●旅中日記 寺の瓦 其の九 <法隆寺>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年9月15日 <V01L01> 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の九<法隆寺>」です。前回は明治41年4月2日から1泊2日の奈良市内観光でした。今回は4月3日〜4日の法隆寺です。法隆寺については子規、堀辰雄等で何回か掲載していますが、今回は「寺の瓦」にそって掲載しました。


【「旅中日記 寺の瓦」について】
 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「法隆寺駅」
<法隆寺駅>
 明治41年4月3日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は奈良市内を観光した後、法隆寺に向います。「ホトトギス」に高浜虛子の「斑鳩物語」が掲載されたのが明治40年の5月ですから、三人は「斑鳩物語」を読んで相当影響を受けていたようです(特に木下利玄)。「寺の瓦」でもこの「斑鳩物語」が登場しています。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 念のため郵便局によると、細川からの小包が来てゐて、なかは、暫、助六、揚巻を描いた三筋の手拭だつた。揚巻が、隔段に見劣りするため、誰も貰ひ手がなく、この分配法にひともめする。
 それでも、早速土産物屋にはいつて、奈良人形の雛を求め、荷造りさせて細川へ送つたり、本屋によつて、新刊の文藝倶楽部を買つたりしてから、停車場に急ぐ。

    十一

 一片の雲影もとやめず、西と東と中天と美しい染分けになり、地上すれすれの、淡紫の靄も裾濃に、いかにも春らしく暮れて行くころ法隆寺に着いた。…」

 当時の時刻表で三人が乗車した奈良から法隆寺までの列車を少し調べてみました。奈良からは大阪湊町行きに乗ります。”暮れて行くころ”と次項で書かれているので、当時の日没時間を計算すると、奈良で18時19分となります。この時間を考えて乗車列車を考えると、奈良発17時5分、法隆寺駅着17時26分が丁度です。一本前は16時発(15時に新藥師寺に居たので間に合わず)、一本後は18時24分なので17時5分発がピッタリとおもいます。

写真は現在の法隆寺駅です。明治41年なので大阪鉄道が国有化された翌年になります。旧駅舎の写真を探したのですが見つけることが出来ませんでした。見つけたら掲載したいとおもっています。

「大黒屋跡」
<大黒屋>
 明治41年4月3日の法隆寺での宿泊先の大黒屋です。法隆寺駅から1.5Km程、徒歩で約20分、17時50分頃の到着になります。夢殿の南門正面真ん前になります。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…    十一

一片の雲影もとやめず、西と東と中天と美しい染分けになり、地上すれすれの、淡紫の靄も裾濃に、いかにも春らしく暮れて行くころ法隆寺に着いた。麥、菜種、藺、紫雲英、黒土の、畑中の道を行くほどに、右の方、あたらの家竝よりやゝ立ち勝った一軒の、その漆喰壁の一箇所へ、白抜きに、「大黒屋」の三文字が、次第にはっきりして来る。虚子の「斑鳩物語」は、この名の宿を舞台にしてあるが、まさか本名のまゝとは思はなかったので、旅のそらで、思ひもかけない知人にめぐり合った心地、早速そこの、真黒に煤けた低い天井の下、廣々と、人気ない土間に、三足の朴歯を拉べて脱ぐ。
「あの、一番奥の、角の二階あいてますか」
 儚く消え易い美に敏感な、しっとりと、温かい性分に相通ずるものがあつてか、虚子を好くこと、仲間うちで木下を以て最とした。「斑鳩物語」の「私」 ── 恐らく虚子自身と覚しい人が泊ってゐたやうに書いてある、「角二階」を、早速に所望したのも、だから木下で、調子に、とても初めて来た客とは思へないものがあった。
「へえ、あいてます」
 そこへ案内される途中、存外に多い間数の、どこもかも、まるで化物屋敷かなぞのやうに、深閑と鎮まち返ってゐるのに、聞いてみると、客は、ほかにたった一人とのこと……。
 やゝ蒸れ臭く、閉めきつであった障子を、自分たちで勝手に明け放して、欄干に倚ると、木下は、すぐまた「斑鳩物語」のなかの会話をそのまゝに、あれ、畝傍? 金剛山はどれ? 香具山は? 三輪はどの邊? と、「お道さん」でもなさそうな女中を捉へて、矢継早の質問だ。季節もかれこれ同じ頃、同じ眺めから、たヾ一つ虚子の拳げてゐた梨の花の白さを缺くのみだった。一番年下のくせに、眞先に私が、族の労れにまゐつた。旅の労れといふようも、先輩二人に伍して、対等につきあって行かうとする、小生意気なせい伸びから今度は、代って志賀が、
「鐘は、どこのが聞えるんだらう。夢殿で撞くかしら」
「さうだんな、朝晩のは薬師さんだつけど、そら、夢殿でかて、撞きやはりまつさ」
 だが、それは、毎日午前十一時単に、お舎利様を出す時、衆僧を呼び集める知らせの鐘だけだ、とのこと、これではつきりした。…」

 高浜虛子の「斑鳩物語」が登場します。明治40年なので一年程前の作品なのですがよく読んでいます。この辺りは「法隆寺の鐘と大黒屋を歩く」を見て下さい。鐘の音も含めて掲載されています。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…晩飯の時来た女中は人のよさゝうな淋しい二十六七の女であったが此の人に「去年の春高濱さんと云ふ人が来たのを知ってるか」ときくと「知って居ります、高濱清と云ふお方?」と云つた。「お道さんと云ふ人が居たのか」ときくと、「あの時分は居ましたがもう居りません」と答へた。比の女中は矢張「斑鳩物語」に出て居たも一人の方の女中だ。あれが小説になってからこの部屋へとめてくれろと云って来る人や、あれほどの部屋であったのだ、などときく人があるさうな。法隆寺の鐘がなって日はくれた。火取蟲があけはなつた障子からランプに飛んで来てまるで六月時分のしづかなむし暑い晩のやうな心地がする。昔は盛だったらしい宿である、間数の多いのに客は吾等の他に一人しかなく、さびれた處が云ふに云はれず哀である。梭の音も唄もきこえず、たゞ蛙は一寸きこえたやうだった。…」
 高浜虛子は本当に大黒屋に泊ったようです。

写真は戦後の大黒屋です。よく見るとぼろぼろです。現在は取り壊されて駐車場になっていました。駐車場の左横に大黒屋の看板がありますが、現在は営業されていないようです。



大正10年、法隆寺付近地図



「夢殿」
<夢殿>
 明治41年4月4日、朝、案内人を頼んで法隆寺観光に出かけます。大黒屋を左に出て、直ぐに右に曲がって100m程歩くと夢殿入口の四脚門です。戦前はこの辺りに三軒の旅館があったそうです。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… すぐもう夢殿だった。常時、本尊の観世音菩薩は、見れば眼がつぶれるくらゐに云はれてゐた秘佛で、拜観など思ひもよらず、ほんの、建物の外部だけだ。八角堂で、床下を固めてあるのは、セメントだとも、それに類する一種の土だとも、両説ある、などと、猫背にかヾより、あいてゐる方の手頸を、袖ロにひツこめて、小熄みなく落ちる糠雨のなかに、しよんぼりと佇んだ案内の爺さんが説明してくれる。八つのうち二つだけが、支那傅來ぬものだといふ鬼瓦も、さう聞けば、成程、それだけ際立つていゝ。…」
 法隆寺の周りは田園地帯で、奈良市内のようなお店はありません。現在も法隆寺正面に駐車場も兼ねた土産物屋が十数軒ある程度です。法隆寺以外に見るところはありません。

写真は現在の夢殿です。観光客が多いです。当時は拝観できなかった本尊の観音菩薩立像(救世観音)は春と秋に特別開扉されています。見ても目はつぶれませんよ!!

「法隆寺 金堂」
<法隆寺 金堂>
 夢殿がある東院伽藍を出て、東大門を通って西院伽藍に向います。中門から入ると(現在は入れない)左が五重塔、右が金堂です。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 今日の世になつて、法隆寺の金堂について語るなどは、だいぶ間抜じみるが、三十二年前、二十一歳の私がうけた感激だけは、なんとかして傅へたいものだ。
 ── 鳥佛師、十五年間の勞作だといふだけに、釋迦説ヘ型の本曾、脇佛、今よで京都や奈良で見て來ものとは、がらりとまた趣きが變り、實に新鮮に來る。佛くさい荘巌さなどは二の次で、 ── といふことは、禮拜の對象物たるべき功利主義など微塵もなく、どこまでもたヾ美のための美に専念したやうな感じのものだ。六朝様式の特徴か、後世の佛像とは、顔つきがまるで違ふ。細面で、素晴しい顎の圓味で、眉は、ロセッテイの描く女のそれに似た尻あがり、鼻は、眞下から窺きあげると、正三角形だが、それで正面からはいゝ形だし、唇はいくぶん厚い加減で、肉感的だ。脇佛が、冠物の両側に、鋸の刄型に切れ込んだピラピラをさげてゐるのも、ほかでまだ見たことのないものだった。四天王は、北方天を除くほか、山口費大口の作とか、「古拙」といふ言葉もあるが、大した古巧で、顔、骨格、蹈まへてゐる怪獣、 ── いやに印象が強い。少し甘いのかも知れないが、當時の私として、一番気に入ったのは、百済傅来と稱する虚空蔵の立像(今、「百済観音」と呼ばれてゐるもの。)で、顎の線は、本尊のそれより更に美しく、實瓶を持ち、すんなりと伸ばした左の腕など、なんとも云へない。言葉の下賤を顧ずに云ふなら、惚れぼれする、といふ、あれだ、全くあの気持だ。…」…」

 こちらも法隆寺 金堂のお話しは知識が無いので割愛します。奈良のお寺は京都のお寺と違い、時代が古いせいかもしれませんが、池や庭という風景を楽しむのでは無く、お寺そのもの(仏像)を感じるように出来ているとおもえます。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「… 次に金堂の方へ行って見る、先づ本尊は度利作の釋迦説教型の座像である。顔など餘程趣が達ふ、細面で顎が
美しい丸味である、眉はロセツデの女の様に釣り上って居る気味だ、鼻は眞下から見ると殆ど正三角形であるが其ありに悪い形ではない、ロはわりに厨が厚く甚だ美しい、全體から云へば荘蕨と云ふ感じには乏しい様だが非常に美しい、後世の佛像に見る事の出来ない美術的な所がある。左右の側傍の顔などは大いに法隆寺式の特色を顕して居るのだ相だ。
我國始めての佛像と云ふのが本尊の左右にあったのだ相だが向つて左の方のは盗まれて八百年程後に出來たものだ相だ。右のは即日本最初のである。(案内者Saysだが) 南方を對照して見ると成程餘程違ふ、次に山口費大口作の四天王だ、此が又古い丈あっていゝ。服装なり顔立なり踏へて居る怪獣なり餘程面白いと思った。(此の内、北方天のみは他人の作とある由だが左様は思はれない) 本尊の後方にある印度傳來と傳へられて居る虚空蔵の立像、之が叉非常にいゝ、僕は一番之が気に入った。顔は虔利の作に似た處もあるが顎の工合が一層よい、一寸鴈治郎の顎の丸味である。左の手で徳利を持って居る、此の手の垂れ工合が美しい、少し前の方へ出して居る。天蓋も度利作の由だ、歌舞の菩薩や鳳凰が付いて居る、其下に一種の陶器であらうと云はれて居るとか云ふもので出來て居る飾がある、美しいし、風に揺れると鳴るのだ相だ。壁書も立派なもんだがこっちは志賀君が受け持たれる。何しろ度利が十五年の間毎日入って作った堂だ相だから立涯な事申す迄もないのである。(山)…」

 (山)は山内英夫(学習院在学中、里見ク)が書いたものなので、本人になるわけです。

写真は現在の法隆寺 金堂です。昔の写真もあるのですが全く変りませんで現在の写真で見て下さい。

「法隆寺 五重塔」
<法隆寺 五重塔>
 西院伽藍の中門から入ると(現在は入れない)左が五重塔です。素人の発言なので申し訳ないのですが、奈良のお寺は廻廊に取り囲まれて大講堂、金堂、五重塔が位置づけられており、又、藥師寺のように、金堂+東西の五重塔のような形式もあり、唐招提寺に五重塔があったのも自然に判ります。形式に非常に興味がわきます。それに並び方の方向も興味があります。もう少し知識が増えたら解説できるかなとおもっています。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 五重ノ塔の地階、も可笑しいが、つま一番下に、一尺たらずの塑像がたくさん置いたツぱなしで、「手を觸る可らず」の禁札さへ出してなかつた。慾心からでなくとも、蒐集癖で、つい持つて行きたくなる人もありさうなものを、思へば、暢気な話だつた。われわれは、平気でそれを手に把りあげ、空洞かどうか、びつくり返して見たりしてから、なんのこともなくまたもとの場所に据ゑて賜つて来たが、今からでは、惜しいことをした、と思へないこともない……。…」
 「写真・今世紀の法隆寺、小学館」という写真集があるのですが、明治時代と現在(昭和60年)との法隆寺の写真比較を掲載しています。その中に、「五重塔内東(北)面塑像郡、明治30年代、昭和31年」という写真が掲載されています。よく見ると、明治時代から塑像の数がかなり減っています。推定ですが、上記に書かれている通り、誰かが持ち出してしまったのではないかとおもいます。たくさんあるなかで一つ持ち出しても目立ちませんが、それが続くとかなり減って目立ってしまいます。

《今日のコース》
・大黒屋→東院伽藍(夢殿)→西院伽藍(實物蔵、金堂、五重塔、中門)→大黒屋(昼食)→法隆寺駅

写真は現在の法隆寺 五重塔です。

 次回は吉野です。



法隆寺付近地図