昭和13年12月16日長崎要塞司令部検閲済”と記載がりますので、同じ頃の絵葉書だとおもわれます。

 島尾敏雄の「詩人のへだたり」より、
「…彼は福岡高校の生徒で私は長崎高商に居た。昭和十二年だったか十三年だったか、彼が長崎に遊びに来た。知り合ったばかりで気さくに話ができなかった。町を歩きながら彼は肩をいからしぐいぐい押してくるものだから私はまっすぐ
に歩けず、さりげなくかわすことに腐心した。彼には東京のすでに名の知られた詩人だちとの親しい交友もあるのだとき
いていたが、私にはかかわりのないこと、だから福岡に帰った彼からその東京の詩人のひとりが長崎に来たがっているから下宿の部屋をしばらく貸してほしいと言われたときも、反射的に逃げだしたいと思ったのだ。詩人には近づくな。しかし思いかえして承諾の返事をしたのは、その詩人の来崎といれちがいに休暇にはいる私はそこには居ない公算が大きかったから。そのときの私の下宿というのは南山手十二番地にあったいわゆる十二番館。大浦天主堂に行く石だたみの急な坂道の右がわにあった木造洋館で、四つの棟が築山や池のある広い中庭をはさんで対峙していた。もとはヨーロツパ人向きのホテルとして建てられたというが、当時は雑多な境遇の人人が部屋借りをして住んでいた。中でも亡命ロシヤ人の数家族がもっとも人目をひいていたはずだ。私の部屋はベッドと衣装箪笥とストーブ、それにテーブルがひとつだけ。しかしほんとうにその詩人がやって来て、何日かをいっしょに生活しなければならなくなることも考えられ、当惑と好奇の戦慄におそわれたが、結局のところその詩人はとうとう私のところにはあらわれず、矢山からはなんの連絡もなかった。あとになってその詩人は病死したときいた。あのとき長崎に来たことは来たのだという。それが立原道造だと知ったのはもっとあとのことだ。…」

 上記の最初に書かれている”彼”とは、矢上哲治のことです。ここで、南山手十二番館のことがよく分かります。南山手十二番地に建っている洋館を十二番館と呼んでいたようです。上記には12番地に4館建っていたことが分かります。ではどの洋館だったのでしょうか?

写真は南山手12番地(現在の長崎市南山手町2−11、18、21、22)を西南側から撮影したものです。正面はカトリック大浦教会(18番)、左側に民家2軒(21、22番)、東北側から撮影すると、右側にクロスロード1571ビル(11番)となっています。

 小林勝さんの「長崎・明治洋館」の写真集のなかに、南山手12番に建てられた洋館について詳細に書かれていましたので参考にしました。まず、大浦天主堂から北を撮影した絵葉書があります(左からA16、A17(小さい)、A18の3棟、中央奥がA19)。A16、A17(小さい)、A18の3棟はまとめて現在、カトリック大浦教会になっています。クロスロード1571ビルのところにはA19(旧ウォーカー兄宅)がありました(この建物はすぐ横の街並み保存センターに移設され一般に開放されています)。特にA18がアパートとして使用されていたようです(A××等の記号番号は小林勝さんの「長崎・明治洋館」に記載された番号を使わせていただきました)。とすると、アパートとして使用されていた”A18”はカトリック大浦教会の東側端のところにあったようです。
「眼鏡橋」
<眼鏡橋>
 立原道造は「長崎ノート」の中でもう一つ固有名詞を書いています。

 立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 僕には冬枯れの南方のすべてが索漠として見えはじめた。この町のメインストリートに出たとき、いらだたしいまでにかなしかった。僕はインキとべンを買ひ野村君と一しよに天井の低い喫茶店で珈琲をのみまづいカステラを食べた。長崎でもどこでもカステラがおいしいのではないといふ。をいしいのはたった一軒だといふ。僕はだんだん索漠としてなさけなくなって行った。……
 野村君と橋の上で別れて眼鏡橋をぼんやり見てゐると急に西日がキラキラとさした。はじめて救はれたやうな気になった。しかし、やはり僕はこの町で自分か生活出來るかどうかわからない。びとりきりで細い町をすこし歩いて、武君の家にかへる、すっかり疲れきってゐる。………」

 ”天井の低い喫茶店”とは何処なのでしょうか、あまりにも漠然として場所を探すには一寸無理なようです。

写真は現在の眼鏡橋です。この橋を右に渡って真っ直ぐ進み、次の交差点を超えた左角に「梅寿軒」があります。そのまま真っ直ぐ進むと右側の「しもむら産婦人科」の手前の空き地が武医院跡となります。

 立原道造は12月13日午後、長崎から東京に帰ります。
・長崎発:14時45分(急行門司行) → 門司着:19時40分(一日一本しかない急行)
・関門連絡船:門司 → 下関間
・下関発:20時30分(特別急行ふじ) → 東京着:15時25分
(昭和13年の時刻表が無いため、昭和10年10月、昭和15年1月の時刻表で確認)
(このコースは上海−(船)−長崎−門司−下関−東京間を結ぶ最短コースでした)
 博多から下関までは矢山哲治が同行しています。



立原道造の長崎地図


立原道造年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 立原道造の足跡
大正3年  1914 第一次世界大戦始まる 0 7月30日 東京都日本橋区橘町橘町三丁目一番地に父貞次郎、母とめの次男として生まれる
大正7年 1918 シベリア出兵 5 4月 養徳幼稚園に入園
大正8年 1919 松井須磨子自殺 6 8月 父貞次郎死去、家督を継ぐ
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 8 4月 久松小学校に入学(開校以来の俊童と言われる)
大正12年 1923 関東大震災 10 9月 関東大震災、流山に避難する
12月 東京に戻る
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
14 4月 府立第三中学校に入学
昭和4年 1929 世界大恐慌 16 3月 神経衰弱療養の為、豊島家に宿泊
         
昭和6年 1931 満州事変 18 4月 府立第三中学校を4年で修了し第一高等学校入学
         
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 3月 第一高等学校卒業
4月 東京帝国大学工学部建築学科入学
       
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 24 3月 東京帝国大学卒業
4月 石本建築事務所に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
25 9月15日 盛岡に向かう(盛岡ノートを書き始める)
9月15、16日 山形 竹村邸泊
9月17日 上ノ山温泉泊
9月19日 盛岡着
10月20日 帰京
11月24日 夜行で長崎に向かう
11月25日 奈良を回り京都着(長崎ノートを書き始める)
11月27日 京都から舞鶴に向かう、舞鶴泊
11月28日 舞鶴から松江に向かう
11月28日から12月1日まで松江に滞在
12月 1日 下関泊
12月 2日 矢山哲治と出会う、秋山六郎兵衛宅泊
12月 3日 午前中、矢山哲治とブラジレイロで過ごし、午後、久留米、柳川に向かう、柳川泊
12月 4日 佐賀から長崎に到着、武医院に宿泊
12月 5日 南山手の洋館を見に行く
12月 6日 熱が下がらず武医院で入院
12月13日 午後、長崎から下関経由で東京に戻る