●夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (中)  【明治44年】
    初版2012年7月14日  <V01L02>  暫定版

 「夏目漱石散歩」を順次掲載しています。今回は”夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (中) 明治44年”です。大阪朝日新聞社主催の講演会に招かれての旅で、明石、和歌山、堺、大阪と四ヵ所での講演をこなしています。宿泊場所、講演会場を順次歩いてみました。




「漱石全集」
<漱石全集([上]と同じ内容です)>
 夏目漱石はかなりの回数、関西を訪ねています。その中で今回は明治44年8月の大阪朝日新聞社主催の講演会で明石、和歌山、堺、大阪を訪ねた足跡を巡ってみました。参考図書は主として「漱石全集 第二十巻」の日記と、「漱石全集 第二十七巻」の年譜を参考にしました。
 「漱石全集 第二十七巻」の年譜、明治44年8月からです。
「8月11日 大阪朝日新聞主宰の講演会のため東京を出発した。十日発の予定であったが、台風で鉄道が不通になり予定を遅らせた。《S日記九》
8月12日 箕面の朝日倶楽部に泊まった。《S日記九》
8月13日(日) 明石の公会堂で『道楽と職業』と題した講演を行なった。《S日記九》
8月14日 電車で和歌浦に出て、エレベーターに上ったり、紀三井寺に参詣したりした。《S日記九》
8月15日 新和歌浦を見物した後、奠供山で『現代日本の開化』と題して講演を行なった。固辞した講演後の宴会に出るが、風雨はげしく漱石らは和歌浦に戻らず新和歌浦に泊まった。《S日記九》
8月16日 大阪に戻った。《S日記九》
8月17日 堺の市立高等女学校講堂で『中味と形式』と題した講演を行なった。《O》
8月18日 大阪の中之島公会堂で『文芸と道徳』と題した講演を行なった《O》。講演後、宿舎の紫雲楼に戻ったところ、「宿屋で寝てゐると何も食んのに嘔吐を催ふしてとうとう胃をたゞらして夫から血が出ましたので驚ろい」たと。後に回顧した《○23書簡1556》。

 8月19日 大阪朝日新聞社の紹介により、大阪市東区の湯川胃腸病院に入院した。《鏡子》
 8月21日 鏡子が東京から駆けつけた。《鏡子》《荒》

 9月14日 十三日に大阪を発ち、この日帰京した。 《荒》…」

 上記の年譜は大阪朝日新聞社主催の講演会で明石、和歌山、堺、大阪を訪ねた項目以外は省いています。”○23”は○の中に23が入っています(第二水準を超えるため)。
 8月13日から8月18日で講演は終っているのですが、漱石の持病である胃の病気が再発し、大阪で約一ヶ月入院しています。そのため帰京が遅れ、9月に東京に戻っています。

 年譜内容に関しては、一部、日記との相違が見受けられます。
・8月12日 箕面の朝日倶楽部に泊まった。《S日記九》 → 日記では明石の「衝濤館」に宿泊
・8月15日 …風雨はげしく漱石らは和歌浦に戻らず新和歌浦に泊まった。《S日記九》 → 本町の富士屋旅館に宿泊
日記の方が正しいとおものですがどうでしょうか?

上記写真は岩波書店の「漱石全集」です。全28巻、別巻一巻となります。凄い量なので本棚ではなくて積み上げています。この全集は古本でしか買えませんので、文庫本で筑摩書房版の漱石全集を紹介しておきます。文庫本は安くていいですね。

「現 和歌山市駅」
<和歌山駅>
 漱石は明治44年8月14日、大阪市北区今橋の「紫雲樓」を発ち、和歌山に向います。当時、大阪から和歌山に向うには、明治36年(1903)に開通した難波−和歌山(現 和歌山市駅)の南海鉄道しかありませんでした。国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が天王寺−東和歌山(現 和歌山駅)間を開通させたのは昭和5年(1930)となります。当時の和歌山駅は現在の紀和駅です。
 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十四日〔月〕 快晴
 九時五十二分の汽車で和歌山に行く事にする。和歌山からすぐ電車で和歌の浦に着。…」

 南海鉄道の難波−和歌山(現 和歌山市駅)間は1時間50分、特等車両を連結していたようです。漱石が前日宿泊したのが今橋の「紫雲樓(心斎橋通り)」だったので、難波は比較的近くて乗車には丁度良かったのではないかとおもいます。

 夏目漱石の「行人(こうじん)」にも和歌山が描かれています。
「        十

 翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪がいますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯をやって御覧なさい」と岡田が自分に注意したから、自分は皿を運んだりサイダーを注いだりする女をよく心づけて見た。しかし別にこれというほどの器量をもったものもいなかった。
 母と嫂は物珍らしそうに窓の外を眺めて、田舎めいた景色を賞し合った。実際|窓外の眺めは大阪を今離れたばかりの自分達には一つの変化であった。ことに汽車が海岸近くを走るときは、松の緑と海の藍とで、煙に疲れた眼に爽かな青色を射返した。木蔭から出たり隠れたりする屋根瓦の積み方も東京地方のものには珍らしかった。…

 停車場を出るとすぐそこに電車が待っていた。兄と自分は手提鞄を持ったまま婦人を扶けて急いでそれに乗り込んだ。
 電車は自分達四人が一度に這入っただけで、なかなか動き出さなかった。
「閑静な電車ですね」と自分が侮どるように云った。
「これなら妾達の荷物を乗っけてもよさそうだね」と母は停車場の方を顧みた。
 ところへ書物を持った書生体の男だの、扇を使う商人風の男だのが二三人前後して車台に上ってばらばらに腰をかけ始めたので、運転手はついに把手を動かし出した。
 自分達は何だか市の外廓らしい淋しい土塀つづきの狭い町を曲って、二三度停留所を通り越した後、高い石垣の下にある濠を見た。濠の中には蓮が一面に青い葉を浮べていた。その青い葉の中に、点々と咲く紅の花が、落ちつかない自分達の眼をちらちらさせた。…」

 「行人」の内容は漱石の日記の内容そのものですね。「行人」は漱石が大正元年(明治45年)(1912)12月6日から翌年11月5日まで「朝日新聞」に連載された新聞小説です(4月から9月まで、病気のため中断しています)。和歌山を講演旅行で訪ねた翌年になります。日記も「行人」も和歌山市駅前から電車に乗っています。当時は和歌山水力電気株式会社が和歌山市駅−県庁前(後の市役所前)−和歌裏口−紀三井寺間(明治42年開業)を路面電車で運行していました。今で言う市電です。当時の軌道を下記の地図に記載しておきます。

写真は現在の「和歌山市駅」です。当時は南海の駅のみでしたが現在はJRの駅と共用になっています。当時の駅の写真を掲載しておきます(出典:「文書館だより 第31号」 平成23年7月 和歌山県立文書館)。

【夏目漱石(なつめそうせき)】
慶応3年(1867)、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、「吾輩は猫である」を発表し大評判となる。翌年には「坊っちゃん」「草枕」など次々と話題作を発表。'07年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。(新潮文庫参照)

「望海楼跡」
<望海楼>
 漱石は和歌山市駅到着後、路面電車で和歌浦に向います。約6.5Kmの距離です。
 夏目漱石の和歌山に関しては和歌山県立文書館発行の「文書館だより 第31号 平成23年7月 ”漱石が見た百年前の和歌山”」がたいへん参考になりました。又、和歌山県立図書館、文書館の方々にはたいへんお世話になりました。ありがとうございました。

 「漱石全集 第二十巻」の”日記9”からです(明治44年)。
「 〔八月〕十四日〔月〕 快晴
 九時五十二分の汽車で和歌山に行く事にする。和歌山からすぐ電車で和歌の浦に着。あしべやの別荘には菊池総長がゐるので、望海楼といふのにとまる。晩がた裏のエレベーターに上る。東洋第一海抜二百尺とある。岩山のいたゞきに茶店あり猿が二匹ゐる。キリといふ宿の仲居が一所にくる。裏へ下り玉津島明神の傍から電車に乗って紀三井寺に参詣。牧氏と余は石段に降参す、薄暮の景色を見る。
晩に白い蚊帳を釣り明け放して寝る夫でも寝苦しい。朝起
  涼しさや蚊帳の中より和歌の浦」

 漱石の和歌浦での足跡を辿ってみます。先ず、路面電車を和歌浦停留所で降りて、「あしべや」に向っています。「あしべや(芦辺屋)」は江戸時代からの旅館で、昭和初期の絵はがきには「望海楼支店 あしべや」と書かれています(同じ場所からの現在の写真を掲載しておきます)。漱石一行は「あしべや」をパスしてすぐ横の「望海楼」に宿泊を切り替えています。その後、東洋一というエレベーターで裏山に上り眺望を楽しみます。そして紀三井寺に向い、長い階段を登って本殿にたどり着いています。当時の紀三井寺の絵はがきと、現在の紀三井寺の写真を見比べて下さい。

「絵葉書 望海楼」
 同じ場面を夏目漱石の「行人」から見てみます。
「… 和歌山市を通り越して少し田舎道を走ると、電車はじき和歌の浦へ着いた。抜目のない岡田はかねてから注意して土地で一流の宿屋へ室の注文をしたのだが、あいにく避暑の客が込み合って、眺めの好い座敷が塞がっているとかで、自分達は直に俥を命じて浜手の角を曲った。そうして海を真前に控えた高い三階の上層の一室に入った。
 そこは南と西の開いた広い座敷だったが、普請は気の利いた東京の下宿屋ぐらいなもので、品位からいうと大阪の旅館とはてんで比べ物にならなかった。時々|大一座でもあった時に使う二階はぶっ通しの大広間で、伽藍堂のような真中に立って、波を打った安畳を眺めると、何となく殺風景な感が起った。…

        十六

 朝起きて膳に向った時見ると、四人はことごとく寝足らない顔をしていた。そうして四人ともその寝足らない雲を膳の上に打ちひろげてわざと会話を陰気にしているらしかった。自分も変に窮屈だった。
「昨夕食った鯛の焙烙蒸にあてられたらしい」と云って、自分は不味そうな顔をして席を立った。手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂まで物数奇な人間を引き上げる仕掛であった。所にも似ず無風流な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。…」

 ここでも日記と「行人」は同じです。漱石がエレベーターで登った山は奠供山で、現在は玉津島神社から登ることができ、登り口の写真を掲載しておきます。山頂には「望海楼」の記念碑があり、エレベーターの痕跡もあります。奠供山頂から見た御手洗池方面の写真を掲載しておきます。

左上部の写真は現在の「望海楼」跡です。左下部の写真は当時の「望海楼」です。山のかたちが当時と変わりません。漱石が宿泊したのは「望海楼」の三階の左隅ではないかとおもいます。


夏目漱石の和歌浦地図



「県会議事堂跡」
<県会議事堂>
 和歌山に到着した翌日の8月15日、午前中は新和歌浦を観光し、その後、講演のため和歌山の県会議事堂に向います。
 「漱石全集 第二十巻」の日記9からです(明治44年)。
「 〔八月〕十五日〔火〕 早車で新和歌の浦に行く長者議員某氏の招く所といふ。トンネル二つ。運動場といふのは砲台の出来損の如し。帰りに権現様に上る。橋の所に乞食が二人ゐる。石段は一直線で三にしきる。夫から片男波を見る。稀らしく大きな波が堤を越えてくる。電車で和歌山へ行く途中から降る。県会議事堂は蒸し熱い事夥し。…」
 新和歌浦では第一トンネルと、第二トンネル、運動場を見ています。当時の第一トンネルは廃止され新しいトンネル(写真左側に旧トンネル)に切り替わっています。第二トンネルも廃止されて、丘越え道路に変わっています。その後、権現様片男波海岸を見ています(片男波海岸の当時の絵はがきも掲載します、出典:「文書館だより 第31号」 平成23年7月 和歌山県立文書館)。

 午後1時からの講演内容
・海に行け:後醍院廬山
・清国における列国の利害関係:牧放浪(牧巻次郎、大阪朝日新聞記者)
・現代日本の開花:夏目漱石
 大阪朝日新聞記者の講演タイトルが時勢を繁栄しています。ただまだ明治時代です。
 講演の記録
  はなはだお暑いことで、こう暑くては多人数お寄合いになって演説などお聴きになるのは定めしお苦しいだろうと思います。ことに承れば昨日も何か演説会があったそうで、そう同じ催しが続いてはいくらあたらない保証のあるものでも多少は流行過の気味で、お聴きになるのもよほど御困難だろうと御察し申します。が演説をやる方の身になって見てもそう楽ではありません。ことにただいま牧君の紹介で漱石君の演説は迂余曲折の妙があるとか何とかいう広告めいた賛辞をちょうだいした後に出て同君の吹聴通りをやろうとするとあたかも迂余曲折の妙を極めるための芸当を御覧に入れるために登壇したようなもので、いやしくもその妙を極めなければ降りることができないような気がして、いやが上にやりにくい羽目に陥ってしまう訳であります。…

 もっとも私がこの和歌山へ参るようになったのは当初からの計画ではなかったのですが、私の方では近畿地方を所望したので社の方では和歌山をその中へ割り振ってくれたのです。御蔭で私もまだ見ない土地や名所などを捜る便宜を得ましたのは好都合です。そのついでに演説をする――のではない演説のついでに玉津島だの紀三井寺などを見た訳でありますからこれらの故跡や名勝に対しても空手では参れません。御話をする題目はちゃんと東京表できめて参りました。…」

 講演の最初のみ記載しました。相当暑かったようです。後は青空文庫で読んで下さい。

上記写真は現在の和歌山中央郵便局です。 当時、県会議事堂のあった場所です。写真の右側真ん中やや上にお城が見えます。拡大してみて下さい。当時の県会議事堂は、現在根来寺に移設され、根来寺一乗閣となっています。

「風月跡」
<風月>
 漱石は県会議事堂での講演の後、「風月」という料亭に向います。
 「漱石全集 第二十巻」の”日記9”からです(明治44年)。
「 〔八月〕十五日〔火〕 …

宴会を開くといふから固辞しても聞かず、已を得ず風月といふのに赴き離れで待ってゐる。宴開くる頃から風雨となる。隣席の綿ネル商 望海楼は危険だといふ。舞妓の踊と和歌山雲右衛門の話を聞いて外へ出ると吹降りである。…」

 漱石本人は行きたくなかったようです。旅館で休んでいる方が良かったのでしょう。ただ、この「風月」という料亭は作家 大岡昇平と非常に関係が深い料亭なのです。

 大岡昇平の「少年」からです。
「…祖母くには安政五年(一八五八)生れ、大叔母友枝は明治六年(一八七三)生れで、十六も年が違う。戸籍上は姉妹になっているが、実は親子だといううわさがあった。しかし友枝が昭和二十七年死亡するまで身辺に附添っていた姉は、そのうわさを否定している。曽祖父高村平助は和歌山市の湊方面のかなりの材木商だったそうだが、明治十年代に没落した。(紀州藩は紀ノ川上流、吉野川流域から木材を切り出し、橋本や天ノ川方面に番所を設けていた。維新後それらの特権が失われたので、和歌山には没落する材木問屋が多かったという。)くにと友巌の問に生れた長男平助(曽祖父と同名)は天折していたので、二人の姉妹は芸事で身を立てることになった。くには料亭「九重」(後の「風月」)の仲居に、友枝は芸妓になった。くにには明治十七年私生児として、母つるを生んだほかに子はない。戸籍上は妹になっている。そのうち友枝が和歌山市内のある工業会社の社長の庇護を受けて、丸の内十一番丁に置屋兼お茶屋「明月」を出し、くにとつるを養った。母はやがてそこから内娘として出た。
 年次は関係者が死亡していて、確かめる手段がないが、父と馴染んで姉文子を生んだのは、明治三十七年で、二十歳の時だから、三十三、四年頃であろう。父は当時米屋町の新宅に祖父や哲吉伯父と同居していた。これは十一番丁とは堀一つ隔てたところにある。…」

 大岡昇平の祖母が働いていた料亭であり、祖母が母親を生んだのもこの料亭とおもわれます。上記に書かれている”丸の内十一番丁に置屋兼お茶屋「明月」”は「大岡昇平の和歌山を歩く」を参照して下さい。

写真の右側先が当時の十一番丁十一番、「風月」跡です。同じ角度から撮影した当時の「風月」の写真を掲載しておきます(出典:「文書館だより 第31号」 平成23年7月 和歌山県立文書館)。


夏目漱石の和歌山市中心部地図



「富士屋旅館跡」
<富士屋旅館>
 8月15日の公演後、漱石は嵐のため「望海楼」に戻れなくなり、近くの旅館に泊ります。
 「漱石全集 第二十巻」の”日記9”からです(明治44年)。
「 〔八月〕十五日〔火〕 …

隣席の綿ネル商 望海楼は危険だといふ。舞妓の踊と和歌山雲右衛門の話を聞いて外へ出ると吹降りである。西岡君は三度も電話をかけて大丈夫かと聞いたら大丈夫と云ふ。牧君にどうしませうかと云ふと牧君は夏目さんどうしませうといふ。北
                   *               〔原〕
尾君がこちらが宜しいでせうと云ふ。後醍院君は是非和歌の浦迄行くと主張する。余等三人はあとの
        〔速〕
西岡、後醍院、早記のOO君と和歌の浦に向ふ。余等は富士屋といふのに入る。電燈が消える。ランプを着ける。其ランプが又消える。惨憺たる所へ和歌の浦の連中が徒歩で引き返す、車で紀伊毎日の所迄行って電車を待ってゐると電車は来るには来るが向へ行くのは何とかの松原迄で其先は松が倒れ
                                       ’  〔原〕
て行けないといふ。何時〔迄〕待っても埓が明かないので帰って来たといふ。西岡君は今望海楼が今夜中持つか持たぬかゞ疑問だといふ。是は電話をかけても通じないからだといふ。所が富士屋から電話をかければ望海楼へよく通じる。風雨鳴動のうちに愈十六日となる…」

 明治44年(1911)8月の気象庁のデータを見ると降水量のみが分かり、15日は5.8mm、16日は54.4mm、時間帯別に見ると、15日は15−18時1.0mm、19−22時2.7mm、23−2時(16日)17.3mm、3−5時35.9mmなので、16日の夜半が雨が激しかったようです。

上記写真は現在の「富士屋旅館」跡で、商工組合中央金庫和歌山支店となっています。左右の道は戦後の区画整理で出来た道で、当時はありませんでした。ですから、当時の「富士屋旅館」は道側に少しはみ出していたとおもわれます。

続きます!!



夏目漱石年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 夏目漱石の足跡
明治23年 1980 帝国ホテル開業 23 9月 帝国大学文科大学英文学科に入学
明治24年 1981 大津事件
東北本線全通
24 3月 三男直矩の妻登世が死去
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 4月 本籍を北海道岩内に転籍
7月 正岡子規と京都、大阪、岡山、松山を訪ねる
8月 岡山で水害に会う
明治26年 1893   26 7月 帝国大学文科大学英文学科卒業
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 10月 小石川の法蔵院に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 3月 山口高等中学校の就職を断る
4月 愛媛県尋常中学校(松山中学校)に赴任
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
4月 第五高等学校(熊本)に赴任
6月 熊本市下通町に家を借り、結婚
9月 熊本市合羽町二三七(現坪井2丁目)に転居
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 34 1月 次女恒子誕生
明治35年 1902 日英同盟 35 9月19日 正岡子規死去(享年36歳)
12月5日 ロンドンを発ち帰国の途につく
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 36 1月20日 長崎港着
4月 第一高等学校と東京帝国大学の講師に就任
10月 三女栄子誕生
明治37年 1904 日露戦争 37 4月 明治大学講師に就任
明治38年 1905 日本海海戦
ポーツマス条約
38 1月 「吾輩は猫である」をホトトギスで発表(第一章)
12月 四女愛子誕生
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 39 4月 「坊っちやん」をホトトギスで発表
明治40年 1907 義務教育6年制 40 3月 東京帝国大学と第一高等学校に辞表を提出、朝日新聞社に入社
3月〜4月 京都、大阪を訪問
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
41 12月 次男伸六誕生
         
明治44年 1911 辛亥革命 44 8月 朝日新聞の招きで講演旅行を行う(明石、和歌山、堺、大阪)