●魯山人の鎌倉を歩く
    初版2015年5月23日 <V01L01> 暫定版

 筋肉を鍛えていますが、テニス肘がまだ治りません。困ったものです。今回の掲載は関東地区最後ということで、魯山人の鎌倉を歩きます。大正8年頃から亡くなる昭和34年までを過ごした鎌倉です。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三(前回と同じ)>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 魯山人の家系は、京都北区にある上賀茂神社、正しく言へば賀茂別雷神社の社家の中にある。遠く伝説にまで逆れば、神武大皇を熊野から大和に先導した八咫鳥(武角身命)を祖神大した賀茂族は、奈良から京都の地に都を移される以前から、山城国の大部を開拓していたが、祖神武角身命と女神に依姫命を下鴨の賀茂御祖神社に、又玉依姫命と高靇神。との御子神の別雷神をば、賀茂別雷神社にまつって奉仕していた。欽明天皇の頃から賀茂祭は記録にのつていて、A・D六七八(天政天皇六年)には賀茂神社の造営が行はれたことになっているが、実際神社に奉仕した社司、社家の記録は、A・D九五五(天暦九年)賀茂族中興の祖とあがめられている賀茂在実からほゞ明確に残されている。それによると、在実には長男忠成(嫡流)と、その弟忠頼(庶流)の二人の男子があり。嫡流にはその名の一字に氏を、庶流には、平・保・宗・弘・重・兼・清・顕・成・俊・直・幸・久・経・能、いづれか一字をつけさせて区別するようになった。
 家系はすべて男系に限り、女系は許されなかった。戦国時代以降、賀茂族の賀茂の氏名のほかに、県つまり分田主として今日の苗字をつけはしめたが、これとても、神主を出すことの出来る家柄と、社人の家柄とは厳格に区別して来た。明治以降、神主は宮司となったが、宮司を出す家柄を社司と改めて、松下・梅辻・森・鳥居大路・富野・岡本・林の七
家とし、社人は社家と改められて百二十軒と限られた。この社家に藤木・坐田・松山・井関・北大路・酉池・山本等の苗字がある。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」の書き出しです。
「 第 一 章

   一、一太上京

 大正九年(一九二〇)十一月半ぼすぎの某日、宵。
 東京京橋東仲通り、「大雅堂美術店」の一階六畳間で、一人の少年が端近に膝をそろえていた。
 板床のところに、ホームスパン地の洋服にノーネクタイの、大きな身体の「先生」が、さかんにビールを呷り、料理を口に運んでいる。となりでめくら縞の着物の「旦那さん」がビールを注ぎ、他に馴染客も三、四人「先生」をかこむようにして、賑かに飲み食いしている。
 鼻下髭の「先生」は、肉付きゆたかな頬を桜いろにして、大声で美術のこと料理のこと、あるいは人物月旦を談じていたが、
「おい、よう来たな、よう来た。お前名前は一太だったな」
 と、鼈甲ぶち眼鏡の部厚いレンズの奥から少年を見すえて、いいかけて来た。一分刈の青い頭を、折るように下げて、少年は「先生」にそのとき鷲づかみにされたような思いがした。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」から、書き出しです。
「 一 ある雪の日、私の家から魯山人のすべてを持ち去る男がやって来た……
 あれは昭和三十五年(一九六〇年)一月のことだ。
 吹雪の北陸の小さな駅に一人の男が降り立ち、駅前からの雪道をおぼつかない足取りで歩きはじめた。分厚いオーバーコートに身を包んでいても、男は土地の者には見えなかった。長靴を履かぬ者のいないその季節に、彼は革靴を履いていたからである。
 男は、雪さえなければ数分の道を、おそらく三倍もかけて私の家にやって来た。難儀な雪の道中を私が見ていたのではない。母に言われて、玄関へ客の靴を揃えに行ったとき、私は男のずぶずぶになった靴を見てそう思ったのである。
 男は道具屋に商売替えした北大路魯山人の元使用人で、北鎌倉に近い大船・山崎の魯山人の星岡窯を去ったあと、近くの葉山で店舗なしの道具商をはじめていた。道具商といっても扱うのは魯山人の作品だけだが、その男が魯山人が亡くなって数週間後に突然私の家に現れたのである。…」

 魯山人が亡くなった昭和30年代ではまだまだ魯山人の陶芸品に関しては価値が認められていなかったようです。先見の明があるものがいち早く魯山人の陶芸品を集めていたようです。今ではおよびもつかない金額になっているようです。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)

「別冊 太陽 魯山人」
<「別冊 太陽 魯山人」(前回と同じ)>
 定番の「別冊 太陽 魯山人」です。「別冊 太陽」は内容も充実していて大変参考になるので一通り揃えている中の一冊です。中に座談会があって、上記項目に書かれている”一太”氏が参加しています。面白いです。叉、星丘茶寮について細かく書かれているので大変参考になります。

 「別冊 太陽 魯山人」から座談会 ”魯山人の味覚と料理”からです。
「[座談会]
魯山人の味覚ど料理

その盛時には、夜毎、各界の貴顕紳士がより集い、魯山人が思う存分腕をふるった星岡茶寮。
当時、天下第一の格式を誇ったその魁苧の裏方を勤めた人びとによって明かされる、人間魯山人と、その料理哲学。

武山一太
島村きよ
松浦沖太(誌上参加)
平野雅立早(司会)
美食倶楽部、花の茶屋

平野 今日の座談会は「魯山人の味覚と料理」というテーマになっております。星岡茶寮以前に”美食倶楽部”とか”花の茶屋”時代がございますが、とくにウェートをおきたいのは、星岡茶寮というものは現在の料苧とは違うと。その料理の実態、もてなしの仕方、客層などについてのお話を伺えればと思っております。
 まず武山さんに魯山人との結び付きを手短かにお話ししていただいて、お話の糸口をつけていただきたいと思います。
武山 わたしが先生と一番最初に会ったのは大正九年ですからね。
平野 じゃ、先生とお知り合いになったときは、もう大雅堂を経営なさっていた。
武山 もうちゃんとできていたんです。柱をみんな黒くしてね、ウィンドーがあってね。
平野 そこは商売は成り立っていたんでしょうか。
武山 成り立つもなにも、景気がよくて、すごくよかった。
平野 その店舗は何坪ぐらいの店舗でしたか。
武山 小さいもんです。間口が三間ぐらいです。それで一間ぐらいのウィンドーがあって、こっち見てるでしょ。角の店ですから、横からも入れる。入ったらすぐ階段をトントンと上がると三間あったんです。表に八畳の間があって、その奥に三畳か四畳わたしが寝ていたところがあって、その奥にまた四畳半ぐらいがあったんです。
平野 その二階は何をするんですか。
武山 八畳に中村竹四郎さんと北大路さんとが寝てたわけです。
平野 じゃ、住まいを兼ねてたわけですね。
武山 そうそう。で、そうしておったらそこへいろんな人がやってくるんですよ、家具屋さんだとか。北大路さん面白いから。あのとおりでしよ、サルマタ一つでもってワー。ちゅう感じでしゃべりまくるから面白いしね、みんな来た人が動かな
いんですよ。で、昼になると飯食わなきゃいかんでしよ。そうすると、魚仙という魚屋が少し先にあるんですが、その魚屋へ自分が買い物に行って、みんなに飯食わしてやろうというんでやりだしたんですよ。
平野 ほォ。それが天下の星岡茶寮の一番最初。じゃ、大雅堂でおもてなしをする料理材料はどうなさったんですか。
武山 北大路さんが近所の魚屋から生きた魚を自分で買ってきて、カツオならカツオの刺身をやるわけですよ。
平野 大雅堂の中に台所もあったわけなんですか。武山 ええ、奥に台所があり板の間かあって、板の間の下はすでにコンクリにしてあってね、スッポンやなんかいましたよ。ウナギは表に生け簀こしらえて、石燈籠やなんかがあるところヘウナギを放してあったですね。
平野 じゃ、名目はあくまでも人雅堂美術店で、中で食事を作ると。
武山 ええ。食事って、最初はカネ取ったわけじゃないんですよ。だけども、それじゃやりきれんから、市電のパスみたいのをこさえたんですよ。たしか一食二十五銭でしょうね、一枚持ってきたら食わせてやるちゅうて、それやったわけですよ。そうなると、どうしても小僧がいるでしよ。それでわたしが……渡りに船ということになる。
平野 それが震災まで続いたわけですね。
武山 そうそう。それで朝になると鴻巣はもちろんそうだし、近所に丸屋というスッポン屋を出しましたが、それも北大路さんが指導してたんですよね。…」

 又、続きが面白いのですが、”鴻巣(メイゾン鴻之巣)”が書かれています。「メイゾン鴻之巣」は大正4年頃には日本橋木原店(きわらだな)に転居(今のCOREDO日本橋と日本橋西川の間の通)、大正9年末には京橋区南傳馬2−12、現在の明治屋の所に転居しています。大正14年に経営者の駒蔵が死去するとお店は無くなります。ですから、京橋区南傳馬二丁目のころの話しだとおもわれます。

写真は昭和58年(1983)3月発行の「別冊 太陽 魯山人」です。この頃が魯山人人気がピークのころではなかったかとおもいます。



「壽福寺」
<鎌倉扇ヶ谷の壽福寺境内に住んでいた竹四郎>
 魯山人と共に星岡茶寮を開設した中村竹四郎はその当時、鎌倉 寿福寺に住んでいました(大正5年頃転居?)。寿福寺と言うとどうしても中原中也を思い出します。中原中也は昭和12年2月に寿福寺内に転居しています。そして10月22日死去します。このことからも、寿福寺境内には借家があったことがわかります。(中原中也については「続々 中原中也の東京を歩く」を参照)

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 傅三郎には男四人女一人の兄弟があって、便利堂を創業したのは次兄の禰二郎だが、禰二郎は長兄の佃左衛門が養子先から戻った時点で便利堂の経営を譲り、東京へ出て有楽町で有楽社という名の出版社を興した。『英文少年世界』や風刺漫画『東京パック』など十数種の雑誌、単行本では蘆花や漱石作品の英訳本などを出版しつつ雅号を有楽と名乗ったが、末弟(四男)の竹四郎はこの会社で写真雑誌『グラフィック』(『朝日グラフ』や『毎日グラフ』の先がけ)のカメラマンとして皇族や政治家や芸能人などのニュース写真を手がけた。
 しかし有楽社は経営不振に陥り明治四十五年(一九一二年)に倒産、その後竹四郎は東京で大参社印刷所という小さな印刷会社をはじめる。これは社名で推測されるように、大正三年の創業である。彼は実家・便利堂の印刷のノウハウと自分の写真技術を生かして、当時流行っていた絵葉書の印刷販売をめざし、アイデア商品の卓上カレンダーで当たりをとる。刷り上げた絵葉書やカレンダーはおもに新橋の書店兼絵葉書屋の大店・新橋堂へ卸していた。十五歳で上京して以来東京住まいだったが、半年前、妻と幼い子どもを連れて鎌倉へ転居したのは、少年時代、肺を病んで十か月ほど療養した地が鎌倉で、空気のよさもさることながら子どもの養育にもよく、また懐かしさも手伝ってのことだった。…
…鎌倉扇ヶ(が)谷の壽福寺境内に住んでいた竹四郎…」

 上記の”便利屋”については京都の項目で掲載予定です。”有楽社”の場所については不明です。新橋堂については、本の奥付から”京橋区出雲町壹番地”で、現在の中央区銀座8丁目8陽栄銀座ビルのところ、資生堂パーラーのビルの左隣にありました。関東大震災後は蒲田に移ったようで、その後の復活はありませんでした。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 有楽社は、その時代に先んじた進歩性のためにかえって商業的には行き詰り、活勁約十年で倒産した。弥二郎は房州館山に隠棲、竹四郎は大参社を興して印刷・絵葉書業を営むようになる。ついで妻帯して、翌々年には子供の健康のためを慮って、鎌倉扇ヶ谷に移った。
 この間、野村鈴助の新橋堂におおく製品を納めた。
 竹四郎が、兄田中伝三郎につれられてはじめて魯山人を訪れたのは、この頃つまり彼が二十八歳で魯山人三十五歳の、大正六年である。彼にとって魯山人が、にわかに雲間から現れた烈日のようであった事情については前にのべた。…」

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」を読むと、”翌々年”とか書いていますが、何時からの翌々年かよく分かりません。前後を読んでもはっきりしないことが多いです。困ったものです。本人自身はよく分かっているのだとおもいますが、読者はよく分かりません。

写真は鎌倉の寿福寺です。参道を少し歩いた途中までは入れますが、その先は入れません。昔は入れたとおもうのですが、現在は檀家以外は入れないようです。



魯山人の鎌倉地図



「円覚寺」
<北鎌倉円覚寺傍の借家>
 魯山人は大正8年頃にお茶の水駅に近い東紅梅町2番から北鎌倉 円覚寺傍の借家に引越してきます。東京、京橋界隈から住まいを移すのは初めてでした。この頃の魯山人の年譜ははっきりしません。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… このとき彼は竹四郎と知り合ってまもなく福田籍からの離籍に際しての条件だった養父母、福田武造・フサの面倒を見ることを実行するべく、竹四郎が住む鎌倉に家を借りて東京から転居し、長男の桜一も引きとっている。鎌倉扇ヶ(が)谷の壽福寺境内に住んでいた竹四郎の誘いで、妻せきとともに北鎌倉円覚寺傍の借家に引っ越しだのは大雅堂をはじめた大正八年(一九一九年)ごろ…」
 養父母や長男の面倒を見るためだったと書かれていますが、本人が作陶を考えていたのかなともおもいます。ただ、美食倶楽部は大正10年ですから、少し早いような気もします。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 大正五年(一九一六)、彼は藤井せきと結婚し、駿河台東紅梅町に住み、その後鎌倉に移るが、大正八年から大震災までは南鞘町に大雅堂を営む。すなわち、魯山人は上京後のあわせて二十年近くを、南鞘町中心の右の区域にほとんど執着するように生きたのである。…」
 吉田耕三氏は東京での魯山人については弱いと感じました。

写真の正面は北鎌倉駅傍の鎌倉街道から円覚寺を撮影したものです。この附近の借家に住んだものとおもわれますが、番地が不明のため、詳細の場所は不明です。

「明月院」
<明月谷の茅葺きの田舎家(高梨家)>
 北鎌倉 明月谷に転居する目的が養父母や長男の面倒を見るためだったようです。養父母や長男の面倒をみることが福田籍からの離籍し北大路籍に戻る条件だったわけですから当然です。又、大正9年に転居していますから、この頃には、作陶についてある程度考えていたとおもわれます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「…鎌倉扇ヶ(が)谷の壽福寺境内に住んでいた竹四郎の誘いで、妻せきとと
もに北鎌倉円覚寺傍の借家に引っ越しだのは大雅堂をはじめた大正八年(一九一九年)ごろで、翌九年には同所明月谷の茅葺きの田舎家(高梨家)に引越し、養父母と同居する。桜一は二年余り後の同十一年(一九二二年)夏に、陶芸の基本を勉強するべく京都市陶磁器伝習所(正式名称「京都市陶磁器試験場附属伝習所」)に通うために実母のもとへ戻り、さらに三年後の同十四年(一九二五年)十一月、京都に戻った武造が亡くなったあと福田家の家督を相続するが、この数年の鎌倉生活の間に、魯山人は住居からさほど遠からぬ明月院傍に適当な大きさの土地を見つけていた。第一候補は明月院の了解が得られず、次候補の深沢村山崎を検討する。…」

 養父母を養うためにわざわざ京都から呼んでいますが、結局、面倒をみず、二人は京都に戻っています。余程酷い扱いを受けたのだとおもいます。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 当時魯山人は円覚寺前から明月谷の寺の近くの大工高梨の持家に移った。円覚寺前の方が広壮で日照もよく、格別水がすぐれている。せきは、これらの理山で移転を反対したが、彼は肯かなかった。…」
 明月谷は名前の通り、谷間であり、日当たりは余り良くありません。

写真は明月院に入口です。この入口から登っていくと明月院があります。推定ですが”明月谷の寺の近くの大工高梨の持家”は写真左の道を少し入ったところ辺りではないかとおもっています。昭和30年代の住宅地図で調べたのですが高梨家は不明でした。法務局に行かないと分からないとおもいます。別途調べる予定です。



「深沢村山崎」
<深沢村山崎>
 大正14年には魯山人は北鎌倉 山崎の地を借受け作陶を始める準備を開始します。名月谷から転居したのは大正15年から16年頃だとおもわれます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「…第一候補は明月院の了解が得られず、次候補の深沢村山崎を検討する。そこは自宅から徒歩十数分のところで、荷車一台がようやく通れる高い切通しの先に拡がる上地だった。周囲から完全に孤文し、正に桃源郷の趣があった。彼はさっそく地主の関根繁七や仙場倉之助に交渉して借り受けを決める。話か易々と進んだのは徳川家達などの大きな後ろ盾があったこともあろうが、何といっても当時電気がまだ通っていなかった北鎌倉一帯で、この地域だけを優先して電気を引くという条件を提示したことだった。東京電灯社長の小林一三の力によるものだったが、これが実現されると、魯山人は鎌倉郡深沢村山崎の名士となり、土地の人々から「京都のお公卿さんの出身で、明治の功臣・三条実美卿の親戚筋に当たる入らしい」と噂されるようになる。…
… 土地の契約が交わされたのは大正十四年(一九二五年)秋、魯山人はさっそく東山窯の職人・川島礼一らを呼び寄せて築窯に入る。京風の登窯一基(幅六尺、長さ四間半)が完成したのは一年半後の昭和二年(一九二七年)二月で、「魯山人窯蓼研究所星岡窯」の看板を掲げるのはそれから八か月後の同年十月…」

 相当広い土地を借りたようです。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
…   二、学んで超えた

 星岡茶寮と並行して、魯出人が開発していたのは、北鎌倉山崎の星岡窯であった。広さ六千数百坪、藤井せきやその両親に唱えていた四万坪よりははるかに規樅が縮小されているが、人船駅と北鎌倉駅との中間を五、六丁西南に入り込んだ山懐のその空川は、星岡茶寮よりも純粋に彼の創建にかかった。彼が歿するまでのほとんど半生を過したの
も、ここであった。
 魯山人がはじめて山崎に窯を築いたのは、大正十四年夏から秋にかけてのことであろう。奥行六尺、幅二尺八寸程の二房の京窯であった。轆轤による成形、焼成に松鳥小太郎が当っていた。
 松島は石川県小松在若杉の生れ、介月窯業という会社で技術主任のような立場にあったのを、魯山人にたのまれた菁華や燕台らが謀って、引き抜いた。九谷を初め、石ものも土ものも、成形焼成のふたつながらできる練達者であった。…」

 窯が完成したのは昭和2年ですからそれから死去する昭和34年まで作り続けた訳です。良いものしか世に出さなかったとおもいますが、32年間ですからそれなりの数が出来たとおもいます。

写真は現在の鎌倉市立山崎小学校の北側から魯山人旧宅、星岡窯跡方向を撮影したものです。同じ角度から撮影した当時の寫眞と見比べて下さい。当時は小学校はなく、田んぼになっていました。山の木の格好で大体の方向が分かるとおもいます。



魯山人の鎌倉地図(昭和初期)



「春風萬里荘(魯山人旧居)」
<笠間日動美術館別館 春風萬里荘(魯山人旧居)>
 昭和40年に北鎌倉 山崎より魯山人旧居を移築し笠間日動美術館別館春風萬里荘として公開されています。東京からは少し遠いですが、高速を使えば1時間半程度で訪ねる事が出来ます。

 「笠間日動美術館別館 春風萬里荘」のパンフからです。
「 笠間日動美術館の分館である春風萬里荘は、昭和40年(1965)に北鎌倉より移築されました。
 この茅葺き入母屋造りの重厚な構えの江戸時代中期の民家は、もともとは、現在の神奈川県厚木市近郊の地にあたる高座郡御所見村の豪族で、大庄屋でもあった伊東家の母屋を、昭和の初めに北大路魯山人が、北鎌倉・山崎の地にひらいた星岡窯の母屋として、もう一軒の慶雲閣と共に移築し、自らの住居としていたものです。…」

 平成10年に北鎌倉 山崎に残っていた魯山人の旧居は放火により全て焼失していますので、移設された建物は貴重なものとなっています。

写真は笠間日動美術館別館 春風萬里荘正面です。昔の庄屋の屋敷そのままです。右側に茶室があります。一番驚いたのは風呂場です(室内は撮影禁止なので写真はありません)。見に行かれることをお勧めします。



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0 3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
       
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
北鎌倉円覚寺傍に転居
大正9年 1920 国際連盟成立 37 北鎌倉 明月谷に転居
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
43 北鎌倉山崎に転居し作陶を始める
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業