●水上勉の京都を歩く 京都伏見 中部第四三部隊に召集される
    初版2020年9月5日  <V01L04> 暫定版

 久しぶりに更新します。村上春樹の父親の召集が第五十三師団の輜重兵第五十三連隊で、水上勉も同じ連隊に召集されていて、取材を一緒に出来たので「水上勉を歩く」も更新することにしました。ただ、村上春樹の方はYouTubeですが此方はホームページ掲載です。


「私の履歴書」

<「私の履歴書」 筑摩書房>
「私の履歴書」と言えば日本経済新聞で、昭和63年6月1日から6月30日まで掲載されています。ただ、この本は“大幅に加筆した”と書かれていますので内容も濃くなって非常に参考になりました。自伝書とおもいます。今回はその中から昭和19年5月に召集を受けた頃を掲載します。
昭和19年4月に水上勉は夫婦で東京から生まれ故郷の若狭本郷に疎開してきます。勤め口は大飯郡青郷国民学校高野分校の助教で、分校には住宅がついていたので実家には帰らないですんでいます。しかし、若狭に帰ってから僅か一か月の五月に召集をうけます。京都伏見の第十六師団第九連隊輜重隊(「私の履歴書」より)です。水上勉は徴兵検査で結核と診断され丙種となって召集はまぬがれていました。戦争末期になると丙種まで召集されていたわけで、ほとんど日本の戦争遂行能力は無くなっていたとおもいます。

<「私の履歴書」から>
「…ぼくは、赴任してまもない五月に召集令書をうけた。京都伏見の第十六師団第九連隊輜重隊であった。先にもちょつとふれたけれど、明治三十八年 に父のつとめた兵科である馬のお守りをするのが役目だった。…
…中学卒だったから、乙種幹候試験をうけたいものは志願しろ、といわれたが、 ぼくと七、八人の兵にそれがまわってこず、なぜか五十人ぐらいが自宅待機の命をうけて召集解除になったのは七月はじめだった。…」

 召集先を上記には“第十六師団第九連隊輜重隊”と書いていますが、?です。第九連隊輜重隊は調べましたがよく分かりません(年譜等には京都伏見 第十六師団中部第四三部隊輜重輓馬隊教育班と書いてあります)。第十六師団はフィリッピンに、その後に出来た第五十三師団はビルマにいました。2ヶ月で召集解除になっています。結核が完治していなかったためとおもいます。運が良かったのです。

写真は筑摩書房版の「私の履歴書」です。日経が出版していません。水上勉は筑摩書房との関係が深いので筑摩書房になったのだとおもいます。平成元年(1989)発行で、私が持っているのは第三版なのでかなり売れたのではないかとおもいます。


「兵卒の鬃」
<「兵卒の鬃(たてがみ)」 角川文庫>
 水上勉は召集された京都伏見の第十六師団第九連隊輜重隊(「私の履歴書」より)の頃の話を「兵卒の鬃(たてがみ)」として書いています。「私の履歴書」と重なりますが、物語としては詳細に書かれており、此方の方が面白いです。

<「兵卒の鬃(たてがみ)」の書き出しです>
「昭和十九年五月一日の午過ぎに、召集令状を受けた。次のような文面であった。    福井県大飯郡本郷村岡田第九号二十三番地
     第二国民兵役    安田万吉
  右充員(補充)ノ為中部第四十三部隊へ召集ヲ命ゼラル
  昭和十九年五月五日午前九時マデュ京都市伏見区深草墨染町二到着シ此令状ヲ持ツテ当該部隊(集合所)召集事務所二届出ヅベシ
                              福井聯隊区司令部
 私の名だけがペン書きで、枠の外に○馬のゴム印が捺されていた。配達してきた役場の兵事係は、中部第四十三部隊が、「輜重隊」であって、○馬印は「輓馬隊」ではないか、といって帰ったそうだ。…
…中部第四十三部隊は、旧輜重兵第五十三聯隊のことで、昔から十六師団「墨染輜重隊」といわれた、近畿に一つしかない輜重隊たった。 …」

 上記の“○馬”は○の中に馬です。俗に言う赤紙ですね。ここでの召集先は“中部第四十三部隊は、旧輜重兵第五十三聯隊”と書いています。私が少し調べた限り、京都深草の輜重部隊は、第十六師団輜重兵第十六連隊 → 第五十三師団輜重兵第五十三連隊に変っています。中部第四十三部隊は第五十三師団輜重兵第五十三連隊の後に出来た部隊のようです。
<京都深草の輜重部隊>
・第十六師団輜重兵第十六連隊:昭和16年(1941)フィリピン攻略に参戦、フィリピンに駐屯
・第五十三師団輜重兵第五十三連隊:昭和18年(1943)11月に動員され南方軍予備として派遣

写真は角川文庫の「兵卒の鬃(たてがみ)」です。単行本の発行は昭和47年です。



水上勉の第十六師団地図(現在)


水上勉の第十六師団地図(昭和初期)



水上勉の年表
和暦 西暦 年表 水上勉の足跡
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
21 4月 上京 父が働いていた勝林寺を訪ねる
日本農林新聞社に勤める
早稲田鶴巻町の岩梅館に下宿
6月 早稲田鶴巻町の春秋荘に転居
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 22 有楽町の報知新聞校正部に入る
2月 学芸社に移る
水道橋の印刷屋に勤める
淀橋区柏木のコトブキハウスに転居し加瀬益子と同棲
8月 三笠書房へ移る
9月20日 長男 誕生
昭和17年 1942 英領シンガポールを占領 23 守谷製衡所に勤める
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 24 4月 新富町の映画配給社に勤める
6月 柏木五丁目から大塚仲町に転居
8月 中野区川添町に転居
9月30日 長男を養子にだす(正式?)
加瀬益子と別れ松守敏子と結婚
昭和19年 1944 マリアナ沖海戦
東条内閣総辞職
25 1月 新井薬師に近い栄楽荘に転居
4月 栄楽荘から若狭に疎開
5月 京都伏見 中部第四十三部隊に召集
7月初 召集解除、若狭に戻る
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
26 4月13日 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)



「第十六師団司令部跡」

<第十六師団司令部跡>
 水上勉は昭和19年5月、京都伏見 中部第四三部隊輜重輓馬隊教育班に召集されます。水上勉は徴兵検査で結核と診断され丙種となって召集はまぬがれていたはずなのですが、戦争末期になると人材不足で丙種まで召集された訳です。上記にも書きましたが、この頃になると、日本はほとんど戦争遂行能力は無くなっていたとおもわれます。

 <陸軍第十六師団(ウイキペディア参照)>からです。
明治38年(1905)京都で編成された帝国陸軍の師団
昭和12年(1937)日中戦争で華北戦線から上海戦線に転じ南京攻略戦に参戦
昭和13年(1938)北支那方面軍隷下徐州会戦、武漢作戦に参戦
昭和14年(1939)復員
昭和16年(1941)緒戦のフィリピン攻略に参戦し、マニラ陥落後フィリピンに駐屯
昭和19年(1944)レイテ島に移駐、連合国軍がレイテ島に上陸、第16師団は壊滅
(当初13千名で臨んだレイテ決戦も生還者は僅か620名)


<陸軍第五三師団(ウイキペディア参照)>からです。
昭和16年(1941)9月に留守第16師団を基幹に編成されたのが第53師団
昭和18年(1943)11月に動員され南方軍予備として順次派遣
昭和19年(1944)1月からサイゴン、シンガポールなどに到着
        インパール作戦の実施に伴いビルマに派遣
昭和19年(1945)1月イラワジ会戦、4月シッタン作戦などに参加
 
第十六師団の後に出来た第五十三師団もインパール作戦で壊滅状態でした。

写真は京都伏見の第十六師団司令部跡です。現在跡地には聖母女学院があります。フランスより来日の修道女により設立された学校で大阪にありました。 戦後、第十六師団司令部の敷地の払い下げを受けて聖母学院小 学校・中学校を開校しています(現在は短期大学もあり)。


「輜重兵第十六連隊営門跡」
<輜重兵第十六連隊営門跡>
 第十六師団輜重兵第十六連隊(第五十三師団輜重兵第五十三連隊、中部第四三部隊輜重輓馬隊)の営門跡です。師団街道から真っ直ぐ数十m程入った先が門になります。水上勉はこの道を歩いて入隊しました。当時の様子を「兵卒の鬃(たてがみ)」に詳細に書いています。

 「兵卒の鬃(たてがみ)」からです。
「…その夜、伯父の家に泊めてもらい、翌朝早口に八条から京都駅まで歩き、市電に乗って墨染町の四十三部隊営門前へ行った。ここは師団街道のまん中あたりで、当時は輜重隊兵舎は道路に面しており、からたちのまばらに生えた土塀をもち、営門は三十メートルほど入った地点にあった。五日の朝、この営門前の広場と、師団街道は、人でごったがえしていた。九時丁度 に合図があって、私たちは営門を入った。うしろをふりむいたら、身重の妻が半泣きの顔をして旗を振っていた。チョボ髭を生やした父も、そのわきで、ペコリと一つ私にむけてお辞儀した。しかし、このふたりの姿は、すぐに人渦に呑まれた。…」
 伯父の家は八条坊城にあり「水上勉の京都を歩く 八条坊城界隈編」を参照してください。詳細の場所が分かります。京都駅からは京都市電18系統(中将島行き)で竹田街道を行き、営所道か城南宮通で降りて1Km程歩いて輜重隊に向かったとおもわれます。

 写真の左右は師団街道、正面が第十六師団輜重兵第十六連隊(第五十三師団輜重兵第五十三連隊、中部第四三部隊輜重輓馬隊)の営門跡です。水上勉は父親と奥様に見送られてこの道を歩いて入隊しました。

「陸軍第十六師団輜重部隊遺跡」
<陸軍第十六師団輜重部隊遺跡>
 この辺りで第十六師団輜重兵第十六連隊(第五十三師団輜重兵第五十三連隊、中部第四三部隊輜重輓馬隊)の遺構として残っているのは南門だけのようで、グルッと南に回って見てきました。

 <陸軍第十六師団輜重部隊遺跡(説明碑)> から
「この周辺と京都教育大学付属高等学校や、西隣にあった京都市消防学校は、 一九○七(明治四○)年に設置された旧陸軍第十六師団輜重部隊の跡地です。輜重部隊とは弾薬や食糧などを補給する任務をもった部隊で、多くの軍馬が使われていました。作家の故・水上勉氏は一九四四(昭和一九)年にここに入隊し、馬以下に扱われた兵士たちの苦しみを描いた「兵卒の鬃」「墨染」などの名作を発表しており、この周辺は日本の戦争文学の史跡でもあります。…」 
 本来の場所からは移されていて、鉄門も戦後付けられたようです。

写真は陸軍第十六師団輜重部隊遺跡の門柱や歩哨兵のいた哨舎です。説明碑が横にありました。遺構としては建物もまだ残っているようです。

「おぐりす灸寺本」

<おぐりす灸寺本(やいと)>
 「兵卒の鬃(たてがみ)」に面白いことが書かれていたのでフォローしておきました。

 <「兵卒の鬃(たてがみ)」から>
「…小栗栖の村の端から南へ折れた輓馬隊は、早稲を植え終えたばかりの畷道にさしかかった。すると、私たち駄馬隊のいる山裾から、約三百メートルはあろう畷道との中間に「りょうまち、神経痛によろし、やいと、小栗栖鍼灸院」と書いた野立看板がみえた。稲田のまん中に、ぽつんと立っているのでよく目立った。…」 
 小栗栖という地名は明智光秀が山崎の戦いの後に坂本城まで逃げる途中に殺された場所です。そこの小栗栖鍼灸院は有名で下記の「京都伏見歴史紀行」にも書かれています。

 <「京都伏見歴史紀行」から>
「小栗栖の灸 明智越えの近く、やや入りこんだところに“おぐりす灸”と書いた大きな看板が目につく。今から200年ほど前、信仰深い老女が、通りがかりの一人の虚無僧からこの秘法を伝授され たといわれている。もとは深草にあったが、宝永年間 (1704~10)にここに移っ た。…」
 明智光秀が無くなった明智藪からも徒歩10分位のところに現在もあります。

写真は現在の「おぐりす灸寺本」です。水上勉が見たのは「おぐりす灸寺本」の看板でした。