●森鴎外の「雁」歩く -1-
    初版2010年11月27日 <V01L02> 暫定版

 今回はオーソドックスに本郷から上野を歩きます。参考図書は森鴎外の「雁」です。佐多稲子や堀辰雄で上野を歩いてきましたので、最後に纏めとして森鴎外の「雁」を参考にしたという感じです。森鴎外の「雁」では地名や坂道、お店の名前がそのまま登場しています。岡田の歩いた散歩道に沿って紹介していきたいとおもいます。


「森鴎外の「雁」」
<森鴎外の「雁」>
 森鴎外の小説「雁」は明治44年から大正3年にかけて「スバル」にて発表されています。その中でも特に気になるのは「鯖の味噌煮」です(本文では”青魚(さば)の未醤煮”と書かれている)。「雁」と「鯖の味噌煮」は全く関係ないじゃないかと思われるかもしれませんが、この小説のキーポイントとなる関係があります。ちょっとだけ中身を紹介しますと、作者の僕と医学部生の岡田という二人の東大生がいます。この無縁坂の近くに下宿していて、いつも散歩にこの坂道を歩いています。この坂道の途中に金貸し屋の親父の妾(お玉、20歳)が住んでいて、岡田と親しくなっています。ある時彼女は自分の思いを岡田に伝える決心をして、岡田が散歩するのを待っていました。そのときに作者の僕の下宿屋の夕食に「鯖の味噌煮」が出てくるわけです。この僕は「鯖の味噌煮」が大嫌いで、食事をする気になれず、岡田と二人で散歩に出てしまう訳です。岡田一人ではなかったので彼女は声をかける事ができずに、又岡田も僕がいたため通り過ぎてしまうわけです、そして岡田は次の日に留学してしまいます。森鴎外はじつに面白くこの坂道の風景や人々を表現しています。是非とも「鯖の味噌煮」を頭に浮かべながらこの無縁坂を歩いて下さい!、岡田青年になりきれるかもしれませんよ!!
 森鴎外の「雁 弐拾弐(にじゅうに)」からです。
「 西洋の子供の読む本に、釘一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話では、青魚(さば)の未醤煮が丁度釘一本と同じ効果をなすのである。
 僕は下宿屋や学校の寄宿舎の「まかない」に饑を凌いでいるうちに、身の毛の弥立(よだ)つ程厭な菜が出来た。どんな風通しの好い座敷で、どんな清潔な膳の上に載せて出されようとも、僕の目が一たびその菜を見ると、僕の鼻は名状すべからざる寄宿舎の食堂の臭気を嗅ぐ。煮肴(にざかな)に羊栖菜(ひじき)や相良麩(さがらぶ)が附けてあると、もうそろそろこの嗅覚(きゅうかく)の hallucination(アリュシナション) が起り掛かる。そしてそれが青魚の未醤煮に至って窮極の程度に達する。
 然るにその青魚の未醤煮が或日上条の晩飯の膳に上った。いつも膳が出ると直ぐに箸を取る僕が躊躇しているので、女中が僕の顔を見て云った。
「あなた青魚がお嫌」
「さあ青魚は嫌じゃない。焼いたのなら随分食うが、未醤煮は閉口だ」…」

 ”青魚(さば)の未醤煮”が「鯖の味噌煮」なのですね。現在使われている”味噌煮”の漢字と違います。羊栖菜(ひじき)や相良麩(さがらぶ)にいたっては全く読めません。”相良麩(さがらぶ)”は”すだれ麩に似て、それよりもやや厚めの麩”のことだそうです。それにしても「鯖の味噌煮」から話が切り替わるのはなんともいえませんね。

写真は新潮文庫の森鴎外「雁」です。30ページに渡って言葉の解説も掲載されており、324円で十分に楽しませてくれます。

「現在の鉄門」
<東京大学の鉄門>
 「雁」の書き出しから始めたいとおもいます。
 森鴎外の「雁」からです。
「 …古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。どうして年をはっきり覚えているかと云うと、その頃僕は東京大学の鉄門の真向いにあった、上条と云う下宿屋に、この話の主人公と壁一つ隔てた隣同士になって住んでいたからである。その上条が明治十四年に自火で焼けた時、僕も焼け出された一人であった。その火事のあった前年の出来事だと云うことを、僕は覚えているからである。
 上条に下宿しているものは大抵医科大学の学生ばかりで、その外は大学の附属病院に通う患者なんぞであった。…」

 森鴎外自身が東京帝国大学医学部卒業(森鴎外は明治6年(1873)11月、当時の第一大学区医学校に入学、卒業時は明治14年7月東京大学医学部)ですから、自身の大学時代の経験に基づいて「雁」は書いているのだとおもいます。

写真は現在の東京大学鉄門です。明治13年当時は下記の地図の通り、東京帝国大学医学部の正門でした。ただ、現在の鉄門の場所とは違います(地図U参照)。当時の鉄門前は民家がありましたが、その後、大学が鉄門前の土地を明治44年(1911)に取得したようで、現在は南研究棟になっています。上記にに”東京大学の鉄門の真向いにあった、上条と云う下宿屋”と書かれていますが、現在の南研究棟のところとなります。地図Tは明治13〜14年当時の東大構内図、地図Uは現在の地図と地図T(当時の地図)を重ね合わせたものです。三四郎池が少しずれています。



明治13〜14年の東京大学構内図(地図T)



現在の地図と重ねた地図(地図U)



「無縁坂」
<無縁坂>
 東京電車鉄道(路面電車)が、品川 - 新橋間で開業したのは明治36年(1903)8月ですから、何処かへ行こうとすると、当時は人力車か歩くしかなかったわけです。私と岡田は本郷から上野界隈をひたすら歩いています。
 森鴎外の「雁」からです。
「… 岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。…」
 本郷からの散歩を考えると、北(根津から白山方向)は根津遊郭が明治20年頃まであり、西(春日から早稲田)は民家で特になにもなく、南(お茶の水から神田)も民家か多かったとおもいます。東(上野)は上野公園から広小路で料理屋やお店が多く、当時の散歩としては最も良かったのだとおもいます。
 森鴎外の「雁」からです。。
「… そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅(か)られることがなかった。
 坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好いのが、板塀を繞らした、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草屋位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾(たけすだれ)が卸してある。そして為立物師の家の賑やかな為めに、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。…」

 岩崎邸は越後高田藩江戸屋敷を岩崎弥太郎が購入したもので、現在の洋館は長男の久弥により明治29年(1896)に建設されています。戦後は米軍に接収され、その後の昭和22年(1946)には国有財産になっています。

写真の左右が無縁坂です。昔は湯島郷に属し、講安寺門前町として開かれた町屋で、今も坂の北側に講安寺があります。この坂道が有名になったのは、まず第一に「ひまわりの歌」の主題歌、さだまさし作の「無縁坂」、第二に「森鴎外」の「雁」に出で来る坂道だからです。写真正面が岩崎邸となります。昔は予約しないと見学できなかったのですが、今はいつでも見学できるようになっています。

「上野東照宮」
<東照宮>
 岡田の散歩は無縁坂を下りてから、不忍の池を左に曲がり、上野の山に向かいます。
 森鴎外の「雁」からです。
「…僕は岡田と一しょに花園町の端を横切って、東照宮の石段の方へ往った。二人の間には暫く詞が絶えている。「不しあわせな雁もあるものだ」と、岡田が独言の様に云う。僕の写象には、何の論理的連繋もなく、無縁坂の女が浮ぶ。「僕は只雁のいる所を狙って投げたのだがなあ」と、今度は僕に対して岡田が云う。「うん」と云いつつも、僕は矢張(やはり)女の事を思っている。「でも石原のあれを取りに往くのが見たいよ」と、僕が暫く立ってから云う。こん度は岡田が「うん」と云って、何やら考えつつ歩いている。多分雁が気になっているのであろう。
 石段の下を南へ、弁天の方へ向いて歩く二人の心には、とにかく雁の死が暗い影を印していて、話がきれぎれになり勝であった。弁天の鳥居の前を通る時、岡田は強いて思想を他の方角に転ぜようとするらしく、「僕は君に話す事があるのだった」と言い出した。そして僕は全く思いも掛けぬ事を聞せられた。…」


写真が上野公園の東照宮です。当初1627年に造営されていますが、寛永4年(1651)に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿です。関東大震災や空襲にも生き残っています。上記に書かれている”東照宮の石段”は現存しています。写真の右側の売店(東照宮第一売店)の幟旗に”カレーそうめん”と書いていますが、B級グルメでは結構有名です。

「松源跡」
<松源>
 森鴎外の「雁」にも「松源」が登場しています。「松源」については「佐多稲子の東京を歩く 2 」でも書いていますが、上野広小路では、明治から大正初期にかけては最も有名な料理屋だったようです。
 森鴎外の「雁」からです。
「… 上野広小路は火事の少い所で、松源の焼けたことは記憶にないから、今もその座鋪(ざしき)があるかも知れない。どこか静かな、小さい一間をと誂えて置いたので、南向の玄関から上がって、真っ直に廊下を少し歩いてから、左へ這入る六畳の間に、末造は案内せられた。
 印絆纏を着た男が、渋紙の大きな日覆を巻いている最中であった。
「どうも暮れてしまいますまでは夕日が入れますので」と、案内をした女中が説明をして置いて下がった。真偽の分からぬ肉筆の浮世絵の軸物を掛けて、一輪挿に山梔の花を活けた床の間を背にして座を占めた末造は、鋭い目であたりを見廻した。
 二階と違って、その頃からずっと後に、殺風景にも競馬の埒にせられて、それから再び滄桑を閲して、自転車の競走場になった、あの池の縁の往来から見込まれぬようにと、切角の不忍の池に向いた座敷の外は籠塀で囲んである。塀と家との間には、帯のように狭く長い地面があるきりなので、固より庭と云う程の物は作られない。末造の据わっている所からは、二三本寄せて植えた梧桐(あおぎり)の、油雑巾で拭いたような幹が見えている。それから春日燈籠が一つ見える。その外(ほか)には飛び飛びに立っている、小さい側栢があるばかりである。暫く照り続けて、広小路は往来の人の足許(あしもと)から、白い土烟が立つのに、この塀の内(うち)は打水をした苔が青々としている。…」


写真の右側辺り一帯に「松源」ありました。小絲源太郎によれば間口が100m位あったそうですから、かなり大きな料理屋でした。詳しくは「佐多稲子の東京を歩く 2 」を参照して下さい。

続きます!!



森鴎外の「雁」地図