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最終更新日:2017年10月28日

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●続々 中原中也の東京を歩く 初版2004年5月15日 <V01L04>

 今週は「中原中也の世界を巡る」の第四回目として、”続々・東京の中原中也”を歩いてみます。青山二郎で有名な四谷花園アパートから、中也が亡くなった鎌倉 寿福寺までを歩きます。

 中原中也が結婚後、夫婦で初めて住んだのが東京の四谷花園アパートでした。このアパートは青山二郎が住み始めてから文壇の面々が集まり、”青山学院”と呼ばれていました。

「…青山二郎は経済的に窮すると新宿方面へと移り住んだ。四谷区番衆町には、竹田鎌二郎が住んでいた。彼とは気さくな仲で、青山から頼まれるまでもなく、格好なアパートを捜してきた。それが花園アパートである。地図を見ればわかるのだが、そこは新宿遊廓とひと続きの場所である。近くにはあやしげな旅館やらアパートが多く建っていた。その一郭に花園アパートもあったわけだ。……花園アパートから新宿二丁目の遊郭までは数分の距離。そこを通り抜ければ、新宿三丁目の歓楽街で、このあたりも昔は四谷区であった。そして新宿駅の周辺からが淀橋区となる。青山二郎がこの場末のアパートに移り住んだのは、昭和八年九月十五日であった。……中原中也が住んだ部屋は二号館の二階であった。アパートは全部で三棟あり、一号館と二号館が東西に並び、廊下でコの字につながっていた。三号館は廊下の東側に独立して建っていた。花園アパートは四周を高い塀に囲まれて、出入り口が北と南に二つあった。二号館の住人たちは、南側の門を利用するのが便利で、その南門を入ると、一号館の廊下の突き当たりが青山二郎の住む部屋であった。赤坂の次は、ここが”青山学院”の所在となったところ。…」
 このアパートには文壇の面々だけではなく、さまざまな人種が住みます。高見順の最初の妻だった石田愛子、「続 中原中也の東京を歩く」で紹介していますが坂口安吾が好きだった坂本睦子(中原中也が惚れましたが振られます)、後に青山二郎と結婚することになる服部愛子等、すごいメンバーです。男女関係がどうなっていたのが知りたいですね。阿部金剛夫人であった三宅艶子も、昭和十年ごろからよく花園アパートを訪ねています。

「…正直言って、「へんなアパートに住んでる」ときいてはいたけれど、私は花園アパートの玄関では、「どうしてこんなところに青山さんが」と、不思議だったり同情する気分だったりしたのだ。それが一瞬とびらを開くと、ここが新宿のごみごみしたところとは思えない静けさと美しさ豪華さに満ちている。……青山さんは、「今起きてふとん片づけたばっかり。お前たちあんまり早過ぎたよ」とおっしゃる。もう夕方だった。私はふだん夜中が好きで、夜昼をとり違えたような暮らしをしていたので、十一時に起きるんですかと、ひとにあきれられ、肩身のせまい思いをしていたところだ。もう暗くなって、夕方というより夜に近いのに、「こんなに早く来て」としかられるのも面白かった。…」
うむ…〜すごい!!

左上の写真は村上護の文壇資料「四谷花園アパート」です。さまざまな本にこの四谷花園アパートが書かれていましたが、一番まとまっていました。

【中原中也】
中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。


中原中也の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

中原中也の足跡

昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
23
12月 上野孝子(たかこ)と結婚(湯田の西村屋で結婚式)
四谷区花園町九五 花園アパート二号館に新居を構える
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
24
10月 長男誕生
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
25
6月 市ヶ谷谷町六二に転居
昭和11年
1936
2.26事件
26
11月 長男死去
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
27
1月 千葉の中村古峡診療所に入院
2月 鎌倉町扇ヶ谷一八一(寿福寺境内)に転居
10月 鎌倉養生院に入院(現 清川病院)
10月22日 死去
10月24日 寿福寺にて告別式



花園アパート>
 長谷川泰子と最後までうまくいかなかった中原中也は、故郷でお見合いし直ぐに結婚、奥様を連れて上京してきます。中也が花園アパートに新居をかまえたことについて青山二郎が「私の接した中原中也」の中で書いています。

「…朝鮮の女学校を出た新妻を連れて、いきなり此の花園アパートへ越して来たのである。生れて初めて東京に来て、これも生れて初めて見るアパートと謂ふものに入れられて、二十二か三の若い奥さんは事毎にちゞみ上ってゐた。数寄屋橋の菊正ビルで中原は一杯やるのが好きで、奥さんの方は連れて行かれて、その間にライスカレーを二皿平らげるのである。それから銀座を一廻りし乍ら、ソレ松屋だ、三越だ、服部だと指差して、大きな声で説明する詩人の夫を奥さんは辱しがった。やれやれと思ってゐると、尾張町の四ツ角で中原が最敬礼を始めるのだった。…」

 当時の山口出身の田舎の奥様では東京は大変だったとおもいます。その上文壇の面々が出入りし、活きた心地はしなかったでしょう。

右の写真が四谷花園アパートがあった花園東公園です。戦後、区画整理され当時の面影は全くありません。村上護の文壇資料「四谷花園アパート」の中に、
「…中原の住むアパートの部屋の一つ置いた東隣りに、坂本修という人が住んでいた。……坂本さんの中原評はすこぶるよかった。部屋にも遊びに行ったことがあったそうだ。中原の部屋は六畳と三畳の二間だった。他の部屋はすべて八畳で、坂本さんは部屋代十九円を払っていたという。部屋の中にはガスの設備があって、十銭入れるとガスが出る仕組みになっていた。これを文化アパートというのだろう。管理事務所もあれば、食堂もあった。風呂は男湯、女湯と別々の共同湯が一階にあって、時間を予約すれば、いつでも風呂に入れたという。…」
 
同潤会アパートのような当時としてはなかなか文化的なアパートたったようです。

市ヶ谷谷町六二>
 子供ができた中也は狭い四谷花園アパートからすぐ近くの市ヶ谷谷町に引っ越します。

「…十年六月、牛込谷町の岩三郎氏所有の借家に移った。子供が大きくなるのでアパートでは手狭になったのである。すると、またなんとなく寂蓼の影が身辺に漂いはじめる。青山二郎はその頃ほとんど小林や河上の本を一手に装帳していたから、始終花園アパートには人が出入りしていた。始終酒が出たので、中原にとっては、同じ家の中に文学サロンがあるようなものだったが、花園町と谷町と、離れてしまっては、毎日入り浸りというわけにはいかない。日記に「青山訪問、留守」の記事が増えはじめる。……私は市ヶ谷台町に親類があったので、二度ばかり谷町の家へ寄ったことがある。東大久保で市電を降り、河田町の方へ四五町行ってから、左に折れ、坂を下ったところでる。附近はたいてい勤人の住宅で、淋しい町であった。坂の途中の一軒の家の息子が気象マニヤだったらしく、屋根には風見の鶏があり、その日の晴雨を示す旗が翻っていた。中原の「曇天」で「旗は はたはた はためく ばかり、/空の 奥処に 舞ひ入る 如く」という句を読み返すごとに、思い出すのはこの旗である。…」
 
このすぐ近くに永井荷風の余丁町断腸亭があったのですが、この頃には市兵衛町に転居しています。

左の写真の左側が市ヶ谷谷町六二番地です。上記に書かれている市電(都電)は新宿から水天宮前に行く13番です。東大久保の電停は現在の都バス停留所の抜弁天前になります。写真のやや右に写っている大きなビルは東京女子医科大学です。

中村古峡診療所(現 中村病院)>
  昭和11年12月中也は長男を亡くします。そのことが中也のこころを蝕んだようです。当時の事を母親の中原フクさんは、
「…中也は結婚する前にも、神経衰弱みたいなことになっておったことがありました。…昭和十一年の暮れには、中也の具合がおかしいからきてください、と嫁から連絡があったんです。それで、私は大晦日の日に、大急ぎで上京しました。一日遅れて、元日には思郎も上京してきたりで、大変なあわただしさでした。……海東さんは、「私の知っている、千葉寺療養所につれていくのがええでしょう」と、いっしょにいってくださいました。海東さんと中也と私の三人は、千葉にあったその療養所には、ブラブラでかけるという恰好をとりました。そこは精神病院でしたが、看板にはそう書いてありません。だから中也はそれと知らずに、素直に病院のなかにはいりました。診察もうけて、病室へ案内しようということになりました。そのとき、院長さんは「あなたは病室へいらっしゃらないほうがええ」と、私にいわれました。私は中也と診察室で別れました。中也は病室に案内されて、そこに入ると、鍵をかけられたそうです。そのとき、自分が精神病院に入れられたことを、はじめて知ったんですよ。…」
と語っています。しかし、中也はすぐに病院から逃げ帰ります。

右の写真が当時の中村古峡診療所、現在の中村古峡記念病院です。すぐ近くに千葉寺もあり、病院は大きくなったようですが周りの雰囲気は田舎そのものです。

寿福寺>
 昭和12年2月、中也は鎌倉駅裏近くの寿福寺に転居します。

「…中也が鎌倉へ引越したのは、関口隆克さんのつてがあったからだったと思います。そこには、関口さんの叔父さんも住んでいらっしゃいました。そんな関係で、鎌倉に家を借りることができたんでしょう。中也が借りた家というのは、扇ヶ谷の寿福寺境内にある六畳二間と四畳半と台所のある小さな家でした。それは日本橋かどこかの材木屋さんが建てた、別荘だったそうです。そこに引越す直前に、私も上京して、あれこれ手伝いました。荷物は東京から鎌倉まで、トラックで運びました。そして、中也と嫁、次男の愛雅と私の四人は、汽車で行くつもりで、市谷の家を出ました。すると、タクシーが通りかかったので、それにのって、鎌倉まで行きました。あのとき、愛雅は生まれて三ヵ月あまりでしたから、中也が、「あまり汽車でガタガタゆれるより、タクシーのほうがよかろう」といったんです。寿福寺の門前から、その境内にある中也の借りた家までは、かなり離れておりました。引越しのトラックは境内にはいれませんから、荷物は門前におろしてもらいました。鎌倉に着いた私たちは、それを運びこまなければなりません。中也も嫁も、荷物はこびをやりました。私は愛雅をおんぶして、それでも軽いものは運びました。…」

 9月、「在りし日の歌」を小林秀雄に託します。10月6日発病し鎌倉養生院(現 清川病院)に入院、22日死去します。嵐山光三郎の「追憶の達人」によると、
「…酒乱でありつつも痛々しいほどの純粋な性格のためか、葬式には五十人近い友人が集った。しかし追悼文はおどろくほど少ない。小林が編集責任者であった「文学界」には、小林をふくめて九人の追悼文が載ったが、二百五十二ページ中でわずか二十三ページの分量である。そして「文藝では百六十五ページ中の四ページである。「新潮」はまったく無視した。のみならず、死ぬ前月の新刊月評では中也訳『ランボオ詩集』を「全くの無秩序で、これがいやしくも詩人の手になつたものとは到底想像もつかない」(春山行夫)と酷評している。生前の中也が文壇でしめていた評価はせいぜいこの程度であったのだ。…」

 新潮は見る目がありませんね。それにしても半世紀早い詩人ではなかったかとおもいます。

左の写真が寿福寺です。中原中也が住んだ家は、この道を少し入って本堂の手前を右に曲がり、池の向こう側の崖の手前になります。残念ながら家は残っていないようです。

次回は中也の金沢と広島を歩いてみます。


<中原中也の東京地図 -2->




<中原中也の東京地図 -3->





【参考文献】
・中原中也:大岡昇平、講談社文芸文庫
・評伝 中原中也:吉田?生、講談社文芸文庫
・私の上に降る雪は:村上フク、村上護、講談社文芸文庫
・在りし日の歌:中原中也、近代文学館
・ダダイスト新吉の歌:高橋新吉、日本図書センター
・年表作家読本 中原中也:青木健、河出書房新社
・中原中也:新潮日本文学アルバム、新潮社
・ゆきてかへらぬ:長谷川泰子、講談社
・中原中也 盲目の秋:青木健、河出書房新社
・太宰と安吾:檀一雄、沖積社

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