●孫文を歩く 香港編 (下)
    初版2008年5月31日  <V01L01> 

 今週は「孫文を歩く 香港編 (下)」です。前回は香港島の香港大学から結志街(ガゲ・ストリート)にある”楊衢雲暗殺の地”まで歩きましたが、今週は「孫中山記念館」も含めて残り8ヶ所全てを歩きます。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)


「孫中山記念館」
孫中山記念館>
孫文は香港の近郊であるマカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれ、医学校も香港で通っていますので、上海などよりはよっぽど関係が深いのですが、なぜか記念館がありませんでした。この孫中山記念館は2006
年12月に新たにオープンしています。1997年に香港が英国から中国に返還されてから、香港特別行政区政府は本国の意向もあったのでしょうか、孫文記念館を新たに建設しています。孫中山記念館のホームページを参照すると
「孫中山紀念館的館址「甘棠第」於1914年建成,原為香港殷商何東胞弟何甘棠的住宅,樓高四層。整座大樓的建築屬英皇愛コ華時期的古典風格,弧形陽台有希臘式巨柱承托。內部裝修瑰麗堂皇,色彩斑斕的玻璃窗、陽台牆身的瓷磚,以及柚木樓梯的欄杆至今依然保存良好,是香港現存有數的二十世紀初建築物。 甘棠第不單在外觀上美輪美奐,亦是香港其中一座最早以鋼筋構建,並有供電線路舖設的私人住宅,堪稱香港建築史上的里程碑。」
 英語と中国語で書かれていましたので、あえて中国語の方を掲載しました。訳してみると……
「孫中山記念館の建物である「甘棠屋敷」は1914年に建設されたもので、もとは香港の殷商何東同胞の弟の何甘棠の住宅であり、建物の高さは4層です。邸宅は英皇エドワード時期に属するクラシック風で、弧状テラス式の大きいな柱が特徴となっています。内部は美麗で、内装も堂々としており、色彩が豊かで、美しいガラスの窓、テラスの壁のタイル、およびチーク階段のレールは今日でも綺麗に保存されています。香港では二十世紀の初めの建築物が現存しています。甘棠屋敷は単に外観が美してだけではなく、香港のなかで最も早く鉄筋で建設された建物の一つで、給電設備をもった私有住宅としては香港の建物の歴史でのモデルとされています。」
 と訳します。翻訳がいまいちですね。漢字なので少しは分かるのですが、前後関係がよく分かりません。日本語の方が難しいのかもしれません。

左上の写真が「孫中山記念館」です。中環(セントラル)からは中環至半山扶手電梯至堅道(セントラルから山の方に登るエレベータ)に乗るとすぐです(AM10:00までは下りなので要注意、記念館の開館時間もAM10:00なので早く訪ねると乗れません)。地図は下記か、孫中山記念館のホームページ を参照してください。

「孫中山誕生百四十周年記念切手」
<孫中山誕生百四十周年記念切手(香港)>
  内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」に書かれている記念シートです。
「…二〇〇六年二月に中国香港郵政は「孫中山誕生一百四十周年」と題する記念切手を発行したが、そのうちの五ドル切手を収めた小型シート(前貢図1)には、香港での孫文の活動の跡を示すスポットの地図が印刷されていて、ちょっとした”孫文観光”の案内図になっている。せっかくだから、僕たちも、この小型シートを片手に、孫文ゆかりの場所をぶらっと歩いてみようか。…」
 この記念シートは日本では手に入らず、香港で購入しました。宿泊したホテルで切手商を探して貰ったのですが、”切手商”という英語がうまく伝わらず苦労しました。何とか探してもらって、香港島の地下鉄「上環駅」からすこし南の皇后大道中(クイーズロードセントラル)192にある切手商で購入しました。英語は通じませんので「香港歴史漫郵記」に掲載されている切手シートの写真を見せて、15ホンコンドル(5セントの切手のみのシート)だったのですが、高いか安いか分からず複数枚購入しました。

右の写真が「孫中山誕生百四十周年記念切手」です。大きなシートだと期待していたのですが、横13cmの思いの外、小さなシートでした。地図と説明文が印刷されているのですが、小さくて読むのに苦労しました。当然日本語ではありません(中国語と英語です)。

【孫文(そんぶん・ソンウェン)】
 孫文(号は中山、又は逸仙、英文名はSun Yat-sen、1866〜1925)は、中国の政治家、革命家。慶応元年(1866)マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨出身で生まれる。ハワイ、香港、上海を転々とし、一時、日本に亡命をしています。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれていた。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼ばれる。両国で尊敬される数少ない人物である。中国では孫文よりも孫中山(そんちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。(本来は孫中山と書くところですが、ここでは日本で一般的な孫文と掲載します)。(ウィキペディア参照)



香港 香港島地図 -2-



孫文の香港年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 自由の女神像が完成 20 中央書院卒業、広州の広済医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 水力発電所が京都に完成 26 7月 西醫書院を卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
12月 広州蜂起に失敗し横浜からハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 横浜に到着
         
大正13年 1923 中国で第一次国共合作 56 2月 香港大学で講演を行う



「輔仁文社の跡地」
輔仁文社の跡地>
 前回は「楊衢雲暗殺の地」まで歩きました。今週も内藤陽介さんの「香港歴史漫郵記」を参照して、残り8ヶ所の香港での孫文の足跡を歩いてみます。「孫中山誕生百四十周年記念切手」に描かれている孫文の足跡は15ヶ所あり、今週は八番から十五番です。
「…楊衢雲は福建省出身の革命家で、一八九二年に香港で謝纉泰らと輔仁文社を設立した。一八九五年に香港興中会が結成されると、孫文よりも年長であった彼は初代会長に就任。一九〇〇年の武装蜂起にも参加したが、翌一九〇一年、Fの場所で暗殺された。その輔仁文社の跡地はFの場所から結志街を西方向に進み、卑利街(ピール・ストリート)を右折したGの場所、百子里に置かれていた。…」
 Fは前回の最後に訪問したところです。ですから輔仁文社のすぐ傍で暗殺されたようです。この付近は道がごちゃごちゃしており、古香港(オールドホンコン)そのものの雰囲気でした。

左上の写真が輔仁文社の跡地裏の記念碑です。場所が分からず探すのに苦労しました。卑利街(ピール・ストリート)を右折するところがわかりませんでした(作家は本当に歩いたのでしょうか!)。卑利街までは行かず、手前で右折します。道ではなくて、建物の間の入り口 を右折(建物に入る)し階段を登ったところになります。写真を参照してください。

「皇仁書院の跡地」
皇仁書院の跡地>
 「…Gの百子里の脇にある三家里の小道を抜けて鴨巴甸街に戻ったら、少しだけピーク方向に上り、荷李活道(ハリウッド・ロード)との交差点に出ると、正面に香港警察の官舎がある。そこがHの皇仁書院(クイーンズ・カレッジ)になる。皇仁書院は歌賦街にあったDの中央書院が改組されたもので、一八八九年から一八九四年までは維多利亜書院となっていたが、一八九四年に皇仁書院となった。この土地には一九五〇年まで校舎があったが、現在では鋼鑼湾(コーズウエイベイ)に移転している…」
 輔仁文社の跡地から、鴨巴甸街(アバーディーン・ストリート)に戻って、少し道なりに登っていきます。車が通る道なのですが、坂道の角度が生半可の角度ではありません。歩くのも大変な上りでした。

右上の写真が皇仁書院の跡地の記念碑です。皇仁書院の跡地 はこの写真の裏側になります。

「西醫書院の跡地」
西醫書院の跡地>
「…交差点の反対側、荷李活道の西南側が、一八八七年に孫文が医学を学ぶために入学したIの西醫書院の跡地になる。 西醫書院は香港の大富豪・何啓が、一八八四年に病没した妻アリスを記念して一八八七年に建てたアリス記念病院の付設施設として設立されたもので、香港初の本格的な西洋医学の教育機関である。…
… 西馨書院は、英文名称がHong Kong College of Medicine for Chinese″となっていることからもわかるように華人に対して西洋医学を教授するための機関で、一八八七年一〇月一日に開校した。第一期入学者は二名いたが、授業は厳しく、卒業試験を受けることができたのは孫文を含めて四名しかいなかったという。…」

 西馨書院の跡地は皇仁書院の跡地の交差点を挟んで向かい側になります。この付近が孫文の地元なのでしょう。

左上の写真は西醫書院の跡地の記念碑です。この後ろの建物のところが西醫書院の跡地 となります。写真を掲載しておきます。

「道済会堂の跡地」
道済会堂の跡地>
「…並びにある陶器の店があるが、ここにあったのがJの道済会堂である。道済合堂は一八八八年にロンドン伝道協会が建立した教会で、西撃書院時代の孫文は、学校の近くのこの教会に足繁く通っていたという。…」
 ”西馨書院の跡地がある荷李活道(ハリウッドロード)を少し西に歩くと、セブンイレブンの前に道済会堂の跡地がありまます。香港ではセブンイレブンはいたるところにあり、便利です。ただし、日本とは少し違って、パンがあまりなく、食べても日本のように美味しくありません。飲料水関係も少し違います。国によって違いがありますね。

右上の写真が道済会堂の跡地の記念碑です。この記念碑の後ろ側に道済会堂の跡地 があります。

「興中会の跡地」
興中会の跡地>
「…荷李活道をさらに道なりに西の方向へ進んでいくと、まもなく、卑利街にぶつかる。そこを左折して海側へ降りるとGの輔仁文社の跡地に出てしまうので、北側に上って士丹頓街(スタントン・ストリヒート)に行く。士丹頓街を左折して一〇〇メートル弱歩くと、興中会故址の案内表示が出ているので、そこがKのポイントであることがわかる。 興中会というのは、孫文が結成した清朝打倒の秘密結社だ。一八九二年に西醫書院を卒業した孫文は医師としての資格を取得し、その後しばらくは香港を離れ、マカオ、広州で医師として開業するかたわら(図10)、同志とともに時事を論じる日々を過していた。…」
 香港島かなり登ってきましたが、まだまだ家並み(ビルですが)が続いています。香港の古いビルは10階建でもエレベータがないビルが多く、昇り降りが大変です。特に高層のアパートは大変なようです。

左上の写真が興中会の跡地の記念碑です。興中会の跡地 はこの写真のところになります。そのままのところに記念碑が建てられているのは珍しいです。

「杏讌棲西菜館跡」
杏讌棲西菜館の跡地>
「…興中会本部は、会党″と呼ばれる秘密結社や緑林″と呼ばれる無法者集団を動員するとともに、何啓やイギリスの新聞記者の支持をも取り付け、武器弾薬を準備して、着々と武装蜂起の準備を進めた。その謀議の舞台となったのが、Lの西洋料理店、杏讌棲西菜館である。…
… ここにあった杏讌楼で食事をしながら、孫文たちは、広州では旧暦九月九日の重陽の節句に墓参りの習慣があることに目を付け、メンバーに墓参りを偽装させて香港から広州に送り込み、武装蜂起を起こし、独立政府を樹立しようと計画した。しかし、この計画は事前に清朝側に察知されて失敗。陸皓東以下、四〇名以上が逮捕され、孫文も命からがら香港を経て日本に亡命する。以後、孫文は清朝政府から体制転覆を狙うテロリスト集団の頭目として懸賞首となり、一九一二年に中華民国が成立するまでの間、海外で亡命生活を送ることになった。…」

 革命に食事は欠かせないようです(坂本龍馬も料亭・料理屋は欠かせませんでした)。さすがの西洋料理店、杏讌棲西菜館です。中華料理でなくて、西洋料理なのが残念ですね。

右の写真が”杏讌棲西菜館跡の記念碑です。西洋料理店、杏讌棲西菜館 の実際の場所もこの裏のようです。写真を掲載しておきます。

「中国日報事務所跡」
『中国日報』の事務所跡>
「…陸羽茶室のある士丹利街(スタンレー・ストリート)にたどり着く。その陸羽茶室の場所こそが、一九〇〇年の恵州蜂起に先立ち、陳少白が革命宣伝のために発行した『中国日報』の事務所となっており、小型シートの地図ではMの番号がつけられている。…」
 この場所も探すのに苦労しました。最初は工事車両が駐車していて、見つけられずに通り過ぎてしまいました。もう一回、回っていたときは工事車両が出たあとで、見つけることができました。夕方遅くなってきましたので、写真がいまいちになっています。

左上の写真は『中国日報』の事務所跡の記念碑です。実際の『中国日報』の事務所跡は向かい側の陸羽茶室 のところです。

「和記棧鮮果店三楼跡」
和記棧鮮果店三楼の跡地>
「…陸羽茶室の前を西側方向に歩き、徳己立街(ダギラー・ストリート)との交差点を右折して威靈頓街との交差点あたりが小型シートでは最後のポイントとなるNの和記棧鮮果店三楼になる。ここもまた、孫文たちが一九〇三年の武装蜂起(失敗したが)の謀議をめぐらした場所であった。 ちなみに、一九八七年に発行された香港旧日風貌″の切手(図11)には、一九世紀末の威霊頓街のようすを措いた絵が取りあげられている。孫文たちが清朝転覆の謀議をめぐらしながら、この辺りをうろうろしていた頃の景色は、こんな感じだったんだろう。 さて、香港大学からここまでいろいろと見物しながら歩いてくると、僕の足ではまるまる半日かかって、良い運動になった。…」
 この記念碑の場所が分からず苦労しました。記念碑の地図では徳己立街(ダギラー・ストリート)と威靈頓街との交差点の先にあるように書かれていたのですが(地図によって場所が違った)、場所が違いました。

右の写真が和記棧鮮果店三楼の跡地の記念碑です。実際の場所は徳己立街(ダギラー・ストリート)と威靈頓街との交差点 の角にります。

これで、「孫中山誕生百四十周年記念切手」に書かれた15ヶ所は全て回りました。香港を訪ねたことの無い方はよく分からなかったのではないかとおもいます。是非一度は訪ねてください。香港まで飛行機で片道3時間半です。近いですよ!!