<大正 2年(1913) 8月9日〜16日> 2015年12月19日
大正2年8月の神戸を追加 孫文は袁世凱に対して第二革命を起こしますが、逆に袁世凱に潰されてしまい、孫文、黄興は日本に亡命します。孫文は8月3日上海から独逸船ヨルク号で福州に向い、そこで8月5日、大阪商船の撫順丸で台湾の基隆に向います。福州で日本側の説得を受けての台湾行きでした。それでも台湾の基隆では直ぐに日本行きの信濃丸に乗換えています。
外務省資料を参照します。
「…大正2年8月6日
牧野外務大臣 台湾総督
孫逸仙、胡漢民及従者二名は昨日五日午前六時撫順丸にて福州より基隆へ入港 孫及従者二名は同港出帆門司直航の信濃丸に乗換へ内地に向へり
然るに福州領事よりの電報に依れば黄興は四日夜香港出航門司へ直航し神戸にて孫と會合の上来る二十一日発渡米の筈なりと尚胡漢民は基隆に滞在来る十日淡水発便船にて香港に向い筈
孫一行は其行動を極秘し居り新聞に掲載せしめざる様希望し居たり…
大正2年8月7日
外務次官 民政長官
孫逸仙に関し貴省大臣より総督宛の電報五日午后十時到着したるも孫逸仙は同時刻以前即同日午后四時基隆を出発したり尚孫等の行き先に付ては別に内務省及貴省へ報告済み…
大正2年8月8日
牧野外務大臣 山口縣知事
孫逸仙は本日前八時門司へ入港の信濃丸にて上陸せさるまま無事正午出航~戸に向う…
大正2年8月9日
牧野外務大臣 兵庫縣知事
孫逸仙は従者二名を伴い本日午前七時信濃丸にて無事着港せり之より先き和田岬検疫所沖合へ神戸市内海運業者(三上)を先着せしめ本人の意向を確かめたるに一切新聞記者及び支那人等の面会することを欲せざる旨なるを以て一時船長室に潜伏することを快諾せしめた衆往訪者には検疫済の上何れにか短艇にて上陸したりと○と引揚げたり同人身邊は厳重警護し居れり而して三上は本夜○に同人を伴い上陸の予定……」
★写真は日本郵船の信濃丸です。信濃丸は日露戦爭でバルチック艦隊を発見した有名な船で、第二次世界大戦でも戦没せず、昭和26年まで活躍しています。運の強い船です。和田岬検疫所は三菱造船所の西側になります(現在も同じ場所に神戸検疫所があります)。
和田岬の地図を掲載しておきます。
<[信濃丸](T世) 1900-1923>
欧州航路用予備船として新造。当初、欧州航路に就航。明治35年から米国航路(シアトル線)に配船された貨客船ですが、日露戦争の日本海海戦における活躍で知られています。
明治38年5月、本船は仮装巡洋艦として、長崎県五島白瀬の西方40マイル付近で哨戒任務に就いていました。ウラジオストックを目的地とするバルチック艦隊が朝鮮海峡を通過することが予測されていたため、この哨戒のための行動です。5月27日早暁、まず病院船「アリョール」を、続いて主力艦隊を発見、直ちに゛敵艦見ゆ″と通報します。連合艦隊はこれを受けて出動、日本海でバルチック艦隊を要撃、海戦を大勝利に導きます。
終戦後、米国航路に復帰。その後神戸・基隆線に転じます。大正12年に近海郵船に移籍され、さらにその後は蟹工船などで活躍、第二次世界大戦後はシベリアから多くの復員軍人の輸送にあたり、昭和26年に解体され、永い生涯を終えています。
<信濃丸〉(T世)主要項目
船 種:貨客船
建造所:英国・デビット&ウィリアムヘンダーソン社
総トン数:6,388トン
長 さ:135.635メートル
幅 :14.996メートル
深 さ:10.241メートル
速 力:5.4ノット/11.9ノット
主機関:三連成2基
最高出力:4,954馬力
船客定員:238名
竣 工:明治33年4月(8月7日回着)
摘 要:大正12年3月31日近海郵船(株)へ出資
再び外務省資料を参照します。
「大正2年8月9日
牧野外務大臣 兵庫縣知事
孫逸仙は午后九時三上同伴神戸市内諏訪山温泉境内常盤花壇に上げたり本朝来○計画に松方幸次郎とも相談の上取斗ひたり又化成速く渡米するの得策なるをとを松方三上より勧誘する手筈なり
大正2年8月13日
牧野外務大臣 兵庫縣知事
孫逸仙は東京に於て隠家の用意出来次第たる報知に接し近日密かに荷物船に便乗し横濱に至り夫れより小廻船にて東京に行きたきに付き其の船便の周旋を三上に依頼したり
大正2年8月18日
外務大臣男爵牧野伸顕殿 兵庫縣知事
孫逸仙出発の件
既報孫逸仙は本月十六日午前四時従者二名を従え東京より来り兼施良一と共に隠れ家なる諏訪山常盤花壇別荘を立出て三上の周旋にて用意せる汽艇に乗して出発豫て和田岬沖合に寄港の為め航行し来る汽船襟裳丸と途中にて出会したるを以て之れに移乗し仝日午前七時横浜に向け出発したり當地滞在中に宋嘉樹、娘スーング并に胡漢民訪問の外支那人の面会せしもの無之邦人に三上寛夷、菅野長和等用務の為の出入せるにて何人にも面会せす別に異常無之○ …」
孫文の神戸での滞在先は諏訪山常盤花壇別荘です。孫文は諏訪山での滞在は二度目になります。この辺りは諏訪山温泉で旅館がたくさんあります。常盤と名の付く旅館は、常盤楼、常盤東店、常盤中店とあり、今回は常盤花壇別荘なのですが、詳細の番地が不明です。「孫文と神戸」の見開きの地図に大まかな場所のマークがあるので、これを参照すると、現在の山本通四丁目26附近となります。「一力」の東側となります。推定ですが
掲載した写真の坂道を登った先に「一力」があり、その東側ではないかと推定しています。
【三上豊夷(みかみ とよつね)文久3年(1863) - 昭和17年(1942)】
明治〜昭和期の実業家
内国通運社長。出身地越前国(福井県)。神戸で海運業を営み、孫文の革命運動を支援します。大正8、12年内国通運(のちの日本通運)社長に就任。著書に「世界平和般若波羅蜜多経」があります。
【松方 幸次郎(まつかた こうじろう、慶応元年(1866) - 昭和25年(1950)】
薩摩国鹿児島に生まれる。1884年(明治17年)に東京帝国大学を中退し、同年エール大学に留学し1890年(明治23年)帰国。1891年(明治24年)第一次松方内閣組閣に伴い、父の首相秘書官となる。明治29年(1896)川崎財閥創設者・川崎正蔵に要請されて株式会社川崎造船所初代社長に就任。神戸商業会議所会頭、明治45年(1912)衆議院議員に当選し神戸の政財界の巨頭であった。しかし大正9年(1920)から昭和6年(1931)までの連続不況期に、慎重な不況対策を一切採用せず、無謀ともいえる多角化戦略のため昭和2年(1927)の金融恐慌で、川崎造船所は破綻し、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める十五銀行も破綻し川崎正蔵が築き上げた川崎財閥を崩壊へと追いやった。これを機に役員を務めていた全会社を辞任する。その後は衆議院議員を昭和11年(1936)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。また川崎造船所社長として隆盛を誇った第一次世界大戦の際、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は松方コレクションの名で知られ、その一部は国立西洋美術館の母胎となった。(ウイキペディア参照)
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「 8月9日 抵~戸。
萱野長知先“上船與孫公會暗並長談,隨後,寺尾亨博士與古島一雄也和孫面會。東京,大阪及當地各報記者亦聞訊登船求見。先生不得已出見,但僅簡軍寒喧。先生希望對自己的住處等盡量予以保密。是日晩9時,由松方幸次郎,三上豊夷等陪同,秘密登陸,到市内諏訪山温泉境内常盤花壇別墅。松方,三上相機勸先生及早赴美,先生未即表達。先生住下後即把住在東方旅館的宋嘉樹叫來。晩11時許,未來訪,密談約兩小時始離去”。
“萱野長知則想輓留先生匿住在日本的某個秘密地方。另外,孫似乎很害怕與在日的中國人會面。”(日本外務省檔案,1913年8月10日兵庫縣知事服部一三致外務大臣的牧野伸顯電,兵發秘第289號,王振鎖譯)。…
…
8月14日 匿居諏訪山別墅,拒絶日兵庫縣知事促其離日之脅迫。
是日晩,兵庫縣知事服部一三赴先生居處探望。服部仍企圖以“久居日本並非上策之意”来促先生離日,.先生答:“中國南方形勢尚有恢復之希望,故想暫居日本観察中國時局,然後決定自己之進退。”服部威脅道:“如你将日本作爲敵禄鄰邦之策源地,自然會招致困難,請充分注意.”(日本外務省檔案,1913年8月15日兵庫縣知事致牧野外務大臣電,第4234號(密),王振鎖譚,兪辛焞校)
従是月9日到15日,先生在諏訪山別塹逗留期間“除未嘉樹及其女見和胡漢民訪問外,未與其他中國人會見.日本人除三上豊夷和萱野長知曾因事會面外,未會見其他任何人”.(日本外務省檔案,1913年8月18日兵庫縣知事服務部一三致牧野外務大臣電,兵發秘第302號,兪辛焞譯)
先生逃亡抵日的消息,不久就泄露出来,神戸各報都登載這個消息.(《孫中山與梅屋荘吉》,《孫中山與辛亥革命史料専輯》第274頁)
△ 是日香港英國總督宣怖,奉英政府訓令,先生與黄興,陳炯明,胡漢民,岑春○等永遠不准到港。
8月18日 移居東京。
16日凌晨4時,先生在菊池良一陪同下,與雨名隨従一起離開諏訪山常盤花壇別墅,17日下午7時許抵横濱,18日凌晨1時許安全到達赤坂區霊南坂町27號海妻猪勇彦家。先生入京前,由於古島一雄,前川虎蔵已於16日與外務大臣有過會面洽商,就登陸地點及其他事宜議妥,故日本政府對先生特移作了巌密警戒怖署,頭山満亦派遣門下壮士保衛。(日本外務省檔案,1913年8月18日兵庫縣知事服部一三致牧野外務大臣電,兵發秘第303號:8月16日兵庫縣知事致牧野外務大臣電,第4276號(密):8月18日神奈川縣知事致警保局長電,神奈川縣知事大島久滿次致外務大臣男爵牧野伸顯閣下關於流亡者孫逸仙到東京之事、秘號外:乙秘第1176…」
孫文の東京での住まいが確定するまで神戸に居たわけです。16日朝4時に神戸を発ち、17日17時に横浜に着いています。「
孫文を歩く
東京編 -5-」を参照してください。
続きます!