●旅中日記 寺の瓦 其の十一 <和歌山>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年11月17日 <V01L04> 明治・大正期の紀和駅の写真を追加 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の十一<和歌山>」です。前回は奈良県の吉野から下市を廻りました。今回は明治41年4月5日〜6日の和歌山です。何故和歌山なのかはよく分かりません。神戸や岡山等のもう少し大都市を訪ねても良かったのかなともおもいます。とにかく、和歌浦を訪ねたかったようです。


【「旅中日記 寺の瓦」について】
 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「紀和駅」
<和歌山駅>
 明治41年4月5日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は吉野から下市を廻り、吉野口駅から和歌山に向います。吉野口駅17時53分発、和歌山駅20時29分着の列車でした。王寺駅−和歌山駅間は明治33年、紀和鉄道により全通しています。南海鉄道が難波駅ー和歌山市駅間を開通させたのは明治36年ですから、南海鉄道ができるまでは、大阪から和歌山は王寺経由の紀和鉄道しかありませんでした。ちなみに国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が天王寺−東和歌山(現 和歌山駅)間を開通させたのは昭和5年(1930)となります。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 三時間ばかりの車中は、みなそれぐに讀書する。私は「頬白」……。 和歌山、と聞いて、志賀と私とは、慌たやしく降り支度をした。 ── 淡路島の舊藩主である木下は、故郷へ歸らなければならない日取りがあって、前もって、こゝで袂を分つことにきまってはゐたが、驛にはいる間際まで、うつかり讀み耽ってゐたため、挨拶もそこそこに、降りるとすぐもう發車で、十一日間の旅路に、苦楽を共にして來たにしでは、ひどく呆気ない別れ方だった。…

 いつか、天候は、すっかり荒れ模様だった。徴温いびよう風に駕った大粒の雨が、横なぐちに、バラバラと注ぎかけて來るかと思ふと、いきなり、ぐヅと息を詰めたやうに、天も地も、鎮まり返る、 ── そんな晩になってゐた。和歌山ともあらう市が、驛前に、ほんの五六軒しか燈火の洩れる家はなく、忽ちにして眞暗な通りになって了つた。…

「あなた方、どちらまでぃらっしゃるんです?」
 志賀が、吉野口の停車場で、驛の助役か何かに訊いて来た宿屋の名を答へてゐる。
「あゝ有田屋。あれなら、土地で一番の宿屋ですが、……それだったら、和歌山市までお乗りになればよかったんですがね」
「いま降りたの、和歌山ぢゃないんですか」
「いや、あれも和歌山ですけど、もう一つ先に、和歌山市といふ別な驛がありまして、それだと、すぐもう市の中心地帯に近かつたんです」…

註 6
 停車場から繁華街まで二十町もあるとは解せぬ話だが、今はどうか、その頃の和歌山市には、「東」と「中央」と「西」といった風な、三つもの驛があり、そんなこととは夢にも知らぬわれわれは、「東和歌山」だつたか、一番とツつきの驛で降りてしまひ、おかげでこんな、しないでもいい苦労を舐めたわけ。…」

 ”淡路島の舊藩主である木下”と上記に書いていますが、正確には”備中足守藩2万5000石(豊臣秀吉正室・北政所の生家)の旧藩主です。備中足守は岡山からJR吉備線で6駅目の足守駅(岡山市北区)から北に2Km程のところです。木下利玄自身は明治19年(1886)岡山県賀陽郡足守村(現 岡山市北区足守)にて備中足守藩最後の藩主・木下利恭の弟 利永の二男として生まれています。明治24年(1891)5歳の時、利恭の死去により宗家・木下子爵家の養嗣子となり家督を継いでいます。(ウイキペディア参照)

 上記に和歌山での駅の話が書かれていますので、少し整理します。
・一番最初に和歌山と名の付く駅が出来たのは明治33年、紀和鉄道の和歌山駅です。王寺からの和歌山線で現在の紀和駅のところにありました(上記の駅です)。
・二番目に和歌山と名の付く駅が出来たのは南海鉄道の和歌山市駅です。難波ー和歌山市駅間を明治36年に開通させています。
・三番目は国鉄紀勢西線の最初の開通区間として、和歌山駅(現在の紀和駅)から箕島駅までが開通したのが大正13年で現在の和歌山駅が東和歌山駅として開業しています。
・四番目は国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が天王寺駅−阪和東和歌山駅(現 和歌山駅)間を開通させたのが昭和5年です。
 そして、明治36年(1898)以来和歌山駅を名乗っていた現在の紀和駅が昭和43年(1968)に紀和駅と改称され、一ヶ月後に東和歌山駅が和歌山駅に改称されます。東和歌山駅名は無くなり、和歌山市駅は南海の駅として現存しています。

写真は現在のJR和歌山線紀和駅(旧 和歌山駅)です。高架化されています。古い写真を見つけました。ウイキペディアの紀和駅の項に明治・大正期の写真として掲載されていました。

「小早川という宿屋跡」
<小早川と云ふ宿屋>
 木下利玄(東京帝国大学在学中)とは和歌山駅で別れたため、ここからは志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人旅となります。二人は和歌山駅を20時30分過ぎに吉野口駅の駅員に聞いていた有田屋という旅館に向って雨の中を歩いています。有田屋までは”十七八丁と書いていますが、オリジナルの「旅中日記 寺の瓦」では二十町と書いており、実測すると1.7Km程なので修正したとおもわれます。歩くと20分から25分程ですのでたいしたことは無いのですが、雨も降っていたこともあり、たいそうに書いています。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 「有田屋まで、まだよつぽどあるんでせうか」
「さうですねえ、十七八丁……。それに、こんな晩で、歩いてる人もないでせうから、とても道がおわかりンなりますまい」
「何しろ、初あての土地なんで……」
「まござんす、途中まで、……もう少し繁華な通りに出るまで、わたくし、御案内いたしませう」…

 有田屋では、帳場格子のなかゝら立って来ようともしず、一向気の毒さうな顔つきでもなく、つる禿の番頭に、お気の毒ですが、仝部ふさがって居りますので、と、あっさり断られて了った。當市第一の宿屋としては、ちよっと通しかねるこっちの風態も承知の上で、なほかっ、私は、少からず癪にさへて、断るにしても、あんまり禮儀を知らなすぎる、といふ意味を洩すと、志賀も同感して、
「『にべもしゃくりも納戸口』つて文句があるが、實際そんな感じの断り方だったね」
「なんだい、それア」
「『酒屋』にあるぢゃないか」
「いゝえ、それア慥かに聞いたことのある文句だけど、にべとは……」
「にべか。……なんだらうな。……それでも、にべの方は、字引でもひいたら、まだしも出て来さうな言葉だけれど、しゃしゃりに至っては、……なんだい、しゃしゃりたア」
「知らないよ。だから、こっちで訊いてるんぢゃアないか」
 二三流どころの宿屋を見つけて、十一時ちかく、やっと晩飯にありつく。…」

 上記に書かれている”有田屋”について和歌山県立図書館で調べてみました。昭和7年の和歌山縣商工人名録には旅館で十数軒掲載されていました。その中に有田屋がありました。「有田屋 前島こえつ 13番丁-7(写真の右側、現存していません)」、これで場所もわかりました。まだ宿泊した”二三流どころの宿屋”が分かりません。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「… 停車場を出ると淋しい暗い町である。車内で聞いた第一の旅館と云ふ有田屋へは二十町もあると云ふのだ。夫に妙に生温い風がぴゅうぴゅうと吹いて居る。大粒の雨がぽとポトと風上に向けてさして居る傘に降りつける。南側とも家のない處へ出ると吹きツ晒しで傘がこはれ相だ。「駄目だ」 と云ふんで傘をたゝむ。…

これからかうかうと道を教はつて有田屋に行くと番頭め、「いらっしゃいまし」とも云はないで二人をじろじろ見て居る。「室は明いて居るか」 と云ふと 「お気の毒ですが……」 と云ふ。そのくせちっともお気の毒さうな顔付きでもない。さつき前を通って見て置いた小早川と云ふ宿屋に行く、飴りきれいではないがまアまア我慢する。
 風は楓々吹き荒れて居る。 其の為めに電燈が明滅する、端書も日記も一字書いては休み一行かいては休むと云ふ有様、よして床に入る。(山)…」

 ここで”小早川と云ふ宿屋”の名前が出てきます。しかし、昭和7年の和歌山縣商工人名録には記載がありません。商工人名録には一流の旅館しか掲載がないようです。しかたがないので、”小早川”という名前で昭和5年の和歌山縣下普通電話番号簿。で調べてみました。ありました、「小早川伊助 本町一丁目−2」です。これで場所もわかりました。

写真は現在の「小早川という宿屋」跡です。地番で左が1番、次が2番ですから左から2軒目になります。空襲ですっかり焼けてしまっており、昔の面影はありません。



和歌山市地図



「和歌山城」
<丸の内をぬけて岡公園>
 明治41年4月6日、朝、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人(昨日、木下がぬけた)は「小早川という宿屋」を出発して和歌山城を通って和歌浦に向います。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…  城跡の九ノ内をぬけて、岡公園に行く。昨夜の吹き降りに、堅く踏み均された往來の小砂利が、ひと粒ひとつぶ篏め込んだ「研出し」の三和土のやうに洗ひ清められて、ぼかにすがすがしい。石垣に、びつくちするやうな大きな石がある。南海に面したこゝでは、櫻は既に満開のところを、雨にうたれ、色あせて、やゝ病的な美しさだ。…」
 
《今日のコース》
・小早川という宿屋→和歌山城→岡公園(約1Km)→(徒歩)→和歌浦(約5Km)

 宿屋から岡公園まで1Km、岡公園から和歌浦まで約5Kmは歩くと大変です。路面電車は和歌山水力電気株式会社が和歌山市駅−県庁前(後の市役所前)−和歌裏口−紀三井寺間を明治42年に開業させています。三人が訪ねたのは明治41年なので一年程早かったようです。夏目漱石は明治44年に訪ねており路面電車に乗っています。

写真は現在の和歌山城です。和歌山城は昭和20年7月の空襲で焼け落ちています。現在のお城は鉄筋コンクリート造りです。戦前の和歌山城の絵葉書を掲載しておきます(同じ構図の現在の写真も掲載)。

「紀州東照宮」
<一に権現>
 和歌山市内から南に徒歩一時間、和歌浦に着きます。明治以降、和歌浦は玉津島神社、東照宮、天満宮の遷座する聖地として庶民に親しまれていたようです。二人も「一に権現」、「二の名所、玉津島」、「三の下り松」、「四に塩釜」といっています(天満宮が入っていない)が、江戸時代には義太夫・三十三間堂棟(むなきの)由来 −平太郎住家の段−に「一に権現(紀州東照宮)、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃よ、ヨイヨイヨイトナ」と歌われていますので、観光案内そのままかもしれません。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「… 約一里、和歌ノ浦へ着くと、神社があった。おほかた「一に権現」だらうと、石段をあがったが、家の表札、店の看板にあたるやうなものが、.どこにも見あたらない。訊くのもへんな具合だから、社務所で繪葉書を買ってみると、果してさうだったが、同じ権現でも、東照権現で、つまり家康を祭った社なのだ。後白河法皇の建立たる三十三間堂の棟木と、狸爺と関係があるのは、時代錯誤も甚だしいではないか、と、せっかく志賀が「学問ごっこ」に誘ってくれたが、歴史と來ると、こっちは苦手ちうの苦手なので、作者の手ぬかりだね、と、軽く逃げて了ふ。…」
 和歌山は江戸幕府が開府された後、御三家である紀州徳川家の城下町として栄えます。その際に建てられたのが紀州東照宮です。初代紀州藩主の徳川頼宣は祭神に実父である東照大権現(徳川家康)を勧請し、正式に東照宮から遷宮を行っています(現在でも東照宮は全国に120社ほどある)。(ウイキペディア参照)

写真は現在の「紀州東照宮」です。階段を登って200m、山の中腹にあります(入口の写真も掲載しておきます)。

「玉津島神社」
<二の名所、玉津島>
 和歌山市内から歩いてくると、最初に「紀州東照宮」です。ここから海岸沿い(当時は海岸沿いだったが現在は川沿い)に約800mで玉津島神社です。奈良・平安時代の頃は玉津島神社がある一帯は海上に浮かぶ小島で、潮の干満で、陸と続いたり離れたりする景観を呈していたといわれています。その神聖さから丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられたといわれています。(ウイキペディア参照)

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 二の名所、玉津島は、なるほど昔は島だったらしい海岸の丘で、小松が密生してゐる。紀三井寺のある山を背にして、紀淡海峡紀淡海峡の潮を見おろすちよつとした景色だ。うす水色の島山は、木下の舊藩地か。今頃は、たぶん、そこへ渡る船の上にでもゐるのだらう。……おちる時、忘れ物をしなさんなよ……。…」

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「… これを出て、二の名所たる、 玉津島へ行く。海岸の岳〔丘〕で昔は島だったのかも知れぬが、小松が一面に生えてゐて、前に海を望み、後に紀三井寺。中々景色のまい所だった。
三の下り松は、枯れて了つたさうだが四の鹽釜は、小さな社で玉津島に封した山の岩穴にある。紀三井寺はヤメて、あしぺやといふ家の前から人力車に乗る。
此旅行で人力車に乗ったのはこれが初めてだ。…」


 「若き日の旅」には”紀三井寺のある山を背にして、紀淡海峡紀淡海峡の潮を見おろすちよつとした景色”、「旅中日記 寺の瓦」には”海岸の岳〔丘〕”と書かれていますので、小高い山の上に登ったとおもわれます。この辺りの小山は玉津島神社の前にある鏡山、裏の奠供山(てんぐやま)、三段橋を渡って妹背山しかありません。橋を渡ったとは書いていませんので、鏡山が適当かとおもいます。鏡山からの、三段橋と妹背山不老橋から片男波海岸方面の写真を掲載しておきます。

写真は現在の「玉津島神社」です。戦前の「玉津島神社」の絵葉書も掲載しておきます。

「塩釜神社」
<三の下り松、四に塩釜>
 三番目が「下り松」ですが明治41年で既に枯れていたようです。戦前の絵葉書では写っていますのでどうなっているのでしょうか! 
 塩竈神社(釜=竈)は大正6年(1917)玉津島神社の祓所から神社になっています。海産物、安産の神として信仰されてきた神社で、神体の塩槌翁尊は輿の窟という岩穴に鎮座しています。元は玉津島神社の抜所で、輿ノ窟(こしのいわや)と呼ばれていました。輿ノ窟(こしのいわや)と呼ばれていた理由は、かつて浜降り神事の際に神輿が奉置される場所であったからです。(ウイキペディア参照)
 二人が訪ねた明治41年はまだ神社になっていませんでした。単に塩釜だったわけです。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 三の下り松は枯れて了つたとか。玉津島に封した山の岩穴にある小さな社が、「四に塩釜」で、「よオい、よオい、よオいとオなア、はどこだらう」
 紀三井寺はやめにして、葦邊屋といふ宿屋だか、料理屋だかの前にゐた車夫に、「應封」して乗る。この旅に出て、人力は初めてだ。
 同じ和歌山でも、今日は「市」のつく方の停車場から、十一時半の汽車で大阪に向ふ。。…」


 やっぱり”義太夫・三十三間堂棟由来 −平太郎住家の段− の「一に権現(紀州東照宮)、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃よ、ヨイヨイヨイトナ」が出てきます。”ヨイヨイヨイトナ”は人夫たちが木を動かそうとしているかけ声です。この木が何処かとおもっているわけです。
 
「あしべや(葦邊屋)」は江戸時代からの旅館で、昭和初期の絵はがきには「望海楼支店 あしべや」と書かれています(同じ場所からの現在の写真を掲載しておきます。写真正面の山が鏡山)。”あしべや”は「夏目漱石の大阪、明石、和歌山を歩く (中) 【明治44年】」にも登場しています。

《今日のコース》
・小早川という宿屋→和歌山城→岡公園→(徒歩)→紀州東照宮→玉津島神社→鏡山→下り松跡→塩釜→あしべや→(人力車)→和歌山市駅(11時28分發)→(南海鉄道)→難波駅(13時18分着)

写真は現在の「塩釜神社」です。右側を廻っていくと「あしべや」です。左側へ廻って右み曲がると玉津島神社です。戦前の「塩釜神社」の絵葉書を掲載しておきます。

 次回は大阪です。



和歌浦地図