●孫文を歩く 広州編 (革命の地)
    初版2009年8月 7日
    二版2011年5月 8日  <V01L01>  一部写真の更新と大元帥府を追加

孫文(孫中山)の中国を掲載していますが、今回は広州を歩きました。前回の中山は孫文の生まれ故郷でしたが、広州は中国革命発祥の地です。広州は訪ねるところが多すぎて回りきれていません。滞在日数が二日ほどしかなくて、結局、広州の観光案内になってしまいました。


「孫文 陳舜臣」
<「辛亥への道 孫文」 陳舜臣、中公文庫>
 孫文関連の本では有名な陳舜臣の「辛亥への道 孫文」です。この手の本を読むと、わくわくしますね。時代の波の強さを感じます。どんなに旧体制が対応しようとしても、押し寄せてくる時代の波が全てを飲み込んでしまいます。変革するときはこんなものかなとおもいました。先ずは有名な孫文の遺言です。鈴木言一の「孫文傳」(岩波書店)からです。
「…一、余の力を国民革命に致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求めるにあり。四十年の経験を積んで、この目的に到達せんと欲するには、必ず須らく民衆を喚起し、世界の平等をもって我に封する民族と聯合して共同奮闘すべきことを知る。現在、革命なほ未だ成功せず。すべてわが同志よ、須らく余の著はすところの建国方略、建国大綱、三民主義及び第一次全国代表大會宣言によって繼續努力し、目的を貫徹すべし。最近主張せる国民会議の開会、不平等條約の廢除は、特に短期間内にその寛現を促すべし。ここに至嘱す。…」
 孫文が亡くなった大正14年(1925)は第一次世界大戦後の不況が始まり、世界恐慌の直前です。日本では治安維持法ができて、世の中が暗くなる直前ではなかったかとおもいます。上記の”革命なほ未だ成功せず”は、革命未だならずとも言います。こちらの方がいいですね!!、要するに中国語の訳し方です。

写真は陳舜臣の「辛亥への道 孫文」中公文庫版です。たいへん面白く読むことができました。やはり現地を歩くと、ひしひしと歴史の重みを感じます。前回と同じく、香港訪問で参考にした内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」からです。
 「…孫文は、一八六六年、マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で、幼名は孫帝象-sen(漢字表記だと孫逸仙)と呼ばれているが、混乱を避けるため、本書では、以後、”孫文”で統一することにしたい。辛亥革命の指導者とされている孫文だが、一九一一年に実際の革命が起こったとき、彼は中国大陸のどこにもおらず(というよりも、いられず)アメリカにいた。じつさい、彼が計画した武装蜂起の類はことごとく失敗し、広州から香港へ、さらには東京や横浜へと逃げ回るというのが、彼の基本的なライフ・スタイルだった。”三民主義”(その内容は決してリベラルなものではなく、一般の国民を”愚民”として、中国国民党による一党独裁を主張するものであることは意外と知られていない)を掲げる崇高な理想の持ち主ではあるのかもしれないが、現実の革命家としては決して合格点を与えられる存在ではない。しかし、それでも人をひきつける強烈なカリスマ性はあったのだろう。現在なお、華人世界では、”孫中山先生”は中国の国父として絶大な尊敬を集めており、彼らの学校では、その生涯は繰り返し教えられている。 …」
 内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」は切手について書かれた本なのですが、廣東の歴史を知る上でとても参考になります。特に孫文については、詳細にかかれていました。

「中山医科大学」
広州の博済医院付属南華医学校>
  2011年5月8日 写真を入替え
 孫文は20歳の時に医者になる決心をしたようです。向学心に燃えていたようで最初は広州の博済医院付属南華医学校に入りますが、一年でよりレベルの高い香港の西醫書院に移っています。西醫書院は本格的な西洋医学中心の学校でした。日経BP企画の「広州・開平と広東省」からです。
「…「勉学は広州と香港でつづけた。香港ではクィーンズ・カレッジに入り、洗礼を受けている。彼ははじめ軍人になろうと思ったが、海軍兵学校に相当する福州船政局は清仏戦争で破壊されていたため、医学に転じたという。
 広州の
博済医院付属南華医学校に入ったが、一年後、より高級な香港西医書院に転じた。この学校は香港の著名な中国人何啓が、亡妻のイギリス人アリスを記念した病院が基礎となったものだった。この西医書院はのちに香港大学医学部となる。…」
 孫文は香港の西醫書院を首席で卒業しています。すごいですね。詳しくは「孫文を歩く 香港編」を参照してください。孫文はこの後兄の居るハワイに向かいます。

写真は中山医科大学です。博済医院付属南華医学校は中山大学医学部となっています。正面が孫文の銅像です。

「孫逸仙記念病院」
博済医院>
  孫文は香港の西醫書院を卒業後マカオで医院を開業しますが、結局広州の博済医院で働きます。日経BP企画の「広州・開平と広東省」からです。
「…九二年に西医書院を首席で卒業した孫文は、最初にマカオで開業医となり、まもなく広州に移り、ここで医師としての仕事に従事するようになった。広州では博済医院に眼科の若き医師として働いている。
 珠江に面した沿江西路と仁済路が交錯した場所に、その病院がある。…」

 マカオは田舎ですから、やっぱり広州がよかったのでしょう。

右の写真は孫文が眼科医として勤めた「博済医院」です。現在は中山大学付属病院になっています。ただ、建物はそのままのようです。正面の門も古そうだったので写真を撮っておきました。

【孫文(そんぶん・ソンウェン)】
 孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun Yat-sen、1866〜1925)は、中国の政治家、革命家。慶応元年(1866)マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で生まれる。ハワイ、香港、上海を転々とし、一時、日本に亡命をしています。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれていた。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。両国で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山(そんちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)。(ウィキペディア参照)


「黄花崗七二烈士墓」
黄花崗七二烈士墓>
 ここから革命への道になります。上記の孫文年表を見てもらうと分かりますが、明治33年(1900)の恵州起義から始まって、数々の起義を起こしていますが、ことごとく失敗しています。まだまだ清朝の勢力が強くて革命にまでいたりませんでした。大きく動いたのは明治44年(1911)の辛亥革命からです。陳舜臣の「孫文」を参照します。
「…一九一一年は辛亥の年である。
 同盟会はこの年のはじめに、蜂起を予定していた。…
…この蜂起は旧暦の日付で、「三月二十九日革命」 と呼ばれている。太陽暦では四月二十七日にあたる。…
…刑死者は狗頭山という所に棄てられる。そこは遺骸が露出したりして、悪臭に満ち、通称を「臭岡」という。
 党人の潘達徴という者が、ひそかに善堂(葬儀店)と相談して、七十二の遺骸を紅花岡という清浄な土地に移葬した。そこはのちに「黄花岡」と改名された。いまその地に「黄花岡七十二烈士之碑」が立っている。…」

 ”起義”の意味がよく分からなかったのですが、辞書を見たら「義兵を挙げること。「興義」ともいう」とありました。”義兵”は「正義のために起こす兵」とあります。つまり、”正義のために兵を挙げること”が正解のようです。

左上の写真が黄花崗七二烈士墓です。辛亥革命が始まる7ヶ月前に起こされた武昌起義の犠牲者の墓です。陳舜臣の「孫文」では、
「…この蜂起失敗を黄花岡の役と呼ぶが、黄花岡は烈士たちが葬られた場所で、蜂起の地点ではない。戦闘は広州の総督署や源盛米店で展開されたのであり、やはり三月二十九日事件が妥当であろう。この蜂起に参加した黄興以下百余人は、はじめから事が成るとは思っていない。すべて決死の出撃であった。孫文はアメリカの新聞で蜂起の失敗を知ったが、それにはただ革命党とあるだけで、人名は出ていなかった。…」
 中国を変えようとする勢いを感じます。孫文はまだアメリカ在です。

「中山紀念堂」
革命軍の司令部(辛亥革命)>
 余りに広いのでビックリしました。この場所は清朝時代に督練公所として建設されています。辛亥革命後に孫文により督軍署として使われ、大正10年(1921)に孫文が中華民国非常大総統に就任すると、総統府としても使われています。
「…敷地はもと清朝軍の詰所だった所で、辛亥革命直後は革命軍の司令部が置かれたこともある。抗日戦争時、日本軍に爆撃され、屋根の一部が破壊されたが、1963年に大規模な修理を施した。記念堂の前庭に、ステッキをもつ孫文の像が立っており、敷地内には孫文記念館が併設されている。…」
 ウィキペディアによると、広州市は中華人民共和国広東省に位置する副省級市。広東省人民政府が置かれる省都であり、華南地区全体の行政的中心でもある。人口約713万人であるがただし約300万程度と推定される流入人口があり、実質の常住人口は約1,000万人とみられる。上海市、北京市に次ぐ中国第3の大都市。昔から羊城と愛称され、また花城、穂城の名もあり、穂(拼音: sùi )と略称される。地下鉄、高速道路網が発達している。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

右の写真は中山記念堂です。正面の入り口から撮影しているのですが、遠くて、望遠で撮影しています。中央に孫文の銅像が建てられています。

「大元帥府」
<大元帥府>
  2011年5月8日 大元帥府を追加
 1917年8月、孫文は日本から上海を経由して広州に入り、北京を拠点とする北洋軍閥政府と対抗するために、広東政府(第一次)の中華民国政府海陸軍大元帥に選ばれ、この広州大元帥府で執務を開始しています。
 しかしながら1918年5月には孫文は寄り合い所帯の権力争いに破れ、職を辞して一旦宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移ります(上海時代)。
 1920年12月には再び広州に戻り、1921年5月広東政府(第二次)総統兼内務部長に就任しています。

左の写真が現在の広州大元帥府です。綺麗に整備されて記念館になっています。この建物の中には元帥府の事務室、孫文の執務室、応接室、居間兼寝室、食堂が当時のまま残されており、居間兼寝室には孫文と夫人の宋慶齢の人形が置かれていました。この珠江に面した建物は当時中国2大セメント生産工場のひとつ、広東士敏土廠があった場所でした。この建物を大元帥府として使い始めたわけです。場所的には広州市海珠区にあり江湾大橋の南詰東側です。川からは一筋入っています。

「広東近代史博物館」
孫文が臨時大統領になった所>
 廣州起義烈士陵園の中にある博物館です。見学しましたが、阿片戦争から辛亥革命までの革命中心の近代史博物館です。入口右側にはアヘン戦争の時に虎門砲台で使用された大砲が飾られています。
「…この一角に広州近代史博物館がある。広東諮問局旧社で、中国国民党本部が置かれたこともある場所である。中華民国臨時(非常)参皆両院連合会が開かれて孫文を臨時大統領に選び、その孫文が大統領に就任した場所でもあった。…」
 日本に対しては決して好意的には展示されていませんが、私個人には非常に役に立つ展示でした。

左上の写真が廣州起義烈士陵園にある「広東近代史博物館」です。1927年、中国共産党員が蜂起して「広州コミューン」が成立しましたが、まもなく鎮圧されています。この事件を記念した公園が「廣州起義烈士陵園」です。記念碑には周恩来の字で「廣州起義烈士陵園」と記されています(見にくいですが塔の真ん中辺りです)。

「廣東高等師範学校跡」
第一次国共合作(廣東高等師範学校)>
  2011年5月8日 写真を入替え
 第一次国共合作が成ったのが廣東高等師範学校の講堂です。
「…建物の中に広東高等師範学校の講堂(礼堂)がある。第一次国共合作が成立した一九二四年一月二十日から三十日まで国民党第一次全国会議代表大会が開かれ、ここがその会場となった。孫文はまた同年、ここで広東高等師範学校の教師や生徒に十六回にわたる講義をしている。その内容こそが後に「三民主義」と呼ばれた、民族主義、民権主義、民生主義からなる彼の政治理念であった。…」
 ウィキペディアによると、「第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。」、とあります。孫文は群雄割拠する軍閥に対抗するため、ソビエトの援助が必要だったのだとおもわれます。ソビエトにとっても意味を持つものだったとおもいます。

右の写真は「石廣東高等師範学校跡」の正面です。講堂の中も撮影したかったのですが、工事中で撮影できませんでした。玄関の写真を掲載しておきます。

「黄埔軍官学校跡」
黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)>
  2011年5月8日 写真を入替え
 黄埔軍官学校は第一次国共合作の4ヶ月後に孫文によって作られた中華民国国軍の士官学校です。
「…国共合作により実権を握った孫文は矢継ぎ早に改革に乗り出した。一九二四年八月十五日に広州で中央銀行を設立、さらに同じ年に広州郊外の黄輔地区に軍人を養成する学校を設立する。いわゆる黄輔軍校である。正式名称は中国国民党陸軍士官学校。二年後には中央軍事政治学校、あるいは国民革命軍軍学校と名称変更した。…」
 ここでもウィキペディアを参照します。
「黄埔軍官学校の設立は孫文の主要な顧問となっていた、ソビエト コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンの進言によるものであった。当時は第一次国共合作が行われていたため、中国国民党だけでなく、中国共産党の軍人も入校した。…
…5月には蒋介石が校長、廖仲トが軍校駐在の国民党代表、李済深が教練部主任、王柏齢が教授部主任、戴季陶が政治部主任、何応欽が総教官、共産党員の中からも葉剣英が教授部副主任、周恩来が政治部副主任に就任した。」


左上の写真が黄埔軍官学校跡です。そのまま残っています。中国人民解放軍が管理しており、駐屯地もありました。

「孫文故居」
<孫文故居>
  2011年5月8日 写真を入替え
 黄埔軍官学校跡に教職員用の宿舎があり、孫文の宿舎もあったようです。訪ねた日が休日だったのですが、それにしても見学者が多いのにビックリです。中国では人気のスポットなのかもしれません(学校などで”見学しなさい”と指導しているのかもしれません?)。
「…旧社の近くには昔の教職員宿舎があって、現在は孫総理記念室として一般公開されている。二階には孫文の革命運動を支えた日本人の梅屋庄吉に関する展示物が置かれていた。…」
 この辺りになると全く知識がないのでウィキペディアに頼ります。
「黄埔軍校の最初の教員はソ連から来た者が多く、ヴァシーリー・ブリュヘルなど赤軍の指揮官もいた。しかし、北伐期間中、国共分裂したため、ソ連や共産党系教員、学生は引き上げている。」
 第一次国共合作のおかげです。

写真が黄埔軍官学校のすぐ傍にある「孫中山先生故居」です。この建物が孫文の宿舎でした。

「お菓子屋」
<広州市内のお菓子屋>
 最後に広州のお菓子屋を紹介します。よく分からないのですがパイ包みのお菓子です。中山大学から魯迅の旧居へ向かう途中にあったお菓子屋です。お菓子屋というよりも、惣菜のようでもあり、パンのようでもありました。お値段も2元位からあり、安かったです(日本人の感覚かも?)。ショーケースの写真を掲載しておきます。値段と商品がわかります。

左の写真が中山大学から魯迅の旧居へ向かう途中にあったお菓子屋です。買っていく人も多かったです。洋菓子ではない、広州独特のお菓子でしょうか、横浜の中華街でも見かけるお菓子のようでした。

次回は、孫文の上海か神戸、又は東京を歩きます。



広州、中山、香港位置関係地図



広州市地図



孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 自由の女神像が完成 20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 水力発電所が京都に完成 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
12月 孫文は横浜からハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱か死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918   52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
大正14年 1925   58 3月 孫文死去