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最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の京都を歩く 八条坊城隈編
 初版2004年11月6日
 二版2005年1月8日 八条坊城付近の写真入替
 三版2005年7月24日 八条坊城付近の写真を再度入替 
<V01L02>

 「水上勉を歩く」については少し時間を置きましたが、”京都を歩く”の続編を掲載します。花園中学を卒業後八条坊城の伯父の下駄屋に居候します。その後西村才天堂で”むぎわら膏薬”を売りますが長くは続きません。


唐橋>
 水上勉が相国寺瑞春院に小僧に出されるために初めて京都に出てきたときもこの唐橋を渡り八条坊城の叔父の家へ最初は訪ねています。「八条通りをまたぐ唐橋は、危なっかしい手すりのない階段を降りないと、通りへ出られなかった。梅小路の貨物線と併行して適っていた東海道線の下には、当時(昭和三年)も随道はあったものの、天井から滴の落ちるような暗い道だし、牛の糞がいっぱい落ちていて不潔だった。それで、唐橋をわたるのだが、木桁の上に土を盛りつけただけの橋だから車が通ると大きくゆれるのだった。八条通りは坊城にきて、六孫王神社の森と社殿が梅小路の道路の垣までのびていて、唐橋の上から眺めると、東寺の屋根と向きあって社殿の大屋根がそびえて見えた。…… 等持院にうつり、花園中学四年の終わりに竺源師匠の死にあい、私は二回目の脱走を果たした。十七歳だった。中学を卒えていたから、伯父は、しぶしぶ顔だが泊めてくれた。私は、寺の生活に倦きた。苦学し立命館大学へ入りたいのだと、伯父にいった。…」。結局、等持院も出てしまい、京都も外れに近い八条通りの西寄りにある東寺に近い所に居候します。昭和10年頃の唐橋は木造だったようで、現在の橋は当時からは建て替えられていますが橋自体は相当古くなっており、建て替えられるのは時間の問題とおもいます。七条通り方面からの写真も掲載しておきます。昔,京都市電がこの橋の上を通っていた写真を見た覚えがあります。市電の架線のポールがまだ残っています。

左上の写真は唐橋を九条通りの方から撮影したものです。橋の上の高架橋は東海道新幹線です。東海道線は新幹線の先の唐橋の下を通っています。

右の写真は唐橋下、正面が東海道線でその下が隋道です。上の橋が唐橋となります。大宮西架道橋、昭和10年しゅん功、と書いてありました。ということは水上勉が八条坊城にきた時にはこのコンクリート製の隋道はできていたわけで、この隋道を歩いたことでしょう。上記の昭和3年は初めて京都に出てきた時のことかとおもいます。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)

水上勉の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和11年
1936
2.26事件
17
3月 花園中学校卒業
5月 下京区八条坊城 母の兄の履物商宅に転居
西村才天堂に勤めて「むぎわら軟膏」を売る
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
18
4月 立命館大学文学部国文学科入学
12月 立命館大学退学
昭和13年
1938
関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
19
3月 京都府庁の職業課に勤める
8月 はるぴん丸で満州にわたる
12月 日本に戻る

<水上勉の京都地図 -1->


<八条坊城> 2005/7/24 写真を再度入替
 八条坊城を語らずして水上勉の京都は語れないのですが、正確な場所が判明せず苦労しています。単純には八条通りと坊城通りの交差点が八条坊城なのですが、修正が今回で三回目になります。今回で正しい場所になったとおもっております。「…東寺前から商店街は片側町になり、神社の塀に沿って深い泥溝が流れていた。その泥清遊の、坊城の角からニ軒目に、伯父の堀口順吾が下駄屋をひらいていた。母の兄である。下駄屋は間ぐち二間。奥ゆき四間ぐらいで、表の板の間が店で、三尺の三和土に、伯父は箱のような座り台をつくり、カンナ屑が下へたまるように仕組んだ仕事場にすわりづめだった。……坊城の角は漬物屋、伯父の店をへだてて、隣家は藤田という洋品店。細君は産婆だった。その次がまた漬物店、つづいて、薬屋、駄菓子屋、八百屋などの店先が、泥溝に面してならんでいたが、どの店にも、赤い腰巻を蹴出しからのぞかせる細君がいて、しょっちゅう集まって、笑っていた。零細な商売だけれど、喰ってゆけるだけの商いはしている連中で、収入にも大きな差がないから、家ごとのつきあいだったようだ。日がな伯父の仕事場にきて、うごかぬ閑な人もいた。…」。八条坊城から八条通りを西に商店街があったようです。現在は住宅街で、八条大宮から八条壬生付近までが商店街になっています。

左上の写真は八条坊城(交差点という程ではなくて単なる細い路地の角といった方がいい)を写したものです。左側角のお宅が当時は”八百信さん”だったはずです(確認済み)。八条壬生の交差点から八条通りは路が狭くなり、東海道線のところで一度路が切れて、西大路通りからまた復活します。

<西村才天堂謹製、むぎわら膏薬> 2005/7/24 写真を再度入替
 八条坊城の叔父の下駄屋に居候すると、働き口を探し、二軒隣の薬屋で働きだします。「…還俗を決意し、最初に働いたのが、このむぎわら膏薬の本舗だった。才天堂の爺さんは、七十二、三だったかと思う。店の奥のせまい三和土で、七輪に火をおこし、行平のような素焼鍋で、松ヤニとイーチオールをまぜたものをことこと煮るのだった。ぶーんと匂うイーチオールの煮える臭気は、妙な空気で屋根のないタタキに充満していたものだが、とろとろに煮あがったところを、羽毛ですくい、一枚の竹の皮に塗るのである。 ていねいにかさねぬりしたあと、ニつに折るのだが、この際、むぎわらを四、五本、箸ぐらいの長さに切ってはさむのである。この膏薬の特徴である。むぎわらをへだてているので、両面の膏薬がひっつかないようにできている。有名な膏薬では、当時「貴真膏」というのがあって、これはつよい和紙に黒い薬がぬられて貼りあわせになっていた。「頭痛、肩のこり、りょうまち、神経痛によろし」というのが木版刷りの効能書きだったが、才天堂の爺さんも、次のような木版をもっていて、私にいちいちていねいに和紙をおいて刷らせ、それを、十枚束にしたむぎわら膏薬の上において、紐でゆわえたものだ。西村才天堂謹製、むぎわら膏薬本製品は、当本舗が永年の研究によって製造したもので、麦藁の活力素と、松脂、イーチオールその他の配合により、筋肉痛、血患の病いに卓効をあらわします。創業八十年の歴史を誇る貼り膏薬の王者です。頭痛、腰痛、神経痛、肩のこり、りょうまち、その他、筋肉の病いに効能を顕します。 私はこの膏薬をボテ箱(竹寵に渋紙を貼ってつくった容器)に入れて、自転車の荷台にチューブでくくりつけ、九条、十条、久世、鳥羽のあたりの貪民窟の荒物屋、薬局、化粧品店へ売り歩いた。…」。昔の薬(薬かどうかは?です)はいい加減な物だったようです。でも、売れているので効いたのでしょう。

右の写真の左側角が八条坊城ですから茶色のお宅が漬物屋で二軒目が叔父の下駄屋となります。写真は八条坊城から八条通りの西を写しています。叔父は戦時中に疎開するため家を人手に渡します。家は玄関先を直していますがそのままのようです(実際はよく分かりません)。本では右隣が藤田という洋品店、漬け物屋、薬屋の西村才天堂となるわけですが、本により藤田という洋品店の隣が薬屋の西村才天堂と書かれている場合もありました。藤田という洋品店は正確には、角の漬物屋から四軒目ではないかとおもいます。「… きっと、こうした住人はみな借家で、これらの店の大家は、伯父の店の裏に広い空地と畑をもって、余裕のある平屋に住んでいた徳永という地主さんだ。ここに白髪のお婆さんがいたが、背はひくいが容姿は十人なみの孫娘が女子大へ通っていた。当時の女子大生は、長いはかまをはき、むすんだ帯の端を前へたらして歩くのが流行していたが、界隈から女子大生が唐橋へ向かう姿は人目をひく存在だった。…」。ここに書かれている徳永さんも八条通りの裏にお住まいでした。

六孫王神社>
 叔父の下駄屋の手前に六孫王神社があります。「…東寺から八条通りへ出て、左へ折れる。しばらくゆくと、坊城通りに出る。右角は六孫王神社である。東海道線梅小路貨物駅が隣接し、東海道線、新幹線も走っているから、鉄路はばも昔にくらべると広くなって、神社の境内はけずられ、こんもりした森にしずんでいた神殿、社務所の廻廊や池が裸形になったような印象をうける。……六孫王神社は、つまり、そういう小説を空想させるような、どこか暗いが、底ぬけの貧民たちが、祭りの日でなくても、しょっちゅう入りこんで、一服したり、喧嘩したりしている神社だった。…」。昔は環境のよい場所ではなかったようです。

左の写真が六孫王神社です。どうも水上勉は八条壬生と八条坊城とが入り交じっているような気がします。勘違いしていないといいのですが。正面の右側に少し見えている高架が東海道線新幹線でその先が東海道線となります。新幹線が出来て六孫王神社の敷地がかなり減らされたようです。

東寺>
 東寺というと五重の塔となるのですが、今回は八条通りからの東寺をみてみることにします。「…東寺はこの六孫王神社とはす向かいに、向きあわせてある広大な本山だった。どういうわけか、八条通りは、六孫王神社の角から、ややひろくなっていて、南は九条まで、北は梅小路の線路につき当たる南北の道があって、そこから唐橋まで両側が商店と人家だったが、まん中ほどに小さな外門があって、石畳の参道が南へのびていた。いまはこのあたり、大学の建物が接近して、昔の面影はないけれど、石畳の道は、両側にならんだ人家の背中を塀にしていたので、閑雅な陽当たりのよい道だった。つき当たりに、朱塗りの四木柱の門があって、その横木をまたぐと境内である。とば口に池があり、灰いろまだらの石橋が架かっていた。……八条通りから、石畳の南門をくぐると、むかしは深い池があり、亀の子がいっぱい中島に出て陽なたぼっこしていた。私はむぎわら膏薬の外交をしていたので、よく配達をさぼってここで一服して、亀の子が、のたりのたり陽なた石の上を歩きまわるのを見ていたものだが、ある日、わきにきた少年が、石をひろって、その亀にむかって投げつけた。十匹以上もむらがっていた亀のことだから、なかの一匹にみごとに石は命中した。……」。東寺を八条の入り口から入る方はほとんどいないとおもいます。良く見ているとこの近所をよくしっていそうな人か歩いて入っていきます。また、中の池にはここに書かれている亀もたくさんいました。

右の写真が八条通りの東寺への門です。まっすぐに入っていくと、とば口に石橋があり、その下に池があって亀がたくさんいました。

次回は立命館大学から満州に行くまでを掲載します。

<水上勉の京都地図 -6->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社

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