今週は「中原中也の世界を巡る」の第四回目として、”続々・東京の中原中也”を歩いてみます。青山二郎で有名な四谷花園アパートから、中也が亡くなった鎌倉
寿福寺までを歩きます。
中原中也が結婚後、夫婦で初めて住んだのが東京の四谷花園アパートでした。このアパートは青山二郎が住み始めてから文壇の面々が集まり、”青山学院”と呼ばれていました。
「…青山二郎は経済的に窮すると新宿方面へと移り住んだ。四谷区番衆町には、竹田鎌二郎が住んでいた。彼とは気さくな仲で、青山から頼まれるまでもなく、格好なアパートを捜してきた。それが花園アパートである。地図を見ればわかるのだが、そこは新宿遊廓とひと続きの場所である。近くにはあやしげな旅館やらアパートが多く建っていた。その一郭に花園アパートもあったわけだ。……花園アパートから新宿二丁目の遊郭までは数分の距離。そこを通り抜ければ、新宿三丁目の歓楽街で、このあたりも昔は四谷区であった。そして新宿駅の周辺からが淀橋区となる。青山二郎がこの場末のアパートに移り住んだのは、昭和八年九月十五日であった。……中原中也が住んだ部屋は二号館の二階であった。アパートは全部で三棟あり、一号館と二号館が東西に並び、廊下でコの字につながっていた。三号館は廊下の東側に独立して建っていた。花園アパートは四周を高い塀に囲まれて、出入り口が北と南に二つあった。二号館の住人たちは、南側の門を利用するのが便利で、その南門を入ると、一号館の廊下の突き当たりが青山二郎の住む部屋であった。赤坂の次は、ここが”青山学院”の所在となったところ。…」
このアパートには文壇の面々だけではなく、さまざまな人種が住みます。高見順の最初の妻だった石田愛子、「続 中原中也の東京を歩く」で紹介していますが坂口安吾が好きだった坂本睦子(中原中也が惚れましたが振られます)、後に青山二郎と結婚することになる服部愛子等、すごいメンバーです。男女関係がどうなっていたのが知りたいですね。阿部金剛夫人であった三宅艶子も、昭和十年ごろからよく花園アパートを訪ねています。
「…正直言って、「へんなアパートに住んでる」ときいてはいたけれど、私は花園アパートの玄関では、「どうしてこんなところに青山さんが」と、不思議だったり同情する気分だったりしたのだ。それが一瞬とびらを開くと、ここが新宿のごみごみしたところとは思えない静けさと美しさ豪華さに満ちている。……青山さんは、「今起きてふとん片づけたばっかり。お前たちあんまり早過ぎたよ」とおっしゃる。もう夕方だった。私はふだん夜中が好きで、夜昼をとり違えたような暮らしをしていたので、十一時に起きるんですかと、ひとにあきれられ、肩身のせまい思いをしていたところだ。もう暗くなって、夕方というより夜に近いのに、「こんなに早く来て」としかられるのも面白かった。…」。うむ…〜すごい!!
★左上の写真は村上護の文壇資料「四谷花園アパート」です。さまざまな本にこの四谷花園アパートが書かれていましたが、一番まとまっていました。
【中原中也】 中原中也は、明治40年(1907)4月29日、山口市湯田温泉の医者の息子として生まれました。軍医であった父親に伴って金沢、広島と移り、父親は、母親の実家であった山口市湯田の中原医院を継ぎます。小学校時代は成績はよかったようですが、名門の山口中学校時代は文学に傾倒し、成績が下がり落第します。そのため京都の立命館中学校に転校しますが、富永太郎の出会等によりにより一層文学に傾注していきます。また、長谷川泰子と同棲したりしています。大正14年上京、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らとひさしく付き合いますが、昭和12年、結核のため鎌倉で死去します。死後、友人小林秀雄によって詩集『在りし日の歌』が出版され、高い評価を得ます。
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