<聞光寺>
大岡昇平は昭和20年12月、妻の疎開先である兵庫県明石に復員します。そして復員して直ぐに姉と大叔母を訪ねて和歌山に向かいます。その当時のことを「帰郷」として書いています。この「帰郷」を基に和歌山を歩いてみました。
「昭和二十年の暮、明石附近の妻の疎開先に復員した私が最初に出頭したのは、むろん私の収入の源である神戸の勤務先であったが、次は和歌山市に住む姉を訪れる順序である。満州にいた弟夫婦が消息不明の現在、姉は日本にいる私の唯一の身内である。 昭和十九年三月、私が教育召集で東京の部隊へ入営したのは、当時東京にあった姉の家からである。姉は折柄某私立大学の教授である義兄と離婚係争中で、寄寓してその紛糾に巻き込まれていた私は、応召がむしろ有難かったくらいである。三カ月の入営中に離婚は正式に人事調停裁判にかけるところまで進行したらしかった。しかし戦況の悪化に伴って私の面会が不定期となり、とうとう姉とは会えなかった。事件解決に先立って郷里和歌山へ帰ってしまったので、手紙では委細は尽せなかった。そして私はそのまま臨時召集に切り替えられ、出征してしまった。復員後妻に聞いたところによると、離婚は成立した。以来姉は和歌山で養母の、母方の大叔母と二人で暮していたらしいが、戦災疎開の間に妻との連絡は切れていた。姉と大叔母も私が収容所で帰還後養って行かねばならぬと空想していた親類縁者の中に入っていた。和歌山市の中心部にある大叔母の家は、間違いなく戦災で焼けたであろう。大叔母の貯金も、インフレでものの数ではあるまい。七十四歳と四十二歳の独身女性は途方に暮れているであろう。…… 「そこの、松島の寺にいられます」 松島の寺とは、附近の村落松島にある大岡の菩提寺聞光寺である。なるほど、私が行方不明の姉達をまずこの田舎を日当に探しに来たように、焼け出された彼女達もまずここへ避難していたのである。人間の頼りにするところなんて、大抵は似たようなものである。「ええと、松島はどう行ったんでしたっけ。忘れちゃったんですが」「そこの角を曲って真直ぐお行きやしたら、一本道ですがな」…」。
姉と大叔母の疎開先を聞くために和歌山市有本の大岡本家を訪ねます。姉と大叔母が疎開していたのは大岡家の菩提寺、聞光寺でした。有本から聞光寺まで500m程の距離となります。
★左上の写真が和歌山市松島の聞光寺です。人家もありましたが周りは畑ばかりでした。右側の本が「帰郷」が掲載されている大岡昇平版「わが復員、わが戦後」です。