●蕎麦屋を歩く 【よし田(吉田)編】
    初版2010年12月18日
    二版2010年12月25日  <V01L01> カレー蕎麦を追加他  暫定版

 しばらく蕎麦屋関連を歩いていませんでしたので今週は「蕎麦屋を歩く 『よし田(吉田)編』」を掲載します。銀座の「よし田」については「子母沢寛の「味覚極楽」を歩く 蕎麦屋編」に少し掲載されていますが、今回は浜町、日本橋の「よし田」も含めて戦前の「よし田」を辿ってみました。


「蕎麦漫筆
<蕎麦漫筆>
 「よし田(吉田)」の屋号については、経営者の名前が「吉田」だったから屋号を「吉田」と付けた訳ではないようです。「よし田」の屋号の歴史について、少し調べて見ました。蕎麦に関する本は多いのですが、「よし田」について書かれている本を数冊見つけることが出来ました。今回は多田鉄之助の「蕎麦漫筆」を参考にしました。
「 そば屋の屋号に吉田がある。概してこの屋号を用いている店は以前は高級店であった。銀座の吉田、日本橋の吉田、浜町の吉田の三軒は有名であった。浜町だけは復活していない。
 この屋号の起源に就いては、経営者自体にどうしてこんな名前を用いているか訊いて見ても知らない。私もこれを見出すまでには相当の年月を要した。学問、殊に歴史的考証は、頼るところ古文献以外にない。しかも単に一つの文献のみに頼って論断するのは頗危険なのである。尠くも三つ位の文献に依る発見事項を検討して、種々の角度から判断を下さないと、誤りをする場合が往々ある。
 実はは俗謡に「今日で辻君、大坂で総嫁、江戸の夜鷹は吉田町」というのがある。そこで吉田町というのが、どこかと調べて見ると本所の吉田町であるのだ。夜鷹といっても、芝居に出ている未だこの種のものは、艶麗極まりないものであるが、実際はそうでもないので、江戸の夜鷹の中には齢五十を越えて孫のありそうな連中が、生活のためとはいえ、脂粉に身をやつして現われておった。川柳子はうまいことをいっている。
 吉田町実盛程の身ごしらへ
 申す迄もなく、その昔、斎藤実盛が髪を染めて戦場に臨んだ古事をいったものであるが、全部の夜鷹が御老体なわけではない。中には水の滴るような美人もいたものと思われる。また相当に精力の続く女もあったのだろう。それを川柳子はこういっている。
客二つ潰して三つ食ひ
 これだけでは何の事か、ちょっと判断がづきかねるであろう。
 この説明はこうなるのだ。お客を二人を相手にして、売春行為をしてお客を参らせて、一人二四文宛の報酬を貰うと四十八文となる。これで一つ十六文の「そば」を三つ食ってしまうという意であるが、これは数学を織込んだ川柳で少しややこしいものだし、その説明をしないと、何のことやち判らないやあろう。
 要するに、夜麿が多く愛用したそば屋が吉田町にあった。そこにあった「そば屋」が吉田の屋号の起りである。…」

 「よし田」の屋号はどうやら江戸時代に付けられたようです。”吉田町実盛程の身ごしらへ”、”客二つ潰して三つ食ひ”等は面白いですね。特に”客二つ潰して三つ食ひ”は蕎麦屋に関する川柳です。この事柄から、吉田町には蕎麦屋が多くあり、「吉田」と蕎麦屋が結びついてくるのだとおもいます。

写真は多田鉄之助の「蕎麦漫筆」です。昭和29年(1954)現代思潮社発行です。この本には”東京「蕎麦屋」有名店一覧”が付いており、その中の中央区に「よし田」が二軒掲載されていました。日本橋呉服町と銀座7丁目の2軒です。

「吉田町」
<吉田町>
 吉田町とは何処かということなのですが、上記には”本所の吉田町”と書かれています。江戸時代の”吉田町”について書かれている本を探すと、鹿島萬兵衛の「江戸の夕栄」の中に少し書かれていました。
 鹿島萬兵衛の「江戸の夕栄」からです。
「 東大阪にては辻君または惣嫁といひ、江戸では夜鷹または引ぱりといふ。春夏秋冬、雨雪ならねば日の暮れるを待っていつもの場所に出て客を引く。夜鷹の方は一定の場所に莚小家を造りあり。引張りは川岸土蔵の庇合または材木や石置場などの物蔭に客を引き込み淫をひさぐ。いづれも妓夫が付き添へ居りて妨害者を防ぐ。夜たか小家は柳原土手・外向う両国・牛込外堀へん・永代御船蔵脇その他に店を張り、もっぱら仲間・折助・水夫・車夫などを常客となす。折々は田舎者の上客のかかることも少なくはないさうです。引張りは新材木町・伊勢町川岸・小網町新堀・茅場町辺、商店の権助・下働男・三助・土方その地下働人等の客が重なるがごとし。日暮より出て四ッ頃にはしまってかへるなり。これらの者は多く本所吉田町辺に住居す。それゆゑ俗えうに、「本所吉田町には小鳥が住まぬ、すまぬはずだよ鷹が居る」、夕景に吉田町辺に立ち止まりて見れば、実に百鬼夜行の絵巻を見るがごとく、。…」
 本所吉田町は夜鷹が多く住む街だったようです。

写真は蔵前橋通りの法恩寺橋から西側を撮影したものです。この橋の西側が本所吉田町でした。当然ですが江戸時代の面影は全くありません。ただ、唯一大横川が昔の面影を表しています。法恩寺は橋の東側にあります。

「蕎麦今昔集」
<蕎麦今昔集>
 蕎麦の本を一冊紹介します。新島繁編の「蕎麦今昔集」です。様々な方が書かれた「蕎麦についの随筆?」を集めている本です。ここでは、「濱町 よし田」を紹介します。
 新島繁編の「蕎麦今昔集」からです。
「… 名を忘れたが履物屋〔伊勢由?〕のウインドーに、良いフェルト草履があったので妻に買ってやり、立派な主人が鼻緒の具合を妻の足に合わせて直してくれた。「ここらに、うまいそば屋ありませんか」私が早速聞くと「すぐうらに吉田屋という店がございますが、ちょっと横町ですから、私が御案内致しましょう」といって白足袋に雪駄はきの半白の主人が先に立って横町を曲がり、御神燈のある板べいの店へ格子をあけて案内してくれた。
 通されたのは小さい庭つきの四畳半の座敷で、庭の牡丹に霜よけがかけてあるのが印象的であった。冬の夜で、種物は三色ぐらい食べたほか、コロッケそばというのを聞いてまた食べてみた。種物はみなうまかった。妻は、余程おいしかったとみえて、今でも吉田屋の話をする。
 「紙人形春のささやき」という当時評判になった映画に、三味線のバチ屋の若旦那と小町娘が、お酉様の帰りに、吉田屋の二階で帯を解く場面があったが、四畳半にぼうーっと上がる熱いかけそばの湯気と、火鉢に、厚い座ぶとん、いきな半床の間がかもし出すふんいきがよくわかった。戦災後吉田屋のあとへ妻と三度程行ったが店はなく、三度目に近所で聞いて、疎開してもう店はやらないらしいと聞いてがっかりした。
 銀座の吉田屋は支店なので、銀座へ行くとよってみたが、味は、ここはかけがうまく種物も浜町と同じだが、気分ではくらべものにならない。…」

 上記に書かれている”履物屋〔伊勢由?〕”は現在は銀座8丁目にある「伊勢由」のことではないかとおもいます。ホームページを見ると、創業は日本橋若松町で、昭和8年に銀座に移ってきています(日本橋若松町の場所は下記の地図参照)。『紙人形春のささやき』は大正15年(1926)製作・公開、溝口健二監督による日本の長篇劇映画、現代劇のサイレント映画です。この映画は現存しておらず、残念ながら見ることが出来ません(ウィキペディア参照)。

写真は新島繁編の「蕎麦今昔集」です。出版社は錦正社です。とうも蕎麦関連だと聞いたことのない出版社がおおいです。大手出版社の隙間を狙っているようです。

「濱町 よし田跡」
<濱町 よし田>
 「濱町 よし田」の場所を探してみました。住所は昭和8年に発刊された丸の内出版社の「大東京うまいもの食べある記」に書かれていました。この本はたまゆ書房発刊の「モダン都市文化13」の中の「グルメ案内記」に再掲載されています。住所は浜町1丁目3番なのですが、本の発刊は昭和8年なのに関東大震災前の住所(区画整理前)だったので少し場所の特定に苦労しました。「大東京うまいもの食べある記」と火保図を参照して特定しました。
 丸の内出版社の「大東京うまいもの食べある記」からです。
「 東京のそばには大体三つの系統がある。即ち最古のやぶに更科と砂場このうち前者は相変わらず代表的そばやの地位を確保してゐるが、砂場は随分店はあるけれど、前二者程名の売れた店はないやうである、東京市内の最も有名なそばやは麻布永坂の更科と、その各支店、神田萬世橋駅近くのやぶと本郷三丁目のやぶ、銀座では銀座通り七丁目西側の長寿庵、浅草奥山の萬世庵も古い大店として知られたが近来振るわず、これに反し仲店の丸屋は時代をキャッチした経営に相変わらずの繁栄、上野でも池之端の連玉庵、更科が封立の形で、勉強すると見て、何れも美味いそばを食べさせて評判。大体そば屋は安直腰掛け式であるが、大店には本郷三丁目のやぶのやうに今でもお茶屋風のお座敷になってゐるところもある。日本橋浜町一ノ三の吉田屋も、このお座敷風で、この吉田屋一統の店は叉一風変わつてゐて竹籠製のあぶりと、底の浅い丸形の丼とは吉田屋の特色になってゐる。
 さて濱町吉田屋は一寸知らないものには判り難い場所で、恰度支那料理で有名な濱町濱の家の向側横町を一町位も行つたところにある。一寸した門があって、玄関に続くあたり、なんとなく気取った趣きがあり、二階建で二階座敷もあるが、まだ震災後の仮普請のなため、最近々大々的に改築するとはこゝの番頭君の話。附近は例の色っぽい姐さん達の巣窟見たいな場所で、さうした人達が手軽に一寸話の出来る座敷として盛んに利用するので却々の繁盛である。…」

 昭和8年頃の東京の蕎麦屋についてかなり厳しくコメントしています。”麻布永坂の更科と、その各支店”、”神田萬世橋駅近くのやぶと本郷三丁目のやぶ”、”銀座では長寿庵”、”仲店の丸屋”、”池之端の連玉庵、更科”が有名店です。

写真の右側少し先、ねずみ色のビルのところに「濱町 よし田」がありました。現在の住居表示で浜町1−7です。関東大震災後も同じ場所で営業されていましたが疎開に伴いお店を閉められており、戦後も再開されていません。”濱町吉田屋は一寸知らないものには判り難い場所で、恰度支那料理で有名な濱町濱の家の向側横町を一町位も行つたところにある”と書かれていますが、”濱町濱の家”の場所も判明しましたので写真を掲載しておきます(写真右側のビルのところ)。

「日本橋 よし田跡」
<日本橋 よし田>
 戦前の有名な蕎麦屋の「よし田」は三軒あったようです(「よし田」という名の蕎麦屋はもっとたくさんあったとおもわれます)。その1軒が「日本橋 よし田」です。
 多田鉄之助の「うまいもの」からです。
「… この店も古い店である。「よし田」といぅ蕎麦屋が私の知っている限りでは三軒あった。銀座のほかに日本橋並に浜町にあった。浜町のは終戦後復活しておらないけれども、日本橋とここは復活しておる。…」
 ”ここ”と書かれているのは「銀座 よし田」のことです。上記の「日本橋 よし田」の場所がよく分からなかったのですが、「蕎麦漫筆」に戦後の住所が書かれていました。日本橋呉服橋3−3で、昭和40年代の住宅地図にも掲載されていましたが、昭和50年代にはお店が無くなっていました。日本橋3丁目に「よし田」という料理店があるのですが、そのお店と同一かどうかはは分かりませんでした。

写真の路地を少し入った左側に戦後の「よし田」がありました。住居表示は八重洲1丁目7番です。写真を右に歩けば東京駅、左に歩けば中央通りとなります。戦前の「日本橋 よし田」については、昭和17年の電話番号簿で見てみると、「吉田屋 日本橋呉服町3−3−6 そば料理屋」とありますので、場所も同じところで戦前からお店があったのだとおもいます。ただ空襲でこの辺りは焼けていますので、戦後再建されたようです。

「銀座 よし田」
<銀座 よし田>
 最後は「銀座 よし田」です。下記にも書いてありますが戦前からのお店です。明治18年創業のようです。「子母沢寛の『味覚極楽』を歩く 蕎麦屋編」、にも書いていますので合わせて見て下さい。
 多田鉄之助の「うまいもの」からです。
「… 殊に銀座店は焼けないのであるから、昔のよし田独特の家が残つておるがこの蕎麦はまた容器がこの家独自の形の四角いものを用いており、蕎麦はどっちかというと淡味のもので上品な蕎麦として銀座マンに愛好されておりたものである。かってはこの二階に上って一杯の天ぷら蕎麦で何時間も粘っているような手合もありたけれども、世の中が変ったからいまはそのような人も少くなったと思うけれども、落着いた蕎麦屋、蕎麦を食べながらゆっくり話のできる蕎麦屋はやはりこの店であろう。ここの家で出すカレー蕎麦は独特のもので銀座名物の一つになっておる。…」
 上記に書かれている”蕎麦の器(独自の形の四角いもの)”と”カレー蕎麦”を食べてきたので写真を掲載しておきます。

写真は銀座7丁目7番の「銀座 よし田」です。空襲にも焼け残っていましたが戦後建て直されています。

蕎麦屋 「よし田」地図