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最終更新日:2006年2月20日


●子母沢寛の「味覚極楽」を歩く 蕎麦屋編
   初版2004年8月28日
   改版2004年10月9日 
<V02L01> 「出雲そば本家」追加

 今週は「水上勉の東京を歩く」”戦後編(2)”を掲載する予定でしたが、雨で写真の撮影ができませんでしたので、『子母沢寛の「味覚極楽」を歩く』、蕎麦編を二週にわたり掲載します。食通の方には「味覚極楽」は有名な本です。



<味覚極楽>
 この本の解説はなんと尾崎秀樹が書いています。いい本はいい人が解説を書きますね。「…『味覚極楽』を最初に読んだのは、中学生の時、まだその醍醐味がわからなかった。やっと多少でも理解がゆくようになるのは、身銭を切って、ちょっとした店を廻るようになってからだ。しかしその時には、すでにここに紹介された老舗の多くは歴史上のこととなり、代の替った店も少くなかった。だが『味覚極楽』が今日でも多くの人に愛読されるのは、味覚のもう一つ奥にある”美味求真”を、人情の模倣に映して措いてあるからだ。『味覚極楽』は、はじめ「東京日日新聞」の”つづきもの”として、昭和二年八月十七日から十月二十八日まで連載され、同年十二月に光文社(現在の光文社とはちがう)から刊行された。当時は東京日日新聞社会部編となっていたが、実際ほ梅谷松太郎(子母沢寛の本名)の執筆による聞書きであった。当時の東日社会部長・小野賢一郎は、食通・趣味人としても知られていた。小野はその頃上野で開催された「世界料理展覧会」を観て、”料理は芸術なり”と痛感し、目で見て舌で味う芸術の醍醐味を求め、いわゆる料理通の話ではなく、誰もが興味をもち、理解できる内容のものをと考え、梅谷記者に白羽の矢をあてたのであった。梅谷松太郎が子母沢寛の筆名を用いるのほ、昭和三年からで、『味覚極楽』刊行の当時ほ、まだ社会部遊軍・梅谷記者にすぎない。しかし小野賢一郎がほかならぬ梅谷記者をこのつづきものの筆者に択んだのは、すでにその分野で定評があったからだ。…」。書かれた時期が昭和初期ですから、食に関する風土というか、雰囲気が現代とは違うとおもうのですが、今読んでも新鮮に感じる事かできます。食というものは奥が深いです。今回はその食のなかでも親しみやすく誰でもが入れるお店として蕎麦屋を歩いてみました。

左上の写真が子母沢寛の中央公論社文庫本「味覚極楽」です。初版本は手に入れる事ができませんでした。文庫本は昭和二年に書かれた「味覚極楽」とは少し違います。「…戦後、昭和二十九年から三十二年へかけ、「あまカラ」誌上で、もとの文章に補筆し、語り手個々の印象記を添えて、より豊かな肉づけを行った。それを一本にまとめたのが、昭和三十二年五月に竜星閣から刊行された『味覚極楽』で、中央公論社版全集に収められたが、文庫版は全集をもとにしている。…」。あくまでも元は昭和二年ですか、昭和30年代風になっているということでしょうか!

【子母沢寛(しもざわかん)】
明治二十五年(1892)、北海道に生まれる。本名、梅谷松太郎。明治大学法学部卒業。読売新聞・毎日新聞の記者をつとめた。昭和三年『新選組始末記』を出版、以後時代小説を多数発表、『弥太郎笠』『菊五郎格子』『国定忠治』『すっ飛び駕』『駿河遊侠伝』などがその代表作。戦後は幕末遺臣と江戸への挽歌ともいうべき作品『勝海舟』『父子鷹』『おとこ鷹』『逃げ水』などを発表・昭和三十七年に菊池寛賞受賞。随筆の名手として知られ、『ふところ手帖』(正続)のほか『愛猿記』『よろず覚え帖』などがある。昭和四十三年(1968)没。(中公文庫より)


よし田>
 ”そばの味落つ”として「医学博士 竹内薫兵氏の話」を纏めて書いています。「浜町花やしきに「吉田」というそば屋がある。むかしからなかなか売ったもので、このうちの茶そばはまず天下一品であった。ところがひょっこりコロッケーそばという妙なものを売出した。ああいけないなアと思っているうちに、もう駄目であった。そばはぐんぐん邪道へ落ちてお話にならなくなってしまった。…」。”浜町花やしき”とは今の明治座付近で、正確には、「浜町 吉田(よし田)」は浜町1丁目3番にありました(「蕎麦屋を歩く よし田編」を参照)。この「浜町 よし田」は終戦前に疎開で閉店しています。その代わりにこの「浜町 よし田」の流れをくむ蕎麦屋さんが銀座七丁目にあります。当時と全く同じ”コロッケそば”がメニューにあります。コロッケというのでジャガイモを油で揚げたものを思い浮かべていたのですが、出てきたコロッケは全く違うものでした。鶏肉のミンチを揚げたものでアッサリ感はあるのですが全く食べたことのない新しい味でした。当時としては画期的な蕎麦だったのでしょう。

左上の写真が銀座七丁目の蕎麦屋「よし田」です。住所は銀座7-7-8で銀座通りから電通通りに向かって一筋入ったすずらん通りになります。値段は「よし田」のメニューを見てください。

蓮玉庵>
 次に書かれている蕎麦屋が池の端の「蓮玉庵」です。ケチョンケチョンに書いているのでビックリしてしまいました。私にはとてもおいしい蕎麦だとおもうのですが!
「…下谷池の端の「蓮玉庵」もなかなかうまいもので、十四、五年前は、そば食いたちは東京第一の折紙をつけ、私なども毎日のように通ったが、これも今はいけない。そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ないようになったのである。…」
 昭和初期から”十四、五年前”というと明治の終わりか、大正初期のことだとおもいます。せいろそばと、メニューを載せておきます。

右の写真が現在の「蓮玉庵」です。池之端仲町通りを入った左側になります。以前に紹介しました「池之端藪蕎麦」の手前になります。戦前の場所については「佐多稲子の東京を歩く 3 【池之端仲町編】」を参照して下さい。現住所は台東区上野2-8-7です。

神田藪蕎麦>
 神田藪蕎麦もすこし書いてありましたので掲載しておきます。「…神田の「やぶそば」もいいが、ちと下地の味が重い上に、器物に不満のところがある。…」。”下地の味”が重たいのは藪ですから当然ですね。器も特に他の蕎麦屋と大きく買わっていないのですがこの「医学博士 竹内薫兵氏」は”更科系”の方が好きなようです。藪蕎麦の詳細は「藪蕎麦を歩く」を参照して下さい。

左の写真が「神田藪」のもり二枚です。ビントがいまいちなので拡大写真はありません。ごめんなさい。

出雲そば本家> 2004年10月9日追加
 神田神保町の出雲蕎麦にも通っていたようです。「…わたしは近頃はよく神田神保町の出雲蕎麦へ行く。珍しく思ってたべるためか、今のところうまいと思っている。わたしは「おろし蕎麦」というのが好きでよくこれを食べるが、看板にしている「割子蕎麦」、これはつまりは簡単にいうと、盛り蕎麦へ上から下地をかけて食べるのと同じだ。直径三寸位の底のあるお盆見たようなものが一人前で五つ。この器物へそのまま下地をかける。先にも書いたがわたしの師匠の内海月杖先生は蕎麦の大食いで、これを素早くこね廻して電光石火に召上るのが大好きであった。…」。出雲へ行くと言うか、松江を訪ねると松江城の北側に小泉八雲記念館があるのですが、その横に出雲蕎麦の割子蕎麦屋があり、食べたのを覚えています。戦前の出雲蕎麦屋が神保町でよく残っていたなとおもいます。

右の写真が現在の「出雲そば本家」です。五段は食べられなかったので三段にしました。メニューも載せておきます。


●子母沢寛の「味覚極楽」を歩く 更科編
   初版2004年10月9日
   二版2005年3月21日 
<V01L02> 神田錦町更科を追加

 台風22号が凄くて取材に出られませんでしたので、今週は”子母沢寛の「味覚極楽」を歩く 蕎麦屋編”の続編を掲載します。蕎麦屋でも麻布を中心とした「更科」蕎麦の系統を掲載します。



<蕎麦屋の系図>
 少し前に藪蕎麦を特集しましたが、私はそんなに蕎麦屋について詳しくはないのですが、蕎麦を食べるのは大好きで食べ歩いています。そこで頼りになるのがその道の本です。今回は岩崎信也の「蕎麦屋の系図」を参考にしました。下記の系図は「蕎麦屋の系図」を参照しながら「更科」蕎麦の系図を作ってみました。少し簡素化していますので、名前などは少し時期によって違う場合もあると思いますが大枠では正しいとおもいます。「…本書で取り上げた五つのそば屋の系譜は、いずれもその伝統を継承し、次代に伝えてきた暖簾である。いずれの暖簾も古くから多くの人たちに親しまれており、その知名度は数あるそば屋の暖簾のなかでも群を抜くといっていい。創業年で見れば江戸、明治、そして大正末である。…」。五つのそば屋とは「砂場」、「更科」、「藪」、「東家」、「一茶庵」となります。今回は「更科」ですが、時期をみて順に掲載したいとおもいます。まず麻布にある三軒の更科蕎麦屋ですが、元々の「麻布永坂更科」は昭和16年に一度店を閉めています。戦後、株式会社組織で再建されましたが、「麻布永坂更科」の直系子孫が会社組織の「永坂更科布屋太兵衛麻布総本家」(以降、永坂更科と呼びます)から出て、「総本家更科堀井」(以降、更科堀井と呼びます)を開店しています。ですから、お店的には「永坂更科」となりますが、人的には「更科堀井」が直系となります。新一の橋交差点角にある「麻布永坂更科本店」(以降、更科本店と呼びます)は全く「麻布永坂更科」とは関係のないお店です。”永坂更科”の名称使用承諾だけを得ているようです。直系といえば、麻布以外にある「神田錦町更科」や築地の「さらしなの里」、西大井の「布恒更科」なども直系で素直に味を継承しているのではないでしょうか。

左上の写真が岩崎信也の「蕎麦屋の系図」です。光文社の新書版で読みやすい本です。

【子母沢寛(しもざわかん)】
明治二十五年(1892)、北海道に生まれる。本名、梅谷松太郎。明治大学法学部卒業。読売新聞・毎日新聞の記者をつとめた。昭和三年『新選組始末記』を出版、以後時代小説を多数発表、『弥太郎笠』『菊五郎格子』『国定忠治』『すっ飛び駕』『駿河遊侠伝』などがその代表作。戦後は幕末遺臣と江戸への挽歌ともいうべき作品『勝海舟』『父子鷹』『おとこ鷹』『逃げ水』などを発表・昭和三十七年に菊池寛賞受賞。随筆の名手として知られ、『ふところ手帖』(正続)のほか『愛猿記』『よろず覚え帖』などがある。昭和四十三年(1968)没。(中公文庫より)





永坂更科布屋太兵衛麻布総本家>
 子母沢寛の「味覚極楽」には更科についていろいろ書いています。「…私の一番いいのは、月並だがやはり、麻布永坂の「更科」で、あのうちの更科そばには何んともいえない風味がある。はじめは「並の盛り」といういわゆる駄そばばかりを食った。しかしこれを段々やっているうちに、あの白い細い更科の方がよろしくなる。駄そばの方もうまいにはうまいが、味が重いし、舌へ残る気拝も、少しべとりッとする。更科は少しあっさりとしすぎる位に、淡々たるところがいいようである。…」。このお話を聞いた「医学博士 竹内薫兵氏」が大好きなのは白い蕎麦の更科系だったようです。年をとると藪の濃い味よりはさっぱり系の更科の方がいいようです。「麻布永坂更科」のお店的直系である「永坂更科」は麻布十番一丁目の麻布十番商店街にあります。この「永坂更科」と「更科堀井」だけが汁が「から」、「あま」の二種出てきます。混ぜても良くて自分の好みで食べられます。このお店が平均的な更科の味のような気がします。頼りないコメントですが!!!

左上の写真が「永坂更科布屋太兵衛麻布総本家」です。御前そば(更科蕎麦)の写真を掲載しておきます。汁が「から汁」、「あま汁」の二種類でてきます。

総本家更科堀井>
 「麻布永坂更科」の堀井家直系のお店です。「…永坂の「更科」も先生のおっしゃる通り。だがわたしは「さらしな」よりは、駄蕎麦の方が好きである。書生の頃十二銭の大盛、あれをよく食べた。一度に大盛三つを注文したら、女中さんに笑われた。「とても三つは無理ですから二つにしては」「いや、いいから持って来てくれ」、がやっぱセ一つで閉口していると、その美しい女中さんがざる蕎麦につく「わさび」を持って来て「これを入れると食べられます」という。が、遂に駄目であった。駄蕎麦一筋で「さらしな」はあまり淡泊すぎて、味をぬいた素麺をたべてるような、ただ、下地に何にかつけて食べてるというようなそんな感じで感心しなかった。この頃は「更科」へ行かないので、どんなことになっているか知らない。…」。若いころは淡白な味よりは量のあるそばの方が良いのではないでしょうか。場所は麻布十番商店街ですが、「永坂更科」とは正反対の場所でした。蕎麦としては上記に書かれている通り、三軒の更科の中で一番淡白のようです。最も「更科本店」は更科とは関係ないので比べても意味がないのですが!!

右の写真が「総本家更科堀井」(更科堀井)です。手打ちのもりそばの写真を掲載しておきます。気になったことといえば、「から」、「あま」の汁の出し方の左右が「永坂更科」と逆でした。意味があるのか、まったく関係ないのかわかりません。

神田錦町更科(分店)> 2005年3月21日追加
 「麻布永坂更科」は明治から大正にかけて暖簾分けとして分店、支店を五店出しています(分店は家族、支店は職人の暖簾分けです)。またその分店、支店からの暖簾分けもあるようで、昭和初期には八店程になっていたようです。一番最初に分店で暖簾分けしたのがこの神田錦町更科です。明治20年開店で、関東大震災、昭和20年の空襲と二度消失しており、又戦後すぐの財産税でお店は小さくなっていますが、更科系列の中で昔の面影が一番よく残っているお店だとおもいます。このお店が本当の蕎麦屋だとおもいます。(「並木藪」と「まつや」もいいですね!)

左の写真が「神田錦町更科」です。看板と暖簾に分店とかいてありますので昔のままです。平日の昼間しか営業していません。写真ももりそばを掲載しておきます。もりそばは大、中、小とありますが、写真は大です。

さらしなの里(支店)>
 明治22年、深川に「麻布永坂更科支店」を暖簾分けしています。このお店はその後、神楽坂に移転し「牛込通寺町支店」になります。戦前、お店を閉めますが昭和42年、築地に「さらしなの里」を開店します。築地の中で移転して現在のお店になっています。

左の写真が築地「さらしなの里」です。土曜日だったので空いていました。更科そばではなくて手打ちそばを食べてしまいました。写真も手打ちそばを掲載しておきます。なかなか美味しい蕎麦でした。更科そばを食べ損ねたのは残念。

布恒更科>
 有楽町更科系列の蕎麦屋です。昭和38年、品川区南大井に開店していますが、戦前の大森三業地跡で場所が悪く、当初は苦労されたのではないでしょうか。現在は更科系でも有名なお店になっており、お昼などはいつもいっぱいです。このお店は私は何回も行っています。

右の写真が品川区南大井の「布恒更科」です。更科というと麻布というイメージが強くて、南大井というところは周りの建物の雰囲気が全く違うのですが、お店の中に入ってしまうと、お店の中の雰囲気は麻布そのものです。なかなかいいです。もりの写真を掲載しておきます。もりを二枚頼んだので、汁が二本ついています。

麻布永坂更科本店>
 「昭和二三年頃、麻布十番界隈に「永坂更科本店」の看板を掲げるそば屋が開店した。戦後の混乱のなか、一の橋のたもとで料理屋を開いていた馬場繁太郎と、麻布永坂「更科」七代目松之助(保)の間で「永坂更科」の店名使用の承諾書が交わされたことによる新規開店であった。この店名に関しては後に裁判になっているが、承諾書があったために、「麻布永坂更科本店」と、「永坂」と「更科」の間を離して「永坂更科」を強調しないということで和解が成立している。…」。つまり「麻布永坂更科」とは名称だけの関係で、蕎麦屋としての「更科」関係は全くないようです。汁も一種類しか出てきません。ですから味は更科ではないのです。でも蕎麦の味はかなりのものでした。美味しかったというのが私の感想です。

左の写真が新一の橋交差点角にある「麻布永坂更科本店」です。。もり蕎麦と、メニューを掲載しておきます。


<子母沢寛の東京蕎麦地図 -1->

<子母沢寛の東京蕎麦地図 -2->

【参考文献】
・味覚極楽:子母沢寛、中央公論社
・蕎麦屋の系図:岩崎信也、光文社新書

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