<大黒屋> 明治41年4月3日の法隆寺での宿泊先の大黒屋です。法隆寺駅から1.5Km程、徒歩で約20分、17時50分頃の到着になります。夢殿の南門正面真ん前になります。
里見クの「若き日の旅」からです。
「… 十一
一片の雲影もとやめず、西と東と中天と美しい染分けになり、地上すれすれの、淡紫の靄も裾濃に、いかにも春らしく暮れて行くころ法隆寺に着いた。麥、菜種、藺、紫雲英、黒土の、畑中の道を行くほどに、右の方、あたらの家竝よりやゝ立ち勝った一軒の、その漆喰壁の一箇所へ、白抜きに、「大黒屋」の三文字が、次第にはっきりして来る。虚子の「斑鳩物語」は、この名の宿を舞台にしてあるが、まさか本名のまゝとは思はなかったので、旅のそらで、思ひもかけない知人にめぐり合った心地、早速そこの、真黒に煤けた低い天井の下、廣々と、人気ない土間に、三足の朴歯を拉べて脱ぐ。
「あの、一番奥の、角の二階あいてますか」
儚く消え易い美に敏感な、しっとりと、温かい性分に相通ずるものがあつてか、虚子を好くこと、仲間うちで木下を以て最とした。「斑鳩物語」の「私」
── 恐らく虚子自身と覚しい人が泊ってゐたやうに書いてある、「角二階」を、早速に所望したのも、だから木下で、調子に、とても初めて来た客とは思へないものがあった。
「へえ、あいてます」
そこへ案内される途中、存外に多い間数の、どこもかも、まるで化物屋敷かなぞのやうに、深閑と鎮まち返ってゐるのに、聞いてみると、客は、ほかにたった一人とのこと……。
やゝ蒸れ臭く、閉めきつであった障子を、自分たちで勝手に明け放して、欄干に倚ると、木下は、すぐまた「斑鳩物語」のなかの会話をそのまゝに、あれ、畝傍? 金剛山はどれ? 香具山は? 三輪はどの邊? と、「お道さん」でもなさそうな女中を捉へて、矢継早の質問だ。季節もかれこれ同じ頃、同じ眺めから、たヾ一つ虚子の拳げてゐた梨の花の白さを缺くのみだった。一番年下のくせに、眞先に私が、族の労れにまゐつた。旅の労れといふようも、先輩二人に伍して、対等につきあって行かうとする、小生意気なせい伸びから今度は、代って志賀が、
「鐘は、どこのが聞えるんだらう。夢殿で撞くかしら」
「さうだんな、朝晩のは薬師さんだつけど、そら、夢殿でかて、撞きやはりまつさ」
だが、それは、毎日午前十一時単に、お舎利様を出す時、衆僧を呼び集める知らせの鐘だけだ、とのこと、これではつきりした。…」
高浜虛子の「斑鳩物語」が登場します。明治40年なので一年程前の作品なのですがよく読んでいます。この辺りは「
法隆寺の鐘と大黒屋を歩く」を見て下さい。鐘の音も含めて掲載されています。
「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…晩飯の時来た女中は人のよさゝうな淋しい二十六七の女であったが此の人に「去年の春高濱さんと云ふ人が来たのを知ってるか」ときくと「知って居ります、高濱清と云ふお方?」と云つた。「お道さんと云ふ人が居たのか」ときくと、「あの時分は居ましたがもう居りません」と答へた。比の女中は矢張「斑鳩物語」に出て居たも一人の方の女中だ。あれが小説になってからこの部屋へとめてくれろと云って来る人や、あれほどの部屋であったのだ、などときく人があるさうな。法隆寺の鐘がなって日はくれた。火取蟲があけはなつた障子からランプに飛んで来てまるで六月時分のしづかなむし暑い晩のやうな心地がする。昔は盛だったらしい宿である、間数の多いのに客は吾等の他に一人しかなく、さびれた處が云ふに云はれず哀である。梭の音も唄もきこえず、たゞ蛙は一寸きこえたやうだった。…」
高浜虛子は本当に大黒屋に泊ったようです。
★写真は戦後の大黒屋です。よく見るとぼろぼろです。現在は取り壊されて
駐車場になっていました。駐車場の左横に
大黒屋の看板がありますが、現在は営業されていないようです。