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●佐多稲子の東京を歩く 3  【池之端仲町編】
    初版2010年9月26日  <V01L03> 暫定版

 「佐多稲子の東京を歩く」を継続掲載します。今回は「池之端仲町編」です。前回は元黒門町でしたので、不忍通りを挟んで反対側になります。この付近は「伊豆栄」、「蓮玉庵」、「宝丹」などの戦前からのお店が残っており、浅草とはまた違う下町の雰囲気があります。




「私の東京地図」
<佐多稲子の「私の東京地図」> [前回と同じ]
 堀辰雄の三橋亭について調べていて、偶然に佐多稲子の「私の東京地図」を読む機会があり、なかなか面白かったので、この本を参考にして、少し歩いてみました。東京の向島から浅草、上野、田端付近の地名が登場し、又、戦前のお店の名前が数多く登場しています。大正5年頃から昭和初期にかけての東京の下町の様子がよく書けています。
 佐多稲子の「私の東京地図」、”下町”の項からです。 
「下 町
 東京の街の中で、ここは私の縄張り、とひそかにひとりぎめしている所がある。上野山下の界隈で、池の端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。
 これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられたからであろう。生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じょうとしているのである。それも縄張りなどと、厭な、古臭い言葉でしか言い得ない、厭な、古臭さを知った上で、わざとそう言う、この体を交した身ぶり、それがこの場所で、私の覚えたものであるかも知れない。…」。

 上野の山下、元黒門町から池之端仲町、広小路付近は関東大震災と東京空襲で、二度大火にみまわれ、昔の面影はほとんど残していませんが、昔のお店の名前から当時の所在地を探してみました。

写真は佐多稲子の「私の東京地図」です。講談社文庫です。この本は既に絶版となっており、古本でしか入手できませんでした。初版は昭和28年です。

【佐多稲子(さた いねこ) 明治37年 (1904)6月1日-平成10年(1998) 10月12日】
 明治三十七年(1904)、長崎市に生まれる。大正四年、一家をあげて上京し、キャラメル工場で働く。このあと、いくつかの勤めを経て、大正十五年、本郷のカフェー「紅緑」で、『驢馬』同人の中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎と遊近し、窪川鶴次郎と結婚する。昭和三年、処女作『キャラメル工場から』を『プロレタリア芸術』に発表。ナップに加盟。昭和四年、ナルプに所属。昭和十一年、初長篇『くれなゐ』を『婦人公論』に連載。昭和十五年、書下ろし長篇『素足の娘』を新潮社より刊行。昭和二十年、窪川と正式離婚し、筆名を窪川いね子から佐多稲子に変え、旺盛な作家活動に入る。婦人民主クラブの創設に尽力し、新日本文学会の活動に積極的に参加するなど、たえず文学者として、広い社会的視野に立ち、時代の誠実な批判者として創作をつづけてきた。昭和三十八年『女の宿』により女流文学賞を受賞。以後、野間文芸賞(『樹影』)川端康成賞(『時に仔つ』)毎日芸術賞(『夏の栞』)と続き、昭和五十九年、現代文学への貢献に対し、朝日賞を授与される。昭和六十一年、『月の宴』により読売文学賞を受賞する。平成十年死去。(中公文庫より)

「喫茶店の「山本」跡」
喫茶店の「山本」>
 まず最初に探すお店は「揚出し」の不忍通りを挟んで反対側のお店です。「山本」という喫茶店ですが角地のお店なの
で有名だったようです。
 佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「…池の水の落ちる忍川には三橋の橋の形も標ばかりにもついていた。忍川は「揚げ出し」の裏でちょっと水の姿を見せて、そのあとは広い道の下にくぐって隠れ、御徒町の方へ出て見え隠れしつつ流れ落ちていた。「揚げ出し」の表の角は、あとで「菊や」というレストランになったが、はじめは鳥何とかいう鳥やで、丁度三橋の片方の角に当り、二階の庇に青銅の吊り燈籠などが下がっていた。池の方へ出る道をはさんで、横手の向いに喫茶店の「山本」と、うなぎやの「伊豆栄」がある。…」
 上野広小路のお話では必ず”忍川の三橋”が登場します。台東区教育委員会の「台東区の明治・大正・昭和」を参照しました。
「… 忍川って川が流れてました。ちょうど、場出しの前のところへ池の水が出てくるわけで、私たちは、そこだけドンドンって言ってましたがね。そこへ出て来て、それからずうっと、三橋っていいましたか、そこはすでに道になってましたね。橋はありませんでしたね。それで、今のアブアブの並びから、また水が表面に出ているわけです。そこに忍川っていう料理屋があって、今の朝日信用のとこですね。…」
 忍川は現在はどうなっているのでしょうか。大正5年には暗渠になったようで、その後は小絲源太郎の「随筆集」を参照すると、
「…忍川が暗渠になったのは、まだ近年だ。三味線堀へ流れていた筈のこの川が、その時から逆に岩崎邸の前を真っすぐに万世橋下で神田川に流し込ませてある。
 人間のカは、遂に川を逆しまに流してしまったわけだ。有名な三味線堀も、今は埋立てて跡形もない。」

と書かれていました。神田川に付け替えられているようです。明治後期の上野広小路の絵はがきを掲載します(絵はがきの左端に橋があります)。

写真は中央通りと不忍通りの交差点の南西角を撮影したものです。正面やや左のビルのところに喫茶店「山本」がありました。現在はビルとなり、一階はコンビニになっています。

「伊豆栄」
「伊豆栄」>
 次は鰻で有名な「伊豆栄」です。上野広小路付近には鰻屋はこの店しかなかったようです。昭和8年の「大東京うまいもの食べ歩記」を見ると、残念ながら記載されていませんでした。現在では有名なお店になっていすが、戦前はそれほどではなかった上野だとおもいます。
 佐多稲子の「私の東京地図」からです(上記と同じ)。
「 …池の水の落ちる忍川には三橋の橋の形も標ばかりにもついていた。忍川は「揚げ出し」の裏でちょっと水の姿を見せて、そのあとは広い道の下にくぐって隠れ、御徒町の方へ出て見え隠れしつつ流れ落ちていた。「揚げ出し」の表の角は、あとで「菊や」というレストランになったが、はじめは鳥何とかいう鳥やで、丁度三橋の片方の角に当り、二階の庇に青銅の吊り燈籠などが下がっていた。池の方へ出る道をはさんで、横手の向いに喫茶店の「山本」と、うなぎやの「伊豆栄」がある。…」
 お店のホームページを見ると、村上浪六、森 鴎外、谷崎潤一郎、川口松太郎、小島政二郎の名前が記載されていますが、どの作品に登場しているのか調査不足で不明です。嵐山光三郎の「文人悪食」には、森鴎外の好きなお店として書かれていました。

写真の正面が「伊豆栄」です。先ほどの喫茶店「山本」跡から、小さなビルも挟んで右に四軒目です。立派な七階建てのビルになっています。右隣は「十三や」です。

「蓮玉庵跡」
「蓮玉庵」>
 上野広小路や池之端と書けば必ず名前が登場するのが「蓮玉庵」ですが、残念ながら佐多稲子の「私の東京地図」には登場していませんので、森鴎外の「雁」かとおもったのですが、獅子文六の「ちんちん電車」に登場して貰いました。
 獅子文六の「ちんちん電車」からです。
「… また、ある時は、天王寺の墓地へお詣りに行くと、典型的な下町のおばあさんが、孫らしい子供を二人連れて、私の前を歩いていた。その言葉つきや態度が、実に生粋だったから、興味深く思ったのだが、帰りに、蓮玉庵に寄ると、その三人が、私より先に来ていて、ソバを食ってる最中だった。谷中の墓参の帰りに、団子坂の薮″とか、池の端の蓮玉庵に寄るのは、下町の古い人の習性なのだろうと、面白く思った。
 池之端のソバは、薮″もあって、ソバ好きの私たちは、どっちへ寄ろうかと、思する時もある。しかし、鳥を食うとなれば、何の躊躇もなく、鳥栄″のノレンを潜るだろう。…」

 明治から大正辺りまでは谷中から上野界隈のそば屋としては「藪蕎麦」と「蓮玉庵」が双璧だったようです。子母沢寛が「味覚極楽」の中に池之端の「蓮玉庵」について書いていました(戦前のことです)。ケチョンケチョンに書いているのでビックリしてしまいました。私にはとてもおいしい蕎麦だとおもうのですが!
 子母沢寛の「味覚極楽」からです。
「…下谷池の端の「蓮玉庵」もなかなかうまいもので、十四、五年前は、そば食いたちは東京第一の折紙をつけ、私なども毎日のように通ったが、これも今はいけない。そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ないようになったのである。…」
 蕎麦屋の味の判断は難しいです。時代が要求する味との兼ね合いもあるとおもいます!

写真正面の茶色のビル(小島ビル)のところが戦前の「蓮玉庵」跡です。澤島孝夫さんの「蕎麦の極意」を読むと、関東大震災までは大きなお店だったようです。震災後は同じ場所ですが少し間口の小さいお店にしています。戦争中の昭和18年には店を閉めて疎開をされていたようです。戦後の昭和26年に「伊豆栄」の左隣にお店を出しますが、昭和29年に現在地に移っています。明治後期の池之端の写真を掲載しておきます(この写真の中に「蓮玉庵」があるはずなのですが!)。

「鈴本、酒悦」
「鈴本」・「酒悦」>
 寄席で有名な「鈴本」と福神漬で有名な「酒悦」です。「酒悦」の名前は知っていたのですが、発祥の地が本郷から上野にあるとは初めてしりました。
 佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「…寄席の鈴本が、以前の場所にそれらしい形に急造して、落語家の名札を軒に大きくかかげているのも、よく見れば周囲に露店が並んでいたり、裏側は赤ちゃけた石ころの空地だったりするので、村の祭礼の見世物小屋の感じがしてくるのだが、鈴本の手前の大時計との間に、焼ける前は福神漬屋が近代風に店を出していた。この福神漬屋は私のいた頃は仲町の中ほどにあったものだった。池の端の福神漬屋と呼びならし、名代の店だったが、ずっとあとになって、この福神清の缶詰を手に取って商標をながめた友達の一人が、「ああ、これ酒悦ね」
 と喜んだ。その、しゆえつ、という名前は私にははじめてで、山の手に育った友達は、池の端の福神清も酒悦の福神漬と呼ぶのかと、耳に残ったことがある。…」

 上記に書かれている”鈴本の手前の大時計”は仲町通り入口の左角にあった鈴木時計店のこととおもいます。関東大震災の前の写真と思われますが、松坂屋から広小路方面を撮影した絵はがきに時計台が写っています(正面やや左に時計台が見えます)。

写真正面のビルが「鈴本」、「鈴本」の左側のビルが「酒悦」です。「鈴本」は戦前と同じ場所です。「酒悦」は関東大震災以降はこの場所ですが、それ以前は仲町通りを少し入った左側にありました。

「薬種屋宝丹」
「薬種屋宝丹」>
 この「宝丹」も聞き覚えはあったのですが、池之端仲町にあるとはおもいませんでした。江戸時代からの薬種店で、現在まで残っているのはこのお店のみだそうです。
 佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「… 仲町の角の薬種屋宝丹では、夏になると、間口の広い店先に、大きな樽に冷めたい水を用意して、それに宝丹をそえて、暑気はらいに通行人の飲むにまかせてあった。芸者家町へ入る角の大きな小間物屋は、ちづかや、と言ったかしら。二階に有名な髪結いがいて、下谷の芸者がみんな
芸の二階へ通りた自私は小間物屋の飾窓に、鼈甲のっこうかんざしをつけた鬘だの、花かんざしだの、半襟などにガラス越しに見とれたものだ。…」

 昭和60年頃までは赤褐色の半練り状の薬でしたが、厚生省の薬効再評価で、龍脳、寧朱、ヨクイニンなど除外され、現在の散剤−宝丹となっています。胃もたれ、はきけ、胸やけ、飲みすぎ、食べすぎ、嘔吐に効果があるそうです。昔は虎列刺(コレラ)の治療薬というより予防薬として重宝されていたようです(ホームページ参照)。

写真が現在の「守田宝丹」です。池之端仲町通りの少し先、右側にあります。江戸時代から場所は変わっていないそうです。

 下記の地図は現在の地図に昭和10年の火保図を重ねたものです。ぴったりは重なりません。

 時期は未定ですが、引き続き「佐多稲子の東京を歩く」を掲載予定です。


佐多稲子の池之端仲町地図


佐多稲子年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 佐多稲子の足跡
明治37年  1904 日露戦争 0 6月1日 長崎市八百屋町四番戸に、田島政文、高柳ユキの長女として生まれる
明治44年 1911 辛亥革命 7 4月 長崎市勝山尋常小学校に入学
8月 母、結核で死去
       
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 11 11月 一家をあげて上京、本所小梅町に住む
12月 キャラメル工場に勤める
大正5年 1916 世界恐慌始まる 12 上野清凌亭の小間使いになる
         
大正9年 1920 国際連盟成立 16 再度上京、上野清凌亭の女中となる
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 日本橋丸善に勤める
大正12年 1923 関東大震災 19  
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 小堀槐三と結婚、蒲田に住む
大正14年 1925 関東大震災 21 2月 自殺未遂の後、離婚
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
22 3月 .本郷道坂のカフェー紅緑に勤める



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