＜大黒屋＞
　法隆寺夢殿前の「大黒屋」は高浜虛子の「斑鳩物語」に登場して有名になります。「斑鳩物語」が「ホトトギス」に掲載されたのは明治４０年（1907）で、翌年には「ホトトギス」を読んだ里見�ｸ、志賀直哉一行がこの大黒屋に宿泊しています。里見�ｸはこの時の旅行記を後に「若き日の旅」として甲鳥書林より昭和１５年に出版しています。
　まずは高浜虛子の「斑鳩物語」に登場している「大黒屋」から紹介したいとおもいます。
　高浜虛子の「斑鳩物語」の書き出しです。
「　法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まってある。其の中の一軒の大黒屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走って出たのは十七八の娘である。色の白い、田舎娘にしては才はじけた顔立ちだ、手ばしこく車夫から会の荷物を受取って先に立つ。廊下を行っては三段程の段階子を登り叉廊下を行っては三段程の段階子を登り一番奥まった中二階に余を導く。小作りな體に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。
　荷物を床脇に避いて南の障子を廣々と開けてくれる。大和一圓が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に凭れて眺める。…」
　夢殿南門前の宿屋については「大黒屋」の他にもう一軒は分かっています。会津八一の「自註鹿鳴集」に登場している「かせや」です。”作者が明治４１年の８月、夢殿に近き「かせや」といへる宿屋にやどりて”と書いています。この「かせや」について大谷晃一氏が「続・関西名作の風土」のなかで、”かせやは八一の思い違いで、本当は、かせく。大黒屋の東筋向いにあった。夢殿南門前の空地になっている。”と書いています。
　一年後には里見�ｸと志賀直哉の一行が大黒屋に泊ります。里見�ｸの「若き日の旅」からです。
「…一片の雲影もとやめず、西と東と中天と美しい染分けになり、地上すれすれの、淡紫の靄も裾濃に、いかにも春らしく暮れて行くころ法隆寺に着いた。麥、菜種、藺、紫雲英、黒土の、畑中の道を行くほどに、右の方、あたらの家竝よりやゝ立ち勝った一軒の、その漆喰壁の一箇所へ、白抜きに、「大黒屋」の三文字が、次第にはっきりして来る。虚子の「斑鳩物語」は、この名の宿を舞台にしてあるが、まさか本名のまゝとは思はなかったので、旅のそらで、思ひもかけない知人にめぐり合った心地、早速そこの、真黒に煤けた低い天井の下、廣々と、人気ない土間に、三足の朴歯を拉べて脱ぐ。
「あの、一番奥の、角の二階あいてますか」
　儚く消え易い美に敏感な、しっとりと、温かい性分に相通ずるものがあつてか、虚子を好くこと、仲間うちで木下を以て最とした。「斑鳩物語」の「私」 ── 恐らく虚子自身と覚しい人が泊ってゐたやうに書いてある、「角二階」を、早速に所望したのも、だから木下で、調子に、とても初めて来た客とは思へないものがあった。
「へえ、あいてます」
　そこへ案内される途中、存外に多い間数の、どこもかも、まるで化物屋敷かなぞのやうに、深閑と鎮まち返ってゐるのに、聞いてみると、客は、ほかにたった一人とのこと……。
　やゝ蒸れ臭く、閉めきつであった障子を、自分たちで勝手に明け放して、欄干に倚ると、木下は、すぐまた「斑鳩物語」のなかの会話をそのまゝに、あれ、畝傍？　金剛山はどれ？　香具山は？　三輪はどの邊？　と、「お道さん」でもなさそうな女中を捉へて、矢継早の質問だ。季節もかれこれ同じ頃、同じ眺めから、たヾ一つ虚子の拳げてゐた梨の花の白さを缺くのみだった。…」
　里見�ｸと志賀直哉一行が法隆寺は訪ねたのは明治４１年ですから、大阪鉄道が国有化された翌年になります。奈良から関西本線で法隆寺駅に向かいます。法隆寺駅から法隆寺に向かう道は当時は一本で、道なりに歩いて行くと大黒屋の横に出ます（下記の地図参照）。

★左上の写真は夢殿南門から撮影した旧大黒屋です。現在は取り壊されて駐車場になっています。駐車場の左隣に大黒屋の看板を掲げた建物がありますが、営業はされていないようです。

＜法隆寺 西円堂の鐘楼＞
　「子規の奈良を歩く」で鐘のお話をしましたが、高浜虛子から里見�ｸまで、又鐘の話が登場しています。子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鐘は東大寺の鐘の音を聞いて、それを法隆寺の鐘に置き換えているようです。
　大谷晃一氏の「続・関西名作の風土」から”斑鳩物語、十月”です。
「…　鐘が鳴る。幽かに鳴る。二時らしい。朝六時から夕六時まで二時間おきに鳴る。夢殿の鏡とは、虚子の間違い。その清楚な鐘楼は人目につき易いが、法隆寺山王の葬儀にしか鳴らぬ。時を告げるのは西円堂の東のである。子規が聞いたのもこれだ。…」
　ここでは高浜虛子が大黒屋で聞いた鐘の音が何処の鐘の音だったかがポイントなっています。大谷晃一氏は法隆寺西円堂の横にある鐘楼の鐘であるといっています。現在法隆寺で毎日鐘を撞いているのはこの鐘楼の鐘しかありません。子規が聞いたのもこの鐘の音なら、東大寺の鐘の音と比べて少し寂しいです。やはり東大寺の鐘の音を聞いて作った「柿食えば鐘がなるなり東大寺」が「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」に変わったと考える方が理にかなっているようにおもいます。

★写真は法隆寺西円堂の東横にある鐘楼です。鐘自体は小さく、時を知らせる鐘としては丁度よいのかもかれません。上記には”朝６時から夕方６時まで２時間おきに鳴る”と書いてありますが、現在は朝８時から夕方４時まで２時間おきとなっています。撞く回数は時刻分です。昼の１２時は１２回撞かれています（５０秒間隔で撞かれています）。今回は鐘の音を録音してきました。１２時の鐘の音で、１２回の内の雑音の少ない２回分（１分３０秒）を聞いて下さい。録音に慣れていないのでリミッターを入れて録音していますので音は余り良くありません。

＜斑鳩物語＞
　「斑鳩物語」が「ホトトギス」に掲載されたのは明治４０年（1907）です。当時学習院生だった里見�ｸや志賀直哉が読んでいますから、かなりの評判だったようです。
　高浜虛子の「斑鳩物語」からです。
「…　お道サンが行ったあとは俄に淋しくなった。きのふ奈良でしらべた報告書の残りを認める。時々下の間で客の笑ふ聲に変ってお道サンの野も聞えるが．座敷が別棟になってゐるのではっきりわかちぬ。
　夢殿の鐘が鳴る。時計を見るともう六時だ。
　漸く風呂が沸いたと知らもて来た。其はお道サンでばなく、此の家の主婦であらう三十四五の紳サンであった。晩飯の給仕に来たのもお道サンでなく此の紳サンであった。…」
　「斑鳩物語」のお道さんは有名です。大黒屋は女中に松竹梅の名をつけていますので、お道さんはアルバイトで働いていたことになります。詳しくは下記に大谷晃一氏の「続・関西名作の風土」を読んで下さい。夢殿の東院鐘楼と、大講堂横の鐘楼の写真を掲載しておきます。

★写真は昭和２０年３月発行の養徳社版「斑鳩物語」です。養徳社は戦時中の統合会社で天理時報社、甲鳥書林等が統合してできた会社です。甲鳥書林系列で出版された本と考えてよいとおもいます。

＜里見�ｸの「若き日の旅」＞
　里見�ｸ（学習院在学中）、志賀直哉（東京帝国大学卒業）、木下利玄（東京帝国大学在学中）の三人で関西旅行を企画し、明治４１年３月２６日夜、新橋を出発します（東京→伊賀上野→京都→奈良→和歌山→大阪と回った半月間の旅行）。三人は旅行中、日記らしきものをそれそれが記載しています。後に旅行記などで出版、掲載しようとするためだったとおも.われます。実際に出版されたのは昭和１５年ですからかなり後になっています。
　里見�ｸの「若き日の旅」から、大黒屋に宿泊して法隆寺の鐘のことについて聞くところです。
「…「鐘は、夢殿で鳴らすのかい」
「たしか、虛子のものにも、さう書いてあつたやうに思ふんだけど……」
「怪しいな。……ともかくも、そいつは、明日女中に訊ねてからにした方がいいね」……
…　今度は、代って志賀が、「鐘は、どこのが聞えるんだらう。夢殿で撞くかしら」
「さうだんな、朝晩のは薬師さんだつけど、そら、夢殿でかて、撞きやはりまつさ」
　だが、それは、毎日午前十一時半に、お舎利様を出す時、衆僧を呼び集める知らせの鐘だけだ、とのこと、これではつきりした。…」
　志賀直哉は高浜虛子が聞いた鐘の音が何処の鐘楼だったかを確かめようとしています。上記の”薬師さん”は法隆寺西円堂の薬師さんのことではないかとおもいます。夢殿の東院鐘楼も撞いていると書いていますが、現在は撞いていないようです。

★写真は昭和１５年５月発行の甲鳥書林版「若き日の旅」です。堀辰雄は当時甲鳥書林に出入りしていましたからこの本も読んでいる可能性が高いとおもいます。「大和路・信濃路」につながっていくとおもいます。

＜「旅中日記 寺の瓦」＞
　里見�ｸは昭和１５年甲鳥書林から「若き日の旅」を出版していますが、昭和４６年中央公論社から「寺の瓦」として再度発行しています。元々「若き日の旅」は三人が日記風に書き置いたものを里見�ｸがまとめたもので、今回の「寺の瓦」は当時の日記にできるだけ忠実な内容にしたもののようです。
　里見�ｸの「寺の瓦」から、上記と同じく大黒屋に宿泊して法隆寺の鐘のことについて聞くところです。
「…法隆寺の鐘がなって日はくれた。火取蟲があけはなつた障子からラソプに飛んで来てまるで六月時分のしづかなむし暑い晩のやうな心地がする。昔は盛だったらしい宿である、間数の多いのに客は吾等の他に一人しかなく、さびれた處が云ふに云はれず哀である。……
…翌朝、即ち今日だ、早速女中に鐘の事を聞く。
「あれは薬師様でござりやす、夢殿でもつきますけど、毎日十一時半に、御しやり〔舎利〕様を、出しやはる前、坊さんを御集めになる時きりだす」とかういふ。…」
　「若き日の旅」と同じ部分を引用しています。やはり少し違いますね。「寺の瓦」の方が正確なはずで、法隆寺の鐘の音を聞いています。日が暮れる頃ですから夕方６時の鐘の音だとおもわれます。

★写真は昭和４６年1月発行の中央公論社版「寺の瓦」。著者は志賀直哉、木下利玄、山内英夫となっています。山内英夫は里見�ｸの本名で、有島武郎の実弟です。

＜堀辰雄の「大和路・信濃路」＞
　堀辰雄も里見�ｸや志賀直哉と同じ思考で、法隆寺を訪ねたのだとおもいます。正岡子規から高浜虛子を辿っています。先ほども書きましたが、里見�ｸの「若き日の旅」も読んでいるはずですから！　
　堀辰雄の「大和路・信濃路」から”法隆寺に向う車窓で”です。
「十月二十三日、法隆寺に向う車窓で
　きのうは朝から一しょう懸命になって、新規に小説の構想を立ててみたが、どうしても駄目だ。きょうは一つ、すべての局面転換のため、最後のとっておきにしていた法隆寺へ往って、こないだホテルで一しょに話した画家のＳさんに壁画の模写をしているところでも見せてもらって、大いに自分を発奮させ、それから夢殿（ゆめどの）の門のまえにある、あの虚子の「斑鳩（いかるが）物語」に出てくる、古い、なつかしい宿屋に上がって、そこで半日ほど小説を考えてくるつもりだ。……
…　しかし、夢殿の門のまえの、古い宿屋はなかなか哀れ深かった。これが虚子の「斑鳩物語」に出てくる宿屋。なにしろ、それはもう三十何年かまえの話らしいが、いまでもそのときとおなじ構えのようだ。もう半分家が傾いてしまっていて、中二階の廊下など歩くのもあぶない位になっている。しかしその廊下に立つと、見はらしはいまでも悪くない。大和の平野が手にとるように見える。向うのこんもりした森が三輪山あたりらしい。菜の花がいちめんに咲いて、あちこちに立っている梨の木も花ざかりといった春さきなどは、さぞ綺麗だろう。と、何んということなしに、そんな春さきの頃の、一と昔まえのいかるがの里の若い娘のことを描いた物語の書き出しのところなどが、いい気もちになって思い出されてくる。―― しかし、いまはもうこの里も、この宿屋も、こんなにすっかり荒れてしまっている。…」
　大黒屋に対してはかなり期待していたのではないでしょうか。残念ながらかなり荒れて寂れていたようです。

★写真は新潮文庫版「大和路・信濃路」です。鐘についてはなにも書いていません。

＜大谷晃一氏の「続・関西名作の風土」＞
　大谷晃一氏の「関西名作の風土」は実によくできた文学散歩本です。続編も出版されておりたいへん参考になります。
大谷晃一氏の「続・関西名作の風土」の中の”斑鳩物語、十月”から引用します。
「…　お道は誰だったか。大黒屋は女中に松竹梅の名をつけた。だから、お道は臨時の手伝いだとわかる。平生はすぐ裏の自分のうちで機を織っているという小説に、合う。翌年、直哉らがお道のことを尋ねた。すでに嫁入りしていた。あの恋物語は仮構である。三十四五の髪さんは、亭主の亡母一栄さんである。あのとき、二十九歳。この旅宿は明治初年に建った。法隆寺の役僧、秦秀解さんが買い取ったのが、明治二十五六年のころ。その娘が一栄さんである。
　機織のことも、お道をさがす手立てにはなり兼ねる。そのころ、この地方では娘も嫁も、女は
残らず家で機織をしていた。大和絣である。大黒屋のおかみ一栄さんでさえも。…」
　本当によく調べられています。今になってはここまで調べられません。

★写真は昭和４６年発行の創元社版「続・関西名作の風土」です。「関西名作の風土」と２冊出版されています。関西の文学散歩本では必需品です。