<南山手十二番館> 立原道造が長崎で滞在する予定だったのが長崎
南山手の十二番館でした。南山手なので南向きの場所かとおもったら、北西向きの斜面で、場所柄、暖かいとはおもいますが、日光がさんさんと照りつけると言うわけにはいきません。この場所を誰に頼んだかがよく分かりません。立原道造の「長崎ノート」からすると、会社の同僚、武基雄に頼んだようなのですが、矢山哲治が長崎の友人
島尾敏雄に頼んだようにも書かれてます。
立原道造の「長崎ノート」からです。
「… 熱っぽくつかれた身體をこの町にはめづらしいのだといふ冬のやうな曇り空にひどい風の吹くなかを南山手といふ方に野村恭二君に連れてゆかれる。ひどくうらがなしい日だ。いくらか寒く感じられる。大浦の向い天主堂の見えるあたりで電車を降りる。そのあたりはもう古ぼけた洋館が澤山あった。坂をのぼるととつつきの宏壮な洋館が、そこが僕の借りようとする部屋のある家だといふ。茶色のペンキのもう剥げかかった古い建物が黒ずんだ木のあひだから暗鬱な空の下にある。僕の心は期待にをどった。と同時にそのあまりに荒發した外観にすこしの不安が湧いた。赤煉瓦の塀に沿うてすこし行き、門をくぐると、中は亂雑をきはめてゐた。勝手な配列で建てられた幾棟もの洋館のなかには、幾家族も住んでゐて、ひもをはってシャツをほしてあったり、ザルなどが窓にかかってゐる。おまへはどこかかういふ家を東京のなかにさがさうとするなら、よほどひどい町へ行かねばならないだらう。そのひとつの棟にはいって行った。家主の郡屋をノックすると、留守らしいので、その部屋にのぼって行く。階段は窓がないのでうすぐらい。踊場で身をひとっまはすと、次ののぼりは全く暗く、二階に行き着く暗がりのなかに亂雑に椅子のこはれや何かが何が何だかわからないままにうづたかく積んである。そのなかでやうやく名札の剥げてゐる扉を見つける。それをおけるとものの腐るやうなにほひのする八畳あまりの天井の高い部屋があった
── 八疊といふのは粗製のスクリーンで仕切っだので、ほんとうはその倍くらゐの部屋らしい。マントルピースらしいものが入口側の壁に着いてゐて、その向ひ側の窓には大きな環をつけたカーテン・ロッドが用意してあって、カーテンはなく、窓の外には暗澹とした空と、その背景の上にこの家とおなじやうな荒發して。ペンキの剥げた洋館がある。その内部にも幾家族も住んでゐるのだらうか、亂雑に生活のきれはしが見えてゐる。隣りの部屋が明き部屋だったら、ひとつの部屋はこれをなほしてそこへべッドをおいて住めるだらうとおもひながら、外に出て、隣のひっそりとした部屋の扉をひらくとじっにちひさい婆がまるくくるまって寝てゐる。病気らしく、ひとの気配におどろいたのに起きられないらしい。郡屋のなかには家具らしいものもなく、その人一人ぢっと天井を見て眠ってゐる。……僕はあわてて扉をしめた。すぐそばに暗い汚い洗面場があって、いろいろな汚れたものがうづたかく積みかさねてあった。僕はオーバーブリッヂで次の棟にっづいてゐるそのブリッヂの上まで、光が欲しくて出て行った。向うの棟にもやはり人がゐて、魚の干物など窓に干してある。その棟にっいてゐる屋外階段を降りてゆくと鎧戸のなかで一人の女の人が野菜をきざんでゐる。その人に家主はゐないかとたづねると、ゐないらしいなら留守だらうと答へてくれる。あきらめて外へ出ようとする。煉瓦の塀は行きどまりでまたまはって家の間を通りぬけ、入っだのとは別の門に出る…」
上記に書かれている”野村恭二君”についてはよく分かりません。”野村恭二”作の長崎の絵葉書が有ります。私が手に入れたのは「
袋」、「
浦上天主堂」、「
眼鏡橋」の三種です。袋には”野村恭二”の名、絵葉書のは”kyoji”のサインがあり、”昭和13年12月16日長崎要塞司令部検閲済”と記載がりますので、同じ頃の絵葉書だとおもわれます。
島尾敏雄の「詩人のへだたり」より、
「…彼は福岡高校の生徒で私は長崎高商に居た。昭和十二年だったか十三年だったか、彼が長崎に遊びに来た。知り合ったばかりで気さくに話ができなかった。町を歩きながら彼は肩をいからしぐいぐい押してくるものだから私はまっすぐ
に歩けず、さりげなくかわすことに腐心した。彼には東京のすでに名の知られた詩人だちとの親しい交友もあるのだとき
いていたが、私にはかかわりのないこと、だから福岡に帰った彼からその東京の詩人のひとりが長崎に来たがっているから下宿の部屋をしばらく貸してほしいと言われたときも、反射的に逃げだしたいと思ったのだ。詩人には近づくな。しかし思いかえして承諾の返事をしたのは、その詩人の来崎といれちがいに休暇にはいる私はそこには居ない公算が大きかったから。そのときの私の下宿というのは南山手十二番地にあったいわゆる十二番館。大浦天主堂に行く石だたみの急な坂道の右がわにあった木造洋館で、四つの棟が築山や池のある広い中庭をはさんで対峙していた。もとはヨーロツパ人向きのホテルとして建てられたというが、当時は雑多な境遇の人人が部屋借りをして住んでいた。中でも亡命ロシヤ人の数家族がもっとも人目をひいていたはずだ。私の部屋はベッドと衣装箪笥とストーブ、それにテーブルがひとつだけ。しかしほんとうにその詩人がやって来て、何日かをいっしょに生活しなければならなくなることも考えられ、当惑と好奇の戦慄におそわれたが、結局のところその詩人はとうとう私のところにはあらわれず、矢山からはなんの連絡もなかった。あとになってその詩人は病死したときいた。あのとき長崎に来たことは来たのだという。それが立原道造だと知ったのはもっとあとのことだ。…」
上記の最初に書かれている”彼”とは、矢上哲治のことです。ここで、南山手十二番館のことがよく分かります。南山手十二番地に建っている洋館を十二番館と呼んでいたようです。上記には12番地に4館建っていたことが分かります。ではどの洋館だったのでしょうか?
★写真は南山手12番地(現在の長崎市南山手町2−11、18、21、22)を西南側から撮影したものです。正面はカトリック大浦教会(18番)、左側に民家2軒(21、22番)、東北側から撮影すると、右側に
クロスロード1571ビル(11番)となっています。
小林勝さんの「長崎・明治洋館」の写真集のなかに、南山手12番に建てられた洋館について詳細に書かれていましたので参考にしました。まず、
大浦天主堂から北を撮影した絵葉書があります(左からA16、A17(小さい)、A18の3棟、中央奥がA19)。A16、A17(小さい)、A18の3棟はまとめて現在、
カトリック大浦教会になっています。
クロスロード1571ビルのところにはA19(
旧ウォーカー兄宅)がありました(この建物はすぐ横の街並み保存センターに移設され一般に開放されています)。特にA18がアパートとして使用されていたようです(A××等の記号番号は小林勝さんの「長崎・明治洋館」に記載された番号を使わせていただきました)。とすると、アパートとして使用されていた”A18”は
カトリック大浦教会の東側端のところにあったようです。