<佐多稲子の「私の東京地図」> [前回と同じ]
堀辰雄の三橋亭について調べていて、偶然に佐多稲子の「私の東京地図」を読む機会があり、なかなか面白かったので、この本を参考にして、少し歩いてみました。東京の向島から浅草、上野、田端付近の地名が登場し、又、戦前のお店の名前が数多く登場しています。大正5年頃から昭和初期にかけての東京の下町の様子がよく書けています。
佐多稲子の「私の東京地図」、”下町”の項からです。
「下 町
東京の街の中で、ここは私の縄張り、とひそかにひとりぎめしている所がある。上野山下の界隈で、池の端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。
これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられたからであろう。生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じょうとしているのである。それも縄張りなどと、厭な、古臭い言葉でしか言い得ない、厭な、古臭さを知った上で、わざとそう言う、この体を交した身ぶり、それがこの場所で、私の覚えたものであるかも知れない。…」。
上野の山下、元黒門町から池之端仲町、広小路付近は関東大震災と東京空襲で、二度大火にみまわれ、昔の面影はほとんど残していませんが、昔のお店の名前から当時の所在地を探してみました。
★写真は佐多稲子の「私の東京地図」です。講談社文庫です。この本は既に絶版となっており、古本でしか入手できませんでした。初版は昭和28年です。
【佐多稲子(さた いねこ) 明治37年 (1904)6月1日-平成10年(1998) 10月12日】
明治三十七年(1904)、長崎市に生まれる。大正四年、一家をあげて上京し、キャラメル工場で働く。このあと、いくつかの勤めを経て、大正十五年、本郷のカフェー「紅緑」で、『驢馬』同人の中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎と遊近し、窪川鶴次郎と結婚する。昭和三年、処女作『キャラメル工場から』を『プロレタリア芸術』に発表。ナップに加盟。昭和四年、ナルプに所属。昭和十一年、初長篇『くれなゐ』を『婦人公論』に連載。昭和十五年、書下ろし長篇『素足の娘』を新潮社より刊行。昭和二十年、窪川と正式離婚し、筆名を窪川いね子から佐多稲子に変え、旺盛な作家活動に入る。婦人民主クラブの創設に尽力し、新日本文学会の活動に積極的に参加するなど、たえず文学者として、広い社会的視野に立ち、時代の誠実な批判者として創作をつづけてきた。昭和三十八年『女の宿』により女流文学賞を受賞。以後、野間文芸賞(『樹影』)川端康成賞(『時に仔つ』)毎日芸術賞(『夏の栞』)と続き、昭和五十九年、現代文学への貢献に対し、朝日賞を授与される。昭和六十一年、『月の宴』により読売文学賞を受賞する。平成十年死去。(中公文庫より)