●孫文を歩く 神戸編 -2-
  初版2015年11月28日 <V02L01> 青年会館の場所を修正
  二版2015年12月19日 <V01L01> 大正2年8月の亡命を追加
  三版2015年12月30日 <V01L01> 青年会館跡の写真を追加、暫定版

 今回も引き続いて「孫文を歩く」を掲載します。神戸編の未掲載分で、大正2年2月から3月を掲載します。辛亥革命後のため、孫文は中華民国の正式代表として日本を訪問しており、日本側は大歓迎で迎えます。
 大正2年8月の日本亡命を追加します。(二版)


「孫文と神戸」
<「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉(前回と同じ)>
 今回の参考図書は陳徳仁 安井三吉著の「孫文と神戸」 です。対談形式で書かれていますが、重要な事はすべて書かれていました。大変参考になる図書です。特に神戸については、「孫文と神戸 関係地図(明治・大正)」と「孫文の来神(1895.11〜1924.12)」ですべて網羅されていました。今回はこの図書を参考にして歩いてみました。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「 孫文と私

 最近、私はよく次のような質問を受けます。あなたはいつ頃から孫文の研究を始めたのですか、と。いざこのように聞かれますと、答えに困ります。といいますのも、私は孫文の専門的研究者ではないからです。
 専門的なことはともかく、私が孫文について関心を持つようになったのは、神戸華僑同文学校の四年生か五年生の時、一九三〇(昭和五)年頃だったと思います。当時、「党義」という授業があって、本来であれば孫文の三民主義を勉強する時間でしたが、先生はおそらく小学生にそんな話をしても理解できないと考えられたのでしょう、話題を変えて、もっぱら孫文について興味深い話をしてくれました。たとえば、少年時代、村の長老から太平天国の話を聞いて感動し小さな胸を躍らせていたこと、一七歳の頃、村民たちが神として崇めていた偶像を破壊したため、村に住めなくなって香港に渡ったこと、一八九五年、広東で武装蜂起を計画したが、失敗し、海外に亡命したこと。一八九六年の一〇月、孫文がロンドンで清国公使館に幽閉され、危機一髪というところを救出されたこと、…」

 書かれている内容が分かりやすくて良いです。思想的なことは書かずに経緯を淡々と詳細に書かれていますので、とても面白く読むかとがでしました。

写真は 陳徳仁 安井三吉著「孫文と神戸」 神戸新聞出版総合センターです。平成14年(2002)に増補版として発行されています。旧本は「孫文と神戸 (シリーズ兵庫の歴史 (3))」として昭和55年(1985)出版されています。

「辛亥革命と神戸」
<「辛亥革命と神戸」 陳徳仁(前回と同じ)>
 もう一冊、陳徳仁氏が書かれた本があります。発行が神戸市垂水区の中山記念館発行となっていますので、移情閣で販売されていた本ではないかとおもいます。私は古本屋で入手しました。

 「辛亥革命と神戸」 陳徳仁からです。
「8 孫文、鉄道督弁(総裁)として来神

 さて、孫文は大総統の職を袁に譲ったその翌年一九匸二年(大正二年)二月十日、全国鉄道督弁(国鉄総裁に当たる)として、随員馬君武、何天炯、戴天仇、宋嘉樹(宋慶齢の父)等を連れ、山城丸に乗り上海より日本訪問の旅に出、二月十三日早朝長崎で上陸し、それから東京、横浜、横須賀、名古屋、京都、大阪、と各都市を廻り、旧友や旧同志達の歓迎を受け、三月十三日午前十一時、花と中日両国の国旗に飾られた阪神電車で滝道の駅に到着した。駅や、孫文の通る道端には中日両国の国旗を持ち正装した日本政財界の名士、国民党神戸支部の全員、華僑、学生等が押し寄せ、いづこからか孫文歓迎の礼砲が轟きわたり、孫文の顔を見るや万才!万才!≠ニ叫ぶ歓声が天地に響き、同文学校の生徒は整列して捧銃の礼を以て出迎え、あたかも空前の凱旋将軍を迎えるようであった。…」

  「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著が対話形式だったのが、 陳徳仁氏の単独著で、辛亥革命の経緯が分かりやすく書かれています。

写真は昭和56年(1981)発行の陳徳仁著「辛亥革命と神戸」 からです。出版は神戸市垂水区の中山記念館・移情閣です。

「神戸駅」
<大正 2年(1913) 2月14日>
 辛亥革命が大正元年(1912)に成立し、中華民国が誕生すると、孫文は臨時大総統に就任します。3ヶ月で袁世凱に大総統を譲りますが、袁世凱に協力し、閣内に留まります。そして孫文は鉄道開発の資金調達のため日本を訪れます。この時は中華民国の正式代表としての訪問のため、日本側は大歓迎で迎えます。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行、大正2年(1913)2月から
「… 2月14日 經神戸抵東京,受到日本,印度,歐美各国數千人士的熱烈歓迎。
  火車駛近神戸時,先生手指二十年前居住過的山麓,,對陪同人員大發感慨:“其時我被迫逃出故郷,以漂泊之身東渡日本,眞所謂淪落天涯之孤客,加以所到之處必有日本警察尾隨跟蹤,令人頗爲厭悪。遇到過於討厭的家伏,即不禁怒喝其即速離去。”(〈孫中山全集〉第3卷第13頁) 
  上午七時半至神戸。中日兩国商界人士川崎助太郎等數百人在車站聚立歓迎,中国駐日公使汪大燮,黎元洪代表李作棟等十餘人,亦自東京来迎。
  下午7時至国府津。自東京来迎者寺尾,副島兩博士,代議士伊東知也,柏原文太郎等。卜在車中,記者問先:“平生崇拜者何人?”先生答:“予之所崇拜者平民”
  晩8時至横濱、中日兩国人士群衆車站柤送。
  8時半至新橋…」

 上海から長崎には山城丸で大正2年2月13日午前8時に到着、午前10時10分に長崎駅より特別列車で東京に向い、途中、14日午前7時半に神戸駅着、駅で大歓迎をうけています。汽車に乗ったままで下車はしていません。

因みに、「孫文先生東游紀念寫眞帖」には、
二月十三日  午前七時抵長崎上岸
 同  日    午前九時十分換坐火車自長崎撥程
 同  日    午後五時二十分扺門司
 同  日    午前七時十分自門司発撥扺下関
二月十四日  午後八時二十五分扺東京投宿帝国旅館
……
13日の神戸については何も書かれていません。時間は書かれた本それぞれによって少しずつ違います。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「… 「国賓」並みの待遇
安井 さて、孫文が来るのは……。
陳  一九一三(大正二)年二月一〇日、全国鉄路督弁という資格で来ます。随員には馬君武、何天炯、宋嘉樹それに戴天仇(季陶)といった人々がいました。
安井 宋嘉樹といいますと……。
陳  宋慶齢、宋美齢、宋子文らのお父さんです。山城丸という船で上海から来ました。
安井 この時の孫文の来日の目的は何だったんでしょうか。
陳  一つは、自分を支援してくれた人たちへの挨拶、もう一つは、鉄道建設に関して日本に援助を求めること。この二つだったと思います。
安井 二月一四日、神戸駅で歓迎を受けています。そのまま東京へ行くんですが。
陳  この時は、長崎に上陸しているんです。
安井 当時の新聞には、滞日中のことが大きく出ていますね。
陳  東京駅でも大歓迎ですね。まるで凱旋将軍のようでした。
安井 「国賓」みたいな扱いですね。孫文が東京でこんなに歓迎されるのは、後にも先にもこの時だけです。…」

 2月14日の神戸駅歓迎に関しては同じように書かれていますので、正しいとおもわれます。

写真は現在の神戸駅です。明治22年(1889)7月 東海道本線の新橋駅 神戸間が全通、二代目の駅舎になり、9月には山陽鉄道が兵庫駅から延長され、当駅に乗り入れています。明治39年(1906)12月山陽鉄道が国有化され、国有鉄道のみの駅になります。高架化したのは昭和5年ですからまだ地上を走っていた頃になります。孫文が歓迎された神戸駅は二代目神戸駅になります。

「中華会館跡」
<大正 2年(1913) 3月13日>
 2015年12月2日 青年会館の場所を修正
 2015年12月30日 青年会館跡の写真を追加

 孫文は2月14日夜、東京に到着、3月4日まで東京に滞在、それから横浜、横須賀、名古屋、京都、大阪(11日〜12日)と回り、13日に神戸に向っています。大阪から神戸へは珍しく阪神電車で向っています。又、盧夫人も呼んでおり、大阪中之島の銀水楼に宿泊しています(銀水楼は「夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (上) 【明治44年】」で掲載)。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行、大正2年(1913)3月から
「…  △ 盧夫人抵大阪。
  盧夫人於3月8日到達~戸,10日抵大阪,住在與先生所住大阪飯店鄰近之銀水棲。是晩,先生去看地,談約半小時即告別。(〈孫中山先生與日本友人〉第108頁)
 3月13日 抵~戸,出席各方歓迎會。
  午前11時離大阪去~戸,大阪官紳一千餘人到姑歓送。抵~戸時,受到日本官紳及華商學界人士約千人歓迎。午後2時,華僑全暦在中華會館開會,男婦老幼約一千五百人,途爲之塞,學生列隊鳴銃致敬。華僑代表馬聘三,呉錦堂(作鏌,常時國民黛~戸支部長)致歓迎詞後,先生演説,勖勉大家在成爲中華民國主人之後,必須謀求“子子孫孫永享主人幸福”。他指出中國“改革雖已成功,惟建設洵在幼稚,我四萬萬同胞意同心同徳,力闘建設,以謀富強”。而“我國之能否富強實繋乎我同胞之能否負國民之責任耳”。(く孫文先生東游紀念寫眞帖〉第8-10頁)會後,先生立即趙赴基督教青年會館歓迎會、與會者途千人,森田青年會董事述歓迎詞,繼由先生陳謝詞。宛又駆車赴~戸國民黛交通部歓迎會,副支部長楊壽彭,正支部長呉錦堂先後致詞歓迎,先生登壇演説,主要講述政黛的必要和建設間題。並唐楊壽彭之請,書譜“天下爲公”四字。(〈駐日各部紀事〉,《國民碓誌》第1號)…」

 上記に”孫文先生東游紀念寫眞帖”と書かれていたので、探してみましたら、国会図書館で見つけることができました(ダウンロードできます)。

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「… 県・市あげての大歓迎
安井 神戸に来るのは三月一三日。大阪から阪神電車に乗って、神戸停留所で下りたとありますが、今でいうとどこになるのでしょう。
陳  フラワーロードの国際会館のあたりにあったんではないでしょうか。
安井 奥さんが大阪に来ているんですね。
陳  盧慕貞です、娘さんと一緒に。写真嫌いだったようですよ。田舎のおばさんという感じで、宋慶齢とは大部違いますが、孫文に対してはよく理解していた人です。後に離婚することになりますが。
安井 電車を下りてオリエンタルホテルに入るんですが、その時、同文学校の生徒たちが軍装して迎えたとか。…

陳  まず、中華会館での華僑の歓迎会に出ています。一五〇〇人集まったといいますよ。
安井 すごい数ですね。
陳  当時神戸の華僑は、二五〇〇人ぐらい。青年や学生、それに女性も参加したんでしょう。それで一五〇〇人。昔、康有為や梁啓超を支持していた人々も歓迎に加わっていたと思います。
安井 呉錦堂が歓迎の言葉を述べていますね。…
…安井 次は基督教青年会館ですね。
陳  ここでは、キリスト教徒は、白、黄の人種の別を問わず、信仰と博愛のために尽くすことを訴えています。
安井 もう四時をまわっていましたね。今度は国民党交通部の歓迎会です。
陳  楊寿彭が交通部長を務めていました。ここでは三民主義や政党内閣や交通部についての話をしました。それから中華会館での歓迎宴に出席しています。当時、国民党交通部、すなわち神戸支部は、呉錦堂が支部長、王敬祥と楊寿彭とが副支部長でした。
安井 服部一三兵庫県知事、鹿島神戸市長らも出席していますね。
陳  四〇〇人もの宴会でした。終わったのが九時。孫文はさすがに疲れていたのか、挨拶は戴天仇が代読しています。 …」

 「辛亥革命と神戸」には”阪神電車で滝道の駅に到着”、「孫文と神戸」では”大阪から阪神電車に乗って、神戸停留所で下りた”と書かれています。阪神電車は大正元年(1912)11月 神戸側終点を雲井通(三宮)から加納町(滝道)まで延伸。加納町(滝道)に滝道駅を設置、駅舎を作ります。従来の神戸駅(神戸雲井通)を三宮駅に改称。滝道駅は三宮駅に代わって「神戸駅」とも呼ばれたようです(ウイキペディア参照)。因みに阪神電車が地下化したのは昭和8年、元町駅が開業したのは昭和11年になります(下記の地図参照)。現在の滝道駅跡(国際会館前)の写真も掲載しておきます。

<13日の神戸でのスケジュール(孫文先生東游紀念寫眞帖)>
・11時:神戸着、滝道駅頭で歓迎、オリエンタルホテルへ入る
・14時:中華会館での歓迎会(現在の中華同文学校の南西角付近、記念碑あり)
・15時:基督教青年会館(神戸市中央区下山手通6丁目)
・16時:国民党交通部の歓迎会(場所不明ですがオリエンタルホテルと推定)
・18時半:中華会館での歓迎宴(現在の中華同文学校の南西角付近、記念碑あり)

写真は現在の中華同文学校南西角の石垣に埋め込まれている記念碑です。ここに当時、中華会館がありました。又、当時の中華同文学校はここにはなく、トアロードにありました(下の項参照)。

 基督教青年会館の場所については、「神戸とYMCA百年」に詳細の記載がありました。
「       一 第T期会館の竣工
 かねて念願のYMCA会館が生田区下山手通に煉瓦作りの姿をあらわし、献堂式が挙行されたのは一九一三年(大正二)一月一一日、式典には東京より同盟を代表して島田三郎、江原素六、同盟名誉主事フイッシャーの来賀かおり、服部兵庫県知事、鹿島神戸市長の祝辞等来会者数百人、式典終了後は立食パーティが卓を囲んで行なわれた。この日の夜は江原素六、島田三郎による記念講演、翌一二日午後には感謝祈祈祷会のち新装なった体育館で各種室内競技が演じられ、一三日夜は大演奏会が開かれて新生YMCAの前途が祝われている。…

        八 第U期会館への移転
 神戸市の市街地域の拡大に伴ない、一九一七年(大正六)八月に従来の電力及び軌道事業を市営として始められた道路改修の計画は、下山手通六丁目に於て建設され、市民に親しまれてきた会館の移転を迫ってきた。すでに神戸Yは一九二〇年度に於ける会員の相も変わらぬ増加(前年比三百五六〇名増)かおり、教育部の生徒数一三八〇名に上り、教室不足を補なうため下山手尋常小学校の五教室借用という状況のために新規の事業までを大きく制約するという事情にも迫られて、理事会は遂に会館移転を決定、下山手六丁目の現地より東五〇〇メートルに三〇八坪の土地を購入、第U期会館の建設にとりかかることとし、二〇万円募金を開始した…」

 「神戸とYMCA百年」に第一期の青年会館は”一九一三年(大正二)一月一一日”とあるので、孫文の歓迎会が開催された3月13日は既に青年会館はあったということが分ります。住所は第一期の青年会館は下山手通6丁目20で、第二期は下山手通6丁目45とあるのですが、この数字は建物番号のようで、地番と合いません。ここに第一期の神戸青年会館の絵葉書があります。絵葉書の右下に清風館という旅館の看板が写っています。大正時代の商工名鑑で調べると、下山手通七丁目153となっています。七丁目なのですね。もう一つ、写真左の路の先に山が写っていますので、北側というのが分ります。青年会館は六丁目なので、位置関係が合いませんが、六丁目と七丁目の境の交差点北東角(道路上)にあったのではないかと推定しています。又、第二期の青年会館は”下山手六丁目の現地より東五〇〇メートル”と書いてあるのですが、六丁目自体が東西に300m弱しかなく、下山手通北側で、六丁目の端から端に移ったことになります。ですから、現在のロイヤルホストの南側前の道路上と推定します。



神戸市 滝道附近地図(大正9年)



神戸市 下山手通5〜6丁目、神戸駅附近地図(大正9年)



「舞子 孫文記念館」
<大正 2年(1913) 3月14日>
 3月13日のスケジュールは凄かったですが、14日はもっと凄いスケジュールでした。孫文は相当疲れたとおもいます。

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行、大正2年(1913)3月から
「… 3月14日 參観~戸華僑同文學校,川崎造船所。
  上午,先生一行赴中山手通三丁目同文學校參観,並對學生発表演説。隨即躯車到川崎造船所考察造船事業。該所副祀長川崎芳太郎,管業部長四本等歓迎並導遊。先生在答謝詞中表示“驚嘆其規模之宏大輿進歩之顛著”,切望其焉東亜和平多作貢献。(《孫文先生東游紀念寫眞帖》第10頁)
  △ 出席呉錦堂午餐會。(《孫文先生東游紀念寫眞帖》第11頁)
  △ 出席紳戸市長歓迎會。會後赴三上豊夷家叙暮。(同上)
  △ 晩,離開禰戸,到姑歓送者有中日雨國官紳数百人。(同上)
  3月15日 抵廣島呉市,参観海軍工廠,宮島。…」


<14日の神戸でのスケジュール(孫文先生東游紀念寫眞帖)>
・午前10時:オリエンタルホテルから中山手三丁目の同文学校へ出発
・午前11時:川崎造船所へ出発
・午後1時:舞子の呉錦堂邸出発
・午後1時40分:呉錦堂邸着
・午後4時8分:小休止のため神戸旅館へ向う(神戸館と推定:栄町通6-21、
・午後6時:神戸市主催の歓迎会に向う(新開地の常盤花壇)
・午後8時半:三上邸に向う
・午後10時20分:神戸駅に向う
・午後10時57分:神戸駅発広島に向う

 「孫文と神戸」 陳徳仁 安井三吉著からです。
「安井 一四日はまず同文学校を訪ねています。彼としては初めてのことでしょう。
陳  そうですね。生徒数は三〇〇ぐらいでした。この時は、トアロードにあったんです。木造洋館二階建てです。小さなものでした。土地は約四〇〇坪ぐらいしかなかったでしょう。当時は広東語で教えていました。…

 呉錦堂別荘
安井 その後、孫文は川崎造船所から舞子の呉錦堂別荘に行ってます。これは、今ある移情閣(孫中山記念館)と同じものですか。
陳  同じ場所ですが、当時八角堂(移情閣のこと。六角堂ともいう)は建っていたかどうかは確認できません。
安井 いつ頃できたのでしょう。
陳  大正の初期、登記したのは一九一六(大正五)年です。…

安井 なるほどね。さて、夕方は神戸市と地元実業家によるレセプションですね、常盤花壇で。

陳  鹿島市長の歓迎の辞に対して孫文は、日中の提携による東洋と世界の平和の維持を訴えました。服部知事が孫文万歳を唱えると、孫文も日本と神戸市の万歳を三唱したといいます。
安井 その後で、わざわざ中山手通の三上邸を訪ねていますね、ずいぶん遅くなっていたのに。
夜一〇時五七分の汽車で宮島へと向かいます。…」

<同文学校>
 当時の同文学校はトアロードにありました。詳細の場所については「神戸華僑総会広報 2006 Vol.4 秋号」に書かれていました。現在のトアロードに面したホテル・トアロード附近です。
<川崎造船所>
 川崎造船所は当時のまま健在です。現在の正面入口の写真を掲載しておきます。見学した戦艦榛名は明治45年(1912)3月に起工し、大正2年(1913)12月に進水していますので、完成前に見学しています。
<呉錦堂邸>
 現在の孫文記念館ですが、明石海峡大橋建設時に南西に200m移設されています。当初の位置での絵葉書がありますので掲載しておきます。位置は現在の陸橋がある辺りと推定しています。又、上記には移情閣について書かれていますが、推定ですがまだ建っていなかったとおもわれます。
<神戸旅館>
 小休止しています。大正12年の商工名鑑で調べてところ、”栄町通6-21”、現在の元町通6丁目1−2となります。
<常盤花壇>
 昭和9年の電話番号簿で湊1-497です。実際は新開地から西国街道を西に150m程入った北側にありました。神戸では一番有名な料理屋です。
<三上邸>
 現在の中央区中山手通4丁目17−1〜2附近です。当時の地番を調べきれておりません。再度、調査する予定です。

写真は現在の舞子にある孫文記念館です。明石海峡大橋建設時に南西に200m移設されています。元々は呉錦堂邸で、すべてが移設されたわけではないようです。

<孫文記念館>
中国革命(辛亥革命)の父と仰がれる孫文(孫中山)を顕彰する日本で唯一の博物館として1984年に開設された。建物は、華僑の貿易商、呉錦堂(1854年〜1926年)の舞子海岸にあった別荘・「松海別荘」内に1915年に建てられた八角形の中国式楼閣「移情閣」と付属棟などである。建物は明治20年代後半に現在の付属棟が建てられ、移情閣等が大正時代に新たに建てられた。 舞子公園内には2000年に移築された。松海別荘は1913年に孫文一行が神戸を訪れた際の歓迎会の会場であった。館内の壁は、金唐紙で装飾されて孫文の著作や遺品などの貴重な資料が展示されている。自筆の石碑「天下為公」も残っている。(ウイキペディア参照)

 続きます!

「信濃丸」
<大正 2年(1913) 8月9日〜16日>
 2015年12月19日 大正2年8月の神戸を追加
 孫文は袁世凱に対して第二革命を起こしますが、逆に袁世凱に潰されてしまい、孫文、黄興は日本に亡命します。孫文は8月3日上海から独逸船ヨルク号で福州に向い、そこで8月5日、大阪商船の撫順丸で台湾の基隆に向います。福州で日本側の説得を受けての台湾行きでした。それでも台湾の基隆では直ぐに日本行きの信濃丸に乗換えています。

 外務省資料を参照します。
「…大正2年8月6日
牧野外務大臣           台湾総督
孫逸仙、胡漢民及従者二名は昨日五日午前六時撫順丸にて福州より基隆へ入港 孫及従者二名は同港出帆門司直航の信濃丸に乗換へ内地に向へり 然るに福州領事よりの電報に依れば黄興は四日夜香港出航門司へ直航し神戸にて孫と會合の上来る二十一日発渡米の筈なりと尚胡漢民は基隆に滞在来る十日淡水発便船にて香港に向い筈 孫一行は其行動を極秘し居り新聞に掲載せしめざる様希望し居たり…

大正2年8月7日
外務次官              民政長官
孫逸仙に関し貴省大臣より総督宛の電報五日午后十時到着したるも孫逸仙は同時刻以前即同日午后四時基隆を出発したり尚孫等の行き先に付ては別に内務省及貴省へ報告済み…

大正2年8月8日
牧野外務大臣           山口縣知事
孫逸仙は本日前八時門司へ入港の信濃丸にて上陸せさるまま無事正午出航~戸に向う…

大正2年8月9日
牧野外務大臣           兵庫縣知事
孫逸仙は従者二名を伴い本日午前七時信濃丸にて無事着港せり之より先き和田岬検疫所沖合へ神戸市内海運業者(三上)を先着せしめ本人の意向を確かめたるに一切新聞記者及び支那人等の面会することを欲せざる旨なるを以て一時船長室に潜伏することを快諾せしめた衆往訪者には検疫済の上何れにか短艇にて上陸したりと○と引揚げたり同人身邊は厳重警護し居れり而して三上は本夜○に同人を伴い上陸の予定……」


写真は日本郵船の信濃丸です。信濃丸は日露戦爭でバルチック艦隊を発見した有名な船で、第二次世界大戦でも戦没せず、昭和26年まで活躍しています。運の強い船です。和田岬検疫所は三菱造船所の西側になります(現在も同じ場所に神戸検疫所があります)。和田岬の地図を掲載しておきます。

<[信濃丸](T世) 1900-1923>
 欧州航路用予備船として新造。当初、欧州航路に就航。明治35年から米国航路(シアトル線)に配船された貨客船ですが、日露戦争の日本海海戦における活躍で知られています。
 明治38年5月、本船は仮装巡洋艦として、長崎県五島白瀬の西方40マイル付近で哨戒任務に就いていました。ウラジオストックを目的地とするバルチック艦隊が朝鮮海峡を通過することが予測されていたため、この哨戒のための行動です。5月27日早暁、まず病院船「アリョール」を、続いて主力艦隊を発見、直ちに゛敵艦見ゆ″と通報します。連合艦隊はこれを受けて出動、日本海でバルチック艦隊を要撃、海戦を大勝利に導きます。
 終戦後、米国航路に復帰。その後神戸・基隆線に転じます。大正12年に近海郵船に移籍され、さらにその後は蟹工船などで活躍、第二次世界大戦後はシベリアから多くの復員軍人の輸送にあたり、昭和26年に解体され、永い生涯を終えています。
<信濃丸〉(T世)主要項目
船  種:貨客船
建造所:英国・デビット&ウィリアムヘンダーソン社
総トン数:6,388トン
長  さ:135.635メートル
 幅  :14.996メートル
深  さ:10.241メートル
速  力:5.4ノット/11.9ノット
主機関:三連成2基
最高出力:4,954馬力
船客定員:238名
竣  工:明治33年4月(8月7日回着)
摘  要:大正12年3月31日近海郵船(株)へ出資

 再び外務省資料を参照します。
「大正2年8月9日
牧野外務大臣           兵庫縣知事
孫逸仙は午后九時三上同伴神戸市内諏訪山温泉境内常盤花壇に上げたり本朝来○計画に松方幸次郎とも相談の上取斗ひたり又化成速く渡米するの得策なるをとを松方三上より勧誘する手筈なり

大正2年8月13日
牧野外務大臣           兵庫縣知事
孫逸仙は東京に於て隠家の用意出来次第たる報知に接し近日密かに荷物船に便乗し横濱に至り夫れより小廻船にて東京に行きたきに付き其の船便の周旋を三上に依頼したり

大正2年8月18日
外務大臣男爵牧野伸顕殿           兵庫縣知事
孫逸仙出発の件
既報孫逸仙は本月十六日午前四時従者二名を従え東京より来り兼施良一と共に隠れ家なる諏訪山常盤花壇別荘を立出て三上の周旋にて用意せる汽艇に乗して出発豫て和田岬沖合に寄港の為め航行し来る汽船襟裳丸と途中にて出会したるを以て之れに移乗し仝日午前七時横浜に向け出発したり當地滞在中に宋嘉樹、娘スーング并に胡漢民訪問の外支那人の面会せしもの無之邦人に三上寛夷、菅野長和等用務の為の出入せるにて何人にも面会せす別に異常無之○ …」

 孫文の神戸での滞在先は諏訪山常盤花壇別荘です。孫文は諏訪山での滞在は二度目になります。この辺りは諏訪山温泉で旅館がたくさんあります。常盤と名の付く旅館は、常盤楼、常盤東店、常盤中店とあり、今回は常盤花壇別荘なのですが、詳細の番地が不明です。「孫文と神戸」の見開きの地図に大まかな場所のマークがあるので、これを参照すると、現在の山本通四丁目26附近となります。「一力」の東側となります。推定ですが掲載した写真の坂道を登った先に「一力」があり、その東側ではないかと推定しています。

【三上豊夷(みかみ とよつね)文久3年(1863) - 昭和17年(1942)】
明治〜昭和期の実業家 内国通運社長。出身地越前国(福井県)。神戸で海運業を営み、孫文の革命運動を支援します。大正8、12年内国通運(のちの日本通運)社長に就任。著書に「世界平和般若波羅蜜多経」があります。

【松方 幸次郎(まつかた こうじろう、慶応元年(1866) - 昭和25年(1950)】
薩摩国鹿児島に生まれる。1884年(明治17年)に東京帝国大学を中退し、同年エール大学に留学し1890年(明治23年)帰国。1891年(明治24年)第一次松方内閣組閣に伴い、父の首相秘書官となる。明治29年(1896)川崎財閥創設者・川崎正蔵に要請されて株式会社川崎造船所初代社長に就任。神戸商業会議所会頭、明治45年(1912)衆議院議員に当選し神戸の政財界の巨頭であった。しかし大正9年(1920)から昭和6年(1931)までの連続不況期に、慎重な不況対策を一切採用せず、無謀ともいえる多角化戦略のため昭和2年(1927)の金融恐慌で、川崎造船所は破綻し、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める十五銀行も破綻し川崎正蔵が築き上げた川崎財閥を崩壊へと追いやった。これを機に役員を務めていた全会社を辞任する。その後は衆議院議員を昭和11年(1936)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。また川崎造船所社長として隆盛を誇った第一次世界大戦の際、ヨーロッパで買い集めた絵画、彫刻、浮世絵は松方コレクションの名で知られ、その一部は国立西洋美術館の母胎となった。(ウイキペディア参照)

 「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「  8月9日 抵~戸。
  萱野長知先“上船與孫公會暗並長談,隨後,寺尾亨博士與古島一雄也和孫面會。東京,大阪及當地各報記者亦聞訊登船求見。先生不得已出見,但僅簡軍寒喧。先生希望對自己的住處等盡量予以保密。是日晩9時,由松方幸次郎,三上豊夷等陪同,秘密登陸,到市内諏訪山温泉境内常盤花壇別墅。松方,三上相機勸先生及早赴美,先生未即表達。先生住下後即把住在東方旅館的宋嘉樹叫來。晩11時許,未來訪,密談約兩小時始離去”。
  “萱野長知則想輓留先生匿住在日本的某個秘密地方。另外,孫似乎很害怕與在日的中國人會面。”(日本外務省檔案,1913年8月10日兵庫縣知事服部一三致外務大臣的牧野伸顯電,兵發秘第289號,王振鎖譯)。…

 8月14日 匿居諏訪山別墅,拒絶日兵庫縣知事促其離日之脅迫。
  是日晩,兵庫縣知事服部一三赴先生居處探望。服部仍企圖以“久居日本並非上策之意”来促先生離日,.先生答:“中國南方形勢尚有恢復之希望,故想暫居日本観察中國時局,然後決定自己之進退。”服部威脅道:“如你将日本作爲敵禄鄰邦之策源地,自然會招致困難,請充分注意.”(日本外務省檔案,1913年8月15日兵庫縣知事致牧野外務大臣電,第4234號(密),王振鎖譚,兪辛焞校)
  従是月9日到15日,先生在諏訪山別塹逗留期間“除未嘉樹及其女見和胡漢民訪問外,未與其他中國人會見.日本人除三上豊夷和萱野長知曾因事會面外,未會見其他任何人”.(日本外務省檔案,1913年8月18日兵庫縣知事服務部一三致牧野外務大臣電,兵發秘第302號,兪辛焞譯)
  先生逃亡抵日的消息,不久就泄露出来,神戸各報都登載這個消息.(《孫中山與梅屋荘吉》,《孫中山與辛亥革命史料専輯》第274頁)
  △ 是日香港英國總督宣怖,奉英政府訓令,先生與黄興,陳炯明,胡漢民,岑春○等永遠不准到港。
  8月18日 移居東京。
  16日凌晨4時,先生在菊池良一陪同下,與雨名隨従一起離開諏訪山常盤花壇別墅,17日下午7時許抵横濱,18日凌晨1時許安全到達赤坂區霊南坂町27號海妻猪勇彦家。先生入京前,由於古島一雄,前川虎蔵已於16日與外務大臣有過會面洽商,就登陸地點及其他事宜議妥,故日本政府對先生特移作了巌密警戒怖署,頭山満亦派遣門下壮士保衛。(日本外務省檔案,1913年8月18日兵庫縣知事服部一三致牧野外務大臣電,兵發秘第303號:8月16日兵庫縣知事致牧野外務大臣電,第4276號(密):8月18日神奈川縣知事致警保局長電,神奈川縣知事大島久滿次致外務大臣男爵牧野伸顯閣下關於流亡者孫逸仙到東京之事、秘號外:乙秘第1176…」


 孫文の東京での住まいが確定するまで神戸に居たわけです。16日朝4時に神戸を発ち、17日17時に横浜に着いています。「孫文を歩く 東京編 -5-」を参照してください。

 続きます!



神戸市中央区附近地図

孫文の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 孫文の足跡
慶応2年 1866 薩長同盟
第二次長州征伐
0 11月12日 マカオ北方の広東省香山県(現中山市)翠亨邨で生まれる
明治11年 1878 大久保利通暗殺 12 5月 ハワイの兄の元に渡る
明治12年 1879 朝日新聞が創刊
13 9月 ハワイの中学校に入学
明治16年 1883 日本銀行が開行
清仏戦争
17 7月 帰国
12月 キリスト教徒になる
明治17年 1884 華族令制定
秩父事件
18 4月 中央書院に入学
11月 ハワイに向かう
明治18年 1885 ハワイ移民第1陣
清仏天津条約
19 4月 帰国、天津條約
5月 孫文、最初の結婚
8月 中央書院に復学
明治19年 1886 帝国大学令公布
自由の女神像が完成
20 中央書院卒業、広州の博済医院付属南華医学校に入学
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 21 10月 香港の西醫書院に入学
明治21年 1888 磐梯山が大爆発 22 3月 父親死去
明治25年 1892 第2次伊藤博文内閣成立 26 7月 香港の西醫書院を首席で卒業
12月 澳門で中西薬局を開業
明治27年 1894 日清戦争 28 広州の博済医院に眼科の医師として働く
7月 日清戦争始まる
10月 ハワイへ出発
11月 興中会本部を立ち上げる
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
29 1月 香港に戻る
4月 日清講和條約、三国干渉
10月 第一次広州起義に失敗
11月 孫文は香港から神戸・横浜経由でハワイに亡命
明治29年 1896 アテネ五輪開催 30 10月 ロンドンで清国公使館に幽閉される
明治30年 1897 金本位制実施 31 8月 カナダ経由で横浜に到着
明治33年 1900   34 10月 恵州起義に失敗、孫文は台湾から日本に移送
明治37年 1904 日露戦争 38 2月 日露戦争始まる
明治38年 1905 ポーツマス條約 39 9月 ポーツマス條約
明治40年 1907 義務教育6年制 41 5月 黄岡起義
6月 第2回恵州起義
12月 鎮南関起義
明治41年 1908 42 2月 欽州、廉州起義
4月 河口起義
明治43年 1910 日韓併合 44 2月 庚戌新軍起義
明治44年 1911 辛亥革命 45 4月 黄花崗起義(第二次広州起義)
10月 武昌起義、辛亥革命始まる
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
46 1月 中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
2月 清朝、宣統帝退位
3月 袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 47 2月〜3月 日本を公式訪問
8月 孫文、日本に亡命
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 48 6月 第一次世界大戦始まる
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 49 10月 孫文、宋慶齢と結婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 50 6月 袁世凱が死去、軍閥割拠の時代となる
大正6年 1917 ロシア革命 51 3月 ロシア革命(2月革命)
8月 孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
11月 ロシア革命(10月革命)ボリシェヴィキが権力掌握
大正7年 1918 シベリア出兵 52 5月 孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
大正8年 1919 松井須磨子自殺 53 6月 ベルサイユ条約(第一次世界大戦終結)
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 55 5月 孫文が非常大統領に就任
7月 中国共産党成立
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 58 1月 第一次国共合作
2月 香港大学で講演を行う
5月 黄埔軍官学校設立
11月 長崎経由神戸着、その後天津に向う
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
58 3月 孫文死去