●正岡子規の大阪を歩く (1)
    初版2009年12月19日 大阪駅の写真を入替
    二版2011年 2月26日  <V01L01> 大阪博物場を追加

 突然ですが「正岡子規の大阪を歩く」を掲載します。「大阪春秋 9号」を古本で手に入れ、読んでいましたら、偶然ですが古賀蔵人氏が書かれた”青年正岡子規と大阪”を読むことができました。古賀蔵人氏は正岡子規研究家で有名で、大阪を訪ねる機会もあり、取材をしてきました。


「大阪春秋 9号」
<「大阪春秋 9号」 昭和51年1月発行>
 「大阪春秋 9号」は”特集 大阪昭和50年総覧”とあり、大阪の昭和50年史が中心だったのですが、その中に古賀蔵人氏が書かれた”青年正岡子規と大阪 ─ 気ままの六日旅 ─ ”を偶然に見つけました。古賀蔵人氏は子規の研究家としては有名なのだそうですが、私は全く読んだことがありませんでした。明治23年7月の大阪訪問を詳細に書かれていました。今回はこの古賀蔵人氏が書かれた”青年正岡子規と大阪 ─ 気ままの六日旅 ─ ”を参考にして歩いてみました。
「 子規が大阪を訪れたのは、はっきりしているだけで、明治二十二年から二十八年までに前後九回、この旅はその二度目である。
 登場した在阪の友人太田正窮(柴州)は、後に商業学校教師をやめて日印貿易株式会社の社員となり、また大谷藤治郎(是空)は、中外商業新報の客員記者として活躍した。」

 子規が九回も大阪を訪問しているとは驚きました。すべてをフォローするのは無理だとおもいますが、できるだけ忠実に歩いてみます。

写真は大阪の地域雑誌「大阪春秋」です。歴史も古く、有名な雑誌なのですが、何回も廃刊しそうになっては継続しています。現在は新風書房より季刊で発行されています。ほとんど新風書房の福山社長の趣味で継続しているのではないかとおもっています。古い号は古書として手に入れるのが難しくなっていたのですが、オークションに大量に出品されていましたので、必要な号だけ手に入れることができました。

「初代大阪駅」
<初代大阪駅> 2010年1月7日写真を入替
 今回の大阪訪問は明治23年7月なので 子規が降りた大阪駅は初代の大阪駅になります。古賀蔵人氏が書かれた”青年正岡子規と大阪 ─ 気ままの六日旅 ─ ”からです。
「 東海道線の汽車が全通してまる一年員の夏の帰省シーズンであった。明冶二十三年七月三日の夕方、大阪駅のフォームに下り列車が着いた。その先頭の下等車から、大垣乗車の東京の書生三人連れが、機関車の煤で顔を汚し、伊予弁ではしゃぎながら下りて来た。浜松始発、五時三十五分着と当時の時刻表にある列車だったろう。
 西下途中の大雨で一行は養老の滝見物をあきらめて来たが、その雨雲の名残で、大阪の空はまだすっきりしていなかった。…」

 東海道線は、最後まで残っていた大津付近が完成し、明治22年7月1日、東京(新橋)−神戸間が全通します。しかしながら、まだまだ単線の所が多く、全線複線化は、天竜川橋梁の複線化が終わる大正2年8月まで待たされます。明治23年1月1日付の時刻表を見ると、新橋から大阪までは直通は夜行の一日一本、後は東京から大阪間では何処かで乗り継がないとたどり着きません。大阪発5時35分(午後で、着の時間が書かれていない)は名古屋9時45分発(午前)になっていました。(新橋−大阪間は19時間半)

写真は、初代「大阪駅」です。初代「大阪駅」は明治7年5月に開業しており、二代目は明治34年にゴシック様式で建設されてます。今回の大阪訪問は明治23年なので、初代の大阪駅になります。

「南久宝寺町御堂筋西入る」
<南久宝寺町御堂筋西入る「北村旅館」>
 子規が大阪で宿泊した旅館が”南久宝寺町御堂筋西入る”の「北村旅館」でした。御堂筋は、当時は「淀屋橋筋」と呼ばれており、道幅は僅か6mほどでした。その後の都市計画により、昭和2年に地下鉄御堂筋線と合わせて幅44mの幹線として完成しています。
「  三人は大阪駅頭で二手に分かれ、三並、小川は江戸堀の太田の下宿に向かった。一人になった子規は南を指して、南久宝寺町御堂筋西入る、人形芝居の「彦六座」を目当てに、その向かいの 「北村旅館」を訪ねた。そこが藤廼舎主人こと大谷是空の仮のねぐらである。……」
 上記に書かれている”南久宝寺町御堂筋西入る”との記述は現代の呼び名です。当時としては”南久宝寺町淀屋橋筋西入る”が正しいわけです。
 
写真は現在の”南久宝寺町御堂筋西入る”です。左右が御堂筋で右側が梅田方面、左側が難波方面です。写真左は難波神社となり、右側角辺りが「北村旅館」となります。

「難波神社の北の鳥居」
<難波神社の北の鳥居>
 御堂筋は上記に書いた通り、淀屋橋筋と呼ばれ僅か6mの小道でしたが、御堂筋になると、44mと大幅に拡張しています。子規が滞在した「北村旅館」もこの44mの御堂筋誕生に影響をうけたようです。
「… 難波神社の北の鳥居の東寄り筋向かいに北村があり、境内の彦六座はその鳥居道に西向きで、そこに看板を出していたから、小屋の光側面と旅館とが向き合っていた。道路は旧御堂筋から西横堀に向けて心持ち下り坂で、その傾斜の路面からほんの一足下りて北村旅館が建っており、表は総格子で、向かって右に格子の引き戸の入り口があったという。その戸をカラカラと錬って、「大谷さんは都内ですか」と子規が声を掛けたことになる。…」。
 北村旅館から淀屋橋筋(御堂筋)までは二軒のお店があったようです。御堂筋の道幅拡張では、主に東側が多く削られたようですが、西側も一軒分程度削られています。

写真は難波神社の北の鳥居です。鳥居の位置も当時とは御堂筋の誕生や、戦災で変わってしまっているとおもいます。淀屋橋筋(御堂筋)から三軒目は、現在の大阪ビルの御堂筋角付近と考えていいとおもいます。

「彦六座跡」
<彦六座>
 子規が滞在した「北村旅館」の向かい側が難波神社で、この境内で人形浄瑠璃が興行されていたようです。
「… 彦六座は明治十七年に創立されたが、その芝居小屋が明治二十一年に難波神社境内の失火で全焼した。そのあとすぐに再建されたから、子規が目にしたのは復興彦六座である。御霊神社境内の文楽座と対抗して、人形浄瑠璃の芸を競い合っていた。…」。
 人形浄瑠璃で思い出すのが、直木三十五と芥川龍之介です。大正9年に芥川龍之介が大阪を訪ねたときに、直木三十五は御霊神社のなかの文楽座に人形浄瑠璃を見に連れて行きます。当時は人形浄瑠璃がエンタテイメントの一つだったのでしょう。

写真は「難波神社と文楽」の記念碑説明文です。右側に記念碑があります(写真を拡大してください)。子規が「北村旅館」に滞在した頃の難波神社では彦六座が人形浄瑠璃を演じており、御霊神社の文楽座と争っていたようです。彦六座は明治31年まで難波神社で興行しています。

「府立大阪商業学校江戸堀校舎跡」
<府立大阪商業学校江戸堀校舎>
 子規の「五友」のひとり、太田正躬が勤めていたのが府立大阪商業学校(当時江戸堀南通り三丁目)です。この時も府立大阪商業学校近くにある太田正躬の下宿を訪ねています。
「…子規が三並とともに「五友」の内に数えている竹馬の友の太田正躬は、明治
二十一年夏に東京商業学校(今の一橋大学の前身)を卒業し、すぐさま府立大阪商業学校(当時江戸堀南通り三丁目)に赴任して教鞭をとっており、今回の三人姐に共通の同郷の友人である。……
 そのあとで子規は一人で江戸堀の太田の下宿を訪ねると、裏の西村という宿屋で三並、小川と一緒によもやま話の最中。そこへ割り込めば、たまたま「五友」のうち三友がそろうたこともあり、気炎万丈となった。…」。

 府立大阪商業学校は明治13年に私立大阪商業講習所として設立され、明治14年(1881)大阪府に移管され府立大阪商業講習所となります。府立大阪商業学校と改称したのは明治18年(1885)です。明治23年頃の校舎は立売堀校舎、江戸堀校舎と二カ所あったようです。

写真は現在の大阪市西区江戸堀二丁目付近です。府立大阪商業学校は当時の地番で江戸堀南通り三丁目十八番ですから、写真の左側辺りになります。現在は何ものこっていません。太田正躬の下宿はこの付近にあったものとおもわれます。

「大阪博物場跡」
<大阪博物場> 2011年2月26日 大阪博物場を追加
 子規は大阪最後の日に市内の大阪博物場も訪ねています。今で言う美術館も含めた博物館ですね。当時としては珍しかったのだとおもいます。
「… 四日は是空と二人で、内本町橋詰の大阪博物場内の美術館を見物した。美術館は二十年一月新築の華麗な建物だったはずだが、そこにある応挙の幽霊には感服しなかった。
 まだはかにも多少見て回ったのだろうが、子規の筆はそこらを飛ばしている。
 なお太田を頼って行った三並、小川組は、その夜早くも神戸から多度津に向け出発していることを、明くる晩神戸で知った。…」。

 この大阪博物場は明治8年(1875)に作られたもので、明治17年には動物園を、明治21年には図書館と美術館を併設しています。東京で言う上野公園のようなところになっていたとおもいます。最も、大正時代になると、図書館、動物園等を分離し、他所に移しています。当時の東横堀川から写した絵はがきを掲載しておきます。

写真左側は現在のマイドームおおさかです。通りは松屋町筋です。マイドームおおさかのところが大阪博物場跡です。記念碑も残っていました。東横堀川は左側、ビルの向こう側です。


正岡子規の大阪地図


正岡子規年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 正岡子規の足跡
明治16年 1883 モーパッサン「女の一生」

岩倉具視没
16 6月 日本橋区浜町の旧松山藩主久松邸内に寄寓
7月頃 赤坂丹後町の須田学舎に入学
9月 久松邸内に戻る
10月 共立学校(学舎)に入学
10月末 神田区仲猿楽町19番地の藤野宅に下宿
明治17年 1884 森鴎外ドイツ留学
秩父事件
17 夏 東五軒町三十五番地 藤野宅に下宿
夏 進文学舎に通う
9月 東京大学予備門入学
秋 猿楽町五番地の板垣善五郎宅に下宿
明治18年 1885 清仏天津条約
18 夏 松山に帰省
明治19年 1886 谷崎潤一郎誕生
19 4月 清水則遠の葬儀
4月 予備門が第一高等中学校と改称
ベースボールに熱中
夏 永坂の別邸に一時奇遇
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払下
20 9月 第一高等中学校予科進級
一橋外の高等中学校に寄宿
12月 常盤会寄宿舎に転居
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
パリ万国博覧会
22 1月 夏目金之助と交遊が始まる
第一高等中学校本郷に移転
10月 不忍池畔に下宿
明治23年 1890 慶應義塾大学部設置
帝国ホテル開業
23 1月 常盤会寄宿舎に戻る
7月 大阪経由で松山に帰郷
9月 東京帝国大学文科大学哲学科入学
明治24年 1891 大津事件
東北本線全通
24 12月 本郷区駒込追分町30番地奥井方に下宿
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 2月 下谷区上根岸88番地に転居
10月 東京帝国大学を退学
11月 母八重、姉律を東京に呼ぶ
12月 日本新聞社入社
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 2月 上根岸82番地に転居
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 4月 日清戦争へ従軍
5月 県立神戸病院に入院
8月 松山の夏目漱石の下宿に移る
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治35年 1902 八甲田山死の行軍 35 9月19日 死去



「花屋旅館跡」
<花屋旅館>
 子規はこの時、大阪でもう一軒別の旅館に宿泊しています。松山に帰るつもりで神戸まで行きますが、結局帰れなくなり、大阪に舞い戻ってきたわけです。
「…二日酔い気味の子規は、五日の夕方是空と大阪駅で別れ、神戸に向かった。そして深夜の船に乗り込んだが、強風のために出帆できない。夜通し港内で揺られて気分が悪くなった彼は、ついに六日朝下船して、大阪に舞い戻って来た。
 行き先は二カ所あるにはある。一つは是空の宿だが、どうも間が悪い。もう一つは太田柴州の下宿だが、さてどうしたものか。
 「懐中すでに底を払えり。やけじゃ、やけじゃ、あとは野となれ、山となれ」と、子規は大阪駅からステーション道を車で真一文字に、渡辺橋南詰、中の島三丁目取っ付きの旅館「花屋」の玄関に横付けした。
 花屋は大阪でも屈指の、貴顕紳士の出入りする旅館だが、さすがにそこは客商売、この飛び込んだ書生を、廊下を幾曲りした挙句の一室に案内した。…」。

 この「花屋旅館」は当時は一流の旅館でしたが、明治35年にこの付近一帯を大阪瓦斯が買収したため、中ノ島二丁目に移転します。昭和9年には廃業しています。この「花屋旅館」の女将は神戸で有名だった「西村旅館」の女将の妹です。

写真正面が朝日ビルですので、この付近に「花屋旅館」があったとおもわれます。写真撮影は堂島浜二丁目の古河大阪ビル屋上から撮影したものです。手前が阪神高速、フエスティバルホールが工事中なのがわかります。