●佐多稲子の東京を歩く 2  【上野元黒門町編】
    初版2010年8月14日
    二版2010年10月11日  <V01L01> 一部修正及び「松源」を追加

 「堀辰雄の東京を歩く」と「太宰治の津軽を歩く」をお休みしまして、「佐多稲子の東京を歩く」を掲載します。堀辰雄の関係から佐多稲子の「私の東京地図」を少し読みましたので、この本を参考にして、佐多稲子が歩いた場所を探してみました。大正初期から関東大震災を経て、昭和10年頃までの上野広小路です。




「私の東京地図」
<佐多稲子の「私の東京地図」>
 堀辰雄の三橋亭について調べていて、偶然に佐多稲子の「私の東京地図」を読む機会があり、なかなか面白かったので、この本を参考にして、少し歩いてみました。東京の向島から浅草、上野、田端付近の地名が登場し、又、戦前のお店の名前が数多く登場しています。大正5年頃から昭和初期にかけての東京の下町の様子がよく書けています。
 佐多稲子の「私の東京地図」、”下町”の項からです。 
「下 町
 東京の街の中で、ここは私の縄張り、とひそかにひとりぎめしている所がある。上野山下の界隈で、池の端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。
 これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられたからであろう。生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じょうとしているのである。それも縄張りなどと、厭な、古臭い言葉でしか言い得ない、厭な、古臭さを知った上で、わざとそう言う、この体を交した身ぶり、それがこの場所で、私の覚えたものであるかも知れない。…」。

 上野の山下、元黒門町から池之端仲町、広小路付近は関東大震災と東京空襲で、二度大火にみまわれ、昔の面影はほとんど残していませんが、昔のお店の名前から当時の所在地を探してみました。

写真は佐多稲子の「私の東京地図」です。講談社文庫です。この本は既に絶版となっており、古本でしか入手できませんでした。初版は昭和28年です。

【佐多稲子(さた いねこ) 明治37年 (1904)6月1日-平成10年(1998) 10月12日】
 明治三十七年(1904)、長崎市に生まれる。大正四年、一家をあげて上京し、キャラメル工場で働く。このあと、いくつかの勤めを経て、大正十五年、本郷のカフェー「紅緑」で、『驢馬』同人の中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎と遊近し、窪川鶴次郎と結婚する。昭和三年、処女作『キャラメル工場から』を『プロレタリア芸術』に発表。ナップに加盟。昭和四年、ナルプに所属。昭和十一年、初長篇『くれなゐ』を『婦人公論』に連載。昭和十五年、書下ろし長篇『素足の娘』を新潮社より刊行。昭和二十年、窪川と正式離婚し、筆名を窪川いね子から佐多稲子に変え、旺盛な作家活動に入る。婦人民主クラブの創設に尽力し、新日本文学会の活動に積極的に参加するなど、たえず文学者として、広い社会的視野に立ち、時代の誠実な批判者として創作をつづけてきた。昭和三十八年『女の宿』により女流文学賞を受賞。以後、野間文芸賞(『樹影』)川端康成賞(『時に仔つ』)毎日芸術賞(『夏の栞』)と続き、昭和五十九年、現代文学への貢献に対し、朝日賞を授与される。昭和六十一年、『月の宴』により読売文学賞を受賞する。平成十年死去。(中公文庫より)

「揚出し跡」
「揚出し」>
 まず最初に探すお店は「揚出し」です。このお店はかなり有名で、洋画家小絲源太郎の生家です。早朝からお店が開いており、朝から風呂には入れるので吉原帰りの客などが贔屓にしていたようです。
「… 池の端にもまだ市内電車は通っていなかった。池の水の落ちる忍川には三橋の橋の形も標ばかりにもつい
ていた。忍川は「揚げ出し」の裏でちょっと水の姿を見せて、そのあとは広い道の下にくぐって隠れ、御徒町の方へ出て見え隠れしつつ流れ落ちていた。「揚げ出し」の表の角は、あとで「菊や」というレストランになったが、はじめは鳥何とかいう鳥やで、丁度三橋の片方の角に当り、二階の庇に青銅の吊り燈籠などが下がっていた。池の方へ出る道をはさんで、横手の向いに喫茶店の「山本」と、うなぎやの「伊豆栄」がある。…」

 不忍池の端を市電が通ったのは、大正6年7月で、上野三橋(上野公園) - 動坂下(駒込動坂町)間が開業したためです。佐多稲子が清凌亭の小間使いになったのは大正6年ですから、不忍池端の市電はまだ通っていませんでした。
 谷崎潤一郎の「上山草人のこと」の中に登場していますので掲載します。
「…草人もよく私と一緒に亀島町の偕楽園、揚げ出しの小絲源太郎君の所などへ花をやりに行った。偕楽園では一晩旦一晩も徹夜で引いた。そんな詳で彼は少しも無礼に苦しみはしなかつたし、往年の覇気や機鋒も衰へてはゐなかったが、たゞ記憶力の減退だけは気の毒なくらゐであった。…」
 永井荷風の「断腸亭日乗」の昭和15年8月2日にも書かれていました。(「断腸亭日乗」には何回か掲載されています)
「八月初二。午後より溽暑甚し。日の暮るゝころ湖畔の揚出しに豆腐料理を食す。豆腐百珍など云ふ書の刊行せられしむかしを思へば夢のごとし。湖水かはきて藕花雑草の間に開けるを見る。街上にて偶然踊子ミミイといふ少女に逢ふ。昨朝大阪より帰り来り新橋演舞場に出勤するなりと云ふ。昨日銀座通を五六人にて歩みゐたりし時ナヽ子とかいへる踊子街頭愛国婦人連より印刷物を貰ひたりとて更に恐るゝ様子もなし。広告の引札でも貰ひたるが如き様子なり。下愚と上智とは移らずと言ひし古人の言も思出されてをかし。恰此日の夕刊紙にジャズ音楽やがて禁止せらるべLとの記事も
出でたる際なれば、ミミイの悠然たる態度殊にをかしく覚えたり。雷門にてわかれオペラ館に至る。」

 断腸亭日常はいつ読んでも面白いです。

写真は現在の上野二丁目13番地、アブアブ付近から不忍池方面を撮影したものです。正面のビルのところが「菊屋」跡です。このビルの左側のねずみ色のビルのところが「揚出し」跡となります。これらのビルの前に忍川があり、交差点のところに三橋がありました。下記の地図を参照してください。

「上野日活館跡」
上野日活館(みやこ座の後)>
 次は上野日活館です。この辺りには何カ所か映画館があったとおもうのですが、この日活館も有名だったようです。
「 …「揚げ出し」から山の方へもどると、今の上野日活館、その頃のみやこ座があって、広い道を前にして、二軒だけの活動写真館である故か、大風にひっそりとしていた。この間に大阪風の魚すきを看板の「丸万」が黒板塀の造り。
「丸万」の入口わきに、陶器なども飾った書画屋の空間の多い飾り窓。みやこ座の右わきには、赤毛氈を店先に垂らして絵葉書を売っている小店がある。ここでは煙草も売っている。煙草屋に代る代る坐る、むずかしげな顔の小母さん、愛嬢よしの娘、色の黒いいちょう返しの女、三人共私はこの前を通る度に笑顔で挨拶を交す仲である。大箱ごと敷島や朝日を買いに行って、愛矯よしの娘と暫く話すこともある。娘たちは、私の奉公先の内輪の噂を聞きたがる。すると私は、自分が奉公人だということを意識させられて厭な気になる。……」

 みやこ座、丸万、書画屋、煙草屋など、よく覚えていますね。12歳と16歳の二回清凌亭に勤めていますが、私などは到底覚えられません。観察力が鋭く、記憶力がいいのだとおもいます。

写真の正面、左から4軒目の朝日生命ビルのところが上野日活館跡です。借金のカタに保険会社に取られてしまったのかなともおもいます。「丸万」はこの朝日生命ビルの裏側になります。

「空也跡」
「空也」>
 角の菊屋から順に紹介していくと、菊屋(カフェー)、裏に揚出し(料理屋)、喫茶店、三軒於いて上野日活館(みやこ座)、裏に丸万(料理屋)、路地を越えて、五十番(中華料理屋)、煙草屋、翠松園(料亭)、山下(料亭)、藪蕎そば、空也、空也の裏に清凌亭、次が鳥鍋となります。(下記の地図を参照してください)
「…  煙草屋の次は何か素っけない感じの「山下」という大きな料理店、そして次は薮そば、そのとなりが、空也最中の、瓢箪を竹竿に結びつけて差し出してある看板、茶室めいた造りの、塵ひとつとどめない畳の上に、菓子の見本を入れた重箱の置いてあるきり、白い障子のほのかな明りが射し入っているほどの静かさで、引つめた丸髷に結った二人の中年の婦人が、低めに帯を結んだすらりとした姿で、ひっそりと立ったり坐ったりして客に対している。最中の袋は、引きのある黄ばんだ和紙で、まん中に空也の朱の印がある。。…」
 この並びで最も有名なのは「空也」です。現在は銀座に移っていますが、高級最中では日本一ではないかとおもいます。殆どが贈答用です。事前に予約しないと買えません。銀座の店の写真と、最中の箱の写真を掲載しておきます(戦前とはデザインが違うようです)。
 夏目漱石の「吾輩は猫である」からです。
「…主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅を頬張って口をもごもご云わしている。
 寒月は火鉢の灰を丁寧に掻き馴らして、俯向いてにやにや笑っていたが、やがて口を開く。極めて静かな調子である。
「なるほど伺って見ると不思議な事でちょっと有りそうにも思われませんが、私などは自分でやはり似たような経験をつい近頃したものですから、少しも疑がう気になりません」
「おや君も首を縊りたくなったのかい」
「いえ私のは首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮の事でしかも先生と同日同刻くらいに起った出来事ですからなおさら不思議に思われます」
「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。…」

 昔は餅もあったのですね!!

写真正面の茶色のビル(ホテル観月荘)のところが「空也」跡です。ですから、茶色のビル(ホテル観月荘)の左側が藪そば跡となります(「レストラン とうかい」のところ)、そのとなり(左側)数軒分のところが「山下(料亭)」になります。

「清凌亭跡」
「清凌亭」>
 佐多稲子が働いていた「清凌亭」は上記の「空也」の裏側になります。
「… 空也の隣りは大きな門の「鳥鍋」本店。洗い上げた板塀にかけてある看板には、合い鴨、しやむ、かしわ、などと、鳥屋のあけすけな文字だが、あくぬけのした下足番がいつも門の際で客を呼び込んでいて、池の端ぎわまで突き抜ける内庭は、いつも水に光っていた。
 表側はこのように、空也最中の店と、「鳥鍋」の塀とがすぐ続いているように見えるけれど、このまん中に、ほんの人ひとり通れる路地がある。そして路地の入口に、黒い擬宝珠をつけた赤い柱が立ててある。小さな橋の欄干ほどの赤い柱には、御料理清凌亭と書いてある。路地の奥をすかせば、梯子段のある清凌亭の玄関が見えた。そこには下足番などはいなかった。この小さな料理屋が私の働いている清凌亭なのである。…」

 佐多稲子はこの「清凌亭」で芥川龍之介と出会います。詳細は佐多稲子の「年譜の行間」を読んで頂ければとおもいます。

写真の茶色のビル(ホテル観月荘)の右側のビル(きぬやホテル)のところが「鳥鍋」跡です。「清凌亭」は「ホテル観月荘」の裏側になります。現在はこの「清凌亭」に入る路地は無くなっています。

 下記の地図は、現在の地図(カラー)に昭和10年の地図を重ねて透過したものです。ピッタリは重なりませんが、大体の場所は分かるとおもいます。

 時期は未定ですが、引き続き「佐多稲子の東京を歩く」を掲載予定です。

「松源と大正時代の元黒門町」
<「松源」と大正時代の元黒門町>
  2010年10月11日 追加
 大正時代の元黒門町を写した絵はがきを入手しましたので、絵はがきを見ながら「松源」等の場所を特定したいとおもいます。
 佐多稲子の「私の東京地図」、”下町”を再登場してもらいます。
「…「揚げ出し」から山の方へもどると、今の上野日活館、その頃のみやこ座があって、広い道を前にして、二軒だけの活動写真館である故か、大風にひっそりとしていた。この間に大阪風の魚すきを看板の「丸万」が黒板塀の造り。<br>
「丸万」の入口わきに、陶器なども飾った書画屋の空間の多い飾り窓。みやこ座の右わきには、赤毛氈を店先に垂らして絵葉書を売っている小店がある。ここでは煙草も売っている。煙草屋に代る代る坐る、むずかしげな顔の小母さん、愛嬢よしの娘、色の黒いいちょう返しの女、三人共私はこの前を通る度に笑顔で挨拶を交す仲である。大箱ごと敷島や朝日を買いに行って、愛矯よしの娘と暫く話すこともある。娘たちは、私の奉公先の内輪の噂を聞きたがる。すると私は、自分が奉公人だということを意識させられて厭な気になる。…」

 場所の特定には昭和10年の火保図を参考にしました。お店の順番は火保図で間違いないとおもいます。新旧のお店については「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和」、獅子文六の「ちんちん電車」、小絲源太郎の「随筆集」等を参照しました。
 小絲源太郎の「随筆集」からです。
「… 本家に当る松源が、いよいよ人手に渡ってしまうということになったのです。が、さすがに子供心にも、いい気持ちはしませんでした。旧い割烹店番附を見ましても、その東の大関に大きく名を連ねていますくらいでしたし、何といっても江戸時代からの老舗だったのですから、その表構えなぞもおのずから、大懐石茶屋の風格も貫禄も備えた店でした。錦絵にも残っていますように、門前に大きな鉄の釜がありまして ー 今の防火用水です!その上に手桶が山形に積んであるのですが、今なら一晩で盗まれてしまいそうです。没落のその日まで玄関にありました拘一の、紅葉に鹿の二曲一双が今でも目に残っています。総二階がずっと、現在の日活館を含めた上野よりに百メートルほどのところまでつづいて、裏は不忍池にぬけていました。生家とは隣り合った地つづきですから、一つ家も同じように往き来していたものです。…」

写真は大正時代の元黒門町の絵はがきです。「松源」は上記のように日活館(みやこ座)から北に100m程の大きさだったようです(山下(料亭)付近まで)。上記の絵はがきでは、中央やや左下がみやこ座(後の日活館)です。その裏が「丸万」で、残念ながら「揚出し」は写っていません。翠松園(料亭)、山下(料亭)までは何とかわかります。

 下記の地図は、現在の地図(カラー)に昭和10年の地図を重ねて透過したものです。ピッタリは重なりませんが、大体の場所は分かるとおもいます。

 時期は未定ですが、引き続き「佐多稲子の東京を歩く」を掲載予定です。


佐多稲子の上野広小路地図


佐多稲子年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 佐多稲子の足跡
明治37年  1904 日露戦争 0 6月1日 長崎市八百屋町四番戸に、田島政文、高柳ユキの長女として生まれる
明治44年 1911 辛亥革命 7 4月 長崎市勝山尋常小学校に入学
8月 母、結核で死去
       
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 11 11月 一家をあげて上京、本所小梅町に住む
12月 キャラメル工場に勤める
大正5年 1916 世界恐慌始まる 12 上野清凌亭の小間使いになる
         
大正9年 1920 国際連盟成立 16 再度上京、上野清凌亭の女中となる
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 日本橋丸善に勤める
大正12年 1923 関東大震災 19  
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 小堀槐三と結婚、蒲田に住む
大正14年 1925 関東大震災 21 2月 自殺未遂の後、離婚
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
22 3月 .本郷道坂のカフェー紅緑に勤める