●正岡子規の奈良を歩く
    初版2011年2月26日  
    二版2011年7月31日   写真を追加、入替え
    三版2011年11月14日  <V01L01>  東大寺の鐘の音と奈良柿を追加

 久しぶりに「正岡子規 散歩」を掲載します。今回は子規が明治28年10月末に松山から上京する途中で奈良を訪ねたところを歩いてみました。子規は日清戦争に従軍し、帰路の船で喀血します。上陸地であった神戸で療養し、松山に戻っていましたが、回復してきたため東京に戻ります。その途中に奈良に寄ったものです。




「子規全集」
<子規全集 月報>
 関西方面での子規の動向については古賀蔵人氏がかなり詳細にまとめられています。今回は子規全集の月報で古賀蔵人氏が書かれている”「柿くへば……」の旅の宿”を参考にしました。
 月報の書き出しです。
「 今度はぜひともと子規が病後を押して奈良を訪ねたのは、明治二十八年十月である。その年の五月、日清戦争に記者として従軍した帰路の船内で血を吐き、神戸で約三ヵ月療養、郷里松山で二カ月足らず養生した後、予後も順調で一安心して東京に帰る途中、大阪に立ち寄ったのが十月二十二日、そして三十日まで大阪に滞在した間に、三日ほど奈良へ遊覧の杖をひいた。大阪の湊町から奈良まで、大阪鉄道(現在の国鉄関西線)がその三年前に開通していた。…」
 大阪鉄道(私鉄)は明治25年(1892)2月、港町(大阪の難波近く)から奈良間を全通させています。大阪鉄道はその後の明治33年(1900)に関西鉄道と合併、明治40年(1907)には国有化され、関西本線となっています。因みに新橋−神戸間が全通したのは明治22年(1889)7月1日のことです。又、山陽鉄道の神戸−広島間は明治27年(1894)6月に開通していますので、子規は松山から船で宇品まで行き、山陽鉄道で広島から神戸まで行ったものとおもわれます。「正岡子規の大阪を歩く」の頃(明治23年)は、松山−宇品−神戸間を船で往復していました。

上記の写真は昭和50年発行の「子規全集第十巻」、講談社版です。古賀蔵人氏は子規全集の月報で3回ほど書いています。その中の一つが”「柿くへば……」の旅の宿”です。掲載は「子規全集二巻」の月報です。

「くだもの」
<「くだもの」”御所柿(ごしょがき)を食いし事”>
 子規自身も奈良について書いています。「くだもの」の中で”御所柿(ごしょがき)を食いし事”です。全集以外では岩波文庫の「飯待つ間」の中に納められています。
 子規の”御所柿を食いし事”からです(前半です)。
「 明治廿八年神戸の病院を出て須磨や故郷とぶらついた末に、東京へ帰ろうとして大坂まで来たのは十月の末であったと思う。その時は腰の病のおこり始めた時で少し歩くのに困難を感じたが、奈良へ遊ぼうと思うて、病を推(お)して出掛けて行た。三日ほど奈良に滞留の間は幸に病気も強くならんので余は面白く見る事が出来た。この時は柿が盛(さかん)になっておる時で、奈良にも奈良近辺の村にも柿の林が見えて何ともいえない趣であった。柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見離されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。……
〔『ホトトギス』第四巻第七号 明治34・4・25 二〕」

 この話から「柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺」の俳句が何処で作られたかになるわけです。この句は明治28年11月8日の「海南新聞」に掲載されていますので、この時期に作られたことは間違いありません。ここでは上記に書かれているとおり、東大寺の鐘の音(夜8時)を聞きながら柿を食べています。

上記の写真は岩波文庫の「飯待つ間」です。子規自身が奈良について書いた”御所柿(ごしょがき)を食いし事(「くだもの」のの中)”が掲載されています。

「奈良の柿」
<御所柿(ごしょがき)>
 2011年11月14日 御所柿を追加
 ”御所柿(ごしょかき)”とは柿の一品種で奈良県御所(ごせ)市の柿のことといわれています。柿の形としては扁平でやや四角形の形をしている奈良の柿です。現在では”御所柿”はほとんど取れず、御所(ごせ)市でも”富有(ふゆう)柿”が中心となっているようです。又、”御所柿”の出荷は11月末頃からだそうで、11月初めで入手できる奈良の柿は”富有柿”のみのようです。

写真は奈良産の柿です。一見、平べったく角張っていますので”御所柿”のようですが、時期的に見て”富有柿”だとおもわれます(表示は奈良産)。子規はこの柿を対山楼の女中さんにむいて貰って食べたわけです。むいた柿の写真も掲載しておきます。

「対山楼(角定)跡」
<対山楼(角定)>
 2011年7月31日 写真を追加、入替え
 子規は奈良での滞在先を一流旅館の「対山楼」にしています。大阪でも花屋旅館に宿泊しており、一流好みがよく分かります。
 古賀蔵人氏が書かれている”「柿くへば……」の旅の宿”からです。
「… 「奈良角定にて 大仏の足もとに寝る夜寒かな 子規」の宿を今前書きの角定(かどさだ)の名で揉しても、知る人はまれである。しかし対山楼とたずねればさすがに往年の名門旅館で土地の人の脳裏から消えてはいない。角定を明治の初めに対山楼と命名したのが山岡鉄舟だという。
 京都からの街道(今の国道24号線)がもう奈良にかかると、転害門を過ぎれば左手は今小路町の家並み、その道沿いに椅子表のはたご屋、対山楼があったのである。主人角谷定七の名を取って、古くから「かどや」とも角定とも親しまれており、……」

 古賀蔵人氏は対山楼で子規の宿泊について詳細に調べられており、子規自身が書いた宿帳を検証されています。宿帳には「「東京下谷区上根岸町八十二番地士族無職業正岡常規二十八年」、日付は明治二十八年十月二十四日」(ただし、宿泊日は宿の方か書いています)と書かれていました。

写真の正面、駐車場の奥にある料理店「天平倶楽部」のところが「対山楼」跡です。南都銀行(信用金庫)手貝支店の南隣と言った方が分かるかもしれせん。「対山楼」は京街道に面して、明治以前から奈良では有数の旅館でした。かの伊藤、山縣、西郷従道、フェノロサや岡倉天心も泊まっており、又、「角定」を明治の初めに「対山楼」と命名したのが山岡鉄舟だといわれています(「対山楼」は山岡鉄舟のために新しく部屋を建てています)。しかし、奈良駅が三条通りに出来ると、駅から離れた「対山楼」のある今小路町界隈は寂れます。大正8年に一度廃業しますが、戦後、再び営業を始めます。しかしながら昭和38年に廃業します。建物は現在残っておらず、絵はがき等を探したのですが見つかりませんでした。

 「対山楼」跡の料理店「天平倶楽部」の庭に正岡子規の記念碑と、柿の木があります。「天平倶楽部」の右側端に入口があり、誰でも入って見学ができます。 子規は奈良での滞在先を一流旅館の「対山楼」にしています。大阪でも花屋旅館に宿泊しており、一流好みがよく分かります。
     角定にて
  奈良の宿御所柿くへば鹿が鳴く
  秋暮る、奈良の旅籠や柿の味
  長き夜や初夜の鐘撞く東大寺
  鹿聞いて淋しき奈良の宿屋哉

 「角定」での子規の句です。柿を食べたことと、東大寺の鐘のことが歌われています。

「東大寺 鐘楼」
<東大寺 鐘楼>
 2011年11月14日 東大寺鐘楼を追加
 先日、奈良 東大寺の鐘楼の音を録音することが出来ましたので、追加掲載します。
 子規の”御所柿を食いし事”からです(後半です)。
「 ……やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。東大寺がこの頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですという。余が不思議そうにしていたので、女は室の外の板間に出て、其処の中障子を明けて見せた。なるほど東大寺は自分の頭の上に当ってある位である。何日の月であったか其処らの荒れたる木立の上を淋(さび)しそうに照してある。下女は更に向うを指して、大仏のお堂の後ろのおそこの処へ来て夜は鹿が鳴きますからよく聞こえます、という事であった。
〔『ホトトギス』第四巻第七号 明治34・4・25 二〕」

 東大寺の鐘楼の音が聞けるのは毎日、夜八時です。夜八時に東大寺の鐘楼の所までたどり着くのは大変です。東大寺は柵もなにも在りませんのでどこからでも入れるのですが、ただ、真っ暗で懐中電燈を持参しないと道が分かりません。所々に街灯が点灯しているのですが、それでも暗いです(女性一人は危ない)。私は事前に道を調べていたので比較的簡単にたどり着きました。鐘の回数は16回、最初と最後に二回続けて撞くので、総合計としては18回となります。全て録音してきたのですが、今回は最初の2回(鐘の音としては3回分)の音を聞いて下さい。法隆寺の鐘の音とは段違いです。鐘の大きさが違うので当然かもしれません。

写真は現在の東大寺 鐘楼です。鐘の音を聞きに来たのは私一人かとおもっていたら、もう一組、聞きに来られた三人組がいました。人気があるのかなとおもいました。

「子規と四季のくだもの」
<「子規と四季のくだもの」 戸石重利>
 奈良の子規については古賀蔵人氏の他に、もう一人書かれた方がいました。2002年発行の戸石重利氏の「子規と四季のくだもの」です。タイトル通り、子規と果物について書かれた本なのですが、その中で、子規が訪ねた奈良での日程の検証をされています。
 戸石重利氏の「子規と四季のくだもの」のからです。
「… 「子規全集」年表によれば、明治二十八年十月十九日松山の三津浜を出港、広島の字品に着く。
十月二十一日須磨の保養院で病状検査を受ける。この目叔父大原に文を送り、「須磨迄は別状なし」と報告する。二十二日大阪に行く、この日に左の腰骨が痛み出し歩行困難となる(この腰痛が後に、死ぬまで痛み続けて命取りになった。カリエス発病の兆候のあった日だ)。十月二十三日柳原極堂が東京の子規宅に、東京までの旅中吟行記の執筆依頼の文を送る。この時の吟行記が松山海南新聞に掲載され、「柿くへば」の句が発表された。
 再び、「子規全集」を繙く。十月二十六日目奈良に行き角定に宿る。この時漱石に借りた金十円
は奈良で使い果たしたと通信している。……」

 子規全集では奈良に宿泊した日は10月26日とあります。上記の古賀蔵人氏が調べた宿帳には10月24日とあり、二日の誤差があります。もう一つ分かっていることがあります。法隆寺を訪ねたときは子規の俳句から雨だったと言うことが分かっています(気象庁のホームページで明治28年10月の大阪の天気、雨量が分かります。22日一日中雨4.6mm、24日昼頃雨0.4mm、29日午後雨2.0mm、30日一日中雨8.1mm)。これらから日程を検証されています。子規は19日に松山を出発、広島の宇品経由で21日に神戸の須磨保養院で診察を受け、22日から30日まで大阪に滞在します。その中の三日間で奈良を訪ねています。

写真は戸石重利氏の「子規と四季のくだもの」、文芸社版です。2002年発行で、比較的新しいです。日程の検証以外も非常に面白いので一読の価値があります。


奈良市内地図



「法隆寺 柿茶屋」
<法隆寺 柿茶屋>
 最後は、子規が「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」と詠ったことになっている法隆寺です。当時の法隆寺は明治以降荒れ果てていた寺の修復が進んでいた頃とおもわれます。
 古賀蔵人氏が書かれている”「柿くへば……」の旅の宿”からです。
「… 対山楼を足場に子規はあちこち欲深く見て回ったが、法隆寺の茶店にいこい「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の一句を得たのは、道順やあれこれの節を思い合わせると、いよいよ古都に名残りを惜しむ日ではなかったかとも想像される。…」
 上記に書かれいる”法隆寺の茶屋”とは、後に柿茶屋と呼ばれる茶屋の事です。当時の茶屋は聖霊院前の池の側にありました。又、前項で、法隆寺を訪ねたときは雨だった書きましたが、法隆寺での子規の句を掲載しておきます。
     法隆寺
  稲の雨班鳩寺にまうでけり
  行く秋をしぐれかけたり法隆寺
  行く秋を雨に氣車待つ野茶屋哉

 これを詠むと、やはり雨が降っていたとおもわれます。
 とすると、前項から24日の昼過ぎか、29日午後に法隆寺を訪ねたと推測が出来ます。24日では奈良に行く途中で訪ねた、29日では、奈良から大阪に帰る途中で訪ねたことになります。ただ、対山楼に24日宿泊し、27日には大阪に帰っていますから、29日はあり得ず、法隆寺には奈良を訪ねる途中の24日昼過ぎに訪ねたことになります。

写真は聖霊院前、鏡池の柿茶屋です。現在の井戸と子規句碑があるところです。同じ位置から撮影した写真も掲載しておきます。現在聞ける法隆寺の鐘の音は西円堂の東側にある鐘楼の鐘です。8時から2時間おきに4時までです。時間のある方は聞かれれば良いかとおもいます。

法隆寺や大黒屋については、「堀辰雄の奈良を歩く」で掲載する予定です。

法隆寺地図


正岡子規年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 正岡子規の足跡
明治16年 1883 モーパッサン「女の一生」

岩倉具視没
16 6月 日本橋区浜町の旧松山藩主久松邸内に寄寓
7月頃 赤坂丹後町の須田学舎に入学
9月 久松邸内に戻る
10月 共立学校(学舎)に入学
10月末 神田区仲猿楽町19番地の藤野宅に下宿
明治17年 1884 森鴎外ドイツ留学
秩父事件
17 夏 東五軒町三十五番地 藤野宅に下宿
夏 進文学舎に通う
9月 東京大学予備門入学
秋 猿楽町五番地の板垣善五郎宅に下宿
明治18年 1885 清仏天津条約
18 夏 松山に帰省
明治19年 1886 谷崎潤一郎誕生
19 4月 清水則遠の葬儀
4月 予備門が第一高等中学校と改称
ベースボールに熱中
夏 永坂の別邸に一時奇遇
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払下
20 9月 第一高等中学校予科進級
一橋外の高等中学校に寄宿
12月 常盤会寄宿舎に転居
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
パリ万国博覧会
22 1月 夏目金之助と交遊が始まる
第一高等中学校本郷に移転
7月 新橋−神戸間が全通(東海道線)
10月 不忍池畔に下宿
明治23年 1890 慶應義塾大学部設置
帝国ホテル開業
23 1月 常盤会寄宿舎に戻る
7月 大阪経由で松山に帰郷
9月 東京帝国大学文科大学哲学科入学
明治24年 1891 大津事件
東北本線全通
24 12月 本郷区駒込追分町30番地奥井方に下宿
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 2月 下谷区上根岸88番地に転居
      港町−奈良間が全通(大阪鉄道)
10月 東京帝国大学を退学
11月 母八重、姉律を東京に呼ぶ
12月 日本新聞社入社
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 2月 上根岸82番地に転居
6月 広島−神戸間が全通(山陽鉄道)
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 4月 日清戦争へ従軍
5月 県立神戸病院に入院
8月 松山の夏目漱石の下宿に移る
10月19日 松山を発って上京
10月21日 神戸の須磨保養院で診察
10月22日 大阪着
10月24日 奈良を訪ね、対山楼に宿泊
10月30日 大阪から東京に向かう
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治35年 1902 八甲田山死の行軍 35 9月19日 死去