●森鴎外の「雁」歩く -2-
    初版2010年12月4日 <V01L01> 暫定版

 今週も引き続いて『森鴎外の「雁」を歩く』を掲載します。先週は東京帝国大学の鉄門から無縁坂を下り、不忍の池をぐるっと回って上野の山の”東照宮の石段”を登り上野広小路まで歩きました。今週は池之端仲町通りから湯島天神を回って東京大学竜岡門(龍岡門)までを歩いてみました。


「池之端仲町通り」
<池之端仲町通り>
 池之端仲町通りは森鴎外の小説「雁」を初め永井荷風、獅子文六、佐多稲子等の作品に度々登場します。上野広小路も含めてこの辺りは明治から大正、昭和を通して銀座、浅草に続く繁華街だったのだとおもいます。特にこの池之端仲町通りは本郷(東京帝国大学があった)から浅草や銀座に向かう人たちの通り道であり、又、この付近(本郷、谷中)の人たちのハイカラな買物のできる商店街でもあったようです。
 森鴎外の「雁」からです。
「 岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。…」
 明治初期は本郷から上野広小路に向かうには湯島天神横の切通しを下りるか、鉄門前から無縁坂を下りるしか道はありませんでした。ただ、無縁坂は脇道であり普通は切通しを下りていたようです。明治23年に新道(現 春日通り)が出来るまでは切通し(天神下)から御徒町に向かう真っ直ぐな道はなく、天神下を左に折れて不忍通りか池之端仲町通りを通るのか一般的だったようです。当時の地図を掲載しておきます。

写真は上野広小路から見た池之端仲町通り入口です。この通りには蓮玉庵、池之端藪蕎麦のお店もあります。

「たしがらや跡」
<たしがらや>
 池之端仲町通りで森鴎外の「雁」に登場するお店を紹介していきます。
 森鴎外の「雁」からです。
「… 店の前の女は、傍を通り過ぎる誰やらが足を駐めたのを、殆ど意識せずに感じて、振り返って見たが、その通り過ぎる人の上に、なんの注意すべき点をも見出さなかったので、蝙蝠傘を少し内廻転をさせた膝の間に寄せ掛けて、帯の間から出して持っていた、小さい蝦蟇口(がまぐち)の中を、項(うなじ)を屈めて覗き込んだ。小さい銀貨を捜しているのである。
 店は仲町の南側の「たしがらや」であった。「たしがらや倒(さか)さに読めばやらかした」と、何者かの言い出した、珍らしい屋号のこの店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売っていた。まだ錬歯磨なんぞの舶来していなかったその頃、上等のざら附かない製品は、牡丹の香のする、岸田の花王散と、このたしがらやの歯磨とであった。店の前の女は別人でない。朝早く父親の所を訪ねた帰りに、歯磨を買いに寄ったお玉であった。…」

 「たしがらや」は有名な小間物屋だったようです。お玉もこのお店で高い歯磨を買っています。この頃から国産の歯磨き粉が発売されるようになります。因みに”岸田の花王散”は現在の花王石鹸とは違うようで、岸田劉生の父親が作っています。

写真の少し先、パトカーが止まっている左側辺りに「たしがらや」はあったようです。台東区教育委員会出版の「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和 V」の中の綴じ込みに名前が掲載されていました。関東大震災後の区画整理で新しい道が出来たりしており、正確な場所がわかりせんでした。



森鴎外の「雁」地図(地図V)


「堺屋」
<酒屋>
 先ほどの「たしがらや」から少し先の右側に堺屋という酒屋があります。関東大震災後に建てられた建物だとおもいます。仲通りで最も古い建物かしれません。壁には味噌酒食料品 堺屋?と古い字体で書かれています。
 森鴎外の「雁」からです。
「… 酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るように云った。
「ねえ、奥さん。そんなに好い女じゃありませんでしょう。顔が平べったくて、いやに背が高くて」
「そんな事を言うものじゃないよ」と云ったぎり、相手にならずにずんずん歩く。女中は当がはずれて、不平らしい顔をして附いて行く。…」

 ”酒屋の角を池の方へ曲がる”と書かれていますが、この道は関東大震災以前から変わりません。森鴎外も酒屋の場所まで覚えているとはたいしたものです。
 引き続き、森鴎外の「雁」からです。。
「… お常が四五歩通り過ぎた時、女中がささやいた。「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は」
 黙って頷いたお常には、この詞が格別の効果を与えないので、女中は意外に思った。あの女は芸者ではないと思うと同時に、お常は本能的に無縁坂の女だと云うことを暁っていたのである。それには女中が只美しい女がいると云うだけで、袖を引いて教えはしない筈だと云う判断も手伝っているが、今一つ意外な事が影響している。それはお玉が膝の所に寄せ掛けていた蝙蝠傘である。
 もう一月余り前の事であった。夫が或る日横浜から帰って、みやげに蝙蝠の日傘を買って来た。柄がひどく長くて、張ってある切れが割合に小さい。背の高い西洋の女が手に持っておもちゃにするには好かろうが、ずんぐりむっくりしたお常が持って見ると、極端に言えば、物干竿の尖へおむつを引っ掛けて持ったようである。それでそのまま差さずにしまって置いた。その傘は白地に細かい弁慶縞のような形が、藍で染め出してあった。たしがらやの店にいた女の蝙蝠傘がそれと同じだと云うことを、お常ははっきり認めた。…」

 末造はお土産の傘を二人用に全く同じものを買ったようです。お話としてはこの方が面白いです。昔も今もこのような話は変わりませんね!!

写真の正面が酒屋の堺屋です。池之端仲通りの丁度真ん中辺りです。この直ぐ先右側に「道明(谷崎潤一郎の細雪に登場します)」、もう少し先の左側に「池之端藪蕎麦」があります。

「戦前の蓮玉庵跡」
<蓮玉庵>
 上野広小路や池之端と書けば必ず名前が登場するのが「蓮玉庵」です。
 森鴎外の「雁」からです。
「… 僕は折々立ち留まって、「驚いたね」とか、「君は果断だよ」とか云って、随分ゆるゆる歩きつつこの話を聞いた積であった。しかし聞いてしまって時計を見れば、石原に分れてからまだ十分しか立たない。それにもう池の周囲の殆ど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはずれ掛かっている。
「このまま往っては早過ぎるね」と、僕は云った。
「蓮玉へ寄って蕎麦を一杯食って行こうか」と、岡田が提議した。
 僕はすぐに同意して、一しょに蓮玉庵へ引き返した。その頃下谷から本郷へ掛けて一番名高かった蕎麦屋である。…」


写真正面、やや右側の茶色のビルところに戦前の蓮玉庵がありました。関東大震災後もこの場所で営業されていましたが、終戦前に店を閉めて疎開されています。戦後は最終的に仲通りにお店を出されます。詳細は「佐多稲子の東京を歩く 3」を見て下さい。

「湯島天神」
<湯島天神>
 森鴎外の「雁」にも「湯島天神」が登場します。湯島天神が有名になったのは、『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。』という、泉鏡花の「婦系図」からです。詳細は「泉鏡花を歩く 湯島天神と婦系図」を参照して下さい。
 森鴎外の「雁」からです。
「…岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。…」

写真が湯島天神です。池之端仲通から湯島天神までは仲通りの西の端を左に曲がり、少し歩いた後、右に曲がって男坂を登ると湯島天神です。男坂があれば、女坂もあります。登る階段の傾きの違いだけてす。上記の地図を参照して下さい。

「竜岡門(龍岡門)」
<新しい黒い門>
 岡田は一通り歩くと鉄門前の下宿に戻ります。仲町通りから鉄門前の下宿に戻るには二通りの道筋がありました。
 森鴎外の「雁」からです。
「…しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。或る時は大学の中を抜けて赤門に出る。鉄門は早く鎖されるので、患者の出入する長屋門から這入って抜けるのである。後にその頃の長屋門が取り払われたので、今春木町から衝き当る処にある、あの新しい黒い門が出来たのである。…」

写真正面は現在の竜岡門(龍岡門)です。竜岡門は昭和8年(1933)完成ですから、かなり後になります。森鴎外が「雁」を書いたのは明治44年から大正3年なので、推定ですが、何らかの門ができていたのだとおもいます。この竜岡門(龍岡門)の手前を右に曲がり、直ぐに左に曲がると当時(明治後期まで)は加賀藩前田邸の長屋が続いていました。この長屋に門があり、その門が上記に書かれている長屋門だとおもいます。この長屋門については江戸東京博物館所蔵の絵(「東京風景 十六 本郷龍岡町」織田一磨 大正6年)がありましたので、掲載しておきます。大正6年まで長屋門があったのかなともおもいます。

続きます!!

現在の地図と重ねた地図(地図U)