<「私の履歴書」 筑摩書房>
「私の履歴書」と言えば日本経済新聞で、昭和63年6月1日から6月30日まで掲載されています。ただ、この本は“大幅に加筆した”と書かれていますので内容も濃くなって非常に参考になりました。自伝書とおもいます。今回はその中から昭和19年5月に召集を受けた頃を掲載します。
昭和19年4月に水上勉は夫婦で東京から生まれ故郷の若狭本郷に疎開してきます。勤め口は大飯郡青郷国民学校高野分校の助教で、分校には住宅がついていたので実家には帰らないですんでいます。しかし、若狭に帰ってから僅か一か月の五月に召集をうけます。京都伏見の第十六師団第九連隊輜重隊(「私の履歴書」より)です。水上勉は徴兵検査で結核と診断され丙種となって召集はまぬがれていました。戦争末期になると丙種まで召集されていたわけで、ほとんど日本の戦争遂行能力は無くなっていたとおもいます。
<「私の履歴書」から>
「…ぼくは、赴任してまもない五月に召集令書をうけた。京都伏見の第十六師団第九連隊輜重隊であった。先にもちょつとふれたけれど、明治三十八年 に父のつとめた兵科である馬のお守りをするのが役目だった。…
…中学卒だったから、乙種幹候試験をうけたいものは志願しろ、といわれたが、 ぼくと七、八人の兵にそれがまわってこず、なぜか五十人ぐらいが自宅待機の命をうけて召集解除になったのは七月はじめだった。…」。
召集先を上記には“第十六師団第九連隊輜重隊”と書いていますが、?です。第九連隊輜重隊は調べましたがよく分かりません(年譜等には京都伏見 第十六師団中部第四三部隊輜重輓馬隊教育班と書いてあります)。第十六師団はフィリッピンに、その後に出来た第五十三師団はビルマにいました。2ヶ月で召集解除になっています。結核が完治していなかったためとおもいます。運が良かったのです。
★写真は筑摩書房版の「私の履歴書」です。日経が出版していません。水上勉は筑摩書房との関係が深いので筑摩書房になったのだとおもいます。平成元年(1989)発行で、私が持っているのは第三版なのでかなり売れたのではないかとおもいます。