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最終更新日:2006年2月20日

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●「下山事件」を歩く (上)  初版:2001/9/8 改版:2003/7/5 V01L02
   「下山事件」を歩く(下)の所に追加分が有ります。
 昭和24年7月6日0時25分ころ、常磐線下り最終列車が北千住を過ぎ荒川を超えて東武伊勢崎線と交差する辺りに差し掛かった時、近くに轢死体があるのを運転手が発見します。これが「下山事件」(下山国鉄総裁の死体発見)の始まりです。米軍占領下の昭和24年は戦後の日本にとって節目の年となっています。1月には戦後3回目の総選挙で、保守政党の民主自由党(吉田茂)が過半数を獲得して圧勝、これまで第1党だった社会党に変わって共産党が大躍進しています。2月初旬、米国はドッジ・ラインを提案。これは、緊迫する米ソ関係(翌年の昭和26年6月には朝鮮動乱勃発)に対応して、日本を「反共の砦」として独立させる必要があり、戦後の疲弊した日本経済を早急に建て直さなければならなかった為です。この政策は無駄を削く超緊縮財政が中心(今の日本とほとんど同じですね)で、労働者の大量解雇などが含まれていました。特に5月に「行政機関職員定員法」が成立、公務員26万7千人を整理するというものでした。特に国鉄は戦後の引揚者等により62万人に水膨れしており、7月4日には国鉄当局は3万7千人の解雇を現場で通告しています。これに対抗する労働者側は共産党勢力が強い国鉄労働組合がその中心的な存在でした(10月1日、毛沢東、天安門広場で中華人民共和国成立を宣言、10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立)。このような政情不安定な時期の昭和24年7月から9月にかけての僅か40日余りの間に、国鉄に関係した重大事件が下山事件を含めで、3件発生しています。
1.下山事件:昭和24年7月6日、下山国鉄総裁の死体が国鉄常磐線北千住・綾瀬間で発見された。
2.三鷹事件:昭和24年7月15日、国鉄中央線三鷹駅で無人電車が暴走、死者6名、負傷者20名。
3.松川事件:昭和24年9月17日、国鉄東北本線松川・金谷間でレールが外され列車が転覆、機関士など3人が死亡。
この中でも特に下山事件は、自殺説、他殺説、米軍陰謀説等が入り乱れて、謎の多い事件になっており、当日の下山総裁の奇妙な行動を詳細に追う事により、謎を解き明かしていきたいと思います。
左上の写真は昨年(平成14年)12月に発行された「葬られた夏」です。この本は朝日新聞に勤める諸永裕司が下山事件に関して書いたもので、関係者がほとんど亡くなっていることを考えると、下山事件に関する本としては最後になるのではないかとおもわれます。

<下村総裁宅跡>
 昭和24年7月5日(火)朝の下山総裁の行動を矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」から追ってみたいと思います。「総裁は七時に起床、居間で家族と食事をとった。…下山総裁は八時二十分、大西さんの運転する総裁用ビュイック41年型41173で家を出た。大田区上池上の総裁宅は洗足他の近くで、車は歌手の淡谷のり子さんの家の前を通り、広い中原街道に出て五反田のほうに進んだ。…黒塗りのすこし疲れた総裁乗用車ビュイック41年型は、五反田の国電ガード下を抜けると右に進んで魚藍坂下に出た。さらに国道一号線の広い道を品川近くに出て、芝公園前を通ってお成門を過ぎたとき、総裁は「けさは佐藤栄作さんのところに寄るんだった」といったが、車はすでにお成門交差点を通過した後で、「またにしよう」といい、そのまま日比谷方向に進んだ。」とあります。下の地図を参照しながら見てもらいますと、下山総裁の自宅を出て右に曲がり、淡谷のり子宅の前を進むと中原街道に突き当たります(現在は一方通行で行けません)。そこを右に曲がると五反田方面です。そのまま魚籃坂下まで行き、右に曲がって泉岳寺の所から第一京浜に抜け、田町から日比谷通りに入ります。これはいつものコースで特に変わった様子はありませんでした。ただ「けさは佐藤栄作さんのところに寄るんだった」と言った以外は!

左の写真の正面辺りが下山総裁宅跡の大田区上池上町1081(現在の上池台2−21)付近です。残念ながら現在はなにも残っていません。淡谷のり子宅は現存します。

<神田駅>
 日比谷通りに入った下山総裁のビュイック41年型はそのまま馬場先門まで進みます。ここから先の様子は松本清張の「日本の黒い霧」を参照します。「そのまま車を国鉄本庁の方へ向け、東京駅前ロータリーの所まで来ると、下山は「買物をしたいから三越へ行ってくれ」と大西運転手に命じた。つづいて下山は「今日は十時までに役所へ行けばよいのだから」と独り言のように云った。車が東京駅北側国鉄ガードの所へ来ると、「白木屋でもよいから真直ぐ行ってくれ」と云う。…大西運転手は白木屋前電車通りの所へ来ると白木屋の表が閉まって見えたので、「まだ 開店していません」と云うと、下山は「うん」と返事をしただけで、そのまま 車を三越前に回すと、表の門の所に札がぶら下がって「午前九時半開店」と書いてあった。大西運転手は「役所へ帰りますか」と云うと、「うん」と答える。常盤橋からガードの処へくると、思い出したように「神田駅へ回ってくれ」と云う。そこで命じられた通りに大西運転手は車を神田駅の西側通路に回して、「お寄りになりますか」と云うと、「いや」と総裁は首を振った。」の”東京駅前ロータリーの所”とは和田倉門の所だと思われます。は大手町交差点辺りで、は永代通りの国鉄ガード、は今はビルの工事中の東急百貨店跡(旧白木屋)付近、は銀座通りの三越本店前、は三越本店と三井本館の間を抜けた常盤橋付近、は神田駅西口付近です。

右の写真が神田駅北口から西口方面を撮影したものです。今は駅前もビルが建っていますが昭和24年頃は闇屋のマーケット街だったと思われます。
 

ここでのポイント

1.下山総裁の行き先は白木屋でも、三越本店でも、神田駅でもよかった。白木屋(日本橋駅)、三越本店(三越前駅)、神田駅を結ぶ線は地下鉄銀座線です。
2.神田駅でも車からは降りず、グルグル回って時間をつぶしていることから、特定の時間に何らかの約束があったと考えます。

<千代田銀行(現三菱銀行)>
 神田駅から先の行動は佐藤一の「下山事件全研究」を参照します。「大西運転手は、こんどこそ、本社にいくのだろうと考え、神田駅の北側をまわり、本石町に出て右折、新常磐橋をわたって、さきほどの東京駅北側のガードをくぐった。そこを左折すれば国鉄本社は目の前である。ところが、そこで下山氏は、「三菱本店にいってくれ」と、命じた。さらに車が国鉄本社前にさしかかると、「もっと早く走れ」と、怒ったように強い調子でいった。三菱銀行(当時は千代田銀行と称していた)で下山氏は車を降り、店内に入って二〇分ほどして出てきたが、どんな用事があったのか、大西運転手にはわからない。」とあります。三菱銀行本店(財閥解体で三菱銀行は昭和23年、千代田銀行に改称)は下山総裁が貸し金庫を借りており、9時5分に入り、25分に出てきています。

左の写真が現在の三菱銀行本店です。昔のビルは取り壊され、新しいビルになってしまっています。

 

ここでのポイント

1.は国鉄本社の人に見られたくなかっただけだと考えます。
2.の千代田銀行(三菱銀行)は三越本店の開店時間待ちのための時間調整だった。
3.貸し金庫から2千5百円(現在で10万円以上)取り出しており、誰かに渡す為だと思われます(死亡したときの所持金4千5百円と自宅を出るときの所持金2千円の差から判明)。貸し金庫には3万円残っており、このお金は国鉄会計課から払いだされていた。

<三越本店南口>
 千代田銀行の後も佐藤一の「下山事件全研究」を参照します。「下山氏は、座席に腰をおろすと、「これからいけばちょうどいいだろう」と、いった。ちょうどいいというのは、三越の開店時間のようにおもわれた。大西運転手は、車を三越本店にまわして南口に停車した。そこで下山氏は四、五分間、なにごとかを考えているふうであったが、まもなく立ち上がると、「五分間ばかり待ってくれ」といい残して、店内に消えていった。…国鉄本社のほうでは、総裁が出勤時刻になっても姿をあらわさないので、しだいにさわぎになってきた。…夕刻五時、国鉄当局は、総裁行方不明の発表にふみきった。…このニュースを、総裁専用車のなかできいた大西運転手は驚いた。…あわてて国鉄本社に電話で連絡をした。この大西情報が、警視庁につたえられたのほ五時半ごろであったという。警視庁ではただちに厳重な現場保持を指示するとともに、捜査三課野田係長、一課鈴木、開口両主任ほか数名の刑事を急派した。捜査員は大西運転手の申し立てにもとづき三越周辺の調査にあたり、とくに店内は所轄の日本橋署の応援を得て、深夜に及ぶ捜査が行われた。しかし、大西運転手の申し立てからも、三越内の捜査からもなんの手がかりも得られないまま、下山総裁は常磐線上で轢断死体となって発見されたのである。」、大西運転手は朝9時30分過ぎから夕方17時頃まで、ずっと三越本店南口で待っていたわけです(下山総裁は車を長時間待たせることがたびたびあった為、不思議に思わなかったようです)。

右の写真が現在の三越本店南口です。普通は銀座通り側が正面入口ですが、自家用車や社用車で来られる場合はここ南口になります。つまり上級のお客様の入口なのです。

ここでのポイント

【三越本店での下山総裁目撃者(捜査一課の聞き込みから)】
 9時35分ころ、一階北口化粧品売り場前
 9時35分ころ、一階北口エレベータ前
 9時50分ころ、三階北口エレベータ寄り家具売り場通路(4人連れ)
 10時15分〜20分ころ、地階の地下鉄口案内所前を地下街へ出る(4人連れ)
 11時ころ、五階事務所から三階へ降りる
【地下鉄地下街での下山総裁目撃者(捜査一課の聞き込みから)】
・10時30分ころ、地下鉄地下街の「香港(喫茶店)」に総裁らしい男と、もう一人が入ってきて30分程いたという。
【目撃談からのまとめ】
・目撃談から、一人で三越本店南口から入った下山総裁は、四人で地階の地下鉄口から一度出て、再度店内に戻るという行動をとり、その後の行動が不明。

下山総裁の三越本店から後の行動が事件解決のポイントになります。次回を乞ご期待下さい。

下山総裁宅跡付近    三越前駅付近


下山総裁東京駅付近地図



●「下山事件」を歩く (中)  2001年9月15日 V01L02
 前回に引き続き、下山総裁の当日の行動を追跡してみたいと思います。前回は三越本店と地下鉄地下街での目撃情報でしたが、その後の下山総裁は意外なところで目撃されます。その一つが自殺説の有力な証拠となった東武伊勢崎線五反野駅周辺での、数多くの下山総裁目撃情報でした。もう一つは他殺説の論拠となった車に乗っている下山総裁の目撃情報です。まず最初は五反野駅付近での目撃情報を追ってみたいと思います。

<地下鉄銀座線で浅草へ>
 三越本店からの交通手段としては、地下鉄銀座線か車での移動しかありません。下山総裁はまず地下鉄銀座線の車内で目撃されています。松本清張の「日本の黒い霧」によると飲食店営業西村豊三郎(四三)の供述。七月五日午前十一時二十三分渋谷発の浅草行地下鉄に乗り、いちばん前の車輌で腰掛けていたところが、日本橋と末広町の間のいずれかの駅で乗った五十歳ぐらいの男が私の足を踏んだ。考えこんでいて詫びようともしなかった。変な奴だと思ったので、足の先から頭のてっぺんまで見上げたのでよく憶えている。その男は、五尺六、七寸、髪七三、自ワイシャツ、鼠色洋服上下、チョコレート色短靴で、所持品はなかった。私は上野で降りたが、男は浅草のほうへ乗りつづけて行った。」、続けて浅草地下鉄西口の靴磨きにも目撃されています。ここからは 東武電車、バス又はタクシーでの移動となりますが、わざわざ浅草まで来ているところをみると、東武電車以外は考えられません!

左の写真は営団地下鉄銀座線「浅草駅」です。写真の 右側に行くと東武伊勢崎線に乗り換えられ、3階に日光行東武伊勢崎線の駅があり、その他は松屋百貨店になっています。

五反野駅(東武伊勢崎線)>
 浅草駅の次に目撃されたのは東武伊勢崎線「五反野駅」です。これは矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」から見てみると五反野駅員、萩原詮秋さん。七月五日は勤務日で清算係をしており、午後一時四十三分の浅草発大師行電車が到着したので改札口におりましたら、下車客二十人のうち一人の男が私に切符を渡してから「この辺に旅館はないですか」と訊ねられた。お客の切符を全部受け取ってから、その男に私は駅を出て、以前から知っている末広旅館を教えてやりました。…はたして下山さんかどうか断定できません」とあります。身形はあっている様ですが山下総裁という確証がないようです。

右の写真が現在の東武伊勢崎線、五反野駅です。現在は高架になっていますが、当時はここに踏切があり右側に改札口があったようです。今の様な繁華街ではなくて寂しい田舎の駅のようです。
 

地下鉄銀座線から五反野駅までのポイント

渋谷から三越前までは約20分で11時43分ころです。三越前から浅草までは約11分かかりますので、11時54分頃に浅草に到着します。
浅草から東武伊勢崎線で五反野までは約16分、乗換を10分考えても約26分位で、地下鉄銀座線からそのまま乗り換えたとすれば12時10分には五反野駅に到着する事が出来ます。上記の証言では2時頃に五反野に到着していますので約2時間弱の時間が余ってしまいます。2時間何処かでぶらぶらしていれば、誰かに目撃されているはずで、上記の目撃証言には少し無理があるようで、どこかに時間のトリックがあります。
・五反野駅で目撃された男は切符を買っています。当日下山総裁は東武電鉄の優待パスを持っていて切符を買う必要がなかったのです。

末広旅館>
 末広旅館についてはかなり細かな目撃証言が得られています。矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」には末広旅館、長島フクさん(調書)、七月五日午後二時ころお客さんらしい人がみえたと三男がいうので、出てみると上品な男が玄関に立っていた。六時ごろまで休ませてくれというので主人にきいて、二階四畳半に案内して窓をあけると、窓に腰かけ「涼しいですね。水を一杯ください」といい、このとき靴下をよくみながら下に降りて茶を持って上り、宿帳に記入方を申し出ると「それは勘弁してくれ」というので、そのままいちばんよい蒲団を持って上って下に降りた。それで五時二十分ころに手が鳴るので私が行くと、仕度をして階下八畳間にきて立っていて、黒革財布から二百円とチップを百円出して(いずれも古い百円札)渡し、玄関で靴のヒモを結ぶようにかがんでから午後五時三十分ごろ立ち去った。その男の人相着衣を申し上げると、丈五尺七寸位、色白面長ふくらみのある顔で、眉毛の間が普通の人よりあいていてロイド眼鏡をかけ、髪は七三に分けており、上品な優しい顔でした。無帽でネズミ色背広、白ワイシャツ、ネクタイをしてチョコレート色ひだのある進駐軍の靴、紺木綿の靴下、黒革財布、メガネ、荷物はなく単独で、酷似するので七月七日に西新井署に届け出る。=人相、着衣、態度、所持品など総合して下山総裁と認められる。」とあります。この男は窓に腰掛けたりしてあまりにもみえみえのしぐさをしていますね。

上記は末広旅館の女将長島フクの証言ですが、この末広旅館の亭主は長島勝三郎といい、元東京麻布の鳥居坂警察署の特高刑事だったようです。あまりに出来すぎた環境ですね!

左上の写真の中央の白いビルの所に末広旅館がありました。現在はなにも残っていません。当時の住所で足立区千住末広町75番地で、現在の足立区足立45番地付近とおもわれます。

 

ここでのポイント

は2時頃ですのでの五反野駅で旅館を聞いた男と同一人物だと思われます。
末広旅館での休憩中に男は煙草を一本も吸っていません。下山総裁は煙草好きで3時間の間に一本も吸わなかったとは考えられません(血液型の判明を恐れた?)。
・五反野駅での駅員との会話や末広旅館でのしぐさはあまりにもみえみえで、目撃者を作ろうとする意図が見え隠れしています。これから自殺しようとする人ならこのような態度はとらないのではないでしょうか。上記の切符の件も含めてこの男の下山総裁替え玉説がきになります。

東武伊勢崎線トンネル>
 末広旅館を出た後、18時頃から20時30分頃にかけて男は常磐線と東武伊勢崎線の交差する辺りで、かなり多くの人に目撃されています。佐藤一の「下山事件全研究」を参照すると全部で11回の目撃証言があります。一部の目撃証言を矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」の中から取り上げてみると「目撃証人 成島正男さん(調書) 五日午後六時十分ごろ目撃。…東武線トンネル入口で、東武線ガケ下のアゼ道から出てきた上品な紳士に出会いました。りっばな紳士がこんなところに何の用があるのかと思いながら道をゆずりました。紳士はトンネルを潜って行きますので私も子どもをつれて後から歩きました。その方ほチョコレート色のりっばな靴をはいていたのを覚えています。…年齢は五十歳くらい。身長五尺六、七寸。顔色は脂ぎった浅黒い感じで目は大きなほうではないかと思います。眉毛が濃く、髪はのばしていたと思いますが、分けていたのか、バックにしていたのか覚えていません。黒ブチに点々のあるようなメガネをかけていたように思います。洋服ほ薄ネズミ色、色の薄い立縞があったように思います。靴の爪先に馬蹄型のヒダがついていたのをはっきり覚えています。…」と調書の内容を記載しています。佐藤一氏が再度この目撃者にインタビューすると「調書の大筋は合っていますがたいせつなところが違っています。事件の記憶はいまも鮮明です。…私が男をみた時間は、当時では夏時間といって現在より一時間はやいときで、六時十分ごろとはいっても、昼間と少しも変わらない明るさでした。顔を合わせるほどの近さで会ったのでよく覚えていますが、背も高く目も大きく、顔は脂ぎって浅黒く、眉は濃くキリリとした顔で、八の字型の眉の下山さんの人相とはまったく似ても似つかない別人でした。…あの男は下山さんとは関係ない別人だといまでも確信しています。それにしてもおかしなことは警視庁でみせられた靴のことです。私がみたトンネルで会った男のはいていた靴とウリふたつでした。すると別の男が下山さんの靴をはいていたとでもいうのでしょうか。」とあります。なにか意図的に目撃証拠を下山総裁に変えていった様な雰囲気ですね。

右の写真は東武伊勢崎線の上に書かれている下図のトンネル跡です。当時はトンネルだったのですが、伊勢崎線が高架になったため、現在はガードになっています。
 

ここでのポイント

【五反野付近での下山総裁目撃情報(調書から)】
 6時10分ころ、東武線トンネル付近
 A6時10分〜15分ころ、東武線ガード付近
 B6時過ぎごろ、東武線土手下の道
 C6時30分ころ、常磐線の線路の中
 D6時30分ころ、東武線土手の鉄柱近く
 E6時40分ころ、常磐線下り線の枕木の上
 F8時30分ころ、東武線トンネル近く
 G8時50分ころ、常磐線踏切から東武線ガードの間
・このあとも22時過ぎ、23時頃の目撃談があります(下山総裁との確認はとれていない)。
【目撃談からのまとめ】
・ここでは目撃談について細かく説明はしませんが、調書の中には意図的に下山総裁目撃にされているものが見受けられます。それにしても目撃者が多すぎますね。意図的に目撃させたとしか考えられませんね。

事件現場が事件解決のポイントになります。次回を乞ご期待下さい。

五反野付近近地図

【参考文献】
・日本の黒い霧:文春文庫、松本清張
・謀殺・下山事件:講談社、矢田喜美雄
・下山事件全研究:時事通信社、佐藤一
・昭和史の謎を追う(下):文春文庫、秦郁彦
・「文藝春秋」にみる昭和史:文春文庫、古畑種基
・葬られた夏:朝日新聞社、諸永裕司
・松本清張研究:砂書房

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