<和歌山駅>
明治41年4月5日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は吉野から下市を廻り、吉野口駅から和歌山に向います。吉野口駅17時53分発、和歌山駅20時29分着の列車でした。王寺駅−和歌山駅間は明治33年、紀和鉄道により全通しています。南海鉄道が難波駅ー和歌山市駅間を開通させたのは明治36年ですから、南海鉄道ができるまでは、大阪から和歌山は王寺経由の紀和鉄道しかありませんでした。ちなみに国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が天王寺−東和歌山(現
和歌山駅)間を開通させたのは昭和5年(1930)となります。
里見クの「若き日の旅」からです。
「… 三時間ばかりの車中は、みなそれぐに讀書する。私は「頬白」……。 和歌山、と聞いて、志賀と私とは、慌たやしく降り支度をした。
── 淡路島の舊藩主である木下は、故郷へ歸らなければならない日取りがあって、前もって、こゝで袂を分つことにきまってはゐたが、驛にはいる間際まで、うつかり讀み耽ってゐたため、挨拶もそこそこに、降りるとすぐもう發車で、十一日間の旅路に、苦楽を共にして來たにしでは、ひどく呆気ない別れ方だった。…
…
いつか、天候は、すっかり荒れ模様だった。徴温いびよう風に駕った大粒の雨が、横なぐちに、バラバラと注ぎかけて來るかと思ふと、いきなり、ぐヅと息を詰めたやうに、天も地も、鎮まり返る、
── そんな晩になってゐた。和歌山ともあらう市が、驛前に、ほんの五六軒しか燈火の洩れる家はなく、忽ちにして眞暗な通りになって了つた。…
…
「あなた方、どちらまでぃらっしゃるんです?」
志賀が、吉野口の停車場で、驛の助役か何かに訊いて来た宿屋の名を答へてゐる。
「あゝ有田屋。あれなら、土地で一番の宿屋ですが、……それだったら、和歌山市までお乗りになればよかったんですがね」
「いま降りたの、和歌山ぢゃないんですか」
「いや、あれも和歌山ですけど、もう一つ先に、和歌山市といふ別な驛がありまして、それだと、すぐもう市の中心地帯に近かつたんです」…
…
註 6
停車場から繁華街まで二十町もあるとは解せぬ話だが、今はどうか、その頃の和歌山市には、「東」と「中央」と「西」といった風な、三つもの驛があり、そんなこととは夢にも知らぬわれわれは、「東和歌山」だつたか、一番とツつきの驛で降りてしまひ、おかげでこんな、しないでもいい苦労を舐めたわけ。…」
”淡路島の舊藩主である木下”と上記に書いていますが、正確には”備中足守藩2万5000石(豊臣秀吉正室・北政所の生家)の旧藩主です。備中足守は岡山からJR吉備線で6駅目の足守駅(岡山市北区)から北に2Km程のところです。木下利玄自身は明治19年(1886)岡山県賀陽郡足守村(現
岡山市北区足守)にて備中足守藩最後の藩主・木下利恭の弟
利永の二男として生まれています。明治24年(1891)5歳の時、利恭の死去により宗家・木下子爵家の養嗣子となり家督を継いでいます。(ウイキペディア参照)
上記に和歌山での駅の話が書かれていますので、少し整理します。
・一番最初に和歌山と名の付く駅が出来たのは明治33年、紀和鉄道の和歌山駅です。王寺からの和歌山線で現在の紀和駅のところにありました(上記の駅です)。
・二番目に和歌山と名の付く駅が出来たのは南海鉄道の和歌山市駅です。難波ー和歌山市駅間を明治36年に開通させています。
・三番目は国鉄紀勢西線の最初の開通区間として、和歌山駅(現在の紀和駅)から箕島駅までが開通したのが大正13年で現在の和歌山駅が東和歌山駅として開業しています。
・四番目は国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が天王寺駅−阪和東和歌山駅(現 和歌山駅)間を開通させたのが昭和5年です。
そして、明治36年(1898)以来和歌山駅を名乗っていた現在の紀和駅が昭和43年(1968)に紀和駅と改称され、一ヶ月後に東和歌山駅が和歌山駅に改称されます。東和歌山駅名は無くなり、和歌山市駅は南海の駅として現存しています。
★写真は現在のJR和歌山線紀和駅(旧 和歌山駅)です。高架化されています。古い写真を見つけました。ウイキペディアの紀和駅の項に明治・大正期の写真として掲載されていました。