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最終更新日:2006年2月20日

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●「下山事件」を歩く (下)
   初版:2001年9月29日 二版:2003年7月6日 三版:2005年3日26日 成田屋を追加 <V01/L01>
 下山総裁が懇意にしていた女性がやっていた成田屋の場所がわかりましたので掲載します。

 「下山事件」の最終回です。前回は自殺説の有力な証拠となった地下鉄銀座線から東武伊勢崎線五反野駅周辺までの、数多くの下山総裁目撃情報を紹介しましたが、今回はGHQ関連の情報部隊とその関連日本企業、他殺説の論拠となった国会周辺での下山総裁の目撃情報と、田端機関区から出発した常磐線下りの列車を追ってみたいと思います。

<成田屋(2005/3/26:追加
 下山総裁に懇意にしている女性がおり、その女性が新川で割烹料理屋 成田屋をやっていました。「…成田屋のある新川は、総裁が失踪した日本橋三越に近い。一・五キロほどだ。国鉄副総裁の加賀山は一貫して他殺論者だったが、捜査員に対し森田のぶの関係で脅迫されて殺されたのではないか、と自分の推理を述べている。…… 警察も当初、森田のぶに容疑を抱いた。しかしこの日の、森田のぶのアリバイが明らかになった。午前中は所用で神奈川県の平塚まで出掛けていたことが立証されたし、夜は北海道に帰る知人を見送りに上野駅に出掛けたことも明らかになった。それに彼女は下山に好意を寄せてこそすれ、恨みを抱く筋はなく、動機も見出せなかった。…」。下山総裁は女性に対しては疎いとおもわれていましたが、この女性とはかなり昔から懇意にしていたようです。「…のぶは下山より二歳年下、事件当時四十五歳だったが、二人が知り合ったのは二十年近くも前にさかのぼる。そのころ下山は新橋駅に勤務していたが、仲間ら二十人ほどと、先輩から近くの鳥料理屋に招かれたことがある。その宴席にのぶも酌婦として呼ばれ、顔を合わせたのが最初である。下山に気に入られたのか、その後四、五回待合に呼ばれたりした。下山の転勤などもあって、いったん音信は途絶えたが、終戦後の昭和二十二年ごろ、のぶは京橋のすき焼き屋で仲居をしていたが、客で来ていた鉄道関係の者から、下山が偉くなっていると聞き、会いたさが込み上げた。口をきいてくれる者がいて再会を果たし、何度か料理屋などで会う機会を重ねた。このころ、のぶには、すでに夫がおり、夫婦と手伝い一人で料理屋をやっていた。それが成田屋である。下山はこの成田屋にもかなり頻繁に、顔を見せるようになった。…」。この女性のアリバイはありましたが、そう単純ではないとおもうのですが、私だけでしょうか。三越、日本橋からはすぐの所です。秘密会談には丁度いいとおもうのですが。

左上の写真のビルの角に成田屋がありました。昭和40年代の地図を見ても掲載されていましたので、50年代まではあったのではないかとおもいます。現在の住所で新川一丁目16番の永代通りから一筋入ったところです。

<八洲ホテル(2003/7/6:追加
 日本橋三越に近い白木屋のある日本橋交差点の近くにG2の宿舎であった八洲ホテルがありました。「…日本橋にはG2の連中がよく出入りしていたたまり場がいくつもあつた。白木屋(現在は東急百貨店)に近い八州ホテルもそのひとつで、ここはG2の作戦部隊の集会場だつた。とくに二世CICはウヨウヨしていた。八州ホテルにいるといろんな情報を耳にすることができたが、そのなかには「下山総裁を殺したのは彼ではないか…」、と「謀殺 下山事件」に書かれています。日本橋三越で下山総裁を誘拐したメンバーはこのホテルから出たのではないかといわれています。又下山総裁が運転手に白木屋に行けといったのはこの八洲ホテルに行けといったのではないとおもわれます。

右の写真の右から二軒目のビルが旧八洲ホテルです。昭和28年の地図でも八洲ホテルとなっていましたので間違いないと思います。

<三越本店と三井本館>
 下山総裁は「上」でも説明していますが、三越本店で数多くの人に目撃されています。この目撃された人物は本物の下山総裁と思って間違いないと思います。問題は、誰かと待ち合わせをして最後に地下鉄への出口で目撃されてからです。松本清張の「日本の黒い霧」では「下山が反対側の地下道を上ると、或る乗用車がすでに待っていた。下山はそれに乗せられた。この時、下山は謀略に気づいたであろうか。私は恐らく下山は気づかなかったと思う。…このような時、これまでのやり方としては、拉致者の乗った車を中心として前後に別な車がピケを張っているのである。…下山の場合も多分三越と三井銀行本店の間のあの狭い道路には前後、四つの目立たぬ車がピケを張っていたと思う。…この事は三越を出発する時には恐らく日本の白ナンバーであったろう。しかし、その車がどこかに向って走り出し、その後をピケの車が尾行した。そして途中で、車は確かに、他の車に乗替えられた筈である。乗替えさせられた車は黄ナンバーであろう(外人専用)。」とあります。三越本店とその地下鉄地下道以外に、この地区での下山総裁の目撃情報がない為、地下鉄銀座線に乗らなかったなら、三越本店とは別な出口の三井本館側から出て、直ぐに車に乗り、何処かに走り去ったとしか考えられません。

左の写真の左側が三越本店で、右側が三井本館です。今は日本銀行側から銀座通りに向かって一方通行ですが、昔は両方向通行だったと思いますので、下山総裁を連れ去った車は、人通りの多い銀座通りを避けて、日本銀行方面に向かって走り去ったと思われます。

<「松本清張研究・第三号」から> 2002/9/28追加
 松本清張は、下山総裁が三越本店から地下鉄三越前駅経由で、連れ出されたルートを「松本清張研究・第三号」で訂正しています。「神田今川橋寄りの地下鉄出口(現在の日本貿易館横)に出た下山氏は、そこに待っているツー・ドアの車に「有馬」から、どうぞどう ぞ、とせっつかれて、つい急いで乗ってしまった。……(かって三越と三井銀行の間の地下鉄出口と推定したのを訂正する)」、つまり三井本館と三越本店の間から連れ去られたと推定したのを、室町三丁目、中央通りにある日本貿易館の地下鉄出口から連れ去ら れたと訂正しています。

右の写真が日本貿易館(現在はE.T.S.室町ビル)の地下鉄出口です。現在の銀座線三越前駅の日本貿易館への出口と、現在のE.T.S.室町ビルの写真を参考にしてください。

<ライカビル、日本貿易会館、千葉銀行(2003/7/6:追加)
 「葬られた夏」の本の中で最も書かれているのはこのライカビルにあった亜細亜産業のことです。『僕はセピア色の写真にある亜細亜産業についてたずねた。……「確か、ライカビルといつたかな。会社の事務所が人つていたのは」、「それは、どこにあつたんですか」、僕は勢い込んでたずねた。「確か、室町だつたと思うよ、日本橋の」、「日本橋というのは、総裁が消息を絶つた三越のある……」、「そう、目と鼻の先つていう感じじやなかつたかな」。』、書かれています。この亜細亜産業は米国の諜報機関の日本側窓口になっていたようです。またすぐ傍にあった千葉銀行についても、「キヤノンの工作資金をつくるため、(戦時中、供出させられ、その後隠匿されていた)ダイヤの摘発と売却を主な任務にしていた。集めたダイヤは、ライカビルの真にあつた千葉銀行東京支店の金庫に保管していた。しかし、奇妙なことに下山事件の直前にいなくなつた。…「ダイヤは千葉銀行に保管していたんですよね、ライカビルの裏の」、「詳しいことはわからないけど、千葉銀行がすぐ裏にあつたのは覚えているよ」、…「ライカビルは三階までは亜細亜産業が人つていたけど、その上にはね、銃を扱う男とか、それこそわけのわからん連中がたむろしてたんだ。Sもその一人だつた」、等と書いています。下山総裁が三越から地下鉄の駅を伝って連れ出されたのは、このライカビルの隣の国際貿易会館からです。

左の写真の正面のビルが地下鉄への入口がある日本貿易会館です。このビルの右隣がライカビルです。また左隣が千葉銀行東京支店が入っていたビルでした。昭和28年の地図ではライカビルには、一二階にKKライカ、三階は日本繊維加工、四階は三新交易KKが入っています。日本貿易会館には一階に喫茶アモール、二階以上に三光汽船が入っていました。

<国会議事堂周辺>
 三越本店から下山総裁を乗せて走り去った車は、意外な所で目撃されています。矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」では「その日撃者ほ大津正氏といって、後で総理大臣になった佐藤栄作氏の秘書だった。佐藤氏と下山総裁はともに国鉄官僚で師弟の間柄だったが、この二人のとりもちを日ごろからしていたのが大津氏だった。その大津氏が事件の七月五日昼前、国会議事堂横ですれちがった車のなかに下山総裁をみたとい‥うのである。この大津氏の目撃は事件の翌日の七月六日の読売新聞紙上につぎのように報じられていた。五日午前十一時ころ、所用で平河町の民主自由党本部から日比谷へ車を走らせている途中、逆に都電議事堂前停留所のほうから平河町へ向かって走る自動車とすれちがったが、この事のなかに、二、三人の男に前後左右を囲まれた下山さんらしい人をみた。ふだん下山さんの乗る車でない 車に総裁が乗っているのが不思議だと思った。」とあります。他の下山総裁を知らない人の目撃談とは違い、よく知っている人の目撃談は真実味があります。特に下山総裁の乗っていた車が、ビュイック41年型ではなかったのを目敏く見つけています。このあと自動車に乗った下山総裁の目撃証言は途絶えます。

右の写真が国会議事堂です。撮影場所は国会議事堂の丁度 裏辺りで、自民党本部から日比谷へ行く途中になります。現在は警備の警官がウロウロしていて、歩いていると職務質問をされそうです。

<田端機関区>
 下山総裁を轢断した第869貨物列車とその前後を走った国鉄常磐線下りの列車について検討してみます。
 
列  車 現場通過時刻 備  考
295貨物列車 10時53分  
1201旅客列車 11時18分 進駐軍専用(横浜→札幌)
869貨物列車 0時19分 轢断列車(D51651)
2401電車 0時25分 死体発見電車

ここで松本清張の「日本の黒い霧」を参照すると「進駐軍軍用貨物列車が現場を通過したのは十一時十八分である。すると轢断列車の通過が零時十九分であるから約一時間の余裕があった。これを推測するに、第一二〇一列車から死体を降ろし、一旦ロープ小屋に運んで行き、それから約一時間後に来る轢断列車の前に置くには十分の準備時間があったということである。」とあります。警視庁は第295貨物列車については詳細に調べていますが(死体を下ろした形跡はない)、第1201進駐軍専用列車については調べていません。調べていないというよりは調べられなかったようです(当時はまだ占領下です)。列車で死体を運び、降ろすならこの第1201進駐軍専用列車以外にはありません。またなぜか、轢断列車の869貨物列車は田端機関区で機関士を起こし忘れ、田端機関区を8分遅れで出発していおり、死体運搬に十分な時間をとったように見えます。

左上の写真は田端機関区から出て常磐線方向に向かう線路です(田端駅付近)。常磐線に向かう線路は写真の先を左側に曲がっていきます(下記の地図参照)。写真を拡大して見てもらうと、常磐線方面への線路が見えます。
 

他殺説(1)のまとめ

死体運搬方法 三越本店から車で連れ去られた後、王子付近の進駐軍関連施設で殺害、田端機関区周辺で進駐軍専用1201列車に死体で乗せられ、現場付近で降ろされた後、869貨物列車に轢断された。
コメント この他殺説には若干の無理があります。まず1201進駐軍専用列車ですが旅客専用で、22時横浜発、22時53分上野着、ここまで電気機関車が引っ張ってきます。上野駅で尾久機関区(旅客専用)から単機退行(後ろ向き)できた蒸気機関車に付け替えて23時04分上野発、そのまま常磐線を走ります。王子付近の進駐軍施設と田端機関区とは無関係で死体を乗せる事が非常に困難です。最も、上野駅で何らかの方法で乗せる事ができれば別ですが。

轢断列車の第869貨物列車を引いていたのは蒸気機関車のD51651です。水戸機関区所属のD51で、この機関車は曰く付きで、昭和18年の土浦駅三重衝突(死者110人)で大破しています。俗に言う土浦事故とは戦時中の昭和18年10月26日夕方、土浦駅に着いた上りの第294貨物列車が、ポイント操作ミスにより上り本線上に飛び出し、そこに後続の第254貨物列車が突っ込んで脱線転覆、更に下り第241旅客列車がこれに気づかずさらに突っ込んで、満員の乗客を乗せた客車3輌が転覆、1輌は駅手前の桜川に転落しました。この3重衝突事故で110名が死亡するという大惨事がおこったのですが、戦争中ということであまり表沙汰にはならなかった様です。D51651はその後修理して、再び常磐線で使用していてこの事件に遭っています。その後は新見機関区にまわり、岡山と米子を結ぶ伯備線で活躍していました。その伯備線当時の写真(1972年)を姫路市の三木様にお借りする事ができました。左の写真をクリックして拡大してみると、D51651の番号をみる事が出来ます。

<轢死体発見現場>
 他殺説の場合、松本清張の「日本の黒い霧」による列車での死体運搬が困難であれば、後は車で現場まで運搬するしかありません。矢田喜美雄の「謀殺・下山事件」では「…消息を絶った誘拐車が次の目撃者にとらえられるまでには、約九時間という長い時間がかかった。目撃者は石塚義一さんだった。荒川放水路の北側、葛飾区の小菅町というのは五反野現場へ約一キロというたいへんに近い地理的な位置にあった。午後九時ころといえばこのあたりの工場街も静かになっていた。その小菅町の夜のデコボコ道に、一台の大型乗用車が人をいっぱいつめ込んではいってきた。石塚さんは石綿工場で深夜勤務を終わって門を出たところでその事をみたわけだ。この車が石綿工場から西北四百メートルにある小菅神社境内に深夜になってもなお置かれているのを、石塚さんはまたみていた。工場前を通ったとき満員だった車内 は二度目にみたときにはだれも人がいなかったが、神社のハダカ電球の光で社殿前の植え込みに人の気配がして三人の人影が動くのをみたという。…」とあります。これで現場近くまでの運搬手段は分かりましたが、死体を轢断現場へ運ぶのは簡単ではありません。車グループとは別のグループが荒川の土手で待ち受け、車から死体を轢断現場近くのロープ小屋まで3人で運び、時間を見て再び轢断現場まで運んだ様です。

右の写真は下山総裁が轢断されたJR常磐線と東武伊勢崎線の交差する辺りを撮影したものです。当時と違うのは常磐線の右側に千代田線(写真の電車)が走っている事と、常磐線も東武伊勢崎線も高架になっている事です。それに常磐線の左側には常磐新線の工事をしています。ほとんど当時の面影はありません。
 

<K製油、S金属(2003/7/6:追加分)
 下山総裁の服に着いていた油について、警察は詳細に調査しています。その結果、幾つかの可能性の有る工場が浮かび上がってきます。その中の一つがK製油でした。このK製油は下山総裁の葬儀の時にも名前が出てきていました。それは葬儀には列席していないのに会社の名詞が残っていました。「葬られた夏」の中では、「K製油というのは、ある油脂会社と人事、取引面で密接なつながりがあってね。その油脂会社がS金属の系列会社だったんだ。…」、と書かれています。このS金属の工場は北区赤羽北一丁目にありました(王子に近い)。このS金属については本を読んで下さい。ここでは説明しません。

左の写真の辺りがK製油の工場が会った東小松川です。K製油は下山事件の数年後に倒産したようです。

他殺説(2)のまとめ

死体運搬方法 三越本店から車で連れ去られ、午後9時頃小菅町付近及び小菅神社で車に乗っているところを目撃される。その後、荒川の土手経由でロープ小屋に運ばれた後、869貨物列車に轢断された。
コメント この他殺説にも無理があります。まず目撃証言が警視庁が調べたものではなく、作家自身で調べた情報が多い(証言がイマイチ心配です)。下山総裁は80Kgくらいあり、3人で土手から轢断現場まで運ぶのは大変です(ほとんど無理ではないかと思います)。死亡推定時刻が午後10時前後なので、小菅神社付近で殺害されたことになり、少々不自然です。

《「下山事件」 (中)から》

自殺説のまとめ

現場までの行動 三越本店から地下鉄銀座線で浅草まで移動、浅草から五反野までは東武伊勢崎線で移動、末広旅館で午後5時30分まで休んでその後は五反野付近を徘徊、0時19分、869貨物列車に飛び込み自殺 。
コメント この自殺説にも無理があります。根本的には自殺の理由がはっきりしていません。自殺までの行動も不自然なところが目立っており、三越本店から五反野まで時間経過が不自然(2時間の空白)、末広旅館での行動も不自然(煙草を吸わない)、自殺の前の目撃者が異常に多い等。

上記の通り、他殺説、自殺説合わせて3説となりますが、どの説も完璧ではありません。自殺説は他殺説を否定して、初めて出てくるものです。また下山家の方は「オフクロは死ぬまで他殺を信じて疑わなかった」と語っています。ここで結論を急ぐ事は必要ないと思います。じっくりこれからも時間をかけて推理していきたいと思います。読者の皆様も一緒に下記の本を読んで推理してみて下さい。

田端機関区付近地図


五反野付近地図

【参考文献】
・日本の黒い霧:文春文庫、松本清張
・謀殺・下山事件:講談社、矢田喜美雄
・下山事件全研究:時事通信社、佐藤一
・昭和史の謎を追う(下):文春文庫、秦郁彦
・「文藝春秋」にみる昭和史:文春文庫、古畑種基
・葬られた夏:朝日新聞社、諸永裕司
・遠すぎた終着:日下圭介、祥伝社
・シモヤマ・ケース:森達也、新潮社
・松本清張研究:砂書房

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