<孫中山年譜長編 中華書局>
今回も「孫中山年譜長編 上冊」
を参考にします。孫文の年譜を詳細に書いてある本です。ただ、中国の中華書局発行で、全て中国語で書かれています。漢字で書かれているので、少しは分かります。前回から原文をUnicode化して編集しましたので、JIS第一、二水準以外でも漢字はそのまま全て表示できるようになりました。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行から、大正2年(1913)8月、袁世凱打倒の第二次革命に失敗し日本に亡命する頃の記述です。
「… 8月5日 抵基隆。
是日晨,先生(イヒ名爲汪國權),胡漢民(化名爲テウソシン)和隨員二人抵基隆港。臺灣總督府民政長官轉告福州領事電稱:黄興已於昨晩離香港去門司,在~戸等候先生,先生乃於下午4時換乗信濃丸赴~戸,胡漢民則轉去香港。臺灣民政長官即将先生赴日事通報福岡,兵庫兩懸。(日本外務省檔案,1913年8月5日臺灣民政長官致警保局長[電]、兪辛焞譚)
8月8日 抵門司港,旋駛往~戸。
先生於是日上午8時乗信濃丸抵門司港,未登陸,曾會見記者,但對記者的提問避而不答。(日本外務省檔案,1913年8月8日山日縣知事致牧野外務大臣電,第4041號(密):福岡懸知事致牧野外務大臣電,第4047號(密),兪辛焞譯)
時袁世凱已通牒日本,請拒絶先生上岸,日本内閣總理大臣山本権兵衛欲徇袁之請,於是日由牧野外務大臣指令兵庫懸知事服部一三,在先生與黄興抵~戸後,即“面示帝國政府不希望該二人居住日本之立場之訓令”,要先生須“盡快決定照原計劃赴美,並注意設法不使其動謠該決心”。訓令中明:“日本政府爲國内安寧及東洋和平,不得不加以干渉,乃至採取高壓手段。因此,無論就帝國的情況而言,還是従孫逸仙的利害來看,此時居住日本決非上策。”並嘱以同様理由。促黄興轉赴美國。(日本外務省檔案,1913年8月8日牧野外務大臣致服部兵庫懸知事電,第355號,王振鎖譯,兪辛焞校)
先生由臺轉航日本~戸途中,曾電達日本友人犬養毅,頭山滿,萱野長知等稱:“文如遠去欧美,對找黨前途實多影響,故無論如何,希在日暫住,俾便指揮。9日船抵~戸,並望與同志叙晤密商。”(《中華民國革命秘笈》第198頁)犬養等不賛成政府作爲。…」
JIS第三水準でも漢字が表示出来るようになったのですが、相変わらず意味がはっきり分かりません。仕方が無いので翻訳サービスを使っています。(正確な翻訳が出来ずに困っています)
★写真は陳錫祺主編「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行です。1991年発行で、発行所は中華書局で、住所は北京王府井大街36號と書かれています。
<「革命いまだ成らず」 (下) 譚璐美(たん・ろみ)>
今回は陳舜臣の「辛亥への道 孫文」から 譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)に切り替えます。辛亥革命後の記述が詳細に書かれているからです。
譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)から、大正2年(1913)の日本亡命のところです。
「… 第26章 言論では駄目だ。威力を得ることだ ── 黄興と宋教仁の死
弔い合戦の「第二革命」
宋教仁が上海駅の改札口で暴漢に襲われたのは、一九一三年三月二十日の午後十時四十五分頃だった。…
…
… こうして袁世凱討伐を目指した「第二革命」は、あっけなく終わりを告げた。
孫文と黄興はともに日本へ亡命した。
孫文は、汪国権と偽名を使って台湾の基隆から信濃丸に乗船し、門司へ到着したが、上陸せずに、そのまま神戸へ向かった。
袁世凱は日本の内閣総理大臣・山本権兵衛に電報を送り、孫文の上陸を拒否するよう要請したため、山本総理は牧野伸顕外務大臣を通じて、兵庫県知事の服部一三にその旨を訓令した。孫文が神戸へ到着すると、服部知事は日本政府の訓令を伝えたうえで、「できるだけ早くアメリカヘ行く計画を決行し、その決意を翻さないように」と念を押した。
黄興はその訓令に従って、いずれアメリカへ行くことを決心していたが、孫文は是が非でも、日本に居座るつもりだった。
神戸へ向かう前に、孫文はすでに門司から犬養毅と頭山満、萱野長知らに電報を打ち、「遥か遠いアメリカへ行けば、我が党の前途に多くの影響を及ぼすので、どうあっても日本にしばらく居住したい。便宜を図ってほしい」と伝えてあった。
犬養毅は山本権兵衛総理と牧野外務大臣に掛け合い、なんとか黙認するよう説得し切り、孫文らをしばらく神戸の三上豊夷の所有する諏訪山の別荘・常盤花壇に滞在させることにした。胡漢民、寥仲トも神戸へ到着した。…」
ここでも当時の内閣は見る目がありません。僅か2年後の大正5年(1916)には袁世凱は持病により死去してしまいます。
★写真は新潮社版、譚璐美さんの「革命いまだ成らず」
(下)です。史実に忠実で詳細に書かれており、大変参考になります。よく調べて書けている本だとおもいました。一読を勧めます。
<慶珊寺の記念碑> 大正2年(1913)8月、孫文は台湾から日本に向います。下関から神戸にむかい、神戸で一週間程過ごした後、横浜に向います(神戸での孫文は別途掲載予定)。刺客を恐れての極秘の移動だったためか、横浜港の手前、富岡で小舟に乗り換えて上陸します。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「 16日凌晨4時,先生在菊池良一陪同下,與兩名隨従一起離開諏訪山常盤花壇別墅,17日下午7時許抵横濱,18日凌晨1時許安全到達赤坂區霊南坂町27號海妻猪勇彦家。先生入京前,由於古島一雄,前川虎蔵已於16日與外務大臣有過會面洽商,就登陸地點及其他事宜議妥,故日本政府對先生特移作了巌密警戒怖署,頭山満亦派遣門下壮士保衛。(日本外務省檔案,1913年8月18日兵庫縣知事服部一三致牧野外務大臣電,兵發秘第303號:8月16日兵庫縣知事致牧野外務大臣電,第4276號(密):8月18日神奈川縣知事致警保局長電,神奈川縣知事大島久滿次致外務大臣男爵牧野伸顯閣下關於流亡者孫逸仙到東京之事、秘號外:乙秘第1176號,兪辛焞譯) …」
大正2年(1913)8月16日の朝4時に神戸市の山の手にある諏訪山の常盤花壇を出発、海路横浜に向います。横浜には午後7時に到着していますので、当時の日の入りは18時29分なので、ぎりぎり明るさが残っていた頃だったとおもわれます。
譚璐美さんの「革命いまだ成らず」 (下)からです。
「… 八月半ば、孫文らは頭山満の配下・菊池良一に警護されて汽船で横浜へ向かい、八月十七日、横浜沖合で小船に乗り換えて、富岡海岸に上陸。そのまま車で東京へ直行して、深夜一時、赤坂区霊南坂町二十七番地の海妻猪勇彦の邸宅に入った。…」
あまり詳しく書かれていません。
★写真は慶珊寺にある「孫文先生上陸之地」の記念碑です。この附近に上陸したものとおもわれます。現在は埋め立てられて海岸までは遠いですが当時は慶珊寺の前の道の先が海岸線だったとおもわれます。当時の地図を探したのですが、見つからず、
昭和40年前後の地図を掲載しておきます。現在の住所で横浜市金沢区富岡東4丁目1−8となります。このお寺は直木三十五が新居を構えたことでも有名です。
<赤坂區霊南坂町二十七番地 海妻猪勇彦家>
大正2年(1913)8月16日午後7時に横浜の富岡で上陸した孫文は、滞在先である赤坂區霊南坂町に向います。現在のホテルオークラ別館サウスウイングの西側になります。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 16日凌晨4時,先生在菊池良一陪同下,與雨名隨従一起離開諏訪山常盤花壇別墅,17日下午7時許抵横濱,18日凌晨1時許安全到達赤坂區霊南坂町27號海妻猪勇彦家。先生入京前,由於古島一雄,前川虎蔵已於16日與外務大臣有過會面洽商,就登陸地點及其他事宜議妥,故日本政府對先生特移作了巌密警戒怖署,頭山満亦派遣門下壮士保衛。(日本外務省檔案,1913年8月18日兵庫縣知事服部一三致牧野外務大臣電,兵發秘第303號:8月16日兵庫縣知事致牧野外務大臣電,第4276號(密):8月18日神奈川縣知事致警保局長電,神奈川縣知事大島久滿次致外務大臣男爵牧野伸顯閣下關於流亡者孫逸仙到東京之事、秘號外:乙秘第1176號,兪辛焞譯) …」
孫文の動向を時間単位で細かく把握しています。日本の警察はたいしたものです。
譚璐美さんの「革命いまだ成らず」
(下)から同じ場面です。
「… 八月半ば、孫文らは頭山満の配下・菊池良一に警護されて汽船で横浜へ向かい、八月十七日、横浜沖合で小船に乗り換えて、富岡海岸に上陸。そのまま車で東京へ直行して、深夜一時、赤坂区霊南坂町二十七番地の海妻猪勇彦の邸宅に入った。
ここは頭山満の屋敷とは背中合わせにあった。霊南坂一帯の屋敷町は、旧・福岡藩の藩主である黒田家や九州の小藩が所有するもので、かつては藩邸が占めていた一角であった。海妻もまた福岡県人であった。生活費は、福岡の炭鉱家・安川敬一郎が一切の面倒をみた。安川敬一郎は一九一五年、安川電機を興した国士的な実業家としても広く知られている。
とどのつまり、日本政府の黙認の下で、頭山満、犬養毅を中心にした旧・福岡藩の気骨と気概を受け継いだ人々によって助けられたのである。
いきおい面会は福岡系の人々に限られた。頭山満、犬養毅のほかにも、元東京帝国大学教授の寺尾亨、玄洋社の古島一雄、菊池良一、それに萱野長知らが毎日のように密談にやってきた。…」
横浜上陸が午後7時で、東京到着が18日午前1時ですから、車で6時間掛ったことになります。今だったら3時間位で行けるとおもいます。又、いろいろな方々が訪ねてきています。一寸考えれば孫文がいかに大切な人かわかるとおもいます。ウイキペディアによると”安川敬一郎は孫文を神戸から東京に迎え、自分の隣家を孫文の隠家に借り4年間、毎月孫文に5百円の生活費を提供していた。”とあります。太っ腹の男がいますね!
★写真の左側が当時の住所で赤坂區霊南坂町二十七番地
海妻猪勇彦家です。現在の港区赤坂1丁目14−14KOWABLDG.No.35のところです。
<小石川區雑司ヶ谷町981 鈴木宗言宅>
どういう訳か、孫文は日本検察院検察官鈴木宗言氏を訪ねています。明治40年(1907)まで台湾総督府法院長になられていた方なので中国情勢にも詳しかったのだとおもわれます。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 9月1日 袁軍陥南京,柏文蔚,何海鳴出走。
9月2日 訪日本検察院検察官鈴木宗言。
是日下午,先生至小石川區雑司谷町981號訪鈴木宗言,並留宿其家,在鈴木家灘開地圖密商。據先生房東海妻説,先生正考慮一項大計劃,在一雨週内付諸事賓,此計劃係指興南京討袁軍總司令何海鳴謀在寧再旱事。隨後,6日,8日,10日,先生又到鈴木家,興鈴木,池亨吉等商議。(日本外務省檔案,1913年9月3日,4日,6日,10日《孫文動静》,乙秘第1193號,1220號,1214號,1260號,1265號)
先生敷訪鈴木,旨在興日本精紳團總裁飯野吉三郎商談,以便従日本軍部獲取武器,以備再舉。
飯野吉三郎是日本精紳團總裁,興日本軍部和政界均有密切聯繋,精紳團由以侵略中國和亜洲爲職志的日本浪人所組織。先生通過鈴木宗言介紹,興飯野相識,雙方商談数次。
9月6日 派池亨吉持函請日本神戸國民黨支部長王敬祥輿鈴木宗言来東京相商要事。(《國父全集》第3冊第281頁)
△ 訪日人秋山定輔。(日本外務省檔案,1913年9月6日《孫文動静》,乙秘第1235號)
9月10日 居正,田桐等離上海赴日本。
9月11日 訪鈴木宗言,飯野吉三郎。…」
★右上の写真右側が小石川區雑司ヶ谷町98です。上記には”先生至小石川區雑司谷町981號訪鈴木宗言”とかかれていますが、”雑司谷町98號”の間違いです。”1”が余分でした。当時の電話番号簿で確認しました。
<芝區南佐久間町一丁目三号 民国社>
もう一つ、孫文が良く通っていたところがあります。芝區南佐久間町一丁目3號の民國社です。民国社については良く分からないことが多いのですが、中華革命党の公然組織として理解するのが一番良いのかなとおもっています。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 6月16日 與陳其美等協商中華革命黨幹部人選。
是日,先生徒歩至芝區南佐久間町一丁目三號民國社,和陳其美,田桐,胡漢民、周應時、劉承烈,柏文蔚,居正等、協商中華革命黨幹部人選,設總理,協理,各部長。推先生爲總理,並擬推黄興爲協理、但因黄興目前投資一萬日元,在目白臺蓋房、似男有打算、故尚未確定。其他幹部如下:總務部長陳其美,黨務部長田桐、財政部長張人傑、軍事部長柏文蔚、政事部長胡漢民。(日本外務省檔案,1914年6月17日《孫文動静》,乙秘第1135號)…」
この6月16日に中華革命党の幹部の人選がされています。日本側は良く調べて把握しています。
★右上の写真の一帯が芝區南佐久間町一丁目三号です。三号が広すぎて詳細の場所が分りません。現在の地番で東京都港区虎ノ門一丁目9〜12になります。
<豊多摩郡千駄谷町大字原宿一〇九番地>
孫文は大正4年(1915)8月、赤坂區霊南坂町から千駄谷町大字原宿一〇九番地に転居しています。宋慶齢との結婚を間近に控えての転居だったのだとおもいます。
「孫中山年譜長編 上冊」 中華書局発行からです。
「… 8月末 移居東京府豊多摩郡千駄谷町大字原宿一〇九番地
(即今渋谷區神宮前三丁目三十三番地)。(日本外務省檔案,1915年8月31日《孫文動静》,乙秘第1258號)…」
アジア歴史資料センターで上記の”乙秘第1258號”を確認しました。30日に転居したようです。
★右上の写真の正面が東京府豊多摩郡千駄谷町大字原宿一〇九番地です。現在の住居表示で神宮前3丁目33番地です。住環境としては非常に良いところです。新婦の手前、良いところに引越したのだとおもいます。
続きます。