●旅中日記 寺の瓦 其の十二 <大阪 其の二>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2013年1月26日
    二版2013年2月11日 <V01L02> 鳥屋の場所、写真を追加 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の十二<大阪 其の二>」です。「旅中日記 寺の瓦」の最終回です。明治41年3月26日の夜、東京を出発してから13日目、明治41年4月7日、大阪で最後の日を過ごしてから夜行で東京に帰ります。出発は3人でしたが帰りは志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の2人となりました。


【「旅中日記 寺の瓦」について】
 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「心斎橋 丸善跡」
<丸善>
 明治41年4月7日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人は大川町の千秋楼から昨日に続いて道頓堀にむかいます。今日は徒歩で心斎橋筋を道頓堀まで南下しています。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 十一時もちかくなって、やつとお輿をあげ、正面に暖い陽を浴びながら、既に三度目の往來を道頓堀へ向ふ。途中丸善によると、志賀に挨拶する小僧があり、懐しさうに何か云ってゐたが、出てからの話に、〜去年の春、日本橋の本店からこっちへ廻されて來たのだが、どうしても性に合はす、いまだに歸りたい、歸りたいと、そればかり思ってゐる、などゝ、低聲で愚痴をこぼしてゐた、どうも関西の人には、ほんたうの意味での友達などになれないやうなものが、何かしらあるのではなからうか、あの小僧さんばかりでなく、前から、関西も、土地としてはい1けれど、人間に困る、といふやうな語は度々開くが、 
 そんなことを云ってゐた。これから、半信半疑の語調を除き去れば、十数年に及ぶ上方住居の後に、いま東京に囲ってゐる志賀の言葉そっくりそのまゝになる。つまり、志賀も、この丸善の小僧も、関西人に封する感情の點では、なんら逕庭がなかったわけだ……。…」

 「丸善 大阪心斎橋店」は、東京・日本橋店に次ぐ2号店として明治4年(1871)に開業しています。2005年9月、そごう心斎橋本店の再開に合わせて移転し「大阪心斎橋そごう店」として再開業しますが2007年撤退しています。美術書や洋書などの専門書を手厚く揃えていたほか、高級文具などを扱い、熟年層向けに専門性の高いテナントを集めた「心祭橋筋商店街」(そごう心斎橋本店11、12階)の中核となっていましたが、顧客対象を絞った品ぞろえのため、百貨店の上層階では計画通りの集客ができなかったものとみられ、前身の「大阪心斎橋店」から続く136年の歴史に幕を閉じています。(ウイキペディア参照)

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…○四月七日 大坂

○起きて見ると今日もいゝ天気だ。朝めし後ハガキを書いたり「荒野」 を讀んだりした。「不幸なる戀」「彼」「二日」 (此の中で芝居で讀んだ方が多いのだが序だから書いておく) いづれも面白かったが「彼」は尤も感じた、真面目と云ふものが現はれて居る。夫は作物以外に多少武者さんの事を志賀君に聞いて居たとが何とが云ふ事も助けて居るのだらうが、感じ方は實際強かった。ごたくして居る中に十時になったので宿を出た、路中丸善によって見たが何もない。志ノ君は英語の字引きを買って直に中座に行った。少し早過ぎたので其處いら歩いて 「趣味」を求め場に入った。僕は 「荒野」志ノ君は「趣味」を讃んで二時間許り待ってやつと幕が明いた。(山)

○丸善で聲を掛ける人があるがら見ると、日本橋の丸善にゐた、何とがいふアタマのハチの開いた、小僧さんで奇遇でもなんでもないのだが、ヤツパリいくらが嬉しがった。小聲でいふ事は、「私も早く東京へ歸りたいんです、どうも大坂といふ所は商賣人の根性がいやで」と、上方にはどうも此いやみがあるらしい。…」


 明治41年で転勤があったとはびっくりしました。番頭などの管理職なら分かるのですが、小僧さんで東京から大阪に転勤とは凄いです。流石、「丸善」といったところですかね!!

写真は現在の丸善 大阪心斎橋店跡です。心斎橋店と云っても長堀通りの北側にあり、中心街から離れています。そのため「そごう心斎橋本店」に移転したのだとおもいます。でも結局撤退しています。京都の丸善と同じです。



大阪市 梅田−難波間地図



「法善寺の境内」
<法善寺の境内>
 道頓堀の法善寺はあまりに有名なので説明する必要もないかとおもいます。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 中座の前に立つ。だいぶ早すぎたので、法善寺の境内にはいってみたり、千日前をぶらついたりして時を消したが、それとて格別のこともないので、開演
までに一時間あまりあるのも承知で土間に陣どり、志賀は、途中で買って來た
雑誌の「趣味」を、私は「荒野」を、黙々として讀み耽る。…」


 法善寺(法善寺横丁、夫婦善哉)については「織田作之助の夫婦善哉を歩く -1-」を見ていただければおもいます。ただ、「織田作之助の夫婦善哉を歩く -1-」は昭和初期の法善寺付近を描写していますので少し新しいかもしれません。

写真の右は現在の水掛不動、左が法善寺です。写真には写っていませんが水掛不動の右側に夫婦善哉があります。詳しくは「織田作之助の夫婦善哉を歩く -1-」を参照してください。



大阪市 道頓堀付近地図



「中座くいだおれビル」
<中座>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人は、前日に道頓堀五座(浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座)の演目を調べており、その中で気に入った歌舞伎の演目を選んだとおもわれます。それがたまたま中座で上演していたようです。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 中座の前に立つ。だいぶ早すぎたので、法善寺の境内にはいってみたり、千日前をぶらついたりして時を消したが、それとて格別のこともないので、開演までに一時間あまりあるのも承知で土間に陣どり、志賀は、途中で買って來た雑誌の「趣味」を、私は「荒野」を、黙々として讀み耽る。鶯などの鳴く宿の二階より、却ってはつきりあたまにはいつて來る。 ── 「不幸なる戀」、「彼」、「二日」など、いづれも感心する。これまでの小説になかった、何か眞新しく、活々とした戚じがある。どうやらそれは、「眞面目」、「眞剣」といふやうな根から出て來るらしい……。…」
 
 中座(なかざ)は道頓堀にあった劇場です。浪花座、角座、朝日座、弁天座とともに道頓堀五座と呼ばれていました。空襲で焼失するも、昭和23年(1948)に木村組の大阪支店長、安倍恒夫により再建され、藤山寛美が松竹新喜劇の上演の拠点にするなど、上方芸能を支えていました。老朽化と営業不振で1999年閉館され、大阪府の文化財の破風を残して、取り壊されました。その時の解体工事でガス爆発を起こし、近くの法善寺横丁が焼失してしまいますが、無事再建されます。(ウイキペディア参照)

 当時の中座の様子は三田純市の「道頓堀 川/橋/芝居」を参照します。
「…鴈治郎と白井松次郎との出合いは、明治三十六年のことである。このとき白井は二十七歳、京都の新京極に歌舞伎座を新築したはかりの新進の興行師である。その白井と、十七歳年上の鴈治郎とがどこでどう意気投合したのか、以後、二人は協力して道頓堀を制覇することになる。
 白井の道頓堀進出の第一歩は、明治三十八年の弁天座での興行、そして明治三十九年には、中座へ進出、もちろん鴈治郎の出演である。白井は三月もつづけて大阪で打ったが、その翌月には思い切った手に出た。興行時間の改革である。
 明治三十九年というその時代、おどろいたことに道頓堀の芝居は、午前七時八時の開幕、おそくても十時には芝居がはじまり、だらだらと丸一日芝居見物に費すのが常識であった。これでは、よほどの暇人でないがぎり芝居は見られない。白井は思い切って、午後五時開演に踏切り、これが時間の経済ということで一般に大いにうけた。以来、一回興行のときは、がならずこのていどの開演時間が松竹の方針としてつづく。以後、白井は続々と道頓堀の劇場を手に入れることになるのだが、その戦果はヽ                         ‘
 明治四十二年   朝日座買収
 大正六年五月   角座・浪花座買収
 大正七年七月   中座買収
 大正八年九月   弁天座買収
 大正十二年    松竹座新築
と、道頓堀を松竹一色に塗り潰した。…」


【白井 松次郎(しらい まつじろう、1877年12月13日 - 1951年1月23日)】
 明治35年(1902)京都新京極に明治座(のちの京都松竹座)を旗揚げし、興行界の刷新と演劇改良運動に熱心にかかわるようになる。この年、弟とともに大阪市南区葦原町に松竹合名会社を設立。後に東京新富座買収によって東京に進出して以降は、竹次郎が関東の、松次郎が関西の社長となる。松次郎の運命を左右することになったのが大阪の人気役者初代中村鴈治郎との提携であった。明治38年(1905)10月の東京歌舞伎座への出演の際、はじめて手を組んだのを皮切りに、翌明治39年(1906)にははやくもかたい提携のもと道頓堀中座での興行を成功させ、関西における足がかりを築いた松次郎は、同年のうちに京都南座を買収。以後、大阪朝日座、同文楽座(明治42年(1909))、東京新富座(明治43年(1910))、大阪堂嶋座(明治44年(1911))、東京歌舞伎座(大正2年(1913))、大阪角座(大正6年(1917))、大阪中座(大正7年(1918))を次々と手中に収め、上方の興行界を完全に席巻すると同時に、東京にも着実に進出しはじめていました。

写真は現在の中座跡、「中座くいだおれビル」です。”食い倒れ”のビルになっているのは少々残念です。でもこれが大阪かもしれません。当時の道頓堀の繪端書を掲載しておきます(戎橋南詰から東を撮影しています、写真の右側が浪花座、その先に中座があります)。現在の写真と見比べて下さい。

「鳥屋跡(きんなべ)」
<鳥屋>
 2013年2月11日 鳥屋の場所の写真を追加
 中座を観劇中に昼食に出かけます。明治時代後期でも劇場の前には芝居茶屋があり、「桟敷」や「出」の特等席や一等席の客は芝居茶屋が昼食を用意するのです。志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人は「平土間」と呼ばれる大衆席なので、昼食を食べに出かけなければなりません。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…  こゝで、外出用の切符、といつたやうなものを渡され、そとへ飯を食ひに出て、鳥屋にする。廊下を幾曲り、あちこちに離れの建ってゐる奥庭へ、またもや庭下駄を穿かされて出る、といった拵へ、その離れも、呼鈴を押さない限り絶對に女中がよりつかない、といった威じ、 ── 清教徒とは云へ、小説、芝居、。
落語などによる教育その宜しきを得て、相應に鼻は利く……。
「男同士で來るところぢやなささうだね」
 そんなことを云ひながら、志賀は、絹布の座布團を汚らしさうに見おろしてゐた。─今もあるかどうか、大正二年の歳尾ちかく、私が、屋形(藝者の私宅。)の二階に間借をしてゐた頃、純金の鍋を使ふことによって、一躍名を成したのがやはりこの鳥屋だった。恐るべき、主人の商才である。
 葱が青いところばかりだったり、ざらめ砂糖を入れたり、だいぶ様子が變つてゐたが、久振りの肉食で、ぼかにうまかった。女中の装が、東京よりすっと贅澤だ。
 歸りがけ、志賀のはいゝとして、べたんこに穿きへらした朴歯が、水をうつた自然石の沓脱の上に、れいくしく揃へてあるには、聊かきまりのわるい想ひをした。飛石つたひに、お歸りは裏門から、といふ趣向で、 ── ところが、その、送り出された裏通りが、いきなり、両側ずらりと女郎屋で、昨日と違ひ、夜だから、女の妓夫太郎、 ── つまりお妓婿さんたちが、盛になんのかんと呼びかける。鼻下に、八の字でこそなけれ、短く刈り込んだ髭など貯へてゐた志賀が「だんさん」で、青髪、紅顔、しかも矮躯の私は、「ぼんち」或は「ばんさん」と、つまらないけじめをくはされてゐるらしい。行くほどに、帽子を奪はれ、袖口を掴まれて、おるが如く、怒るが如く、また喜ぶが如き、態度はなはだ不鮮明な男どもを見かけ、こいつはけんのんと、二人より添って、成可く往來の眞中を歩く。…」


 当時の芝居茶屋の様子は三田純市の「道頓堀 川/橋/芝居」を参照します。
「…茶屋の焼印を押した草履をはいて行く。芝居の方でも心得ていて、その草履をはいた客は、無条件で木戸を何度でも潜らせてくれる。アオタではないことが分っているからだ。
この草履は、明治の末ごろまで用いられたそうで。

 その草履を茶屋へ返さないで、そっととっておくんです。そして、こんどまた知らん顔をして、家からその草履をはいて芝居へ行くと、こんどは無料で入れる。
 これを〈川竹切り〉といって、私たちの若いころ、よくこんな悪戯をしたものです。

私にこう話して下さったのは、里見惇夫人である。夫人は、太左衛門橋を道頓堀から北へ渡った、笠屋町のお生まれで、お父さんは貴若という素人義太夫の方たったとうががっている。…」


 山内英夫(学習院在学中、里見ク)の奥様が大阪出身とは知りませんでした。夫人は”山中まさと”さんです。大阪の芸者屋の二階に間借りしていたとき、階下の芸妓山中まさと恋仲になったそうです。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…○こゝで晩めしを食ふと云ふので外へ出て、鳥屋に行つた、座敷を幾つも通りぬけて庭に出た、離れがいくつもある、内には土藏作りのなどがある。ちと怪しげである、夫でも久し振りで大いに食ひ、うまかつた。庭から裏へ出たら遊廓の様な處だつた、女の妓夫が「おはいりゃす」 と云つた様な事を云ふ。少し驚いた。
  *この鳥屋こそ大正二年十一月(か十二月)に金鍋と云ふので
   純金と稱する鍋で牛肉や鳥を食はし、大いに大阪趣味を發揮
   し、大當りを取れる店 ── ならんとは。…」


”この鳥屋こそ大正二年十一月(か十二月)に金鍋と云ふので純金と稱する鍋で牛肉や鳥を食はし、大いに大阪趣味を發揮し、大當りを取れる店”、で分かりました。店の名前が「きんなべ」といいます。「大阪の歴史 62」、「モダン道頓堀」に掲載されていました。角座から東に2軒目となります。写真の正面のビル、現在のドラゴンゲートビルのところとおもわれます。

「現在の大阪駅」
<大阪駅>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人は東京に帰ります。明治41年4月7日、大阪発20時25分の列車です。この列車は神戸発19時30分で、翌日の11時新橋着でした。(明治40年3月の時刻表による)

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… いつの間にか、雨は、腰を据ゑた本降りになってゐて、自然、夕闇の迫るのも早かった。いよいよこの旅も、これを最後の宿に、最後の勘定、最後の茶代などすませ、六時半、人力車で梅田驛へ、 ── 無論まだ金輪の、カリカリと小
砂利を噛む音、チラつく街の灯……。
 格別腹もすかないが、久振りで洋食を食ひたいからと、八時半の汽車に、二時間近い餘裕をみて出て來たので、驛の樓上で、ゆっくり食事をする。その間も、志賀は、手元に置いた旅行案内を披いて、またしても下りの時間を調べたり、口に多くは云はないでも、迷ひに迷ってゐる様子だ。
「僕への遠慮なら、ほんとに、そんなこと、ちっともかまはないでくれたまいね」
「なに、そんなわけでもないんだ。……一方には、だいぶ里心もついてゐるんだけど……」
 喫煙室にこ出て来ると、瀬戸内海航路の汽船の寫眞が、額になってかゝつてゐる、 ── 志賀の眼は、すぐまたそれに釘附にされた……

 十一時着の列車が、大船へたどり着くのに、午すぎまでかゝつた。窓外の景色にも飽きて、乗客は、そろそろ不平を愬へだした。

 横濱が四時すぎ、新橋へは、結局七時間牛の延着になった。 ── 六時半と云へば、昨日、大川町の宿を出た時刻、これからまだうちへ歸り着くまでには、まる一晝夜以上の長道中、 ── こんなこともめったにあるまい。それでも、鶴見あたりの桃畑、 ── 既に降りゃんだ夕空の水浅葱、宿した雪と、緋なる花との、あの美しさは忘れられない……。
 電車はむろん不通、人力車も出拂ってゐた。 ── いく山坂を越え、都會の街街を往き来して、ぺたんこに穿きへらされた朴歯を、すぽりすぽり、麻布三河臺と麹町下六番町との、やゝ中央へ見當をつけて、楽しかった旅の思ひ出を、いくらか淋しい気持で語り合ひながら、内幸町をまっすぐに、舊議事堂の辻まで来ると、
「ぢゃア……」。…」


 当時、志賀直哉は麻布三河台町(現在の六本木4-3)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)は麹町下六番町(有島武朗、有島生馬と同じ住まい)の住まいです。

写真は少し前の「大阪駅」です(大阪駅改築前です)。初代「大阪駅」は明治7年5月に開業しており、二代目は明治34年にゴシック様式で建設されてます。今回の大阪訪問は明治41年なので、二代目の大阪駅になります。。