<丸善>
明治41年4月7日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人は大川町の千秋楼から昨日に続いて道頓堀にむかいます。今日は徒歩で心斎橋筋を道頓堀まで南下しています。
里見クの「若き日の旅」からです。
「… 十一時もちかくなって、やつとお輿をあげ、正面に暖い陽を浴びながら、既に三度目の往來を道頓堀へ向ふ。途中丸善によると、志賀に挨拶する小僧があり、懐しさうに何か云ってゐたが、出てからの話に、〜去年の春、日本橋の本店からこっちへ廻されて來たのだが、どうしても性に合はす、いまだに歸りたい、歸りたいと、そればかり思ってゐる、などゝ、低聲で愚痴をこぼしてゐた、どうも関西の人には、ほんたうの意味での友達などになれないやうなものが、何かしらあるのではなからうか、あの小僧さんばかりでなく、前から、関西も、土地としてはい1けれど、人間に困る、といふやうな語は度々開くが、
そんなことを云ってゐた。これから、半信半疑の語調を除き去れば、十数年に及ぶ上方住居の後に、いま東京に囲ってゐる志賀の言葉そっくりそのまゝになる。つまり、志賀も、この丸善の小僧も、関西人に封する感情の點では、なんら逕庭がなかったわけだ……。…」
「丸善
大阪心斎橋店」は、東京・日本橋店に次ぐ2号店として明治4年(1871)に開業しています。2005年9月、そごう心斎橋本店の再開に合わせて移転し「大阪心斎橋そごう店」として再開業しますが2007年撤退しています。美術書や洋書などの専門書を手厚く揃えていたほか、高級文具などを扱い、熟年層向けに専門性の高いテナントを集めた「心祭橋筋商店街」(そごう心斎橋本店11、12階)の中核となっていましたが、顧客対象を絞った品ぞろえのため、百貨店の上層階では計画通りの集客ができなかったものとみられ、前身の「大阪心斎橋店」から続く136年の歴史に幕を閉じています。(ウイキペディア参照)
「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…○四月七日 大坂
○起きて見ると今日もいゝ天気だ。朝めし後ハガキを書いたり「荒野」 を讀んだりした。「不幸なる戀」「彼」「二日」 (此の中で芝居で讀んだ方が多いのだが序だから書いておく) いづれも面白かったが「彼」は尤も感じた、真面目と云ふものが現はれて居る。夫は作物以外に多少武者さんの事を志賀君に聞いて居たとが何とが云ふ事も助けて居るのだらうが、感じ方は實際強かった。ごたくして居る中に十時になったので宿を出た、路中丸善によって見たが何もない。志ノ君は英語の字引きを買って直に中座に行った。少し早過ぎたので其處いら歩いて 「趣味」を求め場に入った。僕は 「荒野」志ノ君は「趣味」を讃んで二時間許り待ってやつと幕が明いた。(山)
○丸善で聲を掛ける人があるがら見ると、日本橋の丸善にゐた、何とがいふアタマのハチの開いた、小僧さんで奇遇でもなんでもないのだが、ヤツパリいくらが嬉しがった。小聲でいふ事は、「私も早く東京へ歸りたいんです、どうも大坂といふ所は商賣人の根性がいやで」と、上方にはどうも此いやみがあるらしい。…」
明治41年で転勤があったとはびっくりしました。番頭などの管理職なら分かるのですが、小僧さんで東京から大阪に転勤とは凄いです。流石、「丸善」といったところですかね!!
★写真は現在の丸善 大阪心斎橋店跡です。心斎橋店と云っても長堀通りの北側にあり、中心街から離れています。そのため「そごう心斎橋本店」に移転したのだとおもいます。でも結局撤退しています。京都の丸善と同じです。