<「辛亥への道 孫文」 陳舜臣、中公文庫>
孫文関連の本では有名な陳舜臣の「辛亥への道
孫文」です。この手の本を読むと、わくわくしますね。時代の波の強さを感じます。どんなに旧体制が対応しようとしても、押し寄せてくる時代の波が全てを飲み込んでしまいます。変革するときはこんなものかなとおもいました。先ずは有名な孫文の遺言です。鈴木言一の「孫文傳」(岩波書店)からです。
「…一、余の力を国民革命に致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求めるにあり。四十年の経験を積んで、この目的に到達せんと欲するには、必ず須らく民衆を喚起し、世界の平等をもって我に封する民族と聯合して共同奮闘すべきことを知る。現在、革命なほ未だ成功せず。すべてわが同志よ、須らく余の著はすところの建国方略、建国大綱、三民主義及び第一次全国代表大會宣言によって繼續努力し、目的を貫徹すべし。最近主張せる国民会議の開会、不平等條約の廢除は、特に短期間内にその寛現を促すべし。ここに至嘱す。…」
孫文が亡くなった大正14年(1925)は第一次世界大戦後の不況が始まり、世界恐慌の直前です。日本では治安維持法ができて、世の中が暗くなる直前ではなかったかとおもいます。上記の”革命なほ未だ成功せず”は、”革命未だならず”とも言います。こちらの方がいいですね!!、要するに中国語の訳し方です。
★写真は陳舜臣の「辛亥への道 孫文」中公文庫版です。たいへん面白く読むことができました。やはり現地を歩くと、ひしひしと歴史の重みを感じます。前回と同じく、香港訪問で参考にした内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」からです。
「…孫文は、一八六六年、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で、幼名は孫帝象-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれているが、混乱を避けるため、本書では、以後、”孫文”で統一することにしたい。辛亥革命の指導者とされている孫文だが、一九一一年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)アメリカにいた。じつさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルだった。”三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を”愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていない)を掲げる崇高な理想の持ち主ではあるのかもしれないが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではない。しかし、それでも人をひきつける強烈なカリスマ性はあったのだろう。現在なお、華人世界では、”孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられている。 …」。
内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」は切手について書かれた本なのですが、廣東の歴史を知る上でとても参考になります。特に孫文については、詳細にかかれていました。
<
広州の博済医院付属南華医学校>
2011年5月8日 写真を入替え
孫文は20歳の時に医者になる決心をしたようです。向学心に燃えていたようで最初は広州の博済医院付属南華医学校に入りますが、一年でよりレベルの高い香港の西醫書院に移っています。西醫書院は本格的な西洋医学中心の学校でした。日経BP企画の「広州・開平と広東省」からです。
「…「勉学は広州と香港でつづけた。香港ではクィーンズ・カレッジに入り、洗礼を受けている。彼ははじめ軍人になろうと思ったが、海軍兵学校に相当する福州船政局は清仏戦争で破壊されていたため、医学に転じたという。
広州の博済医院付属南華医学校に入ったが、一年後、より高級な香港西医書院に転じた。この学校は香港の著名な中国人何啓が、亡妻のイギリス人アリスを記念した病院が基礎となったものだった。この西医書院はのちに香港大学医学部となる。…」
孫文は香港の西醫書院を首席で卒業しています。すごいですね。詳しくは「孫文を歩く 香港編」を参照してください。孫文はこの後兄の居るハワイに向かいます。
★写真は中山医科大学です。博済医院付属南華医学校は中山大学医学部となっています。正面が孫文の銅像です。

2011年5月8日 写真を入替え
孫文は20歳の時に医者になる決心をしたようです。向学心に燃えていたようで最初は広州の博済医院付属南華医学校に入りますが、一年でよりレベルの高い香港の西醫書院に移っています。西醫書院は本格的な西洋医学中心の学校でした。日経BP企画の「広州・開平と広東省」からです。
「…「勉学は広州と香港でつづけた。香港ではクィーンズ・カレッジに入り、洗礼を受けている。彼ははじめ軍人になろうと思ったが、海軍兵学校に相当する福州船政局は清仏戦争で破壊されていたため、医学に転じたという。
広州の博済医院付属南華医学校に入ったが、一年後、より高級な香港西医書院に転じた。この学校は香港の著名な中国人何啓が、亡妻のイギリス人アリスを記念した病院が基礎となったものだった。この西医書院はのちに香港大学医学部となる。…」
孫文は香港の西醫書院を首席で卒業しています。すごいですね。詳しくは「孫文を歩く 香港編」を参照してください。孫文はこの後兄の居るハワイに向かいます。
★写真は中山医科大学です。博済医院付属南華医学校は中山大学医学部となっています。正面が孫文の銅像です。