●大岡昇平を歩く  和歌山編
    初版2008年1月13日
    二版2008年2月24日 和歌山市丸内十一番丁の写真を入換
    三版2012年7月22日 <V01L01> 風月と名月の場所を入替
 今週は「大岡昇平を歩く」の三回目を掲載します。大岡昇平の故郷は和歌山です。父親、母親とも和歌山の出身で、大岡昇平は復員後の昭和20年12月、和歌山の姉と大叔母を訪ねます。

「聞光寺」
聞光寺>
大岡昇平は昭和20年12月、妻の疎開先である兵庫県明石に復員します。そして復員して直ぐに姉と大叔母を訪ねて和歌山に向かいます。その当時のことを「帰郷」として書いています。この「帰郷」を基に和歌山を歩いてみました。
「昭和二十年の暮、明石附近の妻の疎開先に復員した私が最初に出頭したのは、むろん私の収入の源である神戸の勤務先であったが、次は和歌山市に住む姉を訪れる順序である。満州にいた弟夫婦が消息不明の現在、姉は日本にいる私の唯一の身内である。 昭和十九年三月、私が教育召集で東京の部隊へ入営したのは、当時東京にあった姉の家からである。姉は折柄某私立大学の教授である義兄と離婚係争中で、寄寓してその紛糾に巻き込まれていた私は、応召がむしろ有難かったくらいである。三カ月の入営中に離婚は正式に人事調停裁判にかけるところまで進行したらしかった。しかし戦況の悪化に伴って私の面会が不定期となり、とうとう姉とは会えなかった。事件解決に先立って郷里和歌山へ帰ってしまったので、手紙では委細は尽せなかった。そして私はそのまま臨時召集に切り替えられ、出征してしまった。復員後妻に聞いたところによると、離婚は成立した。以来姉は和歌山で養母の、母方の大叔母と二人で暮していたらしいが、戦災疎開の間に妻との連絡は切れていた。姉と大叔母も私が収容所で帰還後養って行かねばならぬと空想していた親類縁者の中に入っていた。和歌山市の中心部にある大叔母の家は、間違いなく戦災で焼けたであろう。大叔母の貯金も、インフレでものの数ではあるまい。七十四歳と四十二歳の独身女性は途方に暮れているであろう。…… 「そこの、松島の寺にいられます」 松島の寺とは、附近の村落松島にある大岡の菩提寺聞光寺である。なるほど、私が行方不明の姉達をまずこの田舎を日当に探しに来たように、焼け出された彼女達もまずここへ避難していたのである。人間の頼りにするところなんて、大抵は似たようなものである。「ええと、松島はどう行ったんでしたっけ。忘れちゃったんですが」「そこの角を曲って真直ぐお行きやしたら、一本道ですがな」…」
 姉と大叔母の疎開先を聞くために和歌山市有本の大岡本家を訪ねます。姉と大叔母が疎開していたのは大岡家の菩提寺、聞光寺でした。有本から聞光寺まで500m程の距離となります。

左上の写真が和歌山市松島の聞光寺です。人家もありましたが周りは畑ばかりでした。右側の本が「帰郷」が掲載されている大岡昇平版「わが復員、わが戦後」です。

「大岡家墓所」
大岡家墓所>
姉と大叔母が疎開していた聞光寺には大岡家の墓がありました。
「…大叔母は本堂の広い縁にかがんで七輪を煽いでいた。私の姿を認めると、「ほう、昇ちゃんか」 とまるで昨日別れたばかりのように、さり気なく笑った。水商売の人らしく、背をしゃんと延ばして、小柄の体が、立ったまま坐ったように、ちんと据っている。……
「まあ、お上り」
「やっと帰って来ました」
「春枝さんもみな達者ですか」
「ええ、お陰様で。明石の方へ疎開しました」
「そりゃ、よかった」
「姉さんは?」
「達者や。達者や。ちょっとそこまで行ったけど、すぐ戻るやろ。さあ、お上り」
要するに私が比島で命拾いして来たことなぞ、大叔母にとって、さまよい出た犬が帰って来たくらいの事件でしかなかったのである。彼女は死んだ母と血の繋った唯一人の人である。和歌山市の花街で、置屋兼料亭を開いていた彼女のところは、私として、行けば必ず酒を飲ませてくれ、小遣いをくれる家というにすぎなかったが、停虜収容所で帰還後の私の働きにかかって来ると、私が空想していた十人ばかりの親類の中の一人であった。しかし彼女の方では、私の帰る帰らないなぞ問題にしていなかったのである。…」

 大岡昇平の墓は多磨霊園にあります。姉と大叔母の墓はこちらなので、何方かが見ていられるのだとおもいます。

左上の写真は菩提寺、聞光寺にある大岡家の墓です。小さなお寺なので直ぐにお墓の場所はわかりました。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


大岡昇平 和歌山地図


大岡昇平の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 1月 ミンドロ島で米軍の捕虜となる
12月 復員、妻の疎開先の明石に住む
12月 和歌山の姉と大叔母を訪ねる



「丸内十一番丁」
和歌山市丸内十一番丁>
 2008年2月24日 写真を修正
 2012年7月22日 風月と毎月の場所を入替

大岡昇平の母親は和歌山市丸内十一番丁の置屋兼料亭の娘でした。
「…高村友枝は明治十六年生れ、この時三十一歳、和歌山市丸内十一番丁の芸妓置屋「明月」の女主人であった。母つるがそこから内娘として出ていたこと、父と馴染んで文子を挙げたが、周囲の反対によって明治四十一年上京するまで、結婚の段取りにならなかったこともすでに書いた。高村家は和歌山の河口に近い「湊」の材木商であったが、幕末維新の変革期に乗り切れず没落した。長女くに(慶応四年生)と友枝の間に平助という男子があったが、早世したので (ただし戸籍によれば、平助は友枝の父となっており、この辺家系に混乱がある)二人姉妹はそれぞれ芸事で身を立てることになった。くには十一番丁の「風月」という料亭の仲居となり、友枝は芸妓になった。友枝はやがて土地のガス会社の社長の保護を受けて、「明月」を持つことに成功したのである。…」
 高村友枝は大岡昇平の大叔母になります。大岡昇平の姉はこの大叔母の和歌山の家を継ぐ為に養女になります。

左上の写真の正面やや右の白いビルのところが和歌山市丸内十一番丁五番地です(高松くにのいた「置屋 名月」の所と推定)。妹友枝の「料亭 風月」は和歌山市丸内十一番丁十一番地と推定。両者とも昭和20年7月9日の空襲で焼けています。何れの番地も「大岡昇平全集 中央公論社版」からです。和歌山県立文書館の方に「風月」の場所を確認していただきました(2012/7/22)。

「中ノ島駅」
紀伊中ノ島駅>
 大岡昇平は疎開先の明石から姉と大叔母の住む和歌山に向かいます。昭和20年12月ですから、たいへんだったとおもいます。
「…大阪から和歌山へ行く電気鉄道は二本ある。大阪の沖積地の中央、難波駅に発する南海鉄道は、堺、岸和田等、大阪湾沿岸の都市を繋いで南へ延び、明治の末、紀伊水道に臨む岬の近くで和泉山脈を越え、和歌山に達した。昭和に開通した阪和線は上町丘陵の天王寺駅に発し、生駒金剛山脈に沿った洪積台地を走り続けて、南海鉄道の三里東、旧大阪街道の峠で同じく和泉山脈を越える。…… その小さな駅の附近にも、当時のあらゆる「駅」の附近と同じく、飴、大福、蜜柑などを並べた露店が群れている。阪和線中ノ島駅はこの線が和歌山市へ入る一つ手前の駅である。昭和二十年十二月の中旬であった。復員したばかりの私は、この駅附近の農家であるわが本家を訪ねようとしているところである。和歌山市内には母方の大叔母とその養女になっている姉がいるはずであったが、和歌山市が焼けて以来、明石に疎開中の妻との連絡は切れていた。まさか死んでもいないだろうと、楽観する根拠も実は何もないのであるが、我々の精神には死んでいるだろうと予測するカはないらしく、とにかくこの中ノ島駅附近の本家へ行けばわかるだろうと、私は遥々満員の電車に揺られて来たわけである。 …」
 大岡昇平が本家に向かうために降りた駅は、JR阪和線和歌山駅の一つ手前、紀伊中ノ島駅(昔は中ノ島駅?)でした。駅舎は変わっています。駅周辺は現在は建て込んでいますが、当時は露店があるのみで、畑ばかりで何も無かったのではないでしょうか。

右上の写真がJR阪和線紀伊中ノ島駅です。思ったより小さな駅でした。

「阪和線ガード」
阪和線のガード>
 JR阪和線紀伊中ノ島駅から本家までは少し歩かなければなりません。
「…埃っぼい旧大阪街道へ出、ガードをくぐり、それから道傍に古い煙草屋のあるところから、斜めに田圃に分け入る細い道が、もと海草郡四ケ郷村字新田、現在は和歌山市有本町三四〇番地の本家へ導く道である。… 」
 この付近は当時と比較してもあまり変わっていないのではないでしょうか。建物は増えていますが、道路幅は変わっていないようです。

左上の写真がJR阪和線のガードです。当時も高架だったので、そのままの風景ではないでしょうか。この道を少し歩くと、上記に書かれている”古い煙草屋のあるところから、斜めに田圃に入る細い道”の場所になります。現在は煙草屋はありませんでした。

「本家跡」
大岡本家>
 和歌山市有田の大岡本家です。JR阪和線紀伊中ノ島駅から1.7Km程の距離でした。
「…十二月の午後の日はよく晴れていた。小川を石橋で越え、大正のアメリカ帰りが建てた奇妙な木造洋館の独立家屋の傍を過ぎると、行く手の関西風の集村の中に一際高く替える樫や椎の屋敷林が見えて来る。本家は代々有本新田の庄屋だったと伝えられている。 右手の大阪街道の松並木が次第に離れ、左手は紀ノ川の堤防が眼路を限る。その上に低い和泉山脈が暖かい褐色の山肌を連ねている。 この辺は紀ノ川の三角洲の上で、中ノ島、松島等の地名が多いのは、それが分岐した河流によって隔てられたからであろう。もと紀州藩の武士であった大岡は、ここに新田を開拓して帰慶したのだと、老人達は教えている。…」
 周りの建物は昔のままでした。残念ながら本家は教会になっていました。裏の方に昔の建物が少し残っています。大岡昇平は昭和20年12月中旬に、ここまで来て、姉と大叔母の所在を聞いています。

右上の写真は大岡本家、現在は和歌山イエス之御霊教会です。大岡牧師となっていましたので、ご家族の方が牧師になられているのだとおもいます。