<蕎麦漫筆>
「よし田(吉田)」の屋号については、経営者の名前が「吉田」だったから屋号を「吉田」と付けた訳ではないようです。「よし田」の屋号の歴史について、少し調べて見ました。蕎麦に関する本は多いのですが、「よし田」について書かれている本を数冊見つけることが出来ました。今回は多田鉄之助の「蕎麦漫筆」を参考にしました。
「 そば屋の屋号に吉田がある。概してこの屋号を用いている店は以前は高級店であった。銀座の吉田、日本橋の吉田、浜町の吉田の三軒は有名であった。浜町だけは復活していない。
この屋号の起源に就いては、経営者自体にどうしてこんな名前を用いているか訊いて見ても知らない。私もこれを見出すまでには相当の年月を要した。学問、殊に歴史的考証は、頼るところ古文献以外にない。しかも単に一つの文献のみに頼って論断するのは頗危険なのである。尠くも三つ位の文献に依る発見事項を検討して、種々の角度から判断を下さないと、誤りをする場合が往々ある。
実はは俗謡に「今日で辻君、大坂で総嫁、江戸の夜鷹は吉田町」というのがある。そこで吉田町というのが、どこかと調べて見ると本所の吉田町であるのだ。夜鷹といっても、芝居に出ている未だこの種のものは、艶麗極まりないものであるが、実際はそうでもないので、江戸の夜鷹の中には齢五十を越えて孫のありそうな連中が、生活のためとはいえ、脂粉に身をやつして現われておった。川柳子はうまいことをいっている。
吉田町実盛程の身ごしらへ
申す迄もなく、その昔、斎藤実盛が髪を染めて戦場に臨んだ古事をいったものであるが、全部の夜鷹が御老体なわけではない。中には水の滴るような美人もいたものと思われる。また相当に精力の続く女もあったのだろう。それを川柳子はこういっている。
客二つ潰して三つ食ひ
これだけでは何の事か、ちょっと判断がづきかねるであろう。
この説明はこうなるのだ。お客を二人を相手にして、売春行為をしてお客を参らせて、一人二四文宛の報酬を貰うと四十八文となる。これで一つ十六文の「そば」を三つ食ってしまうという意であるが、これは数学を織込んだ川柳で少しややこしいものだし、その説明をしないと、何のことやち判らないやあろう。
要するに、夜麿が多く愛用したそば屋が吉田町にあった。そこにあった「そば屋」が吉田の屋号の起りである。…」。
「よし田」の屋号はどうやら江戸時代に付けられたようです。”吉田町実盛程の身ごしらへ”、”客二つ潰して三つ食ひ”等は面白いですね。特に”客二つ潰して三つ食ひ”は蕎麦屋に関する川柳です。この事柄から、吉田町には蕎麦屋が多くあり、「吉田」と蕎麦屋が結びついてくるのだとおもいます。
★写真は多田鉄之助の「蕎麦漫筆」です。昭和29年(1954)現代思潮社発行です。この本には”東京「蕎麦屋」有名店一覧”が付いており、その中の中央区に「よし田」が二軒掲載されていました。日本橋呉服町と銀座7丁目の2軒です。