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●小林秀雄と青山二郎の遊び場所 -新橋・銀座・芝浦界隈-
    初版2008年12月20日 <V01L01> 

 「小林秀雄と青山二郎の遊び場所」を巡ってみました。この二人の遊び場については、野々上慶一、河上徹太郎、今日出海、吉田健一などが詳細に書いています。先ず最初は、新橋、銀座、芝浦を巡ります。昭和初期のお話なので、かなり変わってしまっていました。(次回は浅草です)


「思い出の小林秀雄」
<思い出の小林秀雄 野々上慶一>
 小林秀雄から頼まれて昭和8年に「文學界」を引き受けたのが野々上慶一です。小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、との交遊はひとかたならぬものがあったとおもいます。この親交の詳細を「思い出の小林秀雄」として書いています(小林秀雄だけではなく青山二郎や大岡昇平なども書かれていました)。
「…小林はいってゐた、「友達は与へるものぢやない、偸むものだ、」と。我々は丁度、酔っ払ひが翌朝自分のポケットをさぐつて見るといつの間にか昨夜の飲み相手のライターやネクタイを発見して驚くやうに、お互ひに偸み合った。
 この時代の若い文士というさむらい達の友情は、一言でいえば、誠実さを貫くことだったように思う。文壇づき合いは不遠慮だったが、誠実さに欠けることを最も恥とした。その誠実さを追求することが、即ち文学である、としたようだ。
……青山二郎、小林秀雄、河上徹太郎たちの交遊は、とかく
友情にまとわりつく感傷を極度に排したべ夕べタしたところのないものだったように思う。それは実にすさまじいものであった。あまりにも経験が強烈であったためか、河上は、何度か当時のことを回想しては筆にしている…」
 今回は野々上慶一の「思い出の小林秀雄」の本だけではなく、「小林秀雄と青山二郎」に関する数冊の本を参考にさせていただきました。河上徹太郎の「厳島閑談」、吉田健一の「饗宴」、沢村貞子の「私の浅草」などです。順次、紹介していきます。

左上の写真は野々上慶一の「思い出の小林秀雄」、新潮社版です。特に面白いのは「小林さんとの飲み食い五十年」です。当時、二人が通っていた飲み屋がよく分かります。



小林秀雄の昭和初期年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 小林秀雄の足跡
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
23 4月 東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学
9月 長谷川泰子に出会う
10月 大島に旅行後、泉橋病院に入院
11月 富永太郎死去
11月 杉並町天沼で長谷川泰子と同棲
大正15年
昭和元年
1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
24 鎌倉町長谷大仏前に転居
逗子新宿にも一時住む
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
26 2月 中野町谷戸に転居
3月 東京帝国大学卒業
5月 長谷川泰子と別れ、大阪に向かう
谷町八丁目三番地 妙光寺に滞在
6月 京都の伯父の家に向かう
京都 長谷川旅館に滞在
奈良の旅館江戸三に宿泊
奈良市幸町の志賀直哉邸に出入りする
9月 妹、富士子が高見澤(田河水泡)と結婚
昭和4年 1929 世界大恐慌 27 1月 奈良より帰京し、東京府下滝野川町田端に住む
9月 「改造」の懸賞論文で「様々なる意匠」が第二席となる
(第一席は宮本顕治の『「敗北」の文学』)
昭和6年 1931 満州事変 29 11月頃 母と鎌倉町佐介通二〇八番地の一軒家に転居
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
30 4月 明治大学文芸科の講師となる
7月頃 鎌倉町雪ノ下四一三番地に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
31 5月頃 鎌倉町扇ヶ谷三九一番地に転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 32 5月6日 森喜代美と結婚し鎌倉扇ヶ谷四〇三番地に転居
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 35 2月 中原中也鎌倉町扇ヶ谷(寿福寺境内)に転居
10月 中原中也死去



青山二郎の昭和初期年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
25 11月 野村八重と結婚、一之橋の借家に住む
12月 富永太郎死去去
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

26 11月 妻 八重 肺結核のため死去
昭和5年 1930 世界大恐慌 29 11月 武原はん(本名 武原幸子)と結婚
昭和6年 1931 伊藤博文ハルビン駅で暗殺さる 30 12月 ウインゾア開店
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
31 7月 エスパノール開店
9月 赤坂台町に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
32 2月 ウインゾア潰れる
8月 母死去
9月 新宿の花園アパートに転居
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 33 11月 武原はんと正式離婚



「吉野屋跡」
新橋 吉野屋(よしのや、よしの屋)>
 小林秀雄や青山二郎、河上徹太郎が一番良く通った新橋、銀座界隈での飲み屋は「はせ川」です。二番目が「吉野屋」だとおもいます。「はせ川」に関しては「坂口安吾の東京を歩く (2)」で掲載しましたので、今回は「吉野屋」を歩いてみました。
「…昭和八、九年でせうか。「文學界」が創刊されて意気俄だった頃ですね。それまでは新橋の、今のガードの下に近いところに「吉野屋」といふおでん屋がありましてね、そこへみんな行ってゐました。ところが「はせ川」が出来ると「吉野屋」グループがごっそり「はせ川」へ引っこ抜かれちゃったん
ですね(笑)。
……その頃「吉野屋」に来てゐた執筆者には久保田万太郎、中原中也、牧野信一、井伏鱒二、大岡昇平、吉田健一、中山義秀なんかがゐましたね。「吉野屋」は午前二時までやる店、つまりバーが十二時に済んで、そのあとのお客が女の子を連れてお茶漬食ひに来たといふさういふ店でした。「吉野屋」は日本酒専門で、洋酒はなかったし、われわれも洋酒は飲まなかったな。…」

 この「吉野屋」については場所がなかなか特定できませんでした。上記に書かれている”新橋駅のガードの下に近い”では場所がわかりません。そこで、他に書かれている本はないかと探したところ、吉田健一の「饗宴」に書かれていることを発見しました。今掲載されている本は「日本の名髄筆 12」です。
「…何という名前か解らない橋を渡る前の左側にある、吉野屋という店の新橋茶漬けを食べに入る。
……併しここの
新橋茶漬けは今も覚えているし、そして前にも言った通り、今でも作っている。要するに、井に御飯を入れた上に鮪と海苔を載せて胡麻を散らし、醤油と山葵にお茶を掛けたもので、それが終点でこれから家に帰ろうという時位になっていると、又とない食べものに思われる。」
橋の名前を忘れる位なので、新橋や土橋ではなく、橋の名は難波橋であろうと推測しました。そこで、難波橋手前の新橋一丁目を探したところ、吉野ビルを見つけることができました。吉野屋は”よしのや”、”よしの屋”と書かれている場合もあるようです。

写真左側のビルが吉野ビルです。戦前から変わっていないようで、ここに「吉野屋」がありました。上記に書かれている通り、「新橋茶漬け」が名物だったようです。現在の住所で新橋一丁目11番です。

「橋善跡」
新橋 橋善>
 小林秀雄は天ぷらが大好きだったようです。銀座付近には文士が通った天ぷら屋はたくさんありますが、今回は「橋善」を紹介します。
「…「文学界」は手許不如意で原稿料が払えず、といってタダというのはいけない、そこで執筆者を、新橋の「橋善」 に招待して、天ぷら定食を食べてもらって、御勘弁を願っていたのであります。
 「橋善」は銀座八丁目を新橋に渡って、すぐ左側にあり、いまでも古いのれんを誇る天ぷら屋です。食いしん坊で通っていた小説家の獅子文六さんなんかも、若い頃は、銀座のすこし高級な天ぷら屋「天金」よりも、「橋善」の方へよく食べに通ったようで、文六さんの食味随筆にも、大衆的で安くてうまい天ぷら屋として、出てきます。…」

 「橋善」は庶民的なお店でした。銀座から外れて新橋だったからかもしれません。このお店は戦後も営業されていましたが、現在は閉められています。

左上の写真は新橋交差点です。南西の角から北東方面(銀座通り方面)を撮影しています。右から二番目のビルの所が「橋善」跡です。

「戦前の樽平跡」
樽平>
 小林秀雄や大岡昇平、河上徹太郎は安くてうまい飲み屋を良く知っています。飲み屋は昔も今も変わりませんね。「樽平」は今も銀座八丁目に移転して、昔のままに営業しています。
「…あの頃は「樽平」もよく行きました。お銚子が二十五銭と二十銭と十五銭とあるんだけど、十五銭で我慢する日がよくあった。すると大岡昇平なんてつい気が大きくなって、二日酔だからビールが飲みたいっていってね、ビールは四十五銭なんですよ。でもみんなに阻止された。三好は「樽平」のアヂの生干しが好きだった。これは、わりとうまかつたな。「オーィ、樽さん、アヂ生くれィ」ってね、黄色い声が今でも耳に残ってる。それがやはり十五銭なんですよ。あの頃はね、お銚子つてものは空になっても下げなかったものです。永井にある時「おまへはすごいなァ、一人で十三本並べてたぞ」っていはれたことがある(笑)。…」
 「樽平」は山形の「樽平酒造」が出されているお店です。有名なので私が説明する必要はないかとおもいますが、戦前は井上酒造といい、昭和3年に神楽坂に初めてお店をだします。

右の写真左に戦前「樽平」があったところです。現在の銀座七丁目7番、アスタープラザ(旧華月楼)の右横になります。現在は銀座八丁目にお店があります。

「小竹跡」
芝浦 小竹>
 青山二郎が良く通った待合は、芝浦の「小竹」と馬道の「老松」でした。「老松」については次回に回して、今回は芝浦の「小竹」を歩いてみました。芝浦に待合があるとは知りませんでした。山手線に乗ると、浜松町駅と田町駅の中間の海側に牡丹という料亭が見えますが、その辺りが芝浦の花街跡となります。
「…文学談義の続きをやろうというもので、きまって芝浦の待合「小竹」に繰り込んだものでした。顔触れはだいたい決まっていて、中林さん、河上徹太郎さん、青山二郎さん、中村光夫さん、中原中也さん、それに大岡昇平さん、時に井伏鱒二さん、三好達治さんなどでした。
「小竹」は待合ですから、芸者をよんで遊ぶ所ですが、粋な唄の一つうたうでなし、芸もなく、いつも七、八人で卓を囲んで、飲んで議論ばかりしていて、揚句は勝手に雑魚寝などして、いいお客とは言えないのです。「小竹」 の女将は気風のいい人で、我値勝手な連中を気楽に遊ばせてくれていましたが、この人は口のおごったなかなかの食通でして、それだけにいつも何かと気の利いたおいしい物を、食べさせてくれていました。芝浦は魚は新鮮で、また牛肉と緑の深い土地柄なので、最上級の牛肉なども食べましたが、鰻の方をよく食ったように思います。ここではおかみの顔で、特別に麻布の「野田岩」から出前で取ってくれていましたが、小林さんは鰻好きで、迎え酒をやりながら、よくふっくら焼き上った蒲焼を、いかにもおいしそうに食べていました。「野田岩」の出前の塗箱は特製で、二重底になっていて、下にお湯が入る仕掛けになっているのですが、これはむろん蒲焼の鰻がさめないための心遣いで、小林さんは「さすが老舗だなァ ー 」といつも感心していました。…」

 花街といえば、吉原や玉ノ井、新宿、洲崎くらいしか思い浮かびません。青山二郎や小林秀雄としては、大きな花街であった吉原や洲崎から少し離れた、小さな花街の、粹な女将の居る、それも小さな待合が粋だったのだとおもいます。「野田岩」については、麻布交差点近くのお店だとおもいます。今でも東京で三本の指に入る鰻屋です(年に一回程度は食しています)。二重底は凄いです。

左上の写真正面の駐車場が「小竹」跡です。この付近は空襲にも焼け残った地域で、少し前までは戦前の建物がかなり残っていました。現在残っているのは数軒の建物のみとなっています。「小竹」も戦後は海員組合の下宿になっていたようです。

次回は待合「老松」を中心にして浅草を歩きます。


昭和初期の銀座地図



小林秀雄と青山二郎の東京地図



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