<子規全集 月報>
関西方面での子規の動向については古賀蔵人氏がかなり詳細にまとめられています。今回は子規全集の月報で古賀蔵人氏が書かれている”「柿くへば……」の旅の宿”を参考にしました。
月報の書き出しです。
「 今度はぜひともと子規が病後を押して奈良を訪ねたのは、明治二十八年十月である。その年の五月、日清戦争に記者として従軍した帰路の船内で血を吐き、神戸で約三ヵ月療養、郷里松山で二カ月足らず養生した後、予後も順調で一安心して東京に帰る途中、大阪に立ち寄ったのが十月二十二日、そして三十日まで大阪に滞在した間に、三日ほど奈良へ遊覧の杖をひいた。大阪の湊町から奈良まで、大阪鉄道(現在の国鉄関西線)がその三年前に開通していた。…」
大阪鉄道(私鉄)は明治25年(1892)2月、港町(大阪の難波近く)から奈良間を全通させています。大阪鉄道はその後の明治33年(1900)に関西鉄道と合併、明治40年(1907)には国有化され、関西本線となっています。因みに新橋−神戸間が全通したのは明治22年(1889)7月1日のことです。又、山陽鉄道の神戸−広島間は明治27年(1894)6月に開通していますので、子規は松山から船で宇品まで行き、山陽鉄道で広島から神戸まで行ったものとおもわれます。「正岡子規の大阪を歩く」の頃(明治23年)は、松山−宇品−神戸間を船で往復していました。
★上記の写真は昭和50年発行の「子規全集第十巻」、講談社版です。古賀蔵人氏は子規全集の月報で3回ほど書いています。その中の一つが”「柿くへば……」の旅の宿”です。掲載は「子規全集二巻」の月報です。